[汚れ道]
兇賊どもや関わりのある医師・吉野道伯の裏の話、
弥市・お浜の過去が明かされる。
1章
丹波守下屋敷から出て来た編笠の浪人は、大川に沿って関屋村の或る寮に入って行った。
平蔵と密偵・駒蔵の尾行に全く気づかなかった。
駒蔵が周りの百姓家で聞き取りすると、江戸の名高い医者の寮だというので、平蔵は、湯島の吉野道伯の寮だと看た。
見張りは明日からだと、駒蔵を丹波守下屋敷の見張りに戻し、平蔵自身は役宅に帰った。
平蔵は、与力・佐嶋に今日の尾行の一件を語り、寮の見張りの溜り場を近くの牛田の薬師堂にした。
呼び出しをしていた井関録之助が駆けつけたので、平蔵は、明日、清水源兵衛屋敷へ案内してくれという。
そして、清水山斎殿も子息の源兵衛も、道伯や無頼浪人、それに畜生盗めの一件とは、全く関わりがないことが解ったので、清水の隠居に腹を打ち割って対応できると思っていると付け加えた。
2章
平蔵は、父上に昔の永井弥一郎について聞かせてもらいたいと願う。
三斎は、権兵衛酒屋の亭主は永井弥一郎であることに間違いなく、それがしの知る限りのことを話すと語りだした。
3章
「かれこれ20年も前になります。小普請入りをした翌々年の春であったと思うが、突然、弥一郎から呼び出しがあり、指示された船宿へ行くと、痩せ衰えて半年前の弥一郎とは別人の如く見え、もはや二度と会えないと思うので、ひと目会いたいと無礼な呼び出しをしたと言われた」
弥一郎から、無理に、内情を尋ねると、
「女のために、身を誤り取り返しのつかぬことをしてしまった。しかし、家名断絶にはならず、弟・伊織が後を継ぐことで家名は残るようになった。 それ以上のことは言えぬとのことで、その日は別れた」
弥一郎の弟・伊織は、渡辺丹波守が若き日の過ちによって生まれた実子ということは、平蔵は、京極備前守から知らされているが、三斎殿は知らぬらしい。
「翌日、思い切って永井家を訪問すると、お目にかかれぬとのことで、すでに屋敷から消えているのではあるまいかと思い、以後の訪問は諦めました」
「戦国のころに、永井家の主筋にあたっていた渡辺丹波守が、永井家のために力を尽くされ、弥一郎の弟・伊織が六百石の旗本家を継ぎ、今日に至ったのでござる」
三斎殿は源兵衛へ家督を譲り、自由に外出できるようになった。
「そして、去年の夏、駒込神明宮へ参詣したとき、みすぼらしい風体をした弥一郎の姿を見て、後をつけて権兵衛酒屋へ入るのを確かめ、翌日、出直した」
三斎殿が弥一郎に渡辺丹波守の死去を告げたのを、仙右衛門が見かけたのもこのときである。
「酒屋を訪れました。弥一郎は奥へ入ったきりで、いまは、この居酒屋の親爺で弥市だということをお忘れなくと言われ、取りつくしまはなかったが、二度と来るなとは言われなかった」と。
4章
関屋村の吉野道伯の寮から、中年の町人風の男が出てきて、渡辺屋敷に出入りしている菓子舗・加賀屋の裏手に行き、中から出て来た中年の女と連絡を取り合った。
平蔵は、与力・佐嶋に、京橋の加賀屋、関屋村の道伯の寮、丹波守下屋敷の三つに的を絞って手配をすることを命じた。 そして、佐嶋自身が出向いて、幕府の御船手方へいざというときの助力を願えと、指示した。
5章
平蔵に片腕を切り飛ばされた浪人は死んだそうなと、密偵の彦十が知らせてきた。
駒込の権兵衛酒屋へは、老密偵の利平治のみを泊らせ、同心の木村や密偵らの全てを引き揚げ、これを関屋村の吉野道伯の寮の見張りに差し向けた。
吉野道伯邸は、見張りにくいので、平蔵は、近くの絵師・石田竹仙宅へ密偵・おまさを泊りこませ、それとなく目を付けさせることにした。
そのほか、平蔵は、役宅の裏手の掘割へ小舟を用意させ、老船頭の友五郎も役宅に泊らせた。
―中略―
関屋村の寮と丹波守下屋敷からの互いの人の出入りが激しくなった。寮の小舟も出て行くことも多くなったが、この方は、船宿の亭主で密偵の粂八が後を尾けている。
丹波守下屋敷の見張りの中心となっている同心・松永は、曲者どもの幹部の大野弁蔵と二人の浪人が、丹波守下屋敷を出て道伯の寮へ入ったことを、密偵の由松を駆けさせて平蔵に告げた。
傍らにいた与力・佐嶋が平蔵に、今夜に押し込むのではございますまいかと言う。
6章
この夜の四ツ半ごろに、関屋村の道伯の寮の水路から二艘の船が大川の川面に滑り出し、菓子舗・加賀屋の方向に向かった。船に乗っていたものは、丹波守下屋敷から関屋村の寮に集まった者たちだった。
これより先、まだ日暮れ前に、合わせて7人の男たちが、前後して関屋村の寮を出て行った。
密偵たちが尾行して、この7人が築地の鉄砲洲の船宿・佐野屋へ集まったことを突き止めた。
これらの報告を聞いた平蔵は、湯島の吉野道伯屋敷をすぐさま取り巻き、屋敷から出て来た者は全てひっ捕らえよと命じた。 そして、平蔵は、指揮所としたいと、先に、京極若年寄を通じてお願いしていた堀田中屋敷へ友五郎の小舟で向かった。
―中略―
九ツ半ごろであったろう。 関屋村の寮と鉄砲洲の佐野屋から菓子舗・加賀屋の裏へ集まった盗賊は、合わせて20名だった。
引き込みの女が合図を受けて、塀の潜戸を内側から開けた。 その瞬間、裏側の両側から火付盗賊改方の高張提灯が一斉に突き立った。
―中略―
平蔵が捕えた大男は、浪人くずれの盗賊の首魁の滝口金五郎だった。
牛込の中屋と一昨年の平松屋の押し込みは、この滝口金五郎一味の犯行であったことが、その後の取り調べで明らかになった。
吉野道伯も同じ夜に、家族や奉公人ともども、湯島の屋敷で捕えられた。
道伯は、病床に就いていて、当夜の滝口一味の押し込みを全く知らなかった。 だからと言って道伯が滝口一味と無関係だったのではない。 関屋村の寮の土蔵の奥から一万四千両に及ぶ盗金が発見されたのである。
この取り調べは、半年と長くかかった。なぜなら、渡辺丹波守・永井伊織の両家にも関わることであり、盗賊改方の一存で解決できぬところもあったからだ。
7章
「死んでしまったのなら別のことだが、権兵衛の亭主の弥市は生きている限り、きっと、わしの前へ現れよう」
平蔵は、何やら自信ありげにそう言った。
永井弥一郎が捕えられたのは、この年の秋も深まったある日の夕暮れであった。
捕えたのは、井関録之助と彦十で、場所は小石川の西光寺の墓地においてだ。
その墓地の一隅に、お浜を葬ってあり、浜の墓と書かれた墓標の前で泣いていた弥一郎を、ふたりで捕まえた。
これまでに、平蔵は、権兵衛酒屋へ泊りこんでいる密偵の五郎蔵とおまさに、亭主夫婦のことを尋ねる昔の客や近所の人びとへ折りある度に、女房のお浜は西光寺に葬られていると申しておけと言い含めていたのだ。
連行された弥一郎に、平蔵が、
「いままで、何処に隠れていたのじゃ? そのほうならば、この半年を暮すだけの金には困らなかったろう。 お浜と共に盗賊どもの片割れを務めたこともある身ゆえ、な」
と尋ねると、「あちこちと流れ歩いておりました」と、やつれ果てた旅姿のみだれた白髪が震え始めた。
吉野道伯が、全てを白状に及んだぞと、平蔵が、その内容を語った。
「昔、六百石の当主であった弥一郎そのほうを巧みに誘い出し、浅草の水茶屋の女で、お絹とか申すのを世話した。美しい女であったそうな」
(妻を病に失ったとはいえ、われを忘れることもなかったろうに……)
「そのお絹が女賊であったとは、な……六百石の旗本が盗賊と狎れ合うのでは、身を引いて家督を養子の弟・伊織へ譲り渡すのも致し方のないことか。 それもこれも、いまは亡き渡辺丹波守が、おのれの実の子である伊織を永井家の当主にさせたいがために、なんぞ、手だてはないかと、腹違いの弟の吉野道伯へ図ったのが発端となったのである」
それがために、丹波守自身も、道伯に抑え込まれる羽目になったのは言うを待たない。
おそらく丹波守も、義弟の道伯が盗賊一味と結びついていようとは、この時まで思い及ばなかったに違いない。
そのころ、道伯と結託していたのは、名越の松右衛門という盗賊で、三か条の掟を守り抜いた本格の盗みをしていたわけだから、道伯も安泰に悪の世界を歩んでこられた。
名越一味が江戸での盗みの折りには、関屋村の道伯の寮が盗人宿となった。
道伯は、長期間にわたる盗めに出資をし、押し込み先の手引きをした。 名声を得ていた道伯だけに、富裕の商家との交際も少なくない。
―中略―
屋敷を脱走した弥一郎は、もはや自暴自棄の形で、お絹と共に江戸を離れ、名越の松右衛門の世話を受けるようになった。 そして、次第に、弥一郎が松右衛門の盗めを手伝うようになったのは、先ず当然の成り行きであったろう。
平蔵が、弥一郎にお絹はどうしたのだと問うと、「手前が殺めた」と言う。
松右衛門が江戸で最後の盗めを行なった後、伊勢の国へ姿を隠した。 そのときに、松右衛門が、弥一郎に、
「お浜は、お前さまの頼りになる婆じゃ、共に暮らしなされ」
と引き合わせた。
この二人は、暫くして、駒込に百姓家を買い、権兵衛酒屋を始めた。
むろん、ふたりとも、盗みの世界へは、二度と足を踏み込まぬと決意していたのだ。 それがそうは参らぬことになりかけた。
名越の松右衛門の後を継いだ浪人盗賊の滝口金五郎は、押し込み先の手引きを受けた道伯へ、三か条の掟は守り抜いた本格の盗みをすると言っておいて、約束を破り、畜生ばたらきで流血の犯行を平然とやってのけた。
その金五郎の配下になった元名越一味の貝野の吉松に、お浜が付けらけて、所在を見つけられた弥一郎・お浜はしつこく仲間に入れと誘われた。
弥一郎夫婦が屈せず撥ね除けると、滝口金五郎は、
「我々や道伯先生の秘密を知っていながら、一味に加わらぬというのでは、我らが危なくなる。かまわぬから斬って捨てい」
と言ったと、吉松が自白した。
平蔵が、なぜ、お浜を置き去りにしたのだと聞くと、弥一郎は、
「長谷川さまの激しい叱咤に肝が縮み我を忘れて、お浜殿を捨てて走り逃げました」
と消え入る声で答えた。
平蔵が、いま、お浜に敬称を使ったのは何故かと問うと、
「私どもは夫婦でなかった。お浜殿は、いまの永井家の主・伊織の母でございます」
と告げた。
ー中略―
平松屋に押し込んだ後の滝口金五郎は、関屋村の寮をわがものとして、湯島の屋敷で心痛のあまり病床に臥した吉野道伯には見張りをつけ、丹波守下屋敷に以前から住み付いている大野弁蔵と連絡を取り合い、中屋幸助方を襲った。 そして、加賀屋吉久方へも、道伯から内情を聞いており、押し込もうとしていたのだ。
◆
弥一郎は処刑された。
翌年の早春、渡辺丹波守と永井伊織の両家は取り潰しにとなった。
平蔵は、与力・佐嶋や井関録之助らを伴い、亡きお浜の一周忌の供養を西光寺で行った。
庫裏の一隅で、平蔵は語った。
「哀れなのは、お浜じゃ。伊織を生んで後、いったんは実家へ戻されたが、半狂乱となって家出をし、ついに、名越一味の笠屋の友次郎と夫婦になり、盗みの"汚れ道"を歩み出したという……。世間は、広くて狭いものじゃ」
夜に入ってから庫裏を出た。
録之助が墓地の彼方を指さした。 そこには、青白い燐火が一つふわふわと暗夜の闇を漂っている。
平蔵が鬼火だなと言う。
終