『第三話「恋人」』
※薄黄色の蛍光ペンのところは、心理や情景等の描写で感動させられた文章。
※薄青色の蛍光ペンのところは、私が補筆したところ。
※下線を付けたところは、ポイントになる文章。
「第三話の登場人物」
倉田克樹→ 主人公。
2年半前、病気で余命半年と診断され、その通りに亡くなった男。
森 麻美→ 克樹の恋人で会社の同僚。清川二美子の後輩。
賀多田五郎→二美子の恋人で、数年後に彼女と結婚する。
「本作の文章を抜粋しての粗筋」
そのⅠー[恋人の麻美に会うため、未来の例の喫茶店にやってきた主人公・倉田]―
例の席に、過去から(2年後の未来に、)やってきたという男が座っている。
この喫茶店では、過去に戻るだけでなく、未来に行くこともできる。
しかし、未来に行くものは殆どいない。なぜなら、向かった未来での会いたい人のルーチンな行動が不明で、都合よく、この喫茶店に来ているかどうか分からないからだ。
それでも、過去からやってきた男がいた。男は倉田克樹と名乗った。半袖のTシャツにハーフパンツ、ピーチサンダルという真夏の装いである。
しかし、店内には天井に向かって聳え立つ大きなクリスマスツリーが飾られていた。
今日は12月25日、クリスマスである。
「その恰好、寒くないですか」
カウンターでミキの隣に座っている木嶋京子が倉田に声をかけた。
「何か、羽織るものを貸しましょうか」と、流がキッチンから顔を出した。
倉田はすぐに小さく手を振って、「お冷を一杯いただけますか」と数に声をかけた。
―中略―
「お父さんの足がいい匂いになりますように」
ミキが自分が書いた短冊を元気よく読み上げると、京子は「ぶっ」と声を上げて噴き出した。
ミキは字の練習のために、クリスマスツリーに願い事を書いた短冊を括り付けているのだ。まるで、クリスマスと七夕が一緒に来たようなものである。
「馬鹿なこと書いてんじゃねーよ」と言って、流がケーキの箱を持ってキッチンから現れ、京子に渡した。京子に頼まれていたクリスマスケーキで、流の手作りである。
「これは絹代さんに……」と言って、持ち帰り用にコーヒーをひとつ添えた。
「本当に、ありがとう」と言って、京子は喫茶店を後にした。
カランコロン。
「書けた?」と言って、ミキは倉田の前のテーブルの上を覗いた。
倉田の手元には、ミキの使っているものと同じ短冊とペンが置かれている。これは、ミキが倉田にもお願い事を書かせようと渡したものだった。
「あ、ごめん、まだ、ちょっと……」と言って、倉田は、天井を見つめ少し考えて、ペンを走らせた。
―中略―
「二美子さんにもう一度連絡してみましょうか ?」
流が、キッチンから顔を出して倉田に話しかけた。
数分前にも、二美子の携帯に連絡しているのだが、二美子は出なかったのだ。
二美子は、旧姓が清川といい、7年前に、この喫茶店で過去に戻って恋人に会った客で、今はその恋人の賀多田五郎と結婚し、今でもちょくちょくこの喫茶店に出入りしている常連客である。
倉田は、「お気遣いありがとうございます」とだけ言って頭を下げた。
「二美子お姉ちゃんのこと、待ってるの?」と言って、ミキが倉田の顔を覗き込んだ。
「あ、いや、清川先輩ではなく……」と濁した倉田の言葉を聞いて、流が、
「二美子さんは、昨年、賀多田五郎さんと結婚されて、姓も変わられました。二美子さんとばかり思ってましたが、一体誰をお待ちなんですか?」と尋ねる。
「先輩、結婚できたんですね。本当によかった」と、驚いた倉田は、
「待っているのは同僚の、森麻美という女です。清川先輩には、彼女をここに連れてきてもらうようお願いしていました」と戸惑いながら答えた。
倉田が、過去から会いに来たのは、森麻美という二美子の後輩で、倉田とは同期入社である。
その同僚の麻美に、どんな理由があって、過去から会いに来たのか分からない。流も、それ以上は聞くつもりはないのだろう。
「なるほど……。早く来てくれるといいですね」と呟いた。
すると、倉田は、少し微笑んで、
「来なければ来ないで、それはそれでいいんです」と返した。
「どういうことです?」と、流が聞くと、
「結婚の約束はしていたのですが、おそらく叶えてあげられないと思うので……」と、気まずそうに俯いた。
(別れた彼女のことが心配で会いに来たのか)と、流も、倉田の沈んだ表情を見て、なんとなく事情を察したのだろう、「そうですか」と言ったまま、それ以上何も言わなかった。
るるるる、るるるる……。
奥の部屋で電話が鳴ったので、流が奥へと姿を消した。
倉田と麻美は同期メンバーでよく飲みに行った。そういう飲み会では、仕事上の愚痴などが多くなりがちだが、倉田は、一度も会社や上司を悪く言うことはなかった。
麻美はそんな倉田を「超ポジティブな人」と評価はしていたが、入社当時は付き合っている彼氏もいたので、倉田を男性として意識することはなかった。
そんな倉田と麻美の距離が縮まったのは、麻美が別れた彼氏との間にできた子を流産したことを話したのがきっかけだった。
もちろん、妊娠が分かったのは別れた後であったし、別れたショックから流産してしまったというのでもない。麻美は、もともと流産しやすい体質だった。
しかし、どんな事情であれ、妊娠を知った麻美はひとりでも産んで育てるつもりだった。だから、検査の結果、自分の体質が原因で流産してしまったことを知った麻美のショックは大きかった。赤ちゃんを殺したのは自分だと思いつめていた。
麻美はこのままではいけないと、職場以外の女友達や家族などにも相談したが、心が晴れるような言葉をくれる人はいなかった。
そんなとき、「何か悩んでいる?」と声をかけてくれたのが倉田だった。
麻美は、倉田は男だからとは思ったが、誰でもいいから聞いてほしいという気持ちもあり、思いの丈を正直に話した。
倉田は、赤ちゃんがお腹の中にいたのは何日間だったのかと尋ねた。麻美が10週だと答えると、
「じゃ、その70日間、お腹の子は一体何をするためにこの世に命を授かったんだろうね?」と問いかけた。
これには麻美も怒りを覚え、「私が悪いっていうの?」と反論した。
麻美は、子供を産んであげられなかったのは自分のせいだと思っている。
「お腹の子は何もできなかったわ。生まれてくることさえできなかった、私のせいで。私はこの子に70日の命しかあげることができなかったのよ。たった70日しか……」
倉田は落ち着いた表情で、取り乱した麻美が泣き止むのを待って、こう言った。
「その子はね、70日という命を使って、麻美ちゃんを幸せにしようとしたんだよ」
それは優しく、迷いのない、革新のある言葉だった。
「もし、このまま、君が不幸になったら、その子は70日という命を使って君を不幸にしたことになる」
倉田の言葉は同情などではなかった。
「でも、君がこれから幸せになれば、、その子は君を幸せにするために 70日という命を使ったことになるんだ。そのとき、その命に意味が生まれる。その子が授かった意味を作るのは君なんだよ。だから、君は絶対に幸せにならないといけないんだ。それを一番望んでいるのは、その子なんだよ……」
(私が幸せになることで、この子の命の意味を作ることができる)
それは明確な答えだった。
麻美にとって、倉田がただの「超ポジティブな人」ではなくなった瞬間であった。
電話をとって、奥の部屋から戻ってきた流は、
「倉田……さん? 二美子さんからです」と言って、倉田に電話の子機を差し出した。
倉田は、礼を言って電話を受け取った。
「あ、はい、そうですか……なるほど、いえ、とんでもない……ありがとうございました」
電話の内容は分からないが、倉田が落ち込んでいる様子はない。
倉田は流に子機を返し、「帰ります」と囁いた。笑顔ではあったが、消え入るような声だった。やはり、未来まで来たのに、麻美に会えなかったのは残念だったに違いない。
「これ、飾っといてもらえるかな」と、さっき願い事を書いた、短冊をミキに差し出した。
倉田は、「お世話になりました」と言って数に頭を下げると、目の前のカップを手に取った。
そのⅡ―[倉田の依頼で、二美子は倉田が来ている喫茶店に麻美を誘う]―に続く