T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

木瓜2 !!

2014-03-29 11:46:43 | 日記・エッセイ・コラム

 

Boke201copy

 

  やはり曇だったが、木瓜が2輪咲いた。

 明日は残念ながら朝から雨のようだ。

 木瓜は私の好きな花だが、

 桜や白木蓮、辛夷のように葉が無いともっと綺麗だろうと思う。

 

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木瓜 !!

2014-03-28 16:23:55 | 日記・エッセイ・コラム

 

Boke011copy

 

  木瓜が咲きそうだ。今年は蕾が多い。

 明日撮影したら、もう少し多く開いていることだろう。

 しかし、明日、明後日は「曇時々雨」といった天候のようだ。

 自然のことだから、一時的に晴天があるかも知れない。

 その時はもう一度撮影して、UPすることにしたい。

 

 桜も咲いたようなので、来週は、半ば過ぎに晴天の日があれば、種々の花巡りに南の郊外に遠出してみたい。

 そして、彼岸に行けなかった従兄弟の墓参もと考えている。

 

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単行本購入!!

2014-03-26 11:44:02 | 日記・エッセイ・コラム

Book302copy

 

 病院などでの時間待ち用 と ドラマ化決定物の事前知識用で購入。

 何かあてつけの購入理由だな。

 読書趣味はいつまでたっても治らない。

 趣味が少ないのかもね。

 

 当地は、今日、桜開花とのこと。

 しかし、今日の天候は、雨時々曇り。

 今週は曇りの日が多いが、来週はどうだろう。

 いくら時間があっても、晴天の日が少ないと花見もままならぬ。

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完全な春に !!

2014-03-23 12:52:19 | 日記・エッセイ・コラム

 

Wabisuke02copy

 

 春分の日も終り、今日は晴天で、完全な春になったようだ。

 侘助(写真)もこれで終わりで、今、木瓜が蕾を付けている。

 今年は3月13日頃から風邪をひき、4,5日鼻水・微熱が続いた。

 今年の冬は、風邪もひかずにすんだと思った最後の最後に病院に行った。

 油断大敵と思った。

 何しろ、寒暖の差が酷いので、年を取るとどうしても免疫が不足するのだろう。

 いずれにしても、寒さ暑さも彼岸までと昔から言うように、何か来週から新しい年が始まるような気がする。

 とにかく、4月は一年で一番気候も良く、好きな月でもあるし、新しい出発の月なので、毎日を大事に過ごしていきたい。

 春分の日に墓参して両親にもこれらのことや最近のニュースを知らせてきた。

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朝井まかて著「恋歌」を読み終えて! -6/6- -930回ー

2014-03-20 14:31:02 | 読書

「終章」

(一) →花圃と澄は、紅茶で一服した後、手記の最後の部分を一緒に読むことにした。

 花圃は無性に紅茶が欲しくて、澄に手記を渡し、歌子が常時女中を雇っていなかったのだろう茶箪笥の中は乱雑で、やっと紅茶の缶を探し当て、ポットの代わりに茶漉しを用意した。師の君は、書を能くするのに炊事も整理整頓も全くできず手先も不器用である。

 澄に、湯飲みに入れた紅茶を渡して、今日はここまでにしましょうかと問うと、あと少しですので終いまで読んでしまいたいと答える。

 花圃は、澄が飲み終わったのを見て、一緒に読みましょうかと尋ねると、澄は否を唱えなかった。

(二)

 歌子は、貞芳院様と会った後、妙な心懸かりが残った。奇しくも、自分と同じ名を持つ、市川三左衛門の行方不明の末娘のことだ。ふとした拍子に思い出されてならない。川の水に流されても流されても杭に引っ掛って離れぬ一筋の藁しべのようだった。

 夏を過ぎた頃、歌子は家の中で小さな袱紗を拾った。袱紗は二枚の接ぎ合せてになっており、裏面の隅の縫い取りの紋が貞芳院様の生家の有栖川宮家の紋だったこともあって、女中の澄の持ち物の中で唯一の彩物は袱紗であったので、澄の物だとすぐ判った。

 

 少しして、廊下に慌ただしい足音がして、よろしゅうございますかと、いつもの静かな澄の声が少し上ずって訪れを告げた。歌子のお入りの声に、門下生がハンカチをお忘れになったようで、遣いの方が参られましたと知らせた。歌子はハンカチの忘れ物については聞いていないが、この袱紗も誰かの落とし物のようなので返しておいてあげてと澄に渡した。澄は平素の冷静を取り戻して、それが己の物でないような素振りで受け取った。その時、歌子は澄の片眉の頭に皺と見紛うほど薄くなった一寸ほどの傷跡を見た。歌子は澄が市川家の登世だと思いだした。

 歌子が澄を雇ったのは、歌子が萩の舎を興して4年を経た頃で、確か澄が18歳だった。

 澄は無口で陰気だけれど頭の回転の早い娘で、歌子は奥向きのことだけでなく、萩の舎の差配も任せるようになった。実に有能でありながら誰にも心を開かず、時折冷淡な目で歌子を見ていることがあることに歌子自身感じていた。

 それにしても、水戸の名家の市川家の末娘が澄としたら、いかなる思いで仕えてきたのだろうかと歌子は訝(いぶか)しんでいた。私が天狗党志士の妻であることを知っていながら奉公したのか、全くの偶然であったのかも知る由もないが、私に対して遺恨を晴らしたいという思いを抱くことはなかったのだろうかと歌子は思った。

 澄に良縁ができたのは、澄が24歳の時だ。下総の貧農の生まれと聞いている女中の澄の嫁入りなので、歌子の養女にして嫁ぐことにさせたが、澄は初めは養女の話を固辞した。しかし、時間がたった今となっては、その理由が腑に落ちた。

 澄は市川家のただ一人の生き残りの市川登世。歌子は己を試すように、口の中で何度も繰り返すのだが、不思議と憎悪の念が湧かない。むしろ澄がいたわしくて、歌子は、私の傍らにはてつ殿も母親もいてくれた。けれど、幼かった澄にはいったい誰がいたのだろう。しかし、そんな思いとは反対に、てつ殿から来る文には、いまだに天狗党と諸生党の家が確執を残していると言ってくる。とすれば、澄が天狗党への、私への復讐を企んでいないとも限らぬではないか。

 歌子の心には葛藤があり、ならば私が為すべきことは何だろう。 私にいったい、何ができる。

(三) →澄が師の君の遺言を了承し、花圃に自分の来し方を話す。

 手記はそこで途切れていた。ふいに、師の君の後姿を見失ったような気がして、花圃は狼狽した。

 しかし、師の君が、何ができるだろうと、末尾に記しているので何かあるだろうと抽斗という抽斗の中をさらえたところ、ある抽斗に隠し抽斗があり、その中に真っ白な奉書包みが置いてあった。

 その包みを開くと、師の君の筆跡で中川澄殿宛で「遺言」と上書きされていた。

 師の君が亡くなった数日前に、花圃は澄に請われて師の君を見舞った。そこで、澄は花圃を立会人にして、遺言をお受けしますと言葉少なに伝え、師の君を安堵させた。

 遺言は、澄宛で、澄の三男・庸との養子縁組を願い中島家の相続を依頼し、萩の舎の存続に心を煩わせることは露ほども望んでいません。望むことはただ一念にて、市川登世殿の御子を林登世に迎えることで水戸への鎮魂としたいとあった。

 師の君は何も言わなかったけれど、遺言だけでは澄が拒絶するだろうことが分かっていて、澄に読ませるためだけに、あの手記を書いたのだろうと花圃は推測した。しかも、師の君と澄の水戸での状況は、水戸藩の内紛を何もかも有体に書かなけなければ伝わらないだろうと手記の体裁を取ったと思った。

 花圃は、澄が遺言に目を通し終えた後に、澄が自分の来し方を打ち明けた言葉を思い出した。

 「私は、師の君の推察とおり、市川三左衛門の娘・登世で、父が水戸から逃走途中、家臣を通じて下総の百姓夫婦に預けられ、戸籍法が発布された時、澄として届けれた。水戸の家を出立前に、出自を示す物として紋が縁取りされた袱紗を差し出され、それを大切に守り続けた。」

 「東京に出た私は、父母や兄姉のことを知りたくて、水戸藩邸があった小石川を奉公の合間を見て歩き回り、私が耳にしたのは、諸生党の弾圧と報復でしたが、ある人から水戸のことを知りたければ、萩の舎を訪ねさいと言われた。そこで見たのは、水戸に嫁いでいたといわれる、まるで雲上人のような振る舞いの歌子先生で、当初は歌子先生に激しい憎しみを覚え、まるで親の仇を探し当てたような気持でした。

 天下が引っ繰り返ったのをこれ幸いと驕り高ぶる仇敵の足元を掬ってやりたい思いで凝り固まっていて、包丁で胸を一突きするか、毒を盛るかあれこれ復讐の方法をあれこれ考えていた。いつも日の当たる場所にいたいような、そして我が儘な先生には、内心反吐(へど)が出る思いをこらえながら私は忠実な奉公人を演じていた。先生はまるで無防備で、醜聞の証拠も面白いように手に入り、そうだ、命など何時でも奪える、先に社会的生命を絶ってやろう、そうも思いついた。

 でもある時、先生が、夕方、独り縁側に座って切ないかすれ声で和歌を口ずさんでいる後姿に、いやでも先生の寂寥(心が満ちたらず物寂しいこと)にきずかされた。先生が養子縁組を繰り返していたのは、先生が孤独だったのだと、先生の心情が分かると、私は心苦しくなりました。

 私の縁談があった時、この苦しみから逃れられると、心が解けるようでした。」

 2月1日、師の君の葬儀が執り行われた。師の君は息を引き取る瞬間、微かに笑われた。やっと以徳様に会えると呟いたような気がした。そして、以徳様と会った時、市川家の末裔に自分の家を継がせたと満面に笑みを湛えて報告されるだろうと花圃は思った。

 澄が、手記を手元に置きたいと望んだので、花圃は、それが良いと承諾した。

 

                                    終

 

 追伸 久し振りに骨と身のある小説を読んだような気がした。

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