気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

先入観を減らす

2023-04-29 08:28:58 | 「立つ」健康法

 たとえば友人から飲み会やランチなどの誘いがあったとき、考える前に「イヤだなぁ〜」「面倒くさい」などと思ってしまうことはないでしょうか。それは先入観によるものかも知れません。先入観とは、思い込みによって作られた、誤った判断の元となる認識のことです。

 人はいつでも何かしら観念(モノに対しての認識)を持ち生活しています。観念は知識や経験などによって作られるもので、それ自体は悪いものではなく、新たな失敗をしないように、或いは嫌なことに出合わないように守ってもくれます。しかしそれが過ぎて常に自分を支配するような先入観となると、考え方が偏ったり、行動ができなくなってしまいます。

 上の例では、実際にはどうなるか分からないにかかわらず、事の起きる前にすでに「面白くなさそうだ」「イヤなことがありそうだ」などと判断してしまっています。冷静な身心の状態で判断したのであれば、「しないこと」も結構なのですが、先入観によって狭まった選択肢からそれを選んだのだとしたら、もったいないことかも知れません。参加すれば何か自分に意味のあることが経験できたかも知れないからです。

 このように自分を窮屈にする先入観を、「キチンと立つ」練習をすることで、減らすことができると考えています。先入観が減ればもちろん、生きやすくなります。先入観は出てから対処するのではなく、「出づらく」することが肝要です。


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モノを一つに見ようとするだけで

2023-04-15 08:34:17 | 「立つ」健康法

 私は健康法として「キチンと立つ」方法を指導しています。いちばんの特徴は、イメージをすることでカラダが変わるということです。イメージというと、何か綺麗な景色を想像するように思われるかも知れませんが、そうではなく、モノの見方を変えるということです。日常の見方を非日常にするということ、つまりモノを比較するような相対的な見方をやめて、一つにつながっているように見るのです。

 常識的に見れば、机や壁が自分とつながっているとは思えませんが、それをなんとか一つにしていくのです。完全に一つにならなくても、そこを目指していくことで(おそらく少しづつそこへ近づくのでしょう)、カラダが変わります。本人がそれを実感します。

 

 禅も「モノを一つに見る」ことを目指しますが、それが容易でないことは、僧侶が厳しい修行をしていることでもわかります。禅の目的は悟りをひらくことで、私の方は「キチンとした立ち方」を通して身心を整えること。厳しさはありませんが、意味がないわけではありません。実際にからだが変わることを毎回感じているからです。

 


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ココロではなく、気を整える

2023-04-07 15:48:34 | 「立つ」健康法

 子供の頃からよく「人には親切にしなさい(しましょう)」「人には優しくしなさい(しましょう)」という言葉を聞いてきました。こういう思いやりの気持ちを育てるのが道徳や教育なのかも知れませんが、先に言葉として「〜しなさい(しましょう)」があるのは、どうかと思います。理論的にそうしなければならない意味を説けば、子供のココロが動くのでしょうか。社会性は身につくかも知れませんが、ココロの伴わない上部だけのものになりかねません。

 私は先に行為やココロを対象にするのではなく、「気」を整えればよいと考えています。「気」が整えば、他者に対する気持ちが変わるからです。「気」を無視して行為やココロを先に変えようとすることは、受け手側に抵抗が生じることもあり、人の身心のあり方として不自然です。

 気を整えるということは、気を意識すること、そしてそれによってカラダが変わることです。そうして自分らしくなった身心をもって、他者と触れ合えば、言動は自ずと理にかなったものになります。「親切に・優しく」などと考えなくても、自然にそうなるのです。

 


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私は「気」で あなたも「気」だ

2023-04-02 08:29:14 | 「立つ」健康法

 教室の最後によくやるメニューがあります。輪になって、自分や他の人たちを「気」だと思ってもらいます。万物の根源である「気」は共通のものだから、分けることができず、人と人はつながります(物として糸のようなもので繋がることではありません)。「気」の物質的な面から見れば、からだの中への気の出入りが自由に行われる感じです。

 普段私たちは、名前や肩書き(所属)など色々な情報を持ちながら互いに付き合っています。社会生活はそういうものですが、別な見方をすれば、そういう情報を持っているから、互いに深い付き合いができないということもできます。ここでいう深さは、愛情の深さや親密具合のことではなく、気のレベルでの付き合いです。つまり利害や感情など人の思惑を通さない関係です。

 日常でそういう関係を作ることは難しいことですが、限られた教室の中でなら、ある程度可能です。「気」を通じて(気という概念を共有することで)、他者と「非日常」の付き合いをする。やってみるとわかるのですが、これは本当に気持ちがいいのです。たんに物理的な快感ではなくて、ココロが整う気持ちよさがあります。普段とはまったく違う意識になって初めてわかります。


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