T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

命日の墓参!

2010-11-28 11:52:28 | 日記・エッセイ・コラム

Itho3001

                                                                                                                                                         

 母親の命日なので、妻とお寺の納骨堂にお参りに行った。

 銀杏の葉が風に舞って、庭も黄色の絨毯を敷き詰めたようだった。

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冬だが、これは早すぎる!!ー510回

2010-11-26 17:00:09 | 日記・エッセイ・コラム

Sazanka009

                                                     

Curismas2007

                                                           

 庭の山茶花が咲き出した。

 山茶花も満開になったその日の花は素晴らしく綺麗だ。特に白のものはほんとに清楚だ。明日は少し色が変わっているだろう。

 短い人生だから、じっくり眺めてやりたいものだ。

                                      

 用があり市街に出たら、商店街の中心の場所にクリスマスツリーが作られていた。二三日前に作られたようだが、少し早いのでは。まだ一ヶ月も先なんだよ。

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「マンチュリアン・リポート」を読み終えてー2!!

2010-11-25 16:31:44 | 読書

満洲報告書第四信(昭和4年7月12日)

 私の北京駅出発に際し、吉永中佐と岡氏が揃って見送りに来られ、中佐から手渡されたメモに「満洲奉天医院内 王嘉平」と書かれていた。医者か患者か聞こうと思ったときには先に去って行った。その後姿を気にしながら、岡氏がメモの端に「大阪朝日 平松」と書き添えてくれた。これで、雲を掴むような奉天での調査の扉が開かれた。

 私が乗った列車は天津までの平均時速は45kmだったが、張作霖の列車は27kmとなっていた。このことは張作霖が路線爆破などのテロを警戒したと私は推測した。なぜなら遅れれば遅れるほど先発した囮列車が有効になるからだ。しかも、天津での停車時間が26分と長く、この時点では関東軍の謀略をかわしていたのです。

 張作霖の特別列車等が天津に着いたときの客観的事実と思われるものを各資料により纏めると、①特別列車は先行した囮列車に追いつき、囮列車が出発した後に後続列車が入線してきた②特別列車に乗っていた町野大佐が下車した、常蔭槐は囮列車に乗り換えた③北京まで出迎えに着たのに後続列車に乗っていた山東軍閥の張宗相将軍が特別列車に乗り込み張作霖と二人だけで懇談した後 、天津で下車したことだ。

 また、山海関駅では奉天からはるばる奉天軍の事実上の副将の呉俊陞将軍が出迎えに来ていて特別列車に同乗した。

鋼鉄の独白4

 張作霖は満洲を除く全ての国土と民を国民党政府に禅譲した。これは彼らしくない行動と思い、その謎めいたところに興味を持って展望車にいた張作霖と話をした。

 俺はイギリス人は嫌いだが、鋼鉄は好きだ。満洲では鉄は黄金のように貴重だったのだ。

 若い時に俺は遼河の鉄橋を渡るお前を必ず手に入れると思った。蒋介石はお前に似合わないし、俺も先が長くないので、お前に乗って奉天に帰りかったのだ。

 手打ちが喧嘩の始まりだとやくざ者は知っているのだ、俺の勘の虫はこの帰り道が危ないと告げている、そのために20マイルで走ることを頼んだのだ。

 奉天に着いたらお前を若返らせて、俺と一緒にお前の好きなところに旅に出ねえか。

 私はこれらの事を聞いて、彼は大胆にして細心、まことに頭の下がる人物だと思った。

 鋼鉄の公爵という私の名に相応しい栄光の旅だと信じられ、どこまでも永遠の少年のような英雄を乗せて走りたいと思った。

満洲報告書第五信(昭和4年7月13日夜更)

 事件現場の皇姑屯は終点の瀋陽駅からわずか2.8kmで、列車は時速10kmで最徐行するところでもあり、満鉄線が京奉線を跨ぐ形でクロスしているところでした。

 爆破事件は京奉線の線路上に爆弾が仕掛けられたのではなく、また、列車に爆弾を仕掛けて時限装置を作動させて破裂したのでもなく、満鉄高架線に爆薬を設置し爆発させ橋脚を落として張作霖の乗る特別列車を押し潰したのである。

 このような状態を作るのは歩兵出身の河本大佐では出来ないことで、実行犯は少なくとも1個分隊以上の工兵と爆破専門家の工兵将校等だと思います。

 私が瀋陽駅に到着したときに、岡氏から紹介された大阪朝日の平松氏が迎えに着ておられ、宿も手配してもらった。

 私は王氏を訪問するに際し、平松氏に証拠の内容が漏れても仕方がないと通訳として同道してもらった。

 王氏は患者だったので、面会まで時間がかかり、その間に、平松氏が事件当時、現場に駆けつけたときのことを話してくれた。

 満鉄高架線が崩れ落ちて客車3輌が燃えさかっていて、張作霖がやられた、国軍の便衣隊の仕業だと、そこにいた日本軍の少尉が築堤に転がっている二人の支那人の死体を指差して知らせてくれたが、矛盾する点が多々あったと。

 王氏が証言した事を要約すると次の通りでした。

 満鉄奉天医院に入院してきた吉永中佐から、張作霖の体と一緒に自分の片足も吹き飛ばされたと聞いた。爆破事件の前夜、大陸浪人風の日本人が来て、大金を出して日本軍に協力してくれと言われ、二人の同僚が出かけて行って、後をつけたら、立体交叉のところで刺し殺された。

鋼鉄の独白5

 車中で張作霖から2つのことを聞いた。

 祖父は河北から貧民として満洲に流れてきた。東北王に成るだけではいけないのだ。祖父の仇討のために百万の軍を率いて長城を越えて中原の覇王にならなければいけなかったのだ。

 代々の皇帝に引継がれてきた龍玉を手に入れたが、俺にはそれだけの器量はないので、倅の張学良・漢卿に天下を取らせ、俺は太祖様に祀られるのだ。そのため俺が期待していた郭松齢を倅の教師にした。

 倅から龍玉の事を聞いた郭松齢は、俺に対して倅に全権を譲るべきだとクーデターを起こした。しかし、我々に日本軍の支持もあってクーデターが失敗し、郭松齢は俺の子分の楊宇霆に殺された。郭松齢は命がけで俺を諌めてくれたのに、楊宇霆が俺の意思に反して殺してしまった。

 俺は運命に負けたのだ。奉天に戻って、いつか漢卿が天下を取る事を待つことにした。蒋介石と雌雄を決せずに兵を引いた理由もそれなんだ。

満洲報告書第六信(昭和4年7月14日夜)

 平松氏から貴重な在奉天の軍人名簿を見せてもらった。名簿の中に親友で奉天鉄道守備隊に所属している工兵の古賀中尉の名前を見つけた。

 面会して、爆破事件の内幕を尋ねたところ、事実と信じられる事を話してくれた。

 爆破事件は関東軍の総意で、河本大佐は職務上罪を被ったのだ。

 張作霖は3日夕刻に奉天に着くだろうとの噂であったが、到着しなかったので落ち着かぬままに将校宿舎を出ると、大八車を4、5人の兵が押して通りかかった。その時に被覆電線の束を落としたので拾い上げてやり車の菰を持ち上げると中に黄色火薬の箱が山積みされていた。

 黄色火薬を常備しているのは工兵隊だけで、爆発力が強い黄色火薬を夜更けに荷車に積んでいるのは尋常でないので、尋ねると知人の大尉が来て高級参謀からの命令だとそっけない返事だった。

 今年に入って二度、何者かによる東支鉄道の鉄橋爆破があったが、あいつらは二度も予行演習し、満を持して張作霖を殺したのだと思った。

 現場に行くと黄色火薬の匂いが鼻をつき、満鉄陸橋が跡形もなく崩れ落ち、列車3輌が燃えさかっていた。

鋼鉄の独白6

 張作霖は向かいの席で大鼾をかいている奉天の呉俊陞将軍を指して、彼は死ぬときは一緒だと誓った仲さと言い、俺は多くの人を愛し愛されているが、それだけ多くの人の恨みを買っている、一人に心底憎まれれば命を無くす、神や仏は恨まれることはないと言う。

 この男は哲人で神と人の違いまで見極めている。知れば知るほど近くにあればあるほど、人はこの男を心から敬し愛しただろうと私は思った。

 また、張作霖は、日本人も彼・呉俊陞には一目置いているので、彼は張作霖を殺すなら俺も殺してみろ、どうだ出来るかと乗り込んでいるのさ、自分を買い被っているが、その気持は有り難いことだとも言った。

 朝靄の彼方に奉天の城壁が見え出したとき、大地を裂くほどの爆発音が轟き、悪魔の力が私を圧し潰した。私の意識が遠退いていった。

終章

 吉永中佐から帰国前に紫禁城を見物したらどうかと言われ一緒した。案内人は岡氏に紹介された清朝の宦官のトップの地位にいた李春雲だった。

 西太后が住んでいた御殿も案内され、そこで仙人のような老人から、中佐の苦しみを取るお祓いをしてやるといわれ、それを承諾して中佐は西太后の使用した寝台で休んだ。

 暫くして出てきた中佐は初めて張作霖のことを話し始めた。

 蒋介石と戦ってはならない、同胞相撃つの愚を冒してはならない、これが軍事顧問はもちろん張作霖政権の総意だった。張作霖もそう決心した。

 北京駅での発車間際に関東軍調査班の竹下少佐と目が会ったとたんに彼は逃げるように去った。その様子が私を不安にした。

 発車すると張作霖は時速20マイル以下で進むことを命じた。人並み外れの勘のいい張作霖は線路上の工作を怖れていつでも難を避けられる速度を命じたと思う。

 夜が明けて天津に近付いた頃、町野大佐が吉永、領事館に急用ができたといって天津で降りろと言われた。私は生きるも死ぬも張作霖と共にありたいと思い断った。

 12年間、張作霖から信頼されて務めたあれは何だったのか、と大佐を見損なった。関東軍参謀長と同期で親しかったこともあり、その方面からのパイプを通じて情報の交換をしていたのかもしれないと推測した。

 天津に着くと凱旋将軍を迎えるようなお祭り騒ぎだった。そのなかで、到着時間が遅れるので先に行って説明すると言って常蔭槐が囮列車に乗り換えた。そして、町野大佐も消えた。張作霖から、お前は降りないのかと言われた。張作霖は町野の行動に気付いていたのだ。

 なぜか出迎えに着たのに後続列車に乗っていた山東軍の張宗昌が、天津で特別列車に乗り換え張作霖と二人で話した後、天津から消えたが、自分自身のために撤退を止めさせようとしたのだと思う。

 京奉線の上を満鉄が跨ぐ所が近付いてきたとき、関東軍が工作できるとしたら此処だと思った。なぜ早く思いつかなかったのか、私は、急げ、走れ、此処を抜けろと叫んだ。

 張作霖と我らの乗る展望車が鉄橋の真下に入ったとき、橋脚の隙間から獰猛な朝の光が暴れこんできたようなものを感じた。

 儀我少佐に頬を叩かれ、ぼんやりした頭の中で、張作霖を狙ったのだ、大和魂も武士道もこれでお終いだ。この先、我等を誰も信じないだろうと思いながら私は気を失った。

                                     

読後感

 史実を元にした小説として興味深く読んだところもあったが、張作霖はどんな人物だったか、どのようにして張作霖は殺されたかだけでなく、私にとって一番核心だと思っていた何故に張作霖は殺されなければならなかったのか、といったところを一作家としてどう観ているのか、あるいは、このような見方もあるだろうでもいいから記述して欲しかった。

 文章の中から読み取れたという読者もいるかもしれないが、もう一歩踏み込んだものが欲しかった。

 

 

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「マンチュリアン・リポート」を読み終えてー1 !!

2010-11-24 14:57:24 | 読書

小説の構成

 この作品は浅田次郎の中国歴史小説「蒼穹の昴」シリーズの最新作で、物語は「序章」・「終章」とその間を「満洲報告書」(書簡形式)と「鋼鉄の独白」(擬人法形式)で構成されており、「満洲報告書」は一年前の張作霖爆殺事件についての主人公・志津中尉による真相調査を中心に、「鋼鉄の独白」は張作霖を乗せて爆破された機関車が感じた張作霖その人と彼の考え方を軸に現在形で記述している。

                                  

当時の支那と日本の関連事変

 1904 → 日露戦争勃発(1905終結)

 1910 → 反日義兵闘争を弾圧して朝鮮併合

 1912 → 清朝滅亡

 1919 → 華南に中国国民党成立、華北は軍閥割拠

 1926 → 中国国民党による北伐開始

 1927 → 張作霖が北京政府の実権を握る

 1927 → 蒋介石による南京国民政府樹立、北伐続行

 1927 → 北伐からの居留民保護名目で日本軍出兵、

          済南を占領(済南事件)

 1928(昭和3年) → 張作霖爆殺事件

 1931 → 奉天での柳条湖事件(満州事変勃発)

 1932 → 日本が満州国を樹立

                                     

各章のポイントになると思われる部分の概要

序章

 昭和4年、国体変革を目的として行動した人間に死刑を適用するという治安維持法の改正に反対し、その意見書を流布したとして、若い志津陸軍中尉が日本の陸軍刑務所に収監されていた。

 ある夜、志津中尉は突然に監房から出され、一時、禁固を解かれて、信じられない勅命を受ける。志津中尉は、昭和3年6月の張作霖爆殺事件の事実調査を内閣書記官長宛の私信として、その都度報告せよと命じられたのだ。

満洲報告書第一信(昭和4年7月10日)

 7月10日、北京で出迎えられたのは、張作霖の軍事顧問として爆破された列車に同乗していて片足を無くした現在公使舘駐在武官の吉永陸軍中佐だった。

 早くも事件の生き証人が現れたのだが、中佐の表情には一目で精神の異常を思わせる暗い陰りがあり、歓迎していない様子が窺い知れた。

 また、中佐は、張作霖は無学であったが無知ではなく、豪胆で繊細の人だった、といった程度の会話の間に中佐の表情はいっそう暗澹となり、いかにも万感迫るという風に見受けられた。張作霖の側近にあって声咳にふれた人なのだと思い、その場での深い質問は躊躇った。

 張作霖は祖父の代に奉天地方に流れてきた漢族貧民の子で、その後に馬賊の頭目になり、大正の初めに万里の長城以北を実質支配する軍閥となった。

 張作霖は満洲に覇権を唱える過程において、日本の経済投資は大いに歓迎したが、政治軍事への直接介入は毅然として退けていた。

 清朝滅亡後、袁世凱も病没し、軍閥割拠の中、日本の助力を得て、満洲の地にあって東北王と呼ばれていた張作霖は、長城を越えて中原の覇者となり、中華の軍権を掌中にして大元帥と名乗っていた。長城を越えたことは、彼が漢民族であったことも、その理由に挙げられると思う。

 日本の大陸進出主義者は、満洲を支那と分離し、朝鮮と地続きの勢力圏に組み込んで、いずれ併合するという構想でいた。それが実現可能な最大限のものであった。

 そのため、日本政府・日本軍は張作霖に度重なる撤兵勧告をしたが、それに耳を貸さずに4年間北京に君臨し続けた。

 しかし、百万とも言われる蒋介石が率いる国民党軍の北伐に対抗せずに、昭和3年6月3日午前1時過ぎ、特別列車で北京駅から奉天に向かうことになった。

鋼鉄の独白1

 李鴻章が1903年(明治36年)西太后の御料車としてプレゼントし龍鳳号と命名された私・鋼鉄の公爵は、その年に一度使われただけで25年の深い眠りに入っていた。

 そこから起こされ、袁世凱も使わなかった私を張作霖は奉天行きに使うよう指名した。

満洲報告書第二信(昭和4年7年11日昼)

 11日朝、7月2日付夕刊の記事に満洲某重大事件の責任者処分発表として、前関東軍高級参謀の河本大佐が停職を仰せ付けられ、その理由として「右は我が満洲独立守備隊が警備すべき京奉線と満鉄線との交叉点に支那兵の配置を独断専行で許可したるの故による」と掲載されていた。

 河本大佐が爆破事件の真犯人であることは陸軍内部に知らぬ者はないのに、処分発表は無関係としていた。

 朝食を取り終えたところで、吉永中佐から協力依頼があったと「大元帥府書記 岡圭」との名刺を出された。本名は圭之介といって、英仏語ができる特派員として北京に30年いて、かって張作霖に雇われていたとのことだった。

 内緒だが、吉永中佐は重症の神経衰弱に陥っていて仏人の精神科医の治療を受けていてホテルまでは一緒に来ていたのだという。

 岡氏は大元帥府を見ながら話し出した。

 蒋介石の国民党軍が北伐を開始していた昭和3年年初の時点で、張作霖が選ぶ道は三つあった。

 国民軍と雌雄を決する、話し合って統一国家を建設する、南京と北京を首都とする二つの国家を併存させるだが、最初の案は日本を始めとする諸外国の軍事介入を受ける、次の案は両者の独裁者の性格から有り得ない、第3案が現実的であった。しかし、日本は山海関外への撤兵を要求してきたのだ。

 元馬賊の大立者の張景恵実業部総長と軍事顧問の町野大佐が撤退に反対した。

 満洲に残してきた張作霖の子飼いの将軍の張作相、湯玉麟、馬占山、李春雷らも撤退反対を打電してきた。彼らは勘働きのようなものから撤退行は危ないと予感したのかもしれない。

 しかし、張作霖が好戦的な部下を満洲に残してきたのは、国民党軍との決戦を望んでいなかったのだろうと思われたし、事実、自分だけで早くから胎を決め、撤退行の1ヵ月前に列車の準備を私に命じていた。

 張作霖の特別列車に同乗した主な側近は、潘復国務総理、張景恵実業部総長、莫徳恵農商部総長、常蔭槐交通部代理総長、軍事顧問の町野大佐、吉永中佐、儀我少佐だった。

鋼鉄の独白2

 国王が故地へと逃げ帰るのである。西太后のように私の鼻先に旗を立てて威を誇るどころか、深夜の逃避行なのだ。

 25年前の栄光の旅に比べ、何と情けない任務であろう。私には逃避行など似合わない。

満洲報告書第三信(昭和4年7年11日夜)

 張作霖はおおよその大臣幕僚を北京に残して国民党側との交渉に当たるように指示したが、不戦を厳命していたと岡氏は言った。岡氏も北京での政務に必要な人として北京に残された。

 日本の軍事顧問は一緒に奉天に連れて行った。関東軍の為の人質に使うためだったのではないかと岡氏は推測していた。

 北京駅頭の張作霖は礼装軍服を着て大元帥の威厳を失っておらず、見送る人々の顔にもお追従のいろは無くて、彼が再び巻き返して北京に戻ることを心から熱望しているように見えたと岡氏は話した。

 勝ち目がないから撤兵せよという日本政府の勧告には根拠がなく、日本が欲しかったのはあくまで満洲における利権だから、これを機に撤兵させて東北の内治に専念させようとしたのが本音だろうと思う。勧告より恫喝です。

 奉天行きの列車は6月2日の午後10時ころから続々と出発していた。そのころ別のホームに関東軍調査班の竹下少佐がいることを不安顔の吉永少佐から知らされ、岡氏は竹下少佐が車輌の数等を調査していると直感したという。

 たしかに、大阪朝日の記者から、奉天の関東軍作戦本部への無電を傍受したとメモを渡され、そのメモには、張作霖が3日0115、19輌編成の列車で北京を出発、8輌目の展望車に乗っている、本夕刻・現着予定と書かれていたと話してくれた。

 関東軍も既に軍司令部を大連から奉天に進ませていたのです。

 この事件は巷間噂される関東軍一部将校の爆発であろうはずがなく、関東軍かそれ以上の組織が加担していることが、岡氏の証言から結論づけられることは確かだと思う。

鋼鉄の独白3

 張作霖が北京駅に着いた。構内を埋め尽くした群衆の間から「好」と掛け声がかかった。北京市民にとって権威ある施政者でなく国民の英雄なのだ。だから儀礼を忘れて「好」と讃える。

 張作霖は私に近付き、お前が西太后を乗せた機関車か、たいした貫禄だ。「祝健康弟兄、壮揚兵馬」と満洲馬賊の最敬礼を以って私を迎えてくれた。

 彼は功なり名を遂げても魂は貧賤のままなのだ。大元帥になっても馬賊の頭目たる誇りを失っていない。やはり、この男に王座は似合わないと私は思った。

                                        

    (以降、満洲報告書第4信からは次回に続く)  

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故郷への紅葉狩り!!

2010-11-20 17:26:21 | 日記・エッセイ・コラム

 故郷は温泉と桜の名所で有名だが、紅葉が綺麗だとは思っていなかった。

 先日、NHKで近郊の紅葉の名所を紹介していて、えっ、こんなに綺麗だったかなと、今日、久し振りの小春日和だったので、早速に出かけてみた。

 たしかに、思っていた以上の光景だったが、午後に出かけたものだから、すべて日陰になっていた。

 写真はすべて失敗していた。来年は朝から出かけてみたいと思う。

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