今年度上期の直木賞受賞作品を購入。
著作者・荻原浩は1956年生まれの60才。
1997年、第10回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
その後、第18回山本周五郎賞や第5回山田風太郎賞を受賞している。
なのに、この方の名前も作品も、私は耳や目にしたことがなかった。
家族愛を描いた現代短編集とのこと、早く読んでみたいと思っている。
その前に、購入したパソコンの勉強をしなくてはならず、多忙。
今年度上期の直木賞受賞作品を購入。
著作者・荻原浩は1956年生まれの60才。
1997年、第10回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
その後、第18回山本周五郎賞や第5回山田風太郎賞を受賞している。
なのに、この方の名前も作品も、私は耳や目にしたことがなかった。
家族愛を描いた現代短編集とのこと、早く読んでみたいと思っている。
その前に、購入したパソコンの勉強をしなくてはならず、多忙。
保障期日は過ぎていたが、とうとう今まで使っていたパソコンが動かなくなった。
昨日、新品の「FMVLIFEBOOKAH53/X」を購入、業者に設定してもらった。
しかし、Windows10は、OSなどが以前使っていたWindows7とは違っていて、
また、小学生からやり直しだ。
それだけでなく、ドキュメントファイルを今年の3月に、バックアップしてから、以後さぼっていたので、
データがとれればと以前のパソコンを修理に出しました。
もし動かないとなれば、家計簿とか毎日記録していた健康データなど、
4月以降のデータがなくなるので、がっかりしています。
そのほか、知人等のメールアドレス、ブログアドレスも
今から新しくメモっていかないとならないといったところです。
明日からは、古いファイルを使ってのExcelファイルづくりに忙しくなります。
(江戸時代前期の上水施設)
「第三話 飲み水を引く - あらすじ」
天正18年(1590)、家康が秀吉に関東移封を命じられて間もなくのある日。
家康は、駿府城下で、鉄砲傷を腰に受け足を不自由にした家臣・大久保藤五郎に、
「わしは、関八州の領主になるのだが、城をつくる江戸は、泥湿地で良質な地下水が得難く、遠浅の海が江戸城のふもとを洗っており、城の周りに人が住んでも、井戸水は塩辛くて飲めないといわれている」が、
「おぬしは、菓子作りの名人といわれているので、菓子作りに必要な水についても詳しいだろうから、わしは、再来月の8月に江戸へ国入りすることにしているので、先に江戸へ行って清水の湧きどころを見出しておくように」と命じた。
よい菓子にはよい水がいる。そればかりか、菓子にそえる濃茶や煎茶も同様と、水こそは、五味の源と心得ている藤五郎は、味分けの舌を、民政にも用いよとの命ですねと有難く受けた。
そして、藤五郎は、家康に、「この役目、拙者一人にお任せ下され。未来永劫、余人にはお命じならぬよう」 とお願いした。
藤五郎は、この仕事に武士としての存在そのものを賭けようとしているとみて、家康は、大いに良しと快諾した。
◆
13年後、慶長8年(1603)。 (1615年、大坂夏の陣、豊臣氏滅亡)
家康は、この年の2月、朝廷より、右大臣・征夷大将軍の宣下を賜ったのを機に、ときどき関東へ下り、鷹狩りを再び楽しむようになった。 猟場は、現在の三鷹の名で呼ばれている市域内外である。
家康は、鷹狩りの後、在の者を呼べといって、前に出て来た六次郎という村の名主に、その場ですくった白木の椀の中のしっとりした粘土の赤銅色の土を見せ、
「わしは江戸の民々に水を飲ませてやりたいので、鷹狩りに興じながら、地相を観じておるが、このような土があるからには、近くに、きっと豊かな地下水があるはずだ。 その湧きどころへ案内せよ。わしはそこからはるばる江戸へ水を引きたいのじゃ」と命じた。
湧水点は森の中にあった。 六次郎は、「わしら土地の者は、「七井の池」(現在の井の頭)と呼んどる」という。
家康は、「六次郎よ、この家康をよう導いた。今日からおぬしは普請役じゃ」と家臣に取り立てた。
◆
しかし、その上水工事は開始がやや遅れた。
地元の村人が、わしらが使う水の池が干し上がってしまうと、反対したので、六次郎は一軒一軒説得して歩いていたのだ。
工事はまず、水路の開削から始まった。 開削は森の中に川を通すということなので、最初のうちは野方掘りが採用された。 掘り幅も二間(約3.6m)なので、さほど難工事ではない。さらに、武蔵野は西高東低で、ある処から北高南低と殆ど下り坂だったので、目白までの工事は容易であった。
市中に入ると、それまでとは異なるのは、周りの地面が崩れ落ちるのを防ぎ、水そのものの清浄を保つために、水路内部の側面が石垣で固めなければならないことだった。
それと、市中深く入り込めば、上水は、城郭の中へも入らなければならぬ。城郭内へ入るには、江戸城の外堀を越えなければならないのだ。
六次郎は川どうしの立体交差を考えた。
◆
外濠は、ここでは東西方向である。 ちょうど深い谷を流れているので、その上に、北から南へ掛樋をかけるのが完成予定形だった。 掛樋とは上水専用の木造橋であり、人間の通行は厳禁されている。
のちに水道橋と呼ばれ、江戸の名所になった橋である。
この日は、その架橋の下準備として、南北の崖へ土を盛る作業が行われていた。
六次郎は、(牟礼の百姓が普請役とはのう)との満足の表情をして、右手に軍配を振りかざし、作業人足を指揮叱咤していた。
そのとき、六次郎は、背後から輿に乗った武士に小袖の襟を掴まれた。
身体を後ろへ向けて、六次郎は、「それがしを上水普請役・内田六次郎と知りての狼藉かや。 家康公に言いつけるぞ」喚きたてた。
輿の老武士は、「三河以来の譜代の臣で、殿さまの菓子調整を司っている大久保藤五郎忠行じゃ」と名乗る。
そして、両者は、輿の上と下で口汚く論争しだした。
しかし、周囲の人足たちの囃子声に、我に返った藤五郎は、(未来永劫、余人には命じないと言われたのに、どうしてこんな男を普請役に選んだのか)と、家康との約束を思い出した。
◆
もう15年近く前、当時40代の藤五郎は、家康に命じられて江戸に入った。
まずは、江戸湾沿いの集落へ赴き、漁師たちに何処の水が一等旨いかと話を聞いて歩いた。
しかし、上手い水が見つからず台地へ進んだ。
そして、三ヶ月の苦闘の結果、藤五郎の舌に堪え得たのは、「赤坂の溜池」「神田明神山岸の細流」の二つだった。
前者は、江戸城の南西方、赤坂台地からしみ出した地下水が北へ流れ落ちて池をなしたもの。後者の神田明神は、江戸城の北東、現在の駿河台の上に立っている原住民鎮守の神なのだが、この駿河台とその西隣の本郷台地の間に小さな谷水の川があり、その流れ。
前者の水を城の南西地域に巡らし、後者の水を北東地域に巡らせば、地域的な重なりがなく、江戸市中を効率的に網羅することができる。
藤五郎は、早速に神田に住みつき、排水方式はさしあたり開渠で行い、ところどころに貯水池や井戸を設けて水が汲めるようにするとの献策書を書いた。むろん、水そのものも添えた。
藤五郎は、褒美をもらった上に、「主水(もんと)」の名も賜った。
また、15年経ったころまでは、「藤五郎の上水」は人々の喉を潤した。
しかし、江戸はもはや15年前の江戸ではなく、海は埋め立てられ、川はまとめられて、可住面積は殆ど別の地のように増え、人口はあっという間に5万を超えた。
水が足りぬことは自明だった。水を足すことを計画し、実行するのは為政者として当然だろう。
家康は、武蔵野の原野から浄水をはるばる引っ張り込んで、市内へ配ろうという大計画の工事を、湧水池がある牟礼の村の六次郎という名主に命じた。
藤五郎には、くれぐれも余人には命じないと家康から認められた誇りがある。この誇りは五体満足でない男にとってどれほど大きく生きる糧になっているか。なのに、なのに、六次郎に命じたのか。
家康が、そのことを知っていて、なぜ、ただの名主に普請役を命じたのか。牟礼の村の顔であるというその一言だったのだろう。
池の水をとるためには、地元の同意が不可欠である。さらに上水完成後の水質管理においても地域ぐるみで監視することが必要である。いわゆる村そのものを抱き込むために、家康は六次郎を選んだのだ。
藤五郎も、そのように考えて自分自身を納得させようとしたのだった。
◆
掛樋の工事はあっさりと終った。水路橋が架けられたのだ。
六次郎は、いよいよ本格的に郭内へ討ち入ることになる。これまでの工事が例えば、大動脈を長駆みちびくものだとすれば、今後は毛細血管を張り巡らすものとなる。 工事はここからが本番。 熟練の技術と最新の配慮が求められることになるだろう。
普請の現場に来た藤五郎に、六次郎は、「おぬしが築いた街中の開渠は、道の脇に設けたものが多いようだが、全部取り壊させてもらい暗渠にする」という。
暗渠、つまり水道管の地下設備。当時の言葉では陰溝という。松や檜といったような硬くて腐りにくい木の板を組んで六尺(約1.8m)四方という巨大な四角い木樋(送水管)を作り、道の下に埋めるのだ。
藤五郎は、暗渠は大いに結構だと反対はしなかった。
◆
藤五郎は、六次郎に技術的なことを質問した。
名だたる旗本や大名の屋敷地はおおむね山の手にある、ということは台地にあるのだが、いったん低きに落ちた水を再び引っ張り上げるのは、自然の法則に反するのだがどうするのじゃと。
六次郎は、わしも分からん。しかし、あの若い侍が取り仕切ってくれるのだと、二人の前に現れた20代の春日与右衛門を紹介してくれた。
与右衛門は、徳川家の上級家臣である阿部正行の若党だった。
阿部は江戸の街づくりの土木工事を担当していた。
家康は、上水の土木工事が市内に入ったら、もはや、六次郎の手に負えないだろうと、阿部に上水普請を補佐せよとの命令を出し、阿部が自分の家臣の土木実務者を派遣していたのである。
与右衛門は、先ず、土木工事の経験豊富な労働者を、河川工事専門の伊奈忠次や農業用水路建設を行なう用水奉行などの処から集めた。
後の世に、神田用水と呼ばれることになる上水道の設置工事は、ここにおいて、素人による試行錯誤から専門家集団による高度の開発事業に変ったのである。
藤五郎は与右衛門の案内で、二本の道が直交する場所にある「枡」を覗いて見た。今日でいうマンホールである。
首をのばし、四角い竪穴の奥を覗くと、四方の壁にはぴったりと木の板が貼られている。一方の壁の入り管が、反対側に出管がみられ、ある枡では入り管が下のほうにあり、出管が上のほうにあって、これで高い台地に水を送ることができるのだと知った。
藤五郎は与右衛門から、枡には、この水位回復機能の他にも重要な働きがある。 一つは、砂や土を沈めこんで水をきれいにする沈殿装置としての機能、もう一つは、木樋と木樋の継ぎ目になる分水機能があるのだと説明を受けた。
◆
以下略
「第二話 金貨を延べる」のあらすじに続く
(利根川の東遷図)
「第一話 流れを変える - あらすじ」
天正18年(1590)夏、秀吉は、相州石垣山の山頂に登り、放尿を始めた。そして、横に付き合った家康に、「いまの所領の代わりに、関八州をやろう」と申し出た。
後日、家康は、反対する家臣に、
「わしは、この国替えに応じようと思う。ここは初志を貫かせてくれぬか。関東には未来(のぞみ)がある」と述べた。
家康は、このとき49歳。(この時代であれば、)普通なら未来どころか過去の生涯を振り返り、清算すべきを清算し、そうして、子々孫々のため、良き死の準備をすることをこそ意識すべき年齢だろう。
家康は、石垣山の陣中に戻り、秀吉に、
「国替えのお沙汰、ありがたくお受けつかまつる」と返答する。
秀吉は、邪魔者を僻地へ追い払ったと、こ踊りし、
「城は何処に。関東の中心といえば、小田原じゃな。鎌倉も悪うないかの」と言うと、
「武州千代田の地の江戸城へ居住(いすま)おうかと」と家康は答える。
その江戸城は、百年以上も前、太田道灌が築城したが、いまは小田原の一支城で、ただの田舎陣屋に過ぎぬものであった。 秀吉は、狐につままれたような顔をした。
◆
小田原落城から一ヶ月もせぬ8月朔日(1590)、家康は、始めて江戸に足を踏み入れた。
お城は荒れ寺のようで、重臣の本多忠勝や、土井利勝、井伊直政が、それぞれ城の構想を申し立て、普請を申し付け下されと言うが、家康は、
「城は後でよい。いま必要なのは、江戸そのものの地ならしじゃ。この湿地帯を大阪にしたい」と言い、「伊奈忠次、まかり出よ」と命じ、
「そのほうに命じるのは、江戸の街そのものを築く基礎づくりじゃ。 城ひとつ建てるよりはるかに困難な名誉な仕事である。喜んで受けよ」と言う。
◆
伊奈忠次は14歳のころ、家康の家臣だった父・忠家が一向宗門徒の一斉蜂起に事態を静観していたことから領外追放となり、20年後、帰参が叶って甲斐国へ派遣されていた。
そのころ、山賊が跋扈していて、忠次は、山賊のある一族の首領の首を刎ねて、村人の生活の安心を取り戻した。
たまたま、家康が鷹狩りに来ていて、忠次は、事の次第を報告すると、「そなたも一統の指揮者であろう。自ら賊とわたり合うは血気の勇」と言われた。
忠次の頭脳は、この瞬間、おのが立ち位置を正確に知った。(おれは、武人であることを望まれていない、武人など家康の家臣団には有り余るほど存在する。但し、その反面、文人というか、有能な民政長官の能力をもった人間はほとんどいない。家康は、それを見込んで直参にしたのであろう)
「殿さま、申し訳ありませんでした。拙者は臆病者になりまする」と忠次は平伏し、以後、二度と刀を抜かぬことを心に誓った。 以後、そのように振る舞った。
これが、民の政事に専念するため、戦場へ引っ張り出されぬようにするために、殿に申し出た忠次の戦略だった。
◆
伊奈忠次は、田畑の調査などをしつつ、二年かけて関東平野をくまなく歩いたあげく、ある秋の日、床几に腰を下ろして、「やはり、利根川じゃな」と言った。
長男の熊蔵が、なぜと聞くと、
「利根川こそが、江戸の地を水浸しにしている元凶なのだ。流量が多く、江戸湊(東京湾)に注ぐ河口が広すぎるからだ」と、忠次は説明した。
そもそも利根川は、上野国の北部、水上(群馬県みなかみ町)の山深くを水源としている。 はじめ南東へ、やがて南へ流れて東京湾に注ぐというのが大ざっぱな流路だった。
「河口は、江戸城の北東方・関屋(足立区千住関屋町)にある。周囲は、一面湿地となり、海の水と混じり合い、人の歩みを拒んでいる。米も実らぬ。畑にもならぬ。江戸で雨が降らずとも、北関東で降れば手のつけられぬ水が押し寄せる。この問題を解決せねば、江戸は永遠に未開のままじゃ」
忠次の話に、熊蔵は「ならば、河口を移せばいい。大きく東へずらしてしまうのです」という。忠次も、
「川が江戸に入る前に、まだ武蔵国(埼玉県)辺りを南流しているうちに、藁しべを折るように、川そのものを東に折る。そうして加工を上総へしりぞけてしまう。 そうすれば、江戸の地ならしは、極めて容易になるじゃろう」と語る。
◆
忍城(おしじょう:埼玉県行田市)城主・松平忠吉様と付家老・小笠原様がお出でになりましたと、従者から報告があり、忠次は、「利根川東遷の端緒が来たか」と、地に伏して迎えた。
「拙者としては、この「会(あい)の川」の南へ曲る本流(本来は支流)を締め切り、川全体を東西の一本道としてしまうのです」と、忍城城主へ申し上げる。
この川は、Tの字なりに南へ支流をのばしている。この支流は本流より川幅が広いので、本流といわれるべきだろう。東へながれる本流は、もう一度、南へ流れるようになる。
「したがって、南へ流れは水源を失い、廃川となり、いわば長大な沼になるようようなものですから、それを利用して周辺地域に水路を開き、網の目のように張り巡らすのです。そうすれば、田が開ける、人が住める。舟を使っての運搬も容易ですし、洪水の心配もなくなります。若君、小笠原殿。ご允可いただけますや?」と続けた。
◆
締切工事が始まった。
そして、(工事は1954年完了し、)南への流れは締め切られた。 残ったのは、西から東への一本川。これが利根川となった。
しかし、川は緩やかにカーブし、栗橋辺りで南へと流れ、以前と同じく、水は元と同じく東京湾へ注いでいた。
「忍領の領民にとっては大きな利益だったけれども、江戸の民には、何の利益もなかったのでは?」と、熊蔵は、父に疑義を呈した。
忠次は、「あの締め切りは、ものの試しに過ぎぬのだ」と、子供っぽく笑って、「要するに、土木技術のテストだ」というのだった。
「なにしろ、あそこは砂洲があり、良質の意志も手に入りやすいし、水深も比較的に浅く、作業員の事故死も抑えられる。そのくせ、成功したら、家康公四男の知行地をみどりの沃野に変えたという大きな評判が、関東はおろか、全国に広まるだろう。となれば、次の治水も遣り易くなるだろう。わしはな、そういうところまで考えて、始めに会の川を選んだのじゃ」と。
熊蔵が、石橋をたたいて渡るような話ではありませんかと言うと、忠次は、
「家康さまも同じじゃよ。決して急がず、確実を期す。時には回り道をも辞さぬ。上様を見習ったのじゃ。今度は利根川じゃぞ」と言う。
◆
ところで、関東平野には利根川と並ぶ大河川がもう一本あって、利根川のさらに東を、やはり南北に走っている。
渡良瀬川だ。あたかも、二本の平行線のごとき地相を呈しているのだが、忠次の構想は、利根川をぐいと東へ曲げて渡良瀬川へ合流させてしまおうというものだった。
そうすれば、利根川の中下流はまるまる廃川となって河口は干し上がる。江戸の可住面積は広がる。むろん、その代わり、渡良瀬川の河口へは、大河二本分の膨大な水が殺到することになるけれども、そこは、もはや江戸ではない。江戸から東へ四里も離れた下総国の猫実村(千葉県浦安市)だ。
この構想は、ちょうど利根川の河口を、北千住からディズニーランドに移すようなものだ。
なお、利根川と渡良瀬川が合流してから、その下流は、新たに利根川と呼ばれるようになった。
工事は規模があまりにも大きく、秀吉の死から大阪の激変で、工事は幾たびか中断し、実際の工事は、江戸幕府開府の数年後で、利根川と渡良瀬川の合流工事の完成は、元和7年(1621)、あの会の川の締め切りから27年も経ってからだった。
関屋の河口は無くなったわけではなかった。他に水源を得て、ほっそりと東京湾に注ぎ続けた。江戸城東部を南流するこの細い流れは、隅田川と呼ばれることになる。
◆
伊奈忠次の後を継いだ次男の忠治は、合流工事完成の翌年、11年前に亡くなった先代(忠次)と4年前に34歳で病死した兄・熊蔵(長男)の墓参に赴いた。
熊蔵は先代が亡くなった後、家督を継ぎ、遺領一万石を継承し、代官職も踏襲した。実名は忠政。
もちろん、先代から期待されて代官の仕事の帝王学を授かった。
将軍職を秀忠に譲った家康は、この26歳の忠政を側近として駿府へ呼んだ。
4年後に、家康は、大阪へ出陣した。世にいう大坂冬の陣である。熊蔵とその一党の姿も、そこにあった。
民政長官が、軍事作戦の一翼を担うこととなったわけだった。家康としては、先代からの功績にも報いるための大抜擢であった。 家康は、大阪の長柄川を水源近くで堰き止めて、大阪城下への生活用水を止めることを、熊蔵へ命じた。
家康は、一ヶ月かけても完了しないことに激怒して本人を呼び付けた。 熊蔵は近隣村へ水が溢れることを防ぐための長い水路を一本作ってから、堰き止めようとしていたと陳弁した。
家康は、「ここは戦場だ。近隣村への水の溢れを防ぐ必要はさらさらない。ここでの、川の堰き止めは、代官の仕事でなく、武将の仕事だ」と一喝した。 (しかし、家康の人材適所の失策でもあった)
それからは、家康からの声掛けはなく、熊蔵も何をしていいか判らず、惑乱して病床の人となった。
◆
忠治は、利根川工事は終わったと判断した。
家康の関東入府から、30年経っていて、大名同士の戦争はなくなり、人々は農業に集中できるようになり、江戸は多くの人が住むようになった。
そのため、米を作ることよりも、米を運ぶことのほうが重要になった。 つまり、生産よりも流通へと社会の発展が一つ先の段階へ進んだ。
具体的には、水路の整備だった。 江戸で消費する米や常陸のこんにゃく、上野の生糸、下野の石材、行徳(市川)の塩を運ぶためには、ぜひとも必要だった。
忠治は、これからは利水の時代であり、利根川を鹿島灘へ注がせようなどという巨大開発は、もはや人々の支持を得られるはずがないことを知っていた。
◆
利水工事がほぼ終わったと思われたころ、忠治は、51歳になった寛永19年(1642)、第3代家光時代の幕府の許しを得て、赤堀川を完成させることになる。
これは、利根川東遷という大事業の最後の一手に他ならなかった。 渡良瀬川と合流した後の利根川から落とし堀(人口の支流)をひとすじ東へ掘り進み、7キロほど先の常陸川という自然河川に接続しようというものである。
9年後に忠治が死亡した翌年の1654年、家康の先見の明で、先代・忠次が調査しだして64年経って利根川東遷は完成した。
「第三話 飲み水を引く」のあらすじに続く
「概要」
(BOOK asai.com 末国善己氏 より)
天正18(1590)年、徳川家康は、豊臣秀吉から関東八か国への移封を打診される。
そこは240万石の広大な領土ながら、低湿地が多く、使える土地は少なかった。
家臣団は猛反対するが、家康は居城を江戸に決め、町造りに着手する。
………(家康の内政能力とその実行力と、家康に抜擢されそれに応えて)………江戸を大都市に変えた技術官僚に着目した連作集である。
湿地対策のため、利根川の流れを変える大工事を行う伊奈忠次を主人公にした「第一話 流れを変える」。 神田上水の建設に尽力した大久保藤五郎と内田六次郎を描く「第三節 飲み水を引く」は当時の土木工事を迫力一杯に活写した技術小説になっている。
秀吉の下で大判をつくる後藤家に雇われていた庄三郎が、自分を認めてくれた家康のため、新通貨の小判を武器に通貨戦争を仕掛ける「第二話 金貨を延べる」は、経済小説としても秀逸である。
(その他に、江戸城石垣の造成競争ー第四話 石垣を積むー、大阪城の天守閣が黒壁なのに対して江戸城はなぜ白壁かというー最終章 天守を起こすー が記述されている)
著者は、敵を倒す武将ではなく、無名でも能力があれば家臣を抜擢した家康の内政能力に着目している。
主君の期待に応えようとする主人公たちも、常識にとらわれない発想で難事業に取り組み、未来を切り開くベンチャー精神を持っているのだ。
逆境に負けず挑戦を続けた家康とその家臣の物語は、閉塞感に苦しむ現代人の希望である。
「第一節 流れを変える」のあらすじに続く