チームに入ると、同期性は私を含めて3人だった(その後1、2か月たってリトルリーグから十数人入って来ることになる)。良く憶えているのは、先輩たちの試合中に、センターの後ろに坐り、通行人に対してグランド内を通らぬようにお願いする役目があったこと。通行人が来ると、帽子を取って、「スミマセンが試合中なので、こちらの方をお通りください」と球場外の道へ誘導するのである。それは練習よりも楽だった。何よりも同期生と、野球とは全く関係のない話をしていることが楽しかった。
練習は先輩たちと一緒にできるレベルではなかったから、「球拾い」のような雑用が多かった。以前のブログに「球拾い」について書いたことがあるが、私は「球拾い」が嫌ではなかった。先輩たちがバッティング練習中にファールを打つと、誰よりも早くそれを取りに行った。そこに「居場所」を感じていたのかも知れない。野球が下手な私が、唯一存在できる場処だったのだろう。
先輩たちは強かった。私たちがセンターでお喋りをしている間に勝ち続け、春の関東大会で準優勝したのである。その祝勝会でサプライズがあった。ベンチにも入っていない私たち同期生にも、銀メダルが与えられたのだ!チーム関係者の配慮で、わざわざ本物と同じものを作ってくれたらしい(やさしい大人たちがいた)。その席で、監督が選手を紹介する時間があり、私のことを「この子は本当に良く球拾いをしてくれる」とほめてくれたのである。地区センターのような小さい部屋で、先輩や大勢の父兄たちの中で、監督がはじめて真っ直ぐに私を見た、そのやわらかい眼差しを今でも思い出すことができる。私は監督を「恐い」人だと思っていた。直接叱られたことはなくても、先輩たちが叱られたり(ピンタされたり)するのをいつも目撃していたからである。しかしながら3年間で思い出せる、ほめられた経験は、唯一これだけである。野球そのものではほめられなかったのである。
練習は先輩たちと一緒にできるレベルではなかったから、「球拾い」のような雑用が多かった。以前のブログに「球拾い」について書いたことがあるが、私は「球拾い」が嫌ではなかった。先輩たちがバッティング練習中にファールを打つと、誰よりも早くそれを取りに行った。そこに「居場所」を感じていたのかも知れない。野球が下手な私が、唯一存在できる場処だったのだろう。
先輩たちは強かった。私たちがセンターでお喋りをしている間に勝ち続け、春の関東大会で準優勝したのである。その祝勝会でサプライズがあった。ベンチにも入っていない私たち同期生にも、銀メダルが与えられたのだ!チーム関係者の配慮で、わざわざ本物と同じものを作ってくれたらしい(やさしい大人たちがいた)。その席で、監督が選手を紹介する時間があり、私のことを「この子は本当に良く球拾いをしてくれる」とほめてくれたのである。地区センターのような小さい部屋で、先輩や大勢の父兄たちの中で、監督がはじめて真っ直ぐに私を見た、そのやわらかい眼差しを今でも思い出すことができる。私は監督を「恐い」人だと思っていた。直接叱られたことはなくても、先輩たちが叱られたり(ピンタされたり)するのをいつも目撃していたからである。しかしながら3年間で思い出せる、ほめられた経験は、唯一これだけである。野球そのものではほめられなかったのである。