気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

中学時代の野球②

2017-08-26 09:28:38 | 野球
 チームに入ると、同期性は私を含めて3人だった(その後1、2か月たってリトルリーグから十数人入って来ることになる)。良く憶えているのは、先輩たちの試合中に、センターの後ろに坐り、通行人に対してグランド内を通らぬようにお願いする役目があったこと。通行人が来ると、帽子を取って、「スミマセンが試合中なので、こちらの方をお通りください」と球場外の道へ誘導するのである。それは練習よりも楽だった。何よりも同期生と、野球とは全く関係のない話をしていることが楽しかった。
 練習は先輩たちと一緒にできるレベルではなかったから、「球拾い」のような雑用が多かった。以前のブログに「球拾い」について書いたことがあるが、私は「球拾い」が嫌ではなかった。先輩たちがバッティング練習中にファールを打つと、誰よりも早くそれを取りに行った。そこに「居場所」を感じていたのかも知れない。野球が下手な私が、唯一存在できる場処だったのだろう。

 先輩たちは強かった。私たちがセンターでお喋りをしている間に勝ち続け、春の関東大会で準優勝したのである。その祝勝会でサプライズがあった。ベンチにも入っていない私たち同期生にも、銀メダルが与えられたのだ!チーム関係者の配慮で、わざわざ本物と同じものを作ってくれたらしい(やさしい大人たちがいた)。その席で、監督が選手を紹介する時間があり、私のことを「この子は本当に良く球拾いをしてくれる」とほめてくれたのである。地区センターのような小さい部屋で、先輩や大勢の父兄たちの中で、監督がはじめて真っ直ぐに私を見た、そのやわらかい眼差しを今でも思い出すことができる。私は監督を「恐い」人だと思っていた。直接叱られたことはなくても、先輩たちが叱られたり(ピンタされたり)するのをいつも目撃していたからである。しかしながら3年間で思い出せる、ほめられた経験は、唯一これだけである。野球そのものではほめられなかったのである。

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中学時代の野球①

2017-08-20 16:23:49 | 野球
 中学・高校時代、私は生活の中の多くの時間を野球の練習や試合に費やし、アタマの中にはいつも野球があった。多感な学生時代に、そういう生活を6年間も送ってきたにもかかわらず、このブログではほとんど取り上げてこなかった。触れるにはあまりにも大きなテーマであったし、何らかの結論を出すには時期尚早だと思っていたからである(既にそれから30年以上も経っているというのに)。「大きなテーマ」と言ったのは、あの頃野球以上に良くも悪くも影響を受けたものは他にはなかったからである。それは肉体的なことよりも精神的なこと、たとえば人格形成において影響があった。当然のことながらそれはその後の人生にも少なからず関係し、極端な言い方をすれば、あの頃感じた「いろんなこと(疑問のようなもの)」を正しかったのだと証明するためにその後の人生があった。いま、精神的なものを主にした健康法を指導する仕事をして、臨済や老荘の本を読んでいることも全てあの頃とつながっている。
 
 今朝、早くに目が覚めてぼんやりしているときに、あの時の野球に対して私の正しさなど証明しなくても、ただあの時にあったこと、感じたことを書いてみたらどうかと思った。何かについて良い悪いの判断をしたり結論を出すのではなく、できるだけ冷静にあの時の事を書いてみたい。断片的であってもこの作業によって、少しでも私自身が感じている「6年間の空白」を埋めて行くことができるのではないかと思った。


 入会するチームの見学に行ったのは、まだ中学に入学する前だった。飛行場の横に隣接するグランドは風が冷たく、その端を父親と歩きながら指導者のところに向かった。大人のように背が高い中学生(私にはそう見えた)が練習している中を、心細く感じながらトボトボと歩いた。一人だったら怖くて進めなかったかも知れない。
 そのチームはシニアリーグとよばれ、リトルリーグの中学生版である。中学校の野球部ではなくシニアリーグを選んだのは父であり、その方が上達するであろうと考えたのである。練習・試合は土日にあり、平日は週二日ほど父が仕事を早めに切り上げてきて、空き地で練習した。バッティングセンターにもよく行った。父はまた、小さな庭にネットを張り、ティーバッティングのマシンを買ってきて設置した。私は父の期待を背負った少年だったのである。
 私自身は子供らしくもなく「楽しいかどうか」なんてことは考えなかったのである。好き嫌いではなく、練習があれば行くものだと考えていた。感情を殺していたといえばそうなのかも知れない。どんな嫌なことがあっても辞めるという選択肢はなかった。何故だろう。父の期待を感じていたからなのか…それだけではない、おそらく「辞める」ということは、男らしくないと思っていたのではなかろうか。<つづく>

* しばらくこのテーマが続くが、「立つ」健康法などについては、年内に新しくするホームページに書いて行くつもりである。

*写真は入りたての頃
 




















 

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消えない「泡」

2017-08-13 07:56:37 | 
 3月の解禁から始まって、25回ほど渓流釣りに行った(その内、鮎は2回)。よくも飽きずに毎週川に通っているものだと思う。子供の頃、父に連れられて川釣りに行っていた時よりも、今の方がより深い楽しみになっている。子どもの頃はただミミズや赤ムシを付けて、同じ場所で糸を垂らすだけで、フナやクチボソが釣れた。今はポイントをよく観て、仕掛けを工夫しながら、毎回違う魚と対峙している。
 父と釣りに行かなければ、大人になって釣りをしなかったかも知れない。私のように不器用な人間は、竿の扱いや仕掛け作りなどが大変で、やってもすぐに止めてしまったかも知れない。
 
 子がいたら
 一緒に釣りに行っただろう
 ただ竿を持っているだけで
 何も話さなくていい
 
 帰り道に 
 自販機で「三ツ矢サイダー」を飲んだ
 炭酸の泡が9歳の喉をしびれさせる

 40年経った子の記憶に「サイダー」が残るなら
 釣りもわるくない


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30年の力

2017-08-06 13:31:29 | 
 今日は、厦門大学・留学時代の友人・Lちゃんと山歩きをした。八王子城跡→富士見台→小下沢→裏高尾 コースを蒸し暑い中、大汗をかきながら歩いた。しゃべってもいいし、しゃべらなくてもいい。歩く速度が早くても遅くても自然に合わせている。
 写真上、1987年に敦煌を放浪していた若造たちは、30年後に山登りをするなんて思ってもいなかった。写真下、八王子城・本丸跡で、少し力が抜けた二人。




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