「立つ」練習をしていると、面白いなと思うことがある。「立つ」練習の前後で気分がまったく変わるからだ。異なる意識の状態(モード)が二つあるようだ。一つは普段の生活の時の意識で、もう一つは「立って」いる時の意識。「立つ」練習をする前に、「やりたくてしようがない」などと思うことはなく、どちらかと言えば面倒で、やりたくはならない。他に楽しそうなことがあれば、そちらを優先するだろう。しかし不思議なことに、実際に「立つ」練習をすると、先の気分はどこかに消えて、いつのまにか「立って」いること自体を楽しんでいる。「立つ」というあまりに地味なこの形に快感があり、このまま「立っていたい」とさえ思うのである。
「立つ」前も「立った」後も、どちらも同じ私である。しかし、考え方や感じ方が違う。私たちは自分の本心を知っている気でいるが、果たしてそうだろうか。「立つ」前の私は相対的な考え方を主にしたもので、「立った」後は非相対的な考え方が優位になり、身心共に周りとつながったような感じがある。いつの、どの気持ちを本心とするかによって、本心は変わってくるのである。後者の方は、からだを使った訓練によって実現される。
「立つ」前も「立った」後も、どちらも同じ私である。しかし、考え方や感じ方が違う。私たちは自分の本心を知っている気でいるが、果たしてそうだろうか。「立つ」前の私は相対的な考え方を主にしたもので、「立った」後は非相対的な考え方が優位になり、身心共に周りとつながったような感じがある。いつの、どの気持ちを本心とするかによって、本心は変わってくるのである。後者の方は、からだを使った訓練によって実現される。