毎日のように、死に直面している零戦パイロットが生きて妻子のところに帰るのだと言い続けたが、「多くの戦友の犠牲の上に、生き延びていることに心がさいなまれ、最後は生き残ることに耐えられない精神状態になり」(私の推測)、家族を戦友に託し特攻隊員として死んでいく、迫真のミステリー、最高のラブロマンスの久し振りに感激させられた物語。
2009年の読んでみたい本の第1位に選ばれた百田尚樹の作家デビュー作品。
以下、戦記部分は省略し、主人公宮部久蔵の信念、態度の変化を作品に沿って纏めてみた。
亡霊
司法試験浪人の佐伯健太郎はフリーライターの姉・慶子から太平洋戦争で戦死した祖父の宮部久蔵の事を調べたいので手伝ってくれと言われた。
6年前に祖母の松乃が他界したときに、突然、祖父から本当の祖父は宮部久蔵で、彼は終戦の数日前に特攻隊の一員として南西沖で散華したことを初めて明かされた。
祖母は健太郎らの母親・清子を連れて祖父と再婚した。
宮部が戦死したとき3歳であった母は、父の宮部に対する記憶が全く無く、最近になって、ふと、死んだ父はどんな人だったのかな、と呟くのを聞いて、慶子が健太郎に調査の誘いをかけた。
宮部の軍歴を厚労省に問い合わせると、昭和9年、15歳で海兵団に入隊、途中から操縦練習生となって昭和16年空母に乗り真珠湾攻撃に参加し、その後、各基地に転任していることが分った。
水交社の存在を知り、関係するだろう戦友会に問い合わせた結果、時期を違えて何通かの元生存戦友の所在の連絡があった。
臆病者
元戦友の長谷川さんは、昭和17年秋のガダルカナルの激しい空戦で宮部とともに戦い、敵弾で左腕を失くした。
彼の証言から浮かび上がった宮部の姿は、健太郎たちが予想もしなかったもので、戦闘機乗りとしての凄腕を持ちながら、同時に異常なまでに死を恐れ、生き残ることにのみ執着する零戦パイロットだった。
宮部は殆ど使用しない落下傘の点検にも気を遣い、奴は海軍航空隊一の臆病者だった、宮部は何よりも命を惜しむ男で、戦場から逃げ回っていて、隊で誰知らぬ者はなかったと、卑怯者と言わんばかりの侮辱の言葉を吐いた。
腕を失くしたことも他人のせいにして可哀そうな人だと健太郎は思った。
真珠湾
健太郎は祖父に黙っているのも悪いと思い、宮部の事を調べていることを話した。
久蔵じいさんは臆病者で、いつも戦場から逃げていた人だったらしい。自分にガッツがないのも久蔵じいさんの血が入っているせいかもと言うと、祖父に酷く叱られた。
健太郎は、一人で四国の松山へ次の元戦友の伊藤さんを訪ねた。
臆病者のパイロットだったと聞いていると切り出すと、臆病者ですか宮部がですかと疑問符を繰り返し、臆病者という言葉を否定しなかったが、確かに宮部は勇敢なパイロットではなかったと思う、しかし、優秀なパイロットだったと言った。
そして、宮部は死にたくない、私には妻が居る、自分にとって命は何よりも大事だと言っていた。あの当時は生の中に死が半分混じりあった世界で生きていて、死を怖れる感覚で生きていけない非日常の世界に居たのに、宮部は死を怖れていた。彼は戦地の中にあって日常の世界を生きていたのだ。なぜそんな感覚を持つことが出来たのだろうかと言った。
健太郎は、初めて聞く宮部の元戦友が語るパイロットとしての太平洋戦争の体験談は新しい驚きの連続であり、人間の勇気と決断力、それに冷静な判断力が生死を分ける戦いの中で、自分と同じ26歳で祖父宮部が優秀なパイロットと言われて生きたことを痛感させられた。
ラバウル・ガダルカナル
都内の病院に入院中の井崎さんを訪ねた。出迎えの娘さんから、医者が長話を止めているのに、どうしても会うといって聞かなかったとのことを聞いた。
ラバウルの南のラエ基地にいるときに、17年7月、宮部一飛曹は転任してきた。
宮部一飛曹と初めて出撃したとき、その日は雲が多く、宮部機は常に機体の角度を変えたり背面飛行をしたりと、用心深さは度を越しているので、よほどの臆病者か恐ろしく慎重な性格かと思った。しかし、私が敵の奇襲に遇い、やられると思ったときに、いつの間にか宮部機が敵機の背後に廻って撃ち落してくれ一命を取り留めた。敵機より早く相手の行動を察知していたのです。
宮部隊長の戦いぶりは、空戦域に長く留まらず乱戦になったらいち早く其処から避退し、戦域から逃れてきた敵機を狙うことだった。無理して敵機を墜とすよりも、墜とされないほうが大事、生き残っていれば、また、敵機を撃墜する機会があると言われた。
とにかく生き延びろ、そのための行動をとれと言われた言葉が心の底にずしりと響いたと言う。
宮部隊長は毎夜宿舎裏の人が居ないところで、戦闘機が宙返りしてGが非常に重くなった操縦桿を片手で操りながらの空戦のために、異常なほどの体の鍛錬をしていた。毎日の訓練は苦しくないかと問うと、苦痛だが我慢できなくなったときは見たことも無い娘に逢うためには何としても死ねないので家族の写真を見るのだと言っていた。
井崎さんの話は続いた。
攻撃機の直掩任務に際しては身を挺してでも守れと言われているにもかかわらず、宮部隊長は敵戦闘機を追い払うが、自機を挺して敵弾を受けてまでも守ることはしなかった。
また、敵の搭乗員が落下傘で降下しているところを宮部機は銃撃し、編隊長から怒鳴られたが、飛行機は消耗品、本当の敵は一朝一夕で育成できない熟練搭乗員だと言った。私は戦争は所詮殺し合いだと初めて気がついた気持だった。
燃料不足や機体不調で基地への帰還が無理と思ったら、敵艦船に向かって自爆せよと教えられていたが、宮部隊長は悲しむ家族が居るはずだ、生きる努力をしろと言っていた。
その言葉が甦ったのは、空母の搭乗員のときに銃撃を受け海面に不時着したときだった。9時間かけてグアム島に泳ぎ着いたのです。
話し終わって、私は癌で三月の命と言われている。この話をあなた達に語るために生かされてきたのですと言って、窓から空を見てお孫さんが見えたよ、見えますと呟いていた。
ヌード写真
数日して、和歌山在住の元整備兵の永井さんに会いに出かけた。
宮部は言葉も丁寧でまるで今時の品のいいサラリーマンみたいな感じで、とても戦闘機乗りには見えなく、空戦の話はせがんでもしてくれなかった。
宮部は、出撃しても無傷で帰還する、いつも弾丸が残っている、整備兵にとって厭なことだが飛行機の整備についてやたらと口を出してくる、とくに発動機の不調音には敏感で、直ぐにどうだろうと整備を依頼してくると言った人だったので、臆病者と言われていたが、感謝の気持を伝えるのを忘れない人だった。
宮部が一度だけ身の上話をしてくれた。父が相場に手を出して店を潰して首をくくり、半年後に母が病死して天涯孤独になり、海軍に志願したと言っていた。
宮部が兵隊を殴ったことがあった。それは落下傘で落ちてきた敵兵のポケットからヌード写真が覗いていたので、皆が回し見をしていて宮部の手に渡った。宮部が裏を見ると敵兵の妻となっていたので、ワイフだと言って急いでポケットに入れてやった。それをまた取出そうとした兵隊が殴られた。
そんな話の最後に、臆病者と罵られようとも家族の元に帰ると生きる道を選んだ人が何故特攻を志願したのか不思議だと言った。
狂気
健太郎と慶子は岡山の元戦友の谷川さんに会いに行った。
宮部とは12年、上海で一緒の航空隊に居た。その頃の宮部は非常に勇敢な恐れを知らない戦闘機乗りだった。
19年の初め、比島沖の空母で再会した。その頃は彼我の戦力差は極端に拡がっていた。戦闘機の戦闘能力はもちろん搭乗員の命を大事にする機体整備には大きな差ができていて、高性能の電波探知機で日本の飛行機の行動は100哩も先から探知されていた。これら防御力の増強は戦闘員の命をなんとも思っていない日本に無い思想だと。そんな事を話し合った事を覚えている。
その後、ニコルス基地で再度宮部と再会したときだったが、そこで特攻の志願募集があった。宮部は最後まで拒否した。飛行隊長が軍刀を抜いて志願しないのかと言っても頑として動じなかった。
どんな過酷な戦闘でも生き残る確率が僅かでもあれば必死に戦えるが、初めから必ず死ぬと決まった作戦は、絶対に厭だと言っていた。それは人間の心の底にある真実の思いだった。そして、続けて、谷川、特攻を命じられたら何処でもいい、島に不時着しろと言った。軍法会議にかけられたら死刑に値する言葉だ。
桜花
次に訪問した先は飛行予備学生の岡部さんでした。
宮部教官が筑波航空隊に来たのは訓練も終わる20年初めだった。死線を越えたという凄みはあったが、戦場のことは聞いたことがなかった。
言葉遣いの丁寧さとは別に非常に厳しい教官だった。訓練の個人成果は殆どの学生が最低の不可で、そのために実技の点数を付けるのは他の教官になったほどだった。宮部教官は、皆は搭乗員になるよりももっと優れた仕事をしてもらう人で、皆さんには死んで欲しくないので、厳しくしているのだと言われた。
その後、私は、攻撃機に懸吊された人間操縦のロケット弾の桜花という特攻の搭乗員になり訓練を受けたが、訓練中に多くの人が事故で亡くなった。
姉の慶子が、特攻要員としてどのようにして自分の死を納得させたのかと質問すると、家族を守るためです、国民の命を大事にする米国でも出撃する軍人の気持は、祖国の勝利を信じて家族を守るためだと同じ思いでしょう。しかし、米国の搭乗員は生きて帰る可能性があったが、特攻は十死零生の作戦です。全機特攻を唱えた宇垣長官は敵艦に爆弾が命中させた後もさらに飛行機を爆弾にして自爆しろと命じたほどです。納得さす死の重みが違いますと言われた。
カミカゼアタック
白金のホテルであった武田さんも飛行予備学生だった。
私は特攻要員でした。特攻要員と特攻隊員は全く違い、特攻隊員は死を宣告された者で、いずれその日まで続く責め苦は煉獄の苦しみであっただろうと思う。
その特攻隊員の心も知らずに、全機特攻を唱えた宇垣長官が終戦を知ったときに自分の死に場所を求めて17名の部下を引き連れて特攻した、許せない事だと話された。
宮部さんは多くの予備学生から慕われた素晴らしい教官だった。
ある日、我々が急降下を上手くやったら、上手くなった者から死ぬために戦地にやられる。皆はただ死ぬために訓練させられている、それなら、ずっと下手なままがいい。皆は戦争が終わったら必ず必要になる人たちだからと言っていた。
訓練中に事故死した戦友に、兵学校出の中尉が軍刀の石突を床にたたき精神が足りない、貴重な飛行機を潰すとは軍人の風上にも置けないと怒鳴った。宮部教官は、殴られながらも学生は立派な男だったと数回弁明して死者の名誉を守ってくれた。私達は特攻に行くことでこの人を守れるならそれでいいと思った。
阿修羅
俺は宮部が大嫌いだ。虫唾が走るほど憎いと言った。
元やくざだった影浦さんは、妾の子で母親を早く亡くし、中学校卒業と同時に予科練に入った。身よりも無く友達といった意識を嫌う男で、宮部との反対の世界に居る人間のようだった。
日頃の態度が馬鹿丁寧で紳士的な男が、空戦の腕は凄腕でまったく歯が立たないそれが全く癪に障るのだったらしい。
宮部と話す事があり、俺は空戦を剣豪の戦いと思っていて秘術を尽くしての戦いの末に負けるなら本望だと言うと、宮部は自分は墜とされないように戦っている、武蔵も生涯に何度も逃げたし勝てない相手とは決して戦ってないと言った。その俺は武蔵の言葉の剣禅一如と書いたマフラーをしていて笑われたようで悔し涙を流した。
あるとき、空戦の帰路、宮部に模擬空戦を仕掛けた。全く歯が立たず宮部機に向けて無意識に発射レバーを引いていた。しかし、軽くかわされ、俺は恥じて自爆しようとしたが止められた。俺の命は奴に握られたと思った。
その宮部と20年8月に鹿児島の鹿屋で再会した。そのときの宮部は面相が全く違っていて頬はこけ無精髯が生え目だけが異様に光っていた。
翌朝、搭乗員割を見たら俺は直掩隊に宮部は特攻隊の中にあった。宮部は影浦が掩護してくれるなら安心だと言って零戦に乗った。しかし、俺の機は発動機が不調になり掩護の役目を果たす事ができず、許してくれと呟き、止めどころも無く出る涙で引き返した。
話し終わった影浦さんは、健太郎を抱きしめ、すまん許してくれと言った。
最期
通信兵だった鹿屋在住の大西さんを訪問した。
沖縄戦の頃の特攻による戦果確認は、特攻機自身によるモールス信号によっていた。ツーの連続が今から突入すると言う意味で、それが長く続いて消えたら見事に体当たりしたと判断していたが、その音の時間の長短に関わらず、その音を聞くと背筋が凍りつき、今でも同じような音を聞くと動悸が激しくなる。
20年5月のある日、宮部少尉は桜花を懸吊した神雷部隊6機を直掩の零戦6機で出撃し、宮部機だけが帰還した。そして私に、敵艦船のところまでに行けずその途中で神雷機全機が墜とされ直掩機の役目を果たせなかった。自分が墜とされても守ってやるべきだが皆殺しにした、俺は彼らが死ぬことで生き延びていると言った。私はそれを聞いたとき、宮部少尉の心がどれほどさいなまれているかを知り、直掩任務の度に命が削られていくかのではないかと思った。
8月、宮部少尉ににも特攻の出撃命令が出た。そのとき奇妙な事があった。宮部少尉は52型零戦に、ある一人の予備仕官は旧式の21型零戦に向った。しかし、宮部少尉は戻ってきて、21型に乗る予備士官に飛行機を交換してくれと三度ほど交渉して予備仕官はやむなく了承した。このとき飛び立った爆装零戦6機の内1機だけエンジントラブルで喜界島に不時着したが、その1機は宮部少尉が乗るはずだった零戦だったのです。
健太郎がその予備仕官の名前は分りますかと問うと、古いノートを出してきて大西さんが指差したところに大石賢一郎とあった。なんと、それは祖父だった。
流星
祖父は、遺書として知人に託していたがと言って、宮部の事を話し出した。
宮部と出会ったのは20年、筑波の航空隊だった。
私が教官の宮部から感じたのは特攻要員だった我々に飛行技術を教えることに矛盾と苦痛を感じていたことだ。
訓練中に亡くなった仲間の汚名を身体を張って雪いでくれた。皆がこの教官のためなら死んでもよいと思った。
その出来事は一ヵ月後に起こった。飛行訓練中に宮部機に突然敵機が襲ってきた。宮部も訓練生に気を取られていて敵機に気づかなかった。私は機銃弾を積んでない飛行機で宮部機と敵機の間に突っ込んだ。敵の機銃弾を受けて一時気を失ったが無事着陸した。しかし、着陸後に本当に気を失って入院した。
8月、特攻命令が下って大村基地から鹿屋に行った。そこで宮部と再会した。
特攻出撃のときに、宮部の申し出で押し問答のあげく乗る飛行機の零戦を交換した。
1時間ほどしたらエンジンが不調になり、機体を軽くしようと爆弾を切り離すために投下索を引いたが、なんと冷酷にも固定されていた。そのとき、大石少尉絶対に諦めるな何として生き残れと宮部の声が聞こえた。
私は喜界島へ着陸できて助かった。操縦席から降りようとしたときに一枚の紙を見つけた。それには、大石少尉がもし生き残ったらお願いがある、私の家族が路頭に迷っていたら助けて欲しいと書いてあった。宮部は最初にエンジンの不調を見抜いていて零戦を交換し私に生き残れるチャンスを譲ってくれたのだ。
24年の冬、4年かけて宮部未亡人の松乃に会うことができた。友達の役人に頼んでいたので、遺族年金の申請から大阪に住んでいることが分ったのだ。
私は数ヶ月に一度、出張といって何か月分かの給料の半分を持って東京から会いに行った。送金すれば済む事であったが、私は既に愛していたのだ。
松乃が、宮部が生まれ変わっても必ず君の元に戻ると言っていたことが、あなたを見たときに実現したように思ったと言われて、二人は互いに抱きしめて愛を誓ったのだ。
これから先のことは、清子には言わないつもりでいるのだがと言い、松乃は幼子の清子を抱えて戦後大変苦労し、一時、やくざの組長の囲い者になっていたことがあったが、驚く事が起こった。組長の別宅で組長と用心棒の若い者が何者かに襲われて殺された。そして、殺した男は財布を投げて逃げて生きろと言ったとのことだった。
健太郎は、根拠はないが、しかしあの男だと確信した。あの男も宮部の為に命を懸けたのだった。