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T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

潜水艦!

2010-07-24 11:45:32 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                                     

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 当港に潜水艦が寄港するのは10数年ぶりとかで、朝9時頃に見に行った。

 想像していたより少し小さい潜水艦だったが、水面下の部分が2/3以上もありそうで実際は凄く大きいのかもしれない。

 私が中学生の学徒動員で佐世保海軍工廠に行っていたときに、工廠内に潜水艦の中に入る二人乗りの潜水艦が飾られていたことを思い出した。(真珠湾攻撃で使用したものと同型と聞いたことを記憶している。)

 当時、工廠で鍵盤を使って何かの部品を作っていたと記憶しているが、トンネルのような防空壕の中に記号ばかりの図面のコピーを貰ってきて、それに基づいて鉄を削っていたが、中学生の子供が作ったものが役立っていたのかな?

 昨日は「大暑」でその通りの気候の猛暑だったが、今日も連続しての気候のようだ。

 東京在住の高校1年生の孫は今日カナダに向けてホームステイで出発するとのことだ。60数年前のこととはいえ本当に羨ましいことだ。

 同年輩の生徒とはいえ、英語は駄目、教練、柔剣道は必須教科、砲台作りの作業奉仕と雲泥の差だ。平和はありがたいものだ。今の子供はそれが判っているのだろうか。

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父からの軍事郵便!!

2010-07-23 17:41:26 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                                             

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 来月15日、もうすぐ65回目の終戦記念日が来る。

 父は終戦の年の7月8日、南朝鮮沿岸の麗水と済州島の間の海上で乗船していた第85号駆潜特務艇が米国潜水艦の雷撃にあい沈没、戦死した。

 インターネットで調べると日本海軍作戦年誌に日付が明確に記載されていた。

 今年は終戦65年目でもあったので、亡母が残してくれていた、父からの母や私達子供宛の軍事郵便を日付順に整理した。

 第85号駆潜特務艇は昭和19年3月23日、舞鶴海軍工廠で竣工した木造の小艦艇で当時日本沿岸の磁気機雷の掃海に従事していたようで、現在の掃海艇と同じもののようだ。

 父が艇長として第85号艇を舞鶴に受け取りに行った時から、沈没するまでに郵送され自宅に到着した(終戦直前のことだから日本近海の制空権・制海権ともに米国にとられているので郵便物を乗せた軍用船も多く沈没した事だろう)父からの軍事郵便を日付順に整理してみたら51通あった。

 昭和19年3月2日から昭和20年6月10日までの約430日間に51通だから8日に1回、1週間に1回のペースであったかも分らない。

 父からの軍事郵便は昭和15年頃の分から残っているが、当初のものは当時の支那の厦門(アモイ)か海南島か場所は不明だが、陸戦隊(海兵隊のようなもの)の戦車隊で出征していたことだったと覚えている。

 昭和17・18年は日本沿岸の軍用輸送船(第6朝洋丸)に乗船していたようだが、その当時の軍事郵便はそんなに多く残っていない。

 郵便の内容で特異なものは、昭和20年初めまで佐世保にいたので、故郷の知人が徴兵で海軍に入った老兵の外出先(時には家族との面会先)に我が家を利用していたようで、そのことが度々書かれていた。もちろん私は中学1年頃だったのであまり記憶にない。

 昭和19年末頃から、父の耳にも内地の実情は分かったていただろうから、文面に少し書かれてはいるが、俸給の着否、家族の故郷への疎開、私の中学転校、幼年学校の合格可否と色々心配があって通数も多くなっていったのだろう

 男の子4人を長い間一人で育てていた母親も大変だったろうが、父親の心配も大きかっただろうと思う。

 

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「親鸞・下」を読み終えて!

2010-07-18 08:35:17 | 読書

吉水の草庵にて

 その日から範宴は乞食の坊主になった。

 六角堂の百日参籠はあと僅かで終わるので、六角堂を出ずに心魂こめて太子を祈念する。

 95日目の深夜、絹擦れの音がして紫野が現われ、労咳のため越後の実家に帰るので今夜が最後になるかもしれない、夜明けまで一緒に祈念しようと言う。

 紫野が突然身を震わせて床に伏せたかと思うと、範宴の前で急に立ち上がり背後から光が照らされ、六角堂の本尊の救世観音菩薩が現われたようで範宴は床にひれ伏し、その耳に太子の「ぎょうじゃしゅくほう、せつにょほん、……」との声が聞こえた。

 意識を取り戻した範宴に、紫野は吉水へおいでなさいませという言葉を残して本堂を出て行った。それは太子の声でもあったように思えた。範宴は示現(仏を見る)を受けたように思えた。

 弁才に太子の声の言葉を話すと、それは「行者宿報、設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽」で「たとえそなたが戒を離れて俗世間に生きようとも、自分が寄り添ってともに生き、そなたの仏心を守ってやろうぞ。だから思うままに生きるがよい」ということだと言われ、法然房の吉水に行くことを告げた。

選択ということ・法然上人の目

 範宴は法然に引き寄せられていく自分の気持を何度となく確かめ分析しようとした。だが、結局そこに法然という人がいるからだと説明のつかない結論に達するだけだった。

 法然は万巻の経典の中から1行の言葉にふれて阿弥陀仏という仏と出会って帰依したという。法然はこれを選択という言葉で語っていた。

 法然のいう選択は、救われたい願いと救いたい願いが触れ合って火花が散り、そこに生まれた光が闇を照らし、両者が信じるからその光が生まれるのだ。この選択を得て法然の人格が生まれ、微塵も揺るがぬ姿があるのだろうと感じた。

 範宴は紫野の妹の鹿野に会い、紫野は髪を切って恵信と名前を変えて念仏のみを唱えているばかりの日を送っている、都に行って範宴の面倒を見てくれと言われたという。範宴は、昔、紫野が居て今は鹿野が差配している三善家に泊まることにした。

 範宴は法然に面会を求めた。音覚法印の弟子だった安楽房遵西が案内してくれた。

 範宴が慈円に命じられて法然の法話を聞きにやってきたことを法然は知っていた。

 法然から百日の法話を聞いてどう思ったか訊ねられ、範宴は、危ない教えだし決して安全なものではない、古い世界、体制と摩擦を起こすものであると答える。何もかも捨て去って後に残るただ一つのものが念仏であると説かれているが、その道をとった人は他に誰もいないので危ないと言ったという。

 一念義や造悪説についてどう思うかと問われ、人の気持にあり説を立てて正邪を争うものでないと答えた。ただ一度の念仏で良いと言っている私自身は1日何万回も念仏を行っているがどう思うかと言われ、範宴は、それは法然上人の心に大きな迷いがあるからだと言う。

 そなたを法然の仲間として吉水に迎えようと言われ、範宴は初めて本当の師にめぐり合ったと思った。

春の夜の誘惑・犬麻呂と綽空

 恵信から元気になったとの手紙が来ていたが、鹿野は範宴には見せる気がしなかった。

 その夜、名前を綽空と変えたと話す範宴に鹿野が身体を寄せたが、範宴は姉の紫野のことを想い続けていると言うと、鹿野は姉は亡くなったと嘘をつき部屋を出た。その足で遵西を訪ね、身体をゆだね鹿野は我を忘れた。

 犬丸は葛山犬麻呂と名前を変えていた。綽空は犬麻呂に知人を頼って西国へ行くと紙片を残して立った鹿野の探索を頼む。サヨは、女の目から見れば綽空は鹿野のこころを弄んだと叱ってくれた。

迫り来る嵐の予感・異端の渦の中で

 法然が今宵は皆と語り合いたいと言う。念仏者が妻を持つのは如何だろうかという問いに、法然自身は戒律を守ってのことではなく、念仏に生きるために、そのほうが都合がよかったからだ、肝心なのは人それぞれだと言う。

 次に頭巾被りの女が質問した。綽空はその声に衝撃を覚えた。

 女は女の姿のままで往生できぬのでしょうかという問いに、法然は綽空にその答を求めた。綽空は、女のままで往生し仏になると仏の前にはすべて平等であると法然上人は教えられていると言う。法然は補足して母上は母のまま浄土に往生されたと思うている、男に変わった母になど会いたくない。お山ではいまだに女人を汚れ多しとする知者の聖行だが、我等は愚者の一念じゃと言う。

 綽空は恵信に伴われて三善家の宿坊に泊まった。そして、恵信に私と一緒に生きてくださいと願うと、恵信も綽空を観世音菩薩と思って生きていてよかったと言う。最後は俗な言葉であなたが欲しい、わたしもですと、綽空の腕の中で静かに恵信の体がほどけていった。

 恵信と結ばれたことを法然上人に伝えたくて、綽空は吉水の道を急いでいた。

 遵西に会い、遵西が我々は一念義を説いているが、法然上人のやり方はなまぬるい、上人の志を1日も早く実現したいのだ。吾らの仲間に入らないか、それとも今でもお山の密偵と言われているが、そのために仲間に入れないのかと詰め寄られる。綽空は法然上人の歩かれる道を付いて行くだけで、仲間に加わる気はないと断る。

餌取小路の夜

 餌取りとは鷹の餌として牛馬の肉を納入する業者で、ツブテの弥七は法皇が亡くなってから餌取小路一帯の顔役を務めていた。

 小路のある店内に三人の怪しい覆面の男達が入っていった。遵西とお山の堂衆だった行空を黒面法師が呼んだのだ。

 遵西は、この国を念仏一色で埋め尽くすのが我等仲間の夢だ。法然のように世間の顔色を伺いながらでは何もできない。阿弥陀仏という仏は悪人を救うことを誓わせた仏だからだと説いて大衆に悪を勧めている。それによって法然の吉水に大きな迫害が及べば悪の念仏者が一層世間を騒がしくするだろうと言う。

 黒面法師が、平家全盛の頃のように再び世に出て大暴れするのが我等の夢だ。天下大乱を願うことにおいて念仏聖と目的が一致するので、手を組みたいと言う。

 そして、遵西に法然の選択本願念仏集を盗み出し、隠している部分を万人の目にさらそうではないか、我等は京や奈良などのお寺に火をつけて、悪を怖れぬ念仏者の仕業だと噂を流すと約束して三人は別れた。

 弥七はこのことを犬麻呂に告げて六波羅童の残党の巣を突き止めることを決めた。

七か条の起請文・恵信の選択

 多くの門弟の前で、法然が念仏者に七つの行為を禁ずる起請文を延暦寺に送ったといって、その起請文を高弟の信空に読み上げさせた。

 綽空は法然上人に呼ばれて部屋に行く。選択本願念仏集を前にして、そなたを信じる、これを預けるから目を通すことも書き写すこともならぬ、これを預けることは私の命を預けることに等しいのだと言われる。

 吉水の坂を下りていたら、遵西が選択集の保管を命じられたのだろう、此方に渡せ、そうすれば、いま、黒面法師が遊女として人手に渡そうとしている鹿野を一緒に返してやると言う。

 恵信は綽空から遵西の話を聞き、三善家の昔の朋輩から聞いた遵西の居所を尋ねて、自分が身代わりになるから鹿野を返してくれと頼む。行空が鹿野を連れてくるが、鹿野は酒に酔い誰だと言う。

 綽空は選択集を犬麻呂に預け、恵信を探して遵西のところに来る。

 黒面法師も遵西のところに居て、恵信、鹿野、綽空の三人は縄に縛られる。恵信は綽空に鹿野を連れて帰ってくれと言うが、綽空は自分が身代わりになるので二人に帰れと言う。

 黒面法師が自分で決めてやる、その方法も針で目を突いてやると恵信の目に針を突こうとした瞬間に弥七の石つぶてが針を折り空中に飛んだ。その後は黒面法師の手下の半弓と弥七の仲間の石つぶてを包んだ布の手車の戦いとなった。

 綽空たちは、その隙に縄を解いて逃げた。

綽空から善信

 信空が同席する場で法然上人から選択集の書写を許された。そして、法然は自分の選択の教えを綽空に手渡したいと言い、書写の後にその選択集と尊影の写しの所持を許すと言われた。

 恵信にこのことを告げて、選択集の書写が終わったら生まれ変わったことを心に刻むために師に名前を戴こうという。そして、善信という名前を戴いた。

法勝寺炎上・首斬られ念仏

 遵西と黒面法師らは、世間との中途半端な妥協を排し、天下大乱の中に活路を見出そうという企ての法勝寺炎上をやろうとしている。

 鹿野は遵西に話したいことがあると法勝寺の塔の上に来た。黒面法師らは鹿野が呼び出していると騙し善信を塔の上に誘う。

 鹿野は遵西に遵西の子を身ごもっていると言う。遵西は鹿野と善信を助け、黒面法師らは炎の中に見えなくなった。

 遵西が善信に念仏すれば浄土に往生できると本当に思っているのかと問うと、善信は浄土を知らないので師の言葉を信ずる他にない、信じるのは物事でなく、人です。なぜ法然を信じるのかと問うと、師が信じてくれるからだと言う。

 善信は久し振りに法然上人と言葉を交わす機会があった。法然は遵西らを追放したらという者が居るがどう思うか問う。善信は、いまは吉水には雑多な人が集まっている、それは易行念仏をお説きになったからだ、汚れる水はそのままに初心を貫かれるべきではないかと言う。法然上人はその言葉を聞きたかったと言う。

 遵西の死刑場に善信は出かけた。遵西の首が転がったときに善信は大声で念仏した。三度目の念仏の声は絶叫に近かった。念仏禁制にもかかわらず、和する声はしだいに大きくなり役人や雑兵はどんどん退いていった。

別れと旅立ちのとき・愚禿親鸞の海

 法然は土佐へ遠流され、吉水の念仏門は死罪や流罪でほぼ壊滅状態になった。

 善信に対しては、意見が死刑と流罪の二つに分かれていたが、伯父の宗業、鎌倉幕府役人になった浄寛、良禅たちの運動で越後への流罪と決まった。

 良禅の計らいで法然上人との別れができることになり、その席で、法然が善信に念仏禁制の立て札に応じて念仏を控えるかと問うと、構わず念仏すると言う。法然も本心を隠すべきでない、一人でも念仏すると言う。

 善信は呼び名を親鸞と変えたい、そして選択集の心を越後の人に伝えたいと言うと、法然はもう隠すことはない、広く人々に読んでもらうがよいと言う。

 都の辻から念仏の声が消えたが、法然上人の見送りに行った恵信は、大変の人出で輿も動かないほどだったと親鸞に知らせた。

 真の師と巡り合い易行念仏のもとに生まれ変わった吉水から旅立つことが許され親鸞としての人生が始まった。

 既に僧ではなく苗字は師と同じ藤井で名前は善信、禿髪の姿であり背中には選択集などを納めた笈を背負っていた。

 東山山麓のあちこちから念仏の声が沸きあがってきた。念仏禁止のお触れを知らぬのかと役人が太刀を抜くと、弁才が念仏でなく、あみ、だんぶ、なも、と唱えていると言う。

 親鸞は鴨川のほとりを通りたいと願い出て許され、此処が最初の自分の学び舎と感慨にふけていると、石つぶてを高く放り上げる弥七一党の見送りがあった。

 海から越後入りした親鸞は、世の中を何も知らない愚禿の私は恵信だけが頼りだ、弟子だと思って仕込んでくれと言うと、恵信が念仏と言う支えがあるじゃないですかと言う。

 

 

 

 

 

 

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家紋!

2010-07-17 17:53:49 | 日記・エッセイ・コラム

Kamon001

                                                                                                                                     

 妻の兄の17回忌に出席。

 法要が終わっての雑談に家紋の話が出て、若い者しか居ない妻の実家はどうだったのか知った者が居なく、誰かが鬼瓦にそれらしき物があるよということで、ガシャリとデジカメで撮ってみた。

 インターネットで調べてみたが、どうも「丸に三つ柏」か「中太輪に三つ柏」のようだが専門家に聞いてみないと分らない。

 それよりも、確実に知りたいなら、墓に刻んでいる家紋を念のために見ることだと思うと知らせておいた。

 ちなみに我が家は「重ね三階菱」だが、どうしてこんなものを作ったのだろうか。またまた調べてみたくなった。

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「親鸞・上」を読み終えて!

2010-07-15 16:41:28 | 読書

五木寛之の伝記小説。いや伝奇的小説といったほうがよいと思える。

 わが家の宗派も親鸞宗祖の浄土真宗なので、その面からも興味を持って読んでみたが、宗教に無関心であった自分にとって、昔の僧侶の世界や宗教に関する知識も少なく、そのあたりのところは幾ら平易に書かれていても理解できない部分が多かった。それと、越後に流罪された後の親鸞の後半生と浄土真宗との歴史的な関係について記述されていたらと思った。

 読み終わって、この(鎌倉)時代の人間の最悪な格差社会の中で、最下層の人々を中心に信じられ自然に拡がっていった宗派として当然のことだったと感じることができた。

人を殺す牛・鴨の河原で

 8歳の忠範は召使の犬丸を帰して、都でも名高い牛の黒頭巾と牛頭王丸の角合わせ対決を見ていた。人を二人も殺した牛頭王丸に石つぶてが当たり傷つき、忠範へ向ってきたが、河原坊浄寛に助けられ鴨の河原に逃げてきた。

 鴨の河原には死体が散乱していて、その死体の一つを一瞬たじろぐ忠範と二人で川に流し、側にあった瓜を食べながら、浄寛は坂東武者のはしくれで比叡山にも一時居たと、忠範は親無し子で伯父に育てられていると二人が生立ち話をしていた。

 そこへ先ほど牛に石つぶてを投げた印地(つぶて)打ちの名手で昔は悪童の頭目だったツブテの弥七と法螺貝を提げている法螺房弁才が来た。弥七がホラ吹きと揶揄すると、弁才は、人を集めて説法するときの合図に法螺を吹いたところから衆生(すべての生物)に仏法を説く事を法螺を吹くと言うのだと、ひとくさり説法した。

放埓人の血・闇に生きる人々

 忠範の父親は下級官吏だったが突然家出して仏門に入った。母は若くして病死した。そのため、忠範と二人の弟は伯父の日野範綱に引き取られ、屋敷内の物置で住んでいた。

 日野家に20年使えている召使の犬丸は忠範を可愛がってくれていて、主人の範綱は今は幽閉されている御白河法皇に使えていたと、日野家の家柄について話し出した。

 忠範の祖父の経尹は、理由は不明だが放埓人(高い身分の人々を守る柵の中から放り出された人)の烙印を押されていた。その汚名は拭い去れないものなのだと言う。忠範が、犬丸は烏帽子をつけているが、烏帽子もつけていない人はどんな身分の人かと訪ねると、犬丸のような身分の低い人々にも埒があり、その垣根の外の人を垣外の人とも言うとのことだった。

 忠範は放埓人の孫と聞いて、気持が軽くなったような気分で、自分も野に放たれた馬のように柵外で伸び伸びと暮らしたいと思ったし、鴨の河原で浄寛らの話を聞いていた時は、初めて味わった解放感があった。

 しかし、牛飼童や遊芸人、無頼の徒達の世界に惹かれるのは何故だろうか、放埓の血のせいだろうかと真剣に悩み、母に暴力を振るう父、おののく母、人は何故このように苦しみながら生きるのだろうかと、自問自答して自分を責め続け、なぜなぜと心の暗い場所にこだまする声が忠範を苦しめていた。

 遠くから今様(身分が低い者が歌う巷の流行り歌)が聞こえた。「弥陀の誓いぞ頼もしき、十悪五逆の人なれど、ひとたび御名を称うれば、らいごういんじょう疑わず。」

 「らいごういんじょう」の意味が分らず、忠範は犬丸の小屋に行くが留守で妻のサヨがいた。サヨも忠範兄弟を可愛がってくれていて、サヨの話も聞いてくれと言う。

 犬丸は一丁鑿の虎丸と呼ばれた夜の顔を持っていて、不善の輩を集めて雙六博打の胴元をして稼いでいるのだと言う。そして私達は夫婦とも下人の子だと言う。下人とはと忠範が訊ねると、世間で一番低く見られているはまだ勝手気ままに生きれる人間だが、下人は売買される物なのだと説明する。しかし、日野のご主人のお陰で今は人間として扱われていると言う。

六波羅王子の館・十悪五逆の魂

 鴨の河原で焚き火を囲んでいた浄寛らのところに忠範が駆けて来て、犬丸が六波羅童たちに連れて行かれたので助け出してくれと頼む。

 六波羅童は平清盛の手の者で、その総数は300人ほどといわれ、その頭目は六波羅王子といい絶対の権力を持っていて多くの悪人も怖れていた。

 王子の本名は伏見平四郎といい、水上で春をひさぐ津の家船遊女の子として育った。そして、10歳の夏、母親を殺して陸に上がった。平然として人を殺す事ができる十悪五逆(非道な極悪人)の魂、それが強い武器となり京童の頭となった。

 弥七と弁才は夫々多数の仲間を連れて応援してくれ、館に乗り込んだ。平四郎の館の中で両方の戦いとなったが、そこへ例の二頭の巨大牛が幻のように出現し、牛頭王丸が身じろぎもせず向き合う平四郎の顔に角を突き刺した。

幼年期の別れ・新しい旅立ち

 「らいごういんじょう」は来迎引接のことで、臨終のとき仏が来て衆生を極楽浄土に導いてくださる意味だと弁才が即座に答えてくれた。

 忠範は十悪五逆の人が救われるわけがないと思うし、弁才にも解からぬと言い、もし、その答を見出したければ比叡山に行くしかないと言う。

 忠範は伯父から近江の寺に行くように言われたが、比叡山に行きたいと聞き入れず、犬丸預りの身となった。犬丸は、いずれ、御白河法皇に頼むつもりでいた。

 清盛が世を去った。法皇も鳥羽の離宮から前のお館に戻られた。

 数日後、伯父が忠範を呼び、関白法性寺殿の子息の白河房慈円がそなたを召されておると言う。慈円から範宴の名をもらい、白河房への入室を許され、いずれ入山させるとの言葉があった。

 犬丸と別れるときに、弥七からといって、つぶての石を渡され、「忠範は吾ら悪人達のために修業するのだから、自分が奢り高ぶったときはこの石を見ろ、苦労が続き一人ぼっちと感じたときはこの石のような仲間が沢山生きていることを考えろ、また、自分自身が本当に困ったときはこの石を見せ弥七の友達だと言え」といって忠範の手に握らせた。

暁闇の法会・黒面法師の影

 範宴は12歳で入山し、19歳になった今までお山の厳しい修学・環境に耐えたが、涅槃経に一切衆生悉有仏性(衆生が備えている仏の命)とあるのに、自分には仏性がないのではないかと心に重くのしかかる疑問を感じていた。

 師の音覚法印に呼ばれて妙音堂に行くと、慈円が居て、範宴に山を下りて東山の吉水へ行き、いま、公家から下々の者までに人気のある法然の説法を市井の民の耳で聞き、何故人々の心を掴むのか学んでこいと命ぜられた。

 慈円は叡山を変えたい、衆生のために研学修業をし、衆生のための法会を開き、伝教太師・最澄の志を末法の世に甦らせたいのだと言う。

 近く都で法皇が夜明け前の暁闇法会を仏前の歌合せの形で催されるので、それを見てから吉水に行けばよいと言う。

 範宴は、人は何故苦しんで生きるのか、どうすれば救われるか、その解をお山の中に求めてきた。そして、幾つかの行をしてきたが、まだ成果は得られずお山で一生をかけようと考えていた。しかし、慈円のお声がかりだったのでお山を下りることにした。

 法会の歌比べが深夜に始まり、空が白みかけた頃、推者慈円と紹介され、範宴が歌いだし、終わったときは会場の人の心にしみとおったためか、一瞬ふしぎな静寂が会場に生まれた。

 そのとき、黒面法師が法皇の喉に刀身を押し当て平四郎推参と叫んで、父(法皇)母を殺して十悪五逆の極悪人になるのだと言う。その平四郎に法皇はその夢適わぬ、次の女の歌を聴き顔を見よと言う。玉船尼と呼ばれ舞台に上がったのは、殺したはずだった平四郎の母親だった。

 黒面法師の影は崩れ花道から消えた。

誘う傀儡女・二上山の夕日

 範宴は昔居た白河房に身を置いていた。

 久し振りに弁才に逢い、法然の話をすると、法然が説くのは専修念仏で浄土に生まれる念仏だから、いちど浄土を見たほうがよいと言う。

 浄土は情土だ。浄土の教えを残した源信房の故郷に行って目に見える浄土への人々の情を感じてくることだと言われ、範宴は二上山が見える大和に向った。途中、叡福寺の聖徳太子廟に寄ることにした。

 弁才の話によると太子信仰は、太子自身が現場に入り身分というものを越えて世間の人々に分け隔てなく生きる技を教えてくれたお方だったからだと言う。

 二上山麓の太子廟で三日間の断食の行に入った。2日目の明け方、夢の中に沈みゆく中で太子の姿と声を聞いた。

 金剛山への途中で日が暮れて小屋に入ると、玉虫という傀儡女の先客が居た。女から身体を寄せられ触ると穢れるのかという誘惑に、人に穢れなどはないと言いつつ、まだ自制力が勝っていて南無聖徳太子と念仏を唱えた。

 翌日、玉虫が斑鳩を案内してくれた。女が指差す二上山の雄岳と雌岳の間に大きな夕日が落ちていき、空は茜色に染まって刻々と色合いを変えていく状態を見た。

 範宴は夜道で傀儡師の数人の男に襲われたが、懐の石つぶてを見て、弥七の知り合いだと分り乱暴をやめて男達は遠ざかっていった。石つぶてが無かったら死んでいただろうと思う頭の奥に大きな夕日が西の空に落ちていくのが見えて、範宴は浄土を見たと感じた。

疑念雲のごとく・命あらんかぎり

 慈円は、範宴に向って、お前には他人以上に心の深いところに抱えている闇の濃さがあり、己の罪や悪を恥じ深く懺悔する才能がある。そのお前が法然をどう見たのかとの慈円の問いに、範宴は、法然の説法を聞くと何ともいえず清らかで明るい気持ちになる。説法に集まる武士や女性が多く、法然は、「念仏を申しなされ、必ず浄土へ迎えられると信じて疑念無くただ南無阿弥陀仏を念ずるのじゃ」と言い、お山での念仏とは違い、高い声の念仏歌唱で合唱する人を和らいだ気持に誘うと報告する。

 慈円が範宴にこれからどうすると言うと、法然と違って中途半端な未熟者だし、自分には本当に僧たる資格があるのか、心の底から仏に帰依することができるのかと様々な疑念が雲のように湧き上がるので、命がけの行をするだけだと言う。

 そんな気持が、範宴を、み仏にじかに対面するという好相行に向わせた。膝を曲げ両方の肘と額を床につけ掌を返して仏を拝む形を何千回も続ける行なのだ。

 音覚法印はその姿を見て、狂う寸前だと判断して、そなたは見えぬ仏という大きな仏と出合った、行はなったと諭す。

六角堂への道・夢の中の女

 慈円は範宴に天台密教を学ばせようと思っていたらしいが、範宴は念仏行に専念する道を選んだ。

 音覚法印から六角堂百日参籠を許され、六角堂へ急ぐ範宴の心に、私のところへくるがよいと言う太子の声が聞こえる。

 その場に行くと集う人々は世間から余計者扱いされている哀れな者ばかりであった。

 病者の手当てをしている弁才に会い、弁才が子供のできものの膿を口で吸い取った後の残った膿の芯を吸い取れと弁才から言われ、範宴は頷いた。

 懐には初日子供のできものを治療したときに女から借りた絹の手巾が入っていて、その匂いを嗅ぎながら逢いたい気持が溢れていた。50日目に、その女・紫野に逢い、紫野から参籠してもみ仏でなく貴方の顔と姿が浮かぶだけだと言われた。

 弁才に連れられ子供のできものの治療の礼を受ける席にいた。そこに弥七が玉虫を連れてきた。今は當麻御前という名の大和随一の歌い手になっていた。當麻御前が身体を浄めてくれと身を投げ出したとき、黒面法師が放った矢が御前の心臓にあたり亡くなった。矢が当たる寸前に、御前は範宴を跳ね除けて範宴の命を救ったのだ。

 範宴はお山に帰らず俗世間で修業したいので、しばらくは六角堂で弁才の手伝いをすると弥七に言う。

 

 

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