気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

意識はからだを変える

2015-05-30 10:08:49 | 「立つ」健康法
 野口整体の創始者・野口晴哉氏は「心に関係のない病気は無い」ということを言っていたと、以前先生から聞いたことがある。当時、心とは感情(喜怒哀楽)のことだと思っていたが、法蔵(唐・華厳宗の僧)の言う「一切法皆唯心現 無別自躰(すべてのものはいずれも、ただ心の現れであって、心から離れた客観的なものなど実在しない)・井筒俊彦著作集9(東洋哲学)」心の在り方に近いのではないかと思っている。心を意識という言葉に置き換えるとわかりやすい。先の野口氏の言葉は「万物は意識(心)の産物であり、病も万物の一つであるが故、当然意識(心)と関係がある」となる。
 
 無意識や潜在意識だけが身体に影響を与えているように思われがちだが、いわゆる普通の「意識」も身体に影響を与えている。意識(考える内容・考え方)を変えると身体(安定感・筋肉の様子)が変わることは、身体を観察してみれば分かる。私たちが普段どういう意識でいるのかということが、そのままからだの状態に反映しているのである。
 ではどういう意識でいることが良い(自然・健康的である)のか。はっきりとした答えなどないのかも知れないが、教室での実験や経験から言えることは、単なるポジティブシンキングのようなものではないということである。それは具体的な或る一つの方向ではなく、物事をすべて在るがままにとらえる「禅」のような観方だろう。私は「立つ(練習)」時に、目の前にあるものを出来るだけ全部意識しようとする。たとえば、部屋に居るのであれば、窓、窓のサン、網戸、カーテンレール、部屋の隅、天井、天井の模様・・・普段はどうでもいいものをあえて意識していく。そうすることは恐らく、普段私たちがしている相対的な考え方を減らし、結果的にからだが落ち着いてくる。興味のあるものだけを観ようとする(取捨選択する)ことは、緊張が続き、脳が休まらないのだろう。

 意識(心)が万物を作り出したかどうかは分からなくても、万物(人の思惑ではなく、すべて)を出来るだけ平等に意識しようとした時に、からだが自分らしくなることは分かる。 




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沢釣りの情景2

2015-05-22 08:50:20 | 渓流・鮎釣り
 
 昨日の朝、準備したミミズが少ないかなと思いながら家を出ると、道の上にミミズが点在している。明け方の雷雨で何処からか出て来たのだろう。駅に向かう路上で、8匹程捕まえることができた。少し黒っぽいのがいて、良く観るとアオダイショウの赤ちゃんだった。




 

 先週とは別の沢に釣行した。この沢は今シーズン2回目で、とにかく歩かなければならない沢だ。車が止まっていない(先行者がいない)ことを確認し、15分ほど山道を歩いてから一旦沢に降りるが、すぐには竿を出さない。更に20分ほど進んでから入渓。渓相は良いがすぐには釣れない。時々小さなアタリがあるが、針掛かりしない。
 実は今日、初めて「毛バリ」を持って来た。良く行く釣具屋のおじさんの話を聞いて、試してみたくなった。竿は延べ竿で、仕掛けはおじさんにもらった道糸用のラインにナイロンのハリスを付けて先に毛バリを結んだものだ。ポイントらしき処に落として、水面を流してみるが、全く反応が無い。場処を変えてしばらくやってみたが手応えが無い。素人が初めてやっていきなり釣れるとは思わないが、それにしても何だかよく分からない。また機会をみてやってみよう。
 釣り人にとっての問題はいつでも「今・眼前の魚」を釣ることだけである。餌をミミズにしてリスタート。沢釣りにはリズムがある。大体一つのポイントを1、2投で場処を変え、上(上流)に行く。それを淡々と繰り返していくと、リズムが出てくる。しかしそれも長くは続かない。途中に必ず滝や大きな岩などが出現するからだ。直に登れない時には、横から捲かなければならず、竿をたたんだりして、慎重になる。
 現場に戻ろう。数匹バラシた後にガッチリと掛かったのは、26センチの岩魚。そして後を追うように29センチが出て来た。


 



 3時間釣り上がった処を、1時間かけて戻る。山道が沢の左右に時々ある程度で、沢やその近くを歩かねばならず、疲れる。退溪して駅に向かう道の途中でキイチゴを発見。熟しているのを探して食す。甘さが口中に拡がり、青空を眺めながら幸せな気分になる。





 

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沢釣りの情景

2015-05-15 17:40:42 | 渓流・鮎釣り
 相変わらず下手な渓流釣りを続けているが、フェイスブックの方に記事を載せているので、こちらで書くのは久しぶりである。昨年は都留漁協の方へ通っていたが、今年はまた桂川漁協に戻って来た。
 解禁日から各地の沢を廻って釣り糸を垂れてきたが、暖かくなってそろそろ本流でも釣れるのではと、昨日は8メートルの竿を持っていったが、アタリすらなかった。餌もミミズ・クロカワムシ・オニチョロと色々試してみるが全く反応がない。2時間魚に無視され続けて、あきらめが付いた。魚には魚の事情があるのだと、技術が無いだけなのに言い訳をする。
 沢に行くことにした。下流は入渓者が多いので、暫く山道を歩いてから釣り始める。小さな山女魚をリリースしながら登っていくが、なかなか良いサイズが出ない。この沢には数年前に2、3度来たことがあるが、いつも本流や他の沢の「ついで」だったのと、さほど釣れないので短い時間で止めていた。今回、初めて先(上流)に進んでみる。1時間半ほど経ち、小さなポイントでアタリがあった。鈍い重みを手に感じた後、一転して魚が左右に走った。水面に顔を出さして、引き寄せているその途中にバラシてしまった(こんな処でバラスなんてあまり無いことだ。そんなに暴れたワケでもないのに)。
 岩魚がいることを確信すると、俄然意欲が湧いて来た。居るか居ないか分からないで釣りをするのと、居るはずだと思って釣りをするのでは、釣りの丁寧さ(ポイントに静かに近づいたり、仕掛けを変えたり)が違う。疲労感も違う。

 上流では水が少ないから、ポイントが限られる。落差があり水の溜まっているポイントに、慎重に餌を落とす。餌が一瞬止まった(岩魚が喰い付いたに違いない)。糸を弛ませてテンションをかけないようにする。その間に岩魚がミミズを、喰う。しっかり針掛かりさせるために、待つ。
 
およそ26センチの岩魚。



その後、これより大きい岩魚も釣れて、もっと上に行きたかったが帰りの体力を考慮し、納竿した。もちろん次回は更にこの「先」を目指すことは言うまでもない。「魚止めの滝」を自分の足で確認するまでは登り続けるだろう。恐らくそれは釣り人の習性である。





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丹田の大きさ

2015-05-08 20:20:37 | 「立つ」健康法
 丹田の大きさは決まってはいない。小さく感じることもあるし、大きく感じるときもある。太極拳などでは上達すればするほど、丹田を小さく動かしてその力を末端に伝えるようにする。
 気功や瞑想などでは、初めはテニスボール位に感じていた丹田が、スイカやビーチボールのようにどんどん大きくなって、やがてからだを包み込むほどになり、更に部屋いっぱい(或はそれ以上)になることもある。野口晴哉氏の著作「健康生活の原理」には、合掌行気法(掌に気を通す方法)について次のように書かれいる(72~73頁)。
「手掌がだんだん拡がって室中一ぱいになり、〔天地一指〕という感じになって、自分がどこへ坐っているか、脚も体もなくなって、ただフカフカした雲の中に合掌だけがあるというようになる」。
 この感じは丹田が拡がった感じとよく似ている。
 気功には「意守丹田」という言葉があり、「意到気則到(意が到れば気が到る)」の原則により、丹田を思い(意識し)続けることをする。しかしそれは、いつでもどんな状況でも守られるものなのだろうか。
 私は野口整体(愉気や整体)をして、からだが整った後には、わざわざ「意守丹田」をしたいとは思わない。バランスの悪い(気の散っている)ときに、それを整える一つの手段として「意守丹田」があっても良いとは思うが、整った後は忘れた方が良い。
 そもそも、からだの特定の場処を思い続けることは、たとえそれが丹田であったとしても偏りになるのではなかろうか。何か一つの事を考えることは、からだに反映するからだ。それは禅に於いて、「悟り」を目指せば、「目指す」が故に悟れないのと同じように。
 意識を偏らせずに、全身の緊張を抜いてリラックスして立てば、結果として丹田は充実する。丹田はからだのバランスが結果として現れる場処なのである。誤解を恐れずに言えば、丹田はからだ上の一部の場処であり、他の場処と比べて特別なわけではない。なぜならば、他の場処をおろそかにして、丹田が充実することはないからだ。
 危惧するべきは、丹田の場処や大きさにこだわり過ぎて、(身心共に偏ってしまい)せっかく練習しても所期の目的に達することができなくなってしまうことだ。

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アパートは地名で決めた

2015-05-01 19:47:39 | 
 20代半ばの頃、アパートを探していた。職場の親切な人に大家さんを紹介してもらった。物件は二つあり練馬区「石神井」のきれいなアパートと、渋谷区「笹塚」の古いアパートである。私は地名を見て、どちらにするのか決めた。
 「石神井」からは神・天が連想されるが、「笹塚」の「塚」には墓の意味があり、死・地がイメージされる。対称的な二つだが、私は迷うことなく「笹塚」を選んだ。「地(下)」から新しい生活を始めたかったからだ。
 笹塚での暮らしは予想に反して(?)楽しいものだった。友が良く遊びに来て、飲んだり、泊まったりしていった。笹塚の細い道を、下駄を響かせて歩いた。消防学校に近い緑道で太極拳をしていた。野口整体に出会う前の話である。

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