T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「永遠のO」を読み終えて!

2010-06-30 20:55:51 | 読書

 毎日のように、死に直面している零戦パイロットが生きて妻子のところに帰るのだと言い続けたが、「多くの戦友の犠牲の上に、生き延びていることに心がさいなまれ、最後は生き残ることに耐えられない精神状態になり」(私の推測)、家族を戦友に託し特攻隊員として死んでいく、迫真のミステリー、最高のラブロマンスの久し振りに感激させられた物語。

 2009年の読んでみたい本の第1位に選ばれた百田尚樹の作家デビュー作品。

 以下、戦記部分は省略し、主人公宮部久蔵の信念、態度の変化を作品に沿って纏めてみた。

亡霊

 司法試験浪人の佐伯健太郎はフリーライターの姉・慶子から太平洋戦争で戦死した祖父の宮部久蔵の事を調べたいので手伝ってくれと言われた。

 6年前に祖母の松乃が他界したときに、突然、祖父から本当の祖父は宮部久蔵で、彼は終戦の数日前に特攻隊の一員として南西沖で散華したことを初めて明かされた。

 祖母は健太郎らの母親・清子を連れて祖父と再婚した。

 宮部が戦死したとき3歳であった母は、父の宮部に対する記憶が全く無く、最近になって、ふと、死んだ父はどんな人だったのかな、と呟くのを聞いて、慶子が健太郎に調査の誘いをかけた。

 宮部の軍歴を厚労省に問い合わせると、昭和9年、15歳で海兵団に入隊、途中から操縦練習生となって昭和16年空母に乗り真珠湾攻撃に参加し、その後、各基地に転任していることが分った。

 水交社の存在を知り、関係するだろう戦友会に問い合わせた結果、時期を違えて何通かの元生存戦友の所在の連絡があった。

臆病者

 元戦友の長谷川さんは、昭和17年秋のガダルカナルの激しい空戦で宮部とともに戦い、敵弾で左腕を失くした。

 彼の証言から浮かび上がった宮部の姿は、健太郎たちが予想もしなかったもので、戦闘機乗りとしての凄腕を持ちながら、同時に異常なまでに死を恐れ、生き残ることにのみ執着する零戦パイロットだった。

 宮部は殆ど使用しない落下傘の点検にも気を遣い、奴は海軍航空隊一の臆病者だった、宮部は何よりも命を惜しむ男で、戦場から逃げ回っていて、隊で誰知らぬ者はなかったと、卑怯者と言わんばかりの侮辱の言葉を吐いた。

 腕を失くしたことも他人のせいにして可哀そうな人だと健太郎は思った。

真珠湾

 健太郎は祖父に黙っているのも悪いと思い、宮部の事を調べていることを話した。

 久蔵じいさんは臆病者で、いつも戦場から逃げていた人だったらしい。自分にガッツがないのも久蔵じいさんの血が入っているせいかもと言うと、祖父に酷く叱られた。

 健太郎は、一人で四国の松山へ次の元戦友の伊藤さんを訪ねた。

 臆病者のパイロットだったと聞いていると切り出すと、臆病者ですか宮部がですかと疑問符を繰り返し、臆病者という言葉を否定しなかったが、確かに宮部は勇敢なパイロットではなかったと思う、しかし、優秀なパイロットだったと言った。

 そして、宮部は死にたくない、私には妻が居る、自分にとって命は何よりも大事だと言っていた。あの当時は生の中に死が半分混じりあった世界で生きていて、死を怖れる感覚で生きていけない非日常の世界に居たのに、宮部は死を怖れていた。彼は戦地の中にあって日常の世界を生きていたのだ。なぜそんな感覚を持つことが出来たのだろうかと言った。

 健太郎は、初めて聞く宮部の元戦友が語るパイロットとしての太平洋戦争の体験談は新しい驚きの連続であり、人間の勇気と決断力、それに冷静な判断力が生死を分ける戦いの中で、自分と同じ26歳で祖父宮部が優秀なパイロットと言われて生きたことを痛感させられた。

ラバウル・ガダルカナル

 都内の病院に入院中の井崎さんを訪ねた。出迎えの娘さんから、医者が長話を止めているのに、どうしても会うといって聞かなかったとのことを聞いた。

 ラバウルの南のラエ基地にいるときに、17年7月、宮部一飛曹は転任してきた。

 宮部一飛曹と初めて出撃したとき、その日は雲が多く、宮部機は常に機体の角度を変えたり背面飛行をしたりと、用心深さは度を越しているので、よほどの臆病者か恐ろしく慎重な性格かと思った。しかし、私が敵の奇襲に遇い、やられると思ったときに、いつの間にか宮部機が敵機の背後に廻って撃ち落してくれ一命を取り留めた。敵機より早く相手の行動を察知していたのです。

 宮部隊長の戦いぶりは、空戦域に長く留まらず乱戦になったらいち早く其処から避退し、戦域から逃れてきた敵機を狙うことだった。無理して敵機を墜とすよりも、墜とされないほうが大事、生き残っていれば、また、敵機を撃墜する機会があると言われた。

 とにかく生き延びろ、そのための行動をとれと言われた言葉が心の底にずしりと響いたと言う。

 宮部隊長は毎夜宿舎裏の人が居ないところで、戦闘機が宙返りしてGが非常に重くなった操縦桿を片手で操りながらの空戦のために、異常なほどの体の鍛錬をしていた。毎日の訓練は苦しくないかと問うと、苦痛だが我慢できなくなったときは見たことも無い娘に逢うためには何としても死ねないので家族の写真を見るのだと言っていた。

 井崎さんの話は続いた。

 攻撃機の直掩任務に際しては身を挺してでも守れと言われているにもかかわらず、宮部隊長は敵戦闘機を追い払うが、自機を挺して敵弾を受けてまでも守ることはしなかった。

 また、敵の搭乗員が落下傘で降下しているところを宮部機は銃撃し、編隊長から怒鳴られたが、飛行機は消耗品、本当の敵は一朝一夕で育成できない熟練搭乗員だと言った。私は戦争は所詮殺し合いだと初めて気がついた気持だった。

 燃料不足や機体不調で基地への帰還が無理と思ったら、敵艦船に向かって自爆せよと教えられていたが、宮部隊長は悲しむ家族が居るはずだ、生きる努力をしろと言っていた。

 その言葉が甦ったのは、空母の搭乗員のときに銃撃を受け海面に不時着したときだった。9時間かけてグアム島に泳ぎ着いたのです。

 話し終わって、私は癌で三月の命と言われている。この話をあなた達に語るために生かされてきたのですと言って、窓から空を見てお孫さんが見えたよ、見えますと呟いていた。

ヌード写真

 数日して、和歌山在住の元整備兵の永井さんに会いに出かけた。

 宮部は言葉も丁寧でまるで今時の品のいいサラリーマンみたいな感じで、とても戦闘機乗りには見えなく、空戦の話はせがんでもしてくれなかった。

 宮部は、出撃しても無傷で帰還する、いつも弾丸が残っている、整備兵にとって厭なことだが飛行機の整備についてやたらと口を出してくる、とくに発動機の不調音には敏感で、直ぐにどうだろうと整備を依頼してくると言った人だったので、臆病者と言われていたが、感謝の気持を伝えるのを忘れない人だった。

 宮部が一度だけ身の上話をしてくれた。父が相場に手を出して店を潰して首をくくり、半年後に母が病死して天涯孤独になり、海軍に志願したと言っていた。

 宮部が兵隊を殴ったことがあった。それは落下傘で落ちてきた敵兵のポケットからヌード写真が覗いていたので、皆が回し見をしていて宮部の手に渡った。宮部が裏を見ると敵兵の妻となっていたので、ワイフだと言って急いでポケットに入れてやった。それをまた取出そうとした兵隊が殴られた。

 そんな話の最後に、臆病者と罵られようとも家族の元に帰ると生きる道を選んだ人が何故特攻を志願したのか不思議だと言った。

狂気

 健太郎と慶子は岡山の元戦友の谷川さんに会いに行った。

 宮部とは12年、上海で一緒の航空隊に居た。その頃の宮部は非常に勇敢な恐れを知らない戦闘機乗りだった。

 19年の初め、比島沖の空母で再会した。その頃は彼我の戦力差は極端に拡がっていた。戦闘機の戦闘能力はもちろん搭乗員の命を大事にする機体整備には大きな差ができていて、高性能の電波探知機で日本の飛行機の行動は100哩も先から探知されていた。これら防御力の増強は戦闘員の命をなんとも思っていない日本に無い思想だと。そんな事を話し合った事を覚えている。

 その後、ニコルス基地で再度宮部と再会したときだったが、そこで特攻の志願募集があった。宮部は最後まで拒否した。飛行隊長が軍刀を抜いて志願しないのかと言っても頑として動じなかった。

 どんな過酷な戦闘でも生き残る確率が僅かでもあれば必死に戦えるが、初めから必ず死ぬと決まった作戦は、絶対に厭だと言っていた。それは人間の心の底にある真実の思いだった。そして、続けて、谷川、特攻を命じられたら何処でもいい、島に不時着しろと言った。軍法会議にかけられたら死刑に値する言葉だ。

桜花

 次に訪問した先は飛行予備学生の岡部さんでした。

 宮部教官が筑波航空隊に来たのは訓練も終わる20年初めだった。死線を越えたという凄みはあったが、戦場のことは聞いたことがなかった。

 言葉遣いの丁寧さとは別に非常に厳しい教官だった。訓練の個人成果は殆どの学生が最低の不可で、そのために実技の点数を付けるのは他の教官になったほどだった。宮部教官は、皆は搭乗員になるよりももっと優れた仕事をしてもらう人で、皆さんには死んで欲しくないので、厳しくしているのだと言われた。

 その後、私は、攻撃機に懸吊された人間操縦のロケット弾の桜花という特攻の搭乗員になり訓練を受けたが、訓練中に多くの人が事故で亡くなった。

 姉の慶子が、特攻要員としてどのようにして自分の死を納得させたのかと質問すると、家族を守るためです、国民の命を大事にする米国でも出撃する軍人の気持は、祖国の勝利を信じて家族を守るためだと同じ思いでしょう。しかし、米国の搭乗員は生きて帰る可能性があったが、特攻は十死零生の作戦です。全機特攻を唱えた宇垣長官は敵艦に爆弾が命中させた後もさらに飛行機を爆弾にして自爆しろと命じたほどです。納得さす死の重みが違いますと言われた。

カミカゼアタック

 白金のホテルであった武田さんも飛行予備学生だった。

 私は特攻要員でした。特攻要員と特攻隊員は全く違い、特攻隊員は死を宣告された者で、いずれその日まで続く責め苦は煉獄の苦しみであっただろうと思う。

 その特攻隊員の心も知らずに、全機特攻を唱えた宇垣長官が終戦を知ったときに自分の死に場所を求めて17名の部下を引き連れて特攻した、許せない事だと話された。

 宮部さんは多くの予備学生から慕われた素晴らしい教官だった。

 ある日、我々が急降下を上手くやったら、上手くなった者から死ぬために戦地にやられる。皆はただ死ぬために訓練させられている、それなら、ずっと下手なままがいい。皆は戦争が終わったら必ず必要になる人たちだからと言っていた。

 訓練中に事故死した戦友に、兵学校出の中尉が軍刀の石突を床にたたき精神が足りない、貴重な飛行機を潰すとは軍人の風上にも置けないと怒鳴った。宮部教官は、殴られながらも学生は立派な男だったと数回弁明して死者の名誉を守ってくれた。私達は特攻に行くことでこの人を守れるならそれでいいと思った。

阿修羅

 俺は宮部が大嫌いだ。虫唾が走るほど憎いと言った。

 元やくざだった影浦さんは、妾の子で母親を早く亡くし、中学校卒業と同時に予科練に入った。身よりも無く友達といった意識を嫌う男で、宮部との反対の世界に居る人間のようだった。

 日頃の態度が馬鹿丁寧で紳士的な男が、空戦の腕は凄腕でまったく歯が立たないそれが全く癪に障るのだったらしい。

 宮部と話す事があり、俺は空戦を剣豪の戦いと思っていて秘術を尽くしての戦いの末に負けるなら本望だと言うと、宮部は自分は墜とされないように戦っている、武蔵も生涯に何度も逃げたし勝てない相手とは決して戦ってないと言った。その俺は武蔵の言葉の剣禅一如と書いたマフラーをしていて笑われたようで悔し涙を流した。

 あるとき、空戦の帰路、宮部に模擬空戦を仕掛けた。全く歯が立たず宮部機に向けて無意識に発射レバーを引いていた。しかし、軽くかわされ、俺は恥じて自爆しようとしたが止められた。俺の命は奴に握られたと思った。

 その宮部と20年8月に鹿児島の鹿屋で再会した。そのときの宮部は面相が全く違っていて頬はこけ無精髯が生え目だけが異様に光っていた。

 翌朝、搭乗員割を見たら俺は直掩隊に宮部は特攻隊の中にあった。宮部は影浦が掩護してくれるなら安心だと言って零戦に乗った。しかし、俺の機は発動機が不調になり掩護の役目を果たす事ができず、許してくれと呟き、止めどころも無く出る涙で引き返した。

 話し終わった影浦さんは、健太郎を抱きしめ、すまん許してくれと言った。

最期

 通信兵だった鹿屋在住の大西さんを訪問した。

 沖縄戦の頃の特攻による戦果確認は、特攻機自身によるモールス信号によっていた。ツーの連続が今から突入すると言う意味で、それが長く続いて消えたら見事に体当たりしたと判断していたが、その音の時間の長短に関わらず、その音を聞くと背筋が凍りつき、今でも同じような音を聞くと動悸が激しくなる。

 20年5月のある日、宮部少尉は桜花を懸吊した神雷部隊6機を直掩の零戦6機で出撃し、宮部機だけが帰還した。そして私に、敵艦船のところまでに行けずその途中で神雷機全機が墜とされ直掩機の役目を果たせなかった。自分が墜とされても守ってやるべきだが皆殺しにした、俺は彼らが死ぬことで生き延びていると言った。私はそれを聞いたとき、宮部少尉の心がどれほどさいなまれているかを知り、直掩任務の度に命が削られていくかのではないかと思った。

 8月、宮部少尉ににも特攻の出撃命令が出た。そのとき奇妙な事があった。宮部少尉は52型零戦に、ある一人の予備仕官は旧式の21型零戦に向った。しかし、宮部少尉は戻ってきて、21型に乗る予備士官に飛行機を交換してくれと三度ほど交渉して予備仕官はやむなく了承した。このとき飛び立った爆装零戦6機の内1機だけエンジントラブルで喜界島に不時着したが、その1機は宮部少尉が乗るはずだった零戦だったのです。

 健太郎がその予備仕官の名前は分りますかと問うと、古いノートを出してきて大西さんが指差したところに大石賢一郎とあった。なんと、それは祖父だった。

流星

 祖父は、遺書として知人に託していたがと言って、宮部の事を話し出した。

 宮部と出会ったのは20年、筑波の航空隊だった。

 私が教官の宮部から感じたのは特攻要員だった我々に飛行技術を教えることに矛盾と苦痛を感じていたことだ。

 訓練中に亡くなった仲間の汚名を身体を張って雪いでくれた。皆がこの教官のためなら死んでもよいと思った。

 その出来事は一ヵ月後に起こった。飛行訓練中に宮部機に突然敵機が襲ってきた。宮部も訓練生に気を取られていて敵機に気づかなかった。私は機銃弾を積んでない飛行機で宮部機と敵機の間に突っ込んだ。敵の機銃弾を受けて一時気を失ったが無事着陸した。しかし、着陸後に本当に気を失って入院した。

 8月、特攻命令が下って大村基地から鹿屋に行った。そこで宮部と再会した。

 特攻出撃のときに、宮部の申し出で押し問答のあげく乗る飛行機の零戦を交換した。

 1時間ほどしたらエンジンが不調になり、機体を軽くしようと爆弾を切り離すために投下索を引いたが、なんと冷酷にも固定されていた。そのとき、大石少尉絶対に諦めるな何として生き残れと宮部の声が聞こえた。

 私は喜界島へ着陸できて助かった。操縦席から降りようとしたときに一枚の紙を見つけた。それには、大石少尉がもし生き残ったらお願いがある、私の家族が路頭に迷っていたら助けて欲しいと書いてあった。宮部は最初にエンジンの不調を見抜いていて零戦を交換し私に生き残れるチャンスを譲ってくれたのだ。

 24年の冬、4年かけて宮部未亡人の松乃に会うことができた。友達の役人に頼んでいたので、遺族年金の申請から大阪に住んでいることが分ったのだ。

 私は数ヶ月に一度、出張といって何か月分かの給料の半分を持って東京から会いに行った。送金すれば済む事であったが、私は既に愛していたのだ。

 松乃が、宮部が生まれ変わっても必ず君の元に戻ると言っていたことが、あなたを見たときに実現したように思ったと言われて、二人は互いに抱きしめて愛を誓ったのだ。

 これから先のことは、清子には言わないつもりでいるのだがと言い、松乃は幼子の清子を抱えて戦後大変苦労し、一時、やくざの組長の囲い者になっていたことがあったが、驚く事が起こった。組長の別宅で組長と用心棒の若い者が何者かに襲われて殺された。そして、殺した男は財布を投げて逃げて生きろと言ったとのことだった。

 健太郎は、根拠はないが、しかしあの男だと確信した。あの男も宮部の為に命を懸けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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梅雨真っ盛り!

2010-06-20 13:42:04 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                                              

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 梅雨入りはホンマモノだった。予報が当たった。

 毎日、読書とパソコンいじり、退屈はしないが体重を減らそうと散歩を継続する予定だったが、それができず内心はホットしているところだ。

 今年の紫陽花は少し咲くのが遅く小さいようだが、雨が似合う花は他にあるだろうか。といって車で30分ほどのところの紫陽花祭りに行くのも、シリが重いのも年かな。

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読みたかった本!

2010-06-17 14:54:44 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                                       

Book03

                                                                                                                         

 この本の作家は54歳の放送作家だが、この本で昨年作家デビューした人だ。

 講談社文庫からの出版で、俳優の児玉清氏が解説している。しかも、あるテレビの「いま本ベストテン」?で2位にランクされていた。

 内容は、ゼロ戦の特攻隊に参加した人の人間の絆の物語。

 若くして戦死した父の記憶も鮮明だし、その父からの軍事郵便の手紙も残っており、同時代を小学生高学年、中学生として生きた私としては、ぜひ読んでみたい本だった。

 今「親鸞」上巻を読んでいるので、少しでも早く読み終えたいと思っている。

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「天地明察」を読み終えて!

2010-06-15 17:44:53 | 読書

2010年度本屋大賞第1位になった歴史小説。

 江戸、四代将軍家綱の時代。幕閣内に日本独自の太陰暦を作り上げる高大な構想がもちあがり、そのプロジェクトが動き出した。

 天と地を強靭な絆で結ぶこの計画は、文治国家として日本が変革を遂げた象徴でもある。

 実行者として選ばれたのは渋川春海。碁打ち衆の名門に生まれながら、安穏の日々に倦み、和算に生き甲斐を見出すこの青年に、老中・酒井雅楽頭が目をつけた。

 その春海が、天文、暦学などを学び、北極出地などの天測を経験し、生涯かけて太陰暦の基本となる日本独自の暦、貞享暦を作り上げるまでの物語。

 物語には専門的なことが多く叙述されているので、すべてを理解することはできなかったが、定石を駆使し布石のときから将来を見据えて勝負する囲碁の中に、春海の改暦までの生涯の過程を見たような気がした。

 以下のあらすじでは、改暦に直接関連するものに留めて纏めてみた。

一瞥即解

 春海は、金王八幡宮の算額(算術を記した絵馬)に江戸で名高い磯村塾の村瀬某が出題していたので、座り込んで解いていたところ、掃除に邪魔だと将来春海の後妻になるおえんに叱られた。その場を立ち去った春海が忘れた刀を取りに戻った短時間の間に、算術家・関孝和(日本史上の和算の開祖)がその他の出題算額にも回答されていた。おえんの話では、一瞥即解の状態だったとのことだ。

 春海は、将軍の前でお城碁を打つ碁打ち衆四家の一つの安井家に生まれ、本名は安井算哲といい、公務以外では昔の家名の渋川春海と名乗っていて、秋から冬の終わりまで京から江戸に来て、安井家当主の兄の算知の主人である会津藩主保科正之の関係から会津藩邸に住んで、大名相手に指導碁を打っていた。

 春海は算術と暦術に飽きない興味を持っていて、春海という名も伊勢物語の歌から自分が名づけたもので、碁以外に発揮を求める強烈な自己獲得への意志だった。

 春海は老中の酒井雅楽頭から呼び出されて、塵劫、堅亥の算術書のことを尋ねられた。また、お勤めで打つお城碁は好みかとの問いに、退屈だと答え、酒井雅楽頭が何を意図しているか不明だが、退屈ではない勝負が望みかと問われ、はいと即答した。

算法勝負

 明暦の大火の復興後は、江戸城の天守閣をなくし江戸の水道工事を完成させて八百八町の原型ができ新しい時代になった。春海も己個人の勝負を欲して焦がれるものを探していた。

 暦術は学問よりも宗教の領域にあり、藩邸に作った日時計も神意を伺うためとして許されていて、春海が登城した日は会津藩屈指の算術家・安藤有益が日時計の影の長さを記録してくれていた。

 春海は金王八幡宮の算額を見て関孝和に会いたいと思い、多忙の中、数箇所を巡って麻布の磯村塾で村瀬義益とおえんに会った。そこで村瀬義益から関孝和の稿本を借りた。それを見て生まれて初めての歓びと感動を感じ、自分が欲して焦がれていたものが算学であることに気づいた。

 春海が測量実地と暦術にも長けていることから、酒井雅楽頭から日本全国の北極出地(土地の緯度はその土地から見える北極星の高さに等しい→緯度とその計測をいう)を命ぜられる。

 出立を前にして、関孝和との対抗意識から、関への設問を磯村塾に張り出してもらったが、回答不能の誤問だと指摘され、春海は腹を切ろうとするほど恥じ入り、一年後にもう一度掲示させてもらい勝負したいという。

北極出地

 春海は隊長の補佐役として東海道を下がる。

 天体観測ゆえに、昼間歩行して夜に本格的な作業をおこなうという非常な労働にも、建部、伊藤の二人の年配隊長の探究心を失わない行動は、春海の心を刺激し昂揚を感じていた。

 伊勢神宮で観測隊の面々が伊勢暦を購入した。

 京では暦の権威の筆頭の京暦、江戸では三島暦が使われていて、大小月の割振りで時期によっては朔日だったり晦日だったりしており、権威の所在ごとに暦があることを再確認している時に、予期せぬ月蝕が起こり、800年使われている日本全土の暦を司る暦法の宣明暦と2日の差の違いが判った。

 隊長は、今までに改暦の試みがなされたが、朝廷の官吏に拒否されたらしいし、本格的な学問的研究がなされなかった為だという。

 建部は星の存在を球儀で表現した渾天儀を、伊藤は中国の点星思想の分野を勉強したいという少年のような好奇心を抱き続け挑む姿勢に感銘を受ける。

 北極出地の観測は、九州を廻り奥州津軽の測量を最後に終わったが、帰路の途中、中途で病で隊を降りた建部の死去通知を受けた。

 北陸では、加賀藩主前田綱紀が春海のことを岳父保科正之から聞いていると言われ、測量も上手くいったし、将来、改暦の作業に際して前田綱紀から大きな支援を受けることにもなった。

 旅の中で培った術理で策定した設問を春海は1年4ヵ月ぶりに磯村塾に掲示させてもらい、数日後、関孝和が答を書き入れてくれていた。そして村瀬義益に促されて感慨深く明察と書き入れた。

 4ヵ月遅れて春海は望みを達成したが、おえんは結婚していた。

授時暦

 酒井雅楽頭が大老に就任。春海が28歳のとき、京の実家で19歳のおことと結婚した。

そんな中、会津藩主保科正之の依頼で水戸光圀が春海の面接評価をし、翌日、酒井雅楽頭から会津に赴いて藩主に会えとの命を受ける。

 保科正之は民の生活向上を政治の目標にした名君で、その名君から宣明暦と授時暦の違いを求められ、宣明暦は1年の長さが365.2446日とされ、日本で800年前から使われていて今は観測との差が2日あり、授時暦は元の国が金の国で使っていた大明暦を修正したもので、1年の長さが365.2425日とされていて中国暦法の最高傑作だと答える。

 春海は保科正之から授時暦を元にした改暦を命ぜられ、配下に神道家の山崎闇斎、会津藩士で算術家の安藤、島田の年配者と若い藩士がつけられた。

 春海たち四人は研究の指標を定めた。授時暦を完全に習得する事、精妙な天測をする事、正統な文芸書の暦註を検証する事、改暦による宗教、政治、文化、経済等の世の影響を考察する事である。

 保科正之は、帝と徳川家は両立しない、故に帝から改暦の勅命を受けて幕府が謹んで承ることが基本になり、幕府が朱印状を下して販売を許可するということになるといい、春海をリーダにしたのも京の事情に詳しいからだという。

 予定の研究等を仕上げた後、朝廷に上奏したが、武家伝奏を介して授時暦は不吉であるとの返答があった。元寇をもたらした国の暦であるからとのことであった。

 宣明暦は、いずれ早い時期に蝕の予報を外すだろうし、日と月を万人から覆い隠せるものではないので、好機到来を見据えた上で、改暦事業を継続することを、全員が保科正之の前で誓った。

 春海の妻おことと北極出地を共にした伊藤が亡くなった。

改暦請願

 春海は、保科正之の許しを得て万人の目前で蝕の予報を宣明暦と授時暦で勝負することにした。

 寛文12年12月某日、宣明暦は月蝕ありとなっていたが全く無かった。その三日後に保科正之は春海に改暦を主導実現せよと言い残して世を去った。

 春海は、寛文13年夏、臣算哲言と個人の資格で朝廷に欽請改暦表という文書とともに、今後3年間の宣明暦が予報している6回の日蝕、月蝕と授時暦と大統暦(明国の暦)の同時期における蝕の予報の比較をした書類を添付して上表した。

 5回までは授時暦の予報が当たり、改暦の勅命へと動き出したが、最後の6回目になって宣明暦予報が当たったのだ。

 春海は亡骸のような日々が続いていった。そんなある日、おえんが屋敷に来て、関孝和から春海を名指しての出題が塾に張り出されていると言った。

天地明察

 出題は蝕に関するものだった。関孝和も授時暦を研究していたのだ。関孝和の屋敷で、授時暦の誤謬を見抜けなかったのか世の中の算術家に何と誤るのかと叱責された。そして、関孝和は数理と天測の間のどこかに誤りがあるはずだという。

 おえんに求縁し、1年余の後に祝宴を挙げる。春海は10年後に改暦の事業を成し遂げることをおえんに誓って協力を求める。

 春海は初心に帰って、伊藤が言っていた日本の分野作りからやり始め、天文分野之図として完成した。また、山崎闇斎が提言した暦註の検証を日本長暦と言う書に纏めた。

 春海は誤謬を発見した。一つは授時暦が作られた中国の緯度と日本の緯度に差があること。もう一つは太陽を廻る地球の軌道は円ではなく楕円でしかも軌道は一定してなく、その軌道の位置により地球の速度が異なることであった。

 宣明暦が蝕の予報を多く外したことを契機に、改暦の準備の勅命が陰陽頭の土御門家に出された。

 土御門家から春海に改暦に力を貸してくれとの要請があり、春海は弟子入りをして協力することにした。

 しかし、朝廷内では公家の三派分裂が起こっていた。春海の暦を押す派と明の官暦の大統暦を推す派、授時暦を推す派である。それぞれが上奏した結果、大統暦の採用が下された。

 春海はそれを予想していたように、すぐに土御門家の当主に再上奏の準備をするようにいった。

 世論形成のために、春海が事前に用意していた手紙を全国の暦関係者に発送し、公開討論の場として人通りが多い梅小路に大掛かりな天測器具を組み立てて実測を始めた。また、朱印状の発送準備を幕府に連絡し、加賀前田公を通じての関白への根回しなど次々の布石をしていった。全てが終わった頃合を見て、大和暦と命名して四度目の改暦請願をした。

 大統暦改暦の詔が発布されて7ヵ月後に、大和暦は年号を冠して貞享暦との勅命を賜り、翌年から施行されることに決定した。春海が22歳のとき北極出地を命ぜられて23年後であった。

 春海は、その後、初代の幕府天文方に任じられ、それから30年後、77歳で妻おえんと同日に亡くなった。

 

 

 

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本物との出会い!

2010-06-14 11:50:50 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                                        

Book202

                                                                                                                                 

  昨日、昨年より4日遅く梅雨入りした。北陸あたりまでの一斉の梅雨入りとのこと。三段跳びのような梅雨入りは、例年にないような気がする。

 梅雨入りの最近の予報は確定通知でなく、梅雨入りしたようだとの不確定の予報なので、後日、修正予報がでるかもわからない。昨日だけ半日雨で、今日からは雨の日がなさそうなので、本当の梅雨入りはもっと遅れるかもしれない。

                                                

 昨日、新聞の論点という欄に、「本物との出会いは人生の糧」という題で、藤田まことの必殺シリーズやはぐれ刑事の役と写真の本を例にして、人生で人にせよ作品にせよ本物との出会いはうれしいし、糧になり励ましになると書かれていた。

 先日、「親鸞」を買ったこともあって、そんなことから、つい、また買ってしまった。

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