気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

名曲を勝手に解釈する④

2013-07-25 14:20:01 | 音楽

 高校生の時にラジオで中島みゆきの「夏土産」を聴いて、ファンになった(と言っても5、6枚のアルバムを聴き、深夜のD.Jを聴いていたくらいであるが)。シングルにもなっていない「夏土産」を偶然聴いたことが、中島みゆきを聴くきっかけになった。ヒットした「悪女」や「ひとり上手」・「時代」が流れても、「きっかけ」にはならなかっただろう。

Miyukinakajima_001

 さて、当時は高価なLPレコードはなかなか買えず、「貸しレコード屋」に通った。そこでレコードを借りてきて、カセットテープに録音して聴くのである。「夏土産」は「予感」というアルバムに入っていて、聴いているうちに他の曲も好きになっていった。最初に「誰のせいでもない雨が」「この世に二人だけ」などを気に入り、最後に(数年経ってから)好きになったのが「テキーラを飲みほして」である。ロック調のこの曲は、ギターで弾き語ると湿っぽい歌詞が、カラッとなるから不思議だ。テキーラは昔飲んだことがあるが、味は憶えていない(旨ければ憶えているだろう)。何故「テキーラ」なのだろう?試しにサビの処にバーボンや、ブランデー、ワイン・ジン・ウォッカ・ラムなど入れて、歌ってみれば「テキーラ」が一番音符に乗ることが分かる。

 男に心底惚れている女は、強い。その男が自分のことを見てくれないことくらい、どうってことないし、自分が選ばれないことくらいで諦めたりはしない。

 「おまえの惚れた あの女を真似て」髪型を変えるくらい簡単なこと。本当は最新の自分を出したいのだが、それは男の好みでないから「使い古しの女っぽさ」を演じることだってできる。プライドなんか何時でも捨てられるのだ。

 「待てと言われもせず」追いかけて6年目、「風の噂」で聞いた。「身を固めるんだってね」。男が結婚を一番に考えるような男に成り下がったとき、それは女にとってたった一つの価値=「惚れるほど魅力的な男」が、そうで無くなった時であり、そうなればもう「こちらから Say good bye」するしかない。

 18歳の頃、留学先で知り合った20代半ばのお姉さん2人が、「中島みゆきは振られる人ではなく、振る人だよね」と言っていたが、この歌を聴いて、そうかも知れないと思った。


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名曲を勝手に解釈する③

2013-07-18 14:36:42 | 音楽

 別れたあとの時間は辛く苦しいものだが、八神純子は「思い出は美しすぎて」の中で、「やさしく時は流れすぎて」と歌う。

 「今でもあなたの微笑みを感じることがあるのよ」・・・この歌詞を軽く聴き流してはいけない。「感じて」いるのは、あなたの「腕」や「ぬくもり」ではなく、「微笑み」なのだ。彼女はその「微笑み」を「観て」いたのではなく「感じて」いたのである。感覚を磨いた人間には、「あなたの微笑み」が空気を震わせ、伝わるのがわかる。

 美しいままに「保存」された「思い出」以上に、現在・未来を生きるのに「足かせ」となるものはない。「もう二度と手の届かない」恋だったことを知り、将来にそれ以上の恋がないことも知り、今という現実を生きなければならないのだから。

 夢が違っていたから別れたのか、別れてから違う夢を追いかけたのか・・・いづれにしても「思い出は美しい」そして「それは悲しいほどに・・・」

 付

 先日、八神純子のコンサートに行ってきた。透明感があって伸びやかな歌声は、時に力強く、時に優しく包み込む。CDやレコードよりも美しい声を出せる人は、そうはいないだろう。

Junko_yagami (写真はセカンドアルバム)

 「水色の雨」で「あー崩れてしまえ」と命令調で歌えるのはやはり八神純子しかいない。渡辺真知子でも、高橋真梨子でも五輪真弓でもない。水の様に透明な八神純子の声でしか「愛の形」を「崩す」ことはできないのだ。


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名曲を勝手に解釈する②

2013-07-12 10:33:31 | 音楽

 「青葉城恋唄」は文学的な歌詞が、そよ風のようなやさしい風に乗っている。歌い出しの「広瀬川」はゆったりとした瀬の流れだが、「流れる岸辺」になると、やや川の速度が上がる。瀬を流れる川の水の速度は一定ではない。川底の深さや水中の石や岩の形状で変わるものである。川の流れは季節のめぐりと共に、「無常観」を現す。岸辺に佇めば、あの時と同じ川が眼前に在る様に見えるが、あの日に見た川の水は、とっくに流れ去り、そこには別の川が在ることに気がつく・・・。

 「想い出は 帰らず」というフレーズが1番~3番まですべてに入っていて、しかもその位置は第1フレーズの直後で、若干の唐突感がある。

 「想い出は 帰らず」とはどういう意味だろう。「想い出」ならそこにあるではないか。「ゆれていた 君のひとみ」も「願いをこめた 君のささやき」も「ぬれていた 君のほほ」も「想い出」でだ。無いのは「現実」である。君との楽しい「想い出」は既に過去のものであり、現在に実感を持って蘇らすことはできない。その出来事を過去形の「想い出」にしたのは、主人公(作者?)である。もし、まだ彼女への想いがあるのであれば、「想い出」という言葉を使わなかったはずだ。だから最後のフレーズで「あのひとは もういない」と言っても、それは未練ではないし、もう一度生々しい付き合いをしたいなどとは露ほども思ってはいないのである。

 一旦「想い出」にしてしまえば誰も傷つけることはないから、「葉擦れ」は清で、「吹く風」はやさしい。この歌を通して流れる美しい歌詞は、主人公(作者?)が彼女を「想い出」にすることと、引換えに生まれたものだろう。「想い出」にする前の詞があるのなら、その詞もまた読んでみたかった。

 もう一つ気になることがある。歌ってみれば分かることだが、3番に字余りの箇所が幾つかある。1・2番の冒頭の「広瀬川」「七夕の」は5文字だが、3番の「青葉通り」は6文字である。「おどる光に」「かがやく星に」は7文字で、「こぼれる灯火(ともしび)」は9文字。また「瀬音ゆかしき「葉ずれさやけき」は7文字だが、「吹く風やさしき」は8文字となっている。文字数は故意的に増やされていたのだろうか。その意図は単調を嫌ったのか、強調だったのか、或いは他の何かがあったのか・・・「想い出」にしてしまったことの悔恨で、ココロが揺れているのならば、その方が共感できそうだ・・・。                                                                                                                                                                                                                                    


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名曲を勝手に解釈する

2013-07-05 10:39:35 | 音楽

 井上陽水の歌に「いつのまにか少女は」という歌がある。1番から3番までのサビはそれぞれ「君は静かに音もたてずに大人になった」「君は季節が変るみたいに大人になった」「君の笑顔は悲しいくらい大人になった」と書かれている。

001(ライブ盤・レコード)

 少女に恋心を懐いているであろう「片想いの観察者」は、「いつまでも少女でいてほしかった」のだが、無情にも「大人になってしまった」少女。それは何より激しい音を立てるはずの出来事であるにも拘らず、「観察者」の知らないところで「君は静かに音もたてずに大人になった」のである。

 季節はいつでも、人の思惑に関係なく循環するものだが、片想いの観察者にとって季節は止まる。春は春、夏は夏、君は君、「この想い」は「この想い」であり、変わらないものなのだ。しかし無常にも「君は季節が変わるみたいに大人になった」のだ。

 少女が大人になるということは、単に身体が変わることではない。今まで守ってきたもの全てを失っても、手に入れたいものができるということ。平等に与えていた「笑顔」を特定のものに限定してしまうことかも知れない。片想いの観察者だけが、少女の一番美しいところを知っている。少女がそれを無くしてしまったことを、少女自身は自覚し得ないが、観察者には「悲しいくらい」良くわかる。3番のサビの直前に「だけど春の短さを誰も知らない」とある。結局手に入れた「春(幸福)」もまた無常の真理(季節が変るみたい)により、変わっていくのだが、それを知らずに求めてしまう「君の笑顔は悲しいくらい大人になった」のである。

 変わる少女の後ろには、いつも変わらない「片想いの観察者」がいた。

 

002(表紙のとれたギター弾き語り本)

  

 少女が大人になるのに時間はいらない。刹那に変わる。

 小椋佳作詞で、陽水も歌った「白い一日」。「ある日踏切りの向こうに君がいて 通り過ぎる汽車を待つ 遮断機が上り ふり向いた君は もう大人の顔をしてるだろう」

 


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