T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「終わらざる夏」を読み終えてー3ー

2010-08-30 09:06:05 | 読書

第八章(孤島の戦闘)

(真夜中に上野駅に着いた譲から電話があり、迎えに行く母親の記述を省略する。)

〇 敗戦も降伏も日本軍にとっては初めての経験である。兵器は葬り去らなければならなかった。戦車は砲塔を外し、機関銃も無線機も下ろして海に沈める。燃料はドラム缶ごと地下陣地に埋めるとか、中隊がかからなければならない作業は多くあった。しかし、大屋准尉はいま少し状況の推移を見るべきだと反対を力説する。

 大屋准尉は勘働きで中隊の仕事を中止したので、じっとしておれず中村伍長の運転するトラックで島の東北端に偵察に行き、今は何もなかったが、老いの勘働きは取り越し苦労であって欲しいと思う。

〇 8月18日早朝未明にソ連軍二個大隊が島の東北端に上陸し、第1線守備隊と交戦となった。大屋准尉は故障の戦車を修理し中村伍長と前線に、吉江参謀に片岡二等兵も付いて前線に行く。

〇 師団参謀長から女子挺身隊員の脱出命令を受けていた渡辺中尉は森本主任と協力し、軽爆撃機が波状攻撃を繰り返す中、海霧が漁船等を集結していた幌筵海峡を覆ったときを見計らって全員を根室まで脱出させた。

 出発までには、岸上等兵の脱出するか否かの隊員の意思を纏めてくれ、缶詰と違うのだという意見を当然のことだと、渡辺中尉が感心したこともあった。また、森本主任が島に残るということで、石橋キクがなぜ降参したい相手に戦争を仕掛けてきたのか、降参した相手をなぜ殺そうとするのか、何の理があるのか聞きたいと、一時は居残る無理を言った。

〇 戦闘が終わった時点でオルローフ中尉が愛人レーノチカへの死の別れの手紙の記述の中からの抜粋。

 上陸時の戦闘で大隊は殆ど消えてなくなった。私はたった一門の対戦車砲を曳いて右往左往し部下3名と谷地に辿り着いた。

 多分、英語だと思うが、しっかりしなさい、死んじゃいけないと、日本の老兵が僕の壊れた顎に水筒の口を当ててくれた。

 止めろ止めろと言いながら、やむなく戦い、当然のように出した停戦交渉の為の軍使も散り散りになり、同行のこの老兵通訳も一人戦場を彷徨っていたのだろう。

 部下の斥候が帰ってきていきなり機銃を掃射し、僕の手首を吹っ飛ばして本人も倒れた。水溜りに尻を落とした日本の老兵は軍服から染み出る血を手で押さえ、雑嚢に手を伸ばした。僕は老兵が手榴弾を取り出すと思うより早く体が反応し、拳銃の引き金を引いた。

 降伏した軍隊に戦闘を仕掛けた上、その老兵軍使を殺したのだ。しかも、自分を助けてくれようとした相手を殺したのだ。

 彼の雑嚢からこぼれ出たのは手榴弾ではなく、アルハベットでSEXUSと書かれた英語の本と栞の変わりに差し挟まれていた若き女性の写真だった。

 僕は残された命を振り絞って、彼を花咲く草原に引きずり上げた。

                                          

終章(強制収用所での菊地軍医の行動)

〇 戦闘が終わり、武装解除が終えたのは8月24日であった。圧勝しながらの降伏であった。千人単位の作業班に再編されて9月中旬からソ連邦領内へと移送された。

〇 バイカル湖近くの強制収用所の医務室にいる菊池軍医のもとに、極度の栄養失調と発疹チフスによる衰弱者が連れ込まれているが、それらの兵士は数日で死ぬ状態だ。

 菊池軍医は暫くの間、注射器の胴を握って温め、氷点下の冷気を避けて少しでも温めた空気を患者の体に入れた。患者は苦しむことなく静かに死んでいった。医薬のない現状で、この方法を教えてくれたのは医専の先輩軍医からだが、この軍医はそのことを苦しみ数日前に自殺した。菊池軍医も処置をした都度、外へ出て辛さと怒りを吐き出しているようだ。

〇 森から大木を伐り出す重労働が、軍の命令に基づく正当な作業とはどうしても思えない、伐採した大木は放置され輸送される気配はない。

〇 「あなたたちは、千島で3000人のソ連兵が殺されたことを知っているのか。戦争が終わっていたのに、これは犯罪です。犯罪者は捕虜ではない。罰として働く、死んでも働くのは当り前。」菊池軍医はテーブルの下で拳を握りしめ、ソ連軍医に、君はそれでもヒポクラテスの弟子か、医者かと怒りの声を高めた。

〇 菊池軍医は自分の行為が反逆ととられることを自覚して、死の前の整理を始めた。

 医学書の中から手紙が落ちた。富永軍曹から預かった母親への手紙だった。悪いと思いながらも中を見た。菊池先生に手紙を預けた、昔のように先生の言う事をよく聞いて長生きしてくれと書いてあった。菊池軍医はこの手紙によって生きよと命じられたと感じた。

 軍医の心変わりを責めるかのように吹雪は丸太小屋を軋ませて荒れ狂っている中で、油紙に包まれた押し花のノートが出てきた。初めは誰から預かったものか思い出せなかったが、菊池の胸に押しつけた手、眦を決した少年兵の顔が浮かんだ。表紙には占守の夏と書かれていた。ページをめくったとたん、終わらざる夏の光と風が輝き吹き上がったようだ。

〇 菊池軍医の前に渡辺中尉が来て、肺炎の兆しの喘鳴があるのに聴診器は無用だと言いながら、押し花のノートを見て短気は命取りになるよと言い、あなたに万一のことがあったら誰が我々の命を預かるのかと言う。

 400名の挺身隊の船団が無事に根室に着いたときは、勝ったと万歳の歓声を上げたと話してくれた。

〇 翌日、倒木の下に飛び込んだ吉江兵長の死体が医務室に運ばれてきた。吉江参謀が一兵卒に身を変えていたのだ。しかし、密告で正体がばれたため自殺したのだ。菊池は急ぎ私物を持ってこさせた。殆どのものは兵卒が使うものばかりで怪しまれるものはなかったが、中に何枚もの藁半紙の表裏に几帳面に細かな字で書かれていた。菊池には見覚えがある字だと気付いた。

 吉江参謀は何時この訳文を託されたのだろうか、片岡二等兵の生死はどうなったのだろうか、吉江参謀は捕虜となった時点で戦犯となり立場上死を覚悟せざるを得なかっただろうから変装したのだろう、しかし、この遺品を手にした時から更にあらためて一兵卒として生き抜く覚悟を決めたことだろう。

 菊池軍医は自分自身に必ず帰ることを誓う。

  

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「終わらざる夏」を読み終えてー2ー

2010-08-29 14:37:04 | 読書

終わらざる夏・下

第四章ー承前ー(占守島の女子挺身隊員と兵隊の気持)

〇 石橋キクたち、女子挺身隊員の二人は占守島の缶詰倉庫の屋根上に刈ってきた這い松で対空擬装をしながらホームシックにかかっていた。彼女らは函館の女学校を卒業と同時に400人が挺身隊員として10月までの約束で来島していた。

 隣の島の幌筵島の両方に日魯漁業の缶詰工場があり、5月には全員で2500人の挺身隊員が働いていた。

 来島した5月頃は海峡や港も船の往来で賑わっていたが、今はその姿が見えず、倉庫には缶詰が山積みされていた。

〇 視察に来た吉江参謀と大屋准尉に函館も空襲にあったようだが、本当のことを知りたい。戦争が不幸なのでなく、事実が伝えられない事が不幸だと思う。家が焼けようが私達は働き続けます。ここで越冬せよと命じられればそうします。一等残酷な仕打ちは真実を知らずに戦うことだと問い質す。しかし、函館の損害は軽微だ心配は要らないと言われる。

〇 吉江参謀は札幌にトンボ帰りをしないで一週間居座っていた。しかも大屋准尉の中隊段列の丸太小屋に泊まり続けていた。旅団司令部に泊まれば大本営に居たので質問を浴びせられる、知らぬともいえないからだと言う。

〇 大屋准尉が島周辺の現況から日米戦の戦況を問い質した。吉江参謀は、北方には敵は来ない。我々を置き去りにして本州九州を目指しての本土決戦になるだろうと答える。

 大屋准尉が大発でも漁船でもいい、何故早めに転進しないのかと問うと、吉江参謀は無理な相談だと言う。

 大屋准尉は胸の底から止めようのない怒りがせり上がってきた。

 自分が経験した戦場での恐怖や制裁や懸命に努めたことに対してではなかった。

 産婆がいくら叩いても泣き声をとうとう上げてくれなかったわが子、そのはかない命の後を追って息を止めてしまった妻の死、軍人であるために満洲の荒野に一人置き去りにせざるを得なかった後添いの若い妻のこと、そして、小樽での待機中に大切に持っていた妻子の位牌を今回が最後と思い後添いの妻に悪いと冬の海に捨ててきたことについて、参謀の己の失敗を棚に上げて、関係ない話だと言わんばかりに、無理な相談だと言い捨てたことが我慢ならなかった。

 吉江参謀は謝罪し、いま少し聞いてくれという。

〇 大本営の動員参謀から託された私事だと勝手に語りだした。日本はこの戦争に負けます。師団長に託する書簡には、四国共同宣言は日本の無条件降伏を勧告するものだが、国体の護持が保証されるのであれば、この宣言は受諾するべきだと考えると書いてあるとのこと。

 そのことを頭において、この師団の現況を見たときに、その士気と練度に怖れて、札幌に帰らずに此処で作戦指導をする必要を感じたのだ。また、そうした事態を予測して通訳要員を動員した。

 もう一つ聞いて欲しい。ソ連が中立条約を一方的に破棄して、わが国に宣戦布告したが詳細は不明だと言った。

〇 女子挺身隊員を引率してきた日魯漁業の森本主任は司令部副官の渡辺中尉からソ連の参戦を聞き、400名の挺身隊員の操を守ることに命を張ることことを二人は誓う。

〇 二人が海岸を歩いていると3人の補充兵を乗せた大発艇が滑り寄って来た。

                                              

第五章(占守島に着いた補充兵)

(脱走した譲と女生徒が東京を目指す途中の出来事と片岡の妻の状況を省略する。)

〇 片岡二等兵たちの長い旅路がようやく終わった。片岡二等兵はこの島は極楽なのではないかとも思えるところがあり、ヘンリー・メラーのセクサスの原文を雑嚢の底に入れていたことを思い出した。

〇 吉江参謀に富永軍曹が代表して申告した。

 参謀は片岡二等兵に戦は近々終わるが、そのときの通訳をして欲しい、富永軍曹と菊池軍医には、なぜこうなったか私は知らないが、とにかくご苦労をかけましたと正直に言った。

 富永軍曹は語気を荒げ、私等はおまけの子分のような言い方をさらたらかなわん、盛岡の医専病院で老人の面倒を見ていた大切な先生と酔いたぐれの傷痍軍人を一緒くたに大発に乗せて、師団の要請といわれても訳がわからん、三度も軍隊に引っぱられて四度目はおまけだって言うのかという。

 菊池軍医がなだめる中で、片岡二等兵に降伏の交渉では上手く話をつけてくれ、兵隊をもう殺すな、関東軍の精鋭だろうが、兵隊には親も子もいるのだと言う。

                                                  

第六章(8月15日の彼方此方)

(玉音放送の内容を疎開学童に説明する場面を省略する。)

〇 欧州から転戦してきた白系ロシヤ人のオルローフ中尉がカムチャッカ半島のペトロパヴロフスクに駐留していて、愛人のレーノチカに8月15日に手紙を送る。

 赤軍将校としてではなく、君との生活を夢見て誇り高きコサックのアタマンとして戦ってきたが、もう戦は厭だ、別の戦になど向かいたくない。夢の中でもタタール人の子供が又遊ぼうね、戦争が終わったらねと言った。僕と僕の部下達には、日本と戦って生き残る自信などない。銃を投げ捨てて君を抱きしめたい。君が呉れた銀の十字架に終わらざる夏の終わることばかりを祈るだけだ。(大義のない戦闘では誰でも人種を問わず平和を望むものだと思う。大義があっても平和に勝るものなし。)

〇 占守島には五家族の定住者がいて、漁業・狩猟を行いカムチャッカ半島のロシヤ人と商売をしていた。今は日魯漁業と漁業の取引をして暮らしている。森本主任はソ連の参戦に対してこの定住者も何とかしなければと思っているが、定住者はその心配は不要だという。

〇 盛岡の聯隊区司令部の佐々木曹長は県庁の講堂で玉音放送を聞いた。彼のポケットには甥と役所の庶務係の女性職員の父の二通の戦死内報を入れていた。今までに赤紙の名前を書いた17万数千のなかの3万3千の戦死者を伝えた曹長としては、昨日遅く受け取った内報を伝えることができずに、涙が軍靴の上に滴り落ち、身を震わせて唸り声を上げ太陽に灼かれていた。

                                           

第七章(北方の8月15日)

〇 8月15日の夜、オルローフ中尉はペトロパヴロフスクの酒場で戦友のドロシェンコ中尉へ手紙を書いている。

 帰国の朗報は欺瞞命令で、今はウラル山脈を越えカムチャッカ半島に駐留して日本との戦争に動員されているのだ。

 今までの戦闘は戦う目的も死ぬ理由もはっきりしていた。しかし、今はそれが判らないから恐怖だ。

 スターリンは、アメリカ軍が千島列島の日本軍を武装解除する前に、太平洋に出るために必要なカムチャック半島の領有権を主張するために、ともかく戦争を継続しなければならないとワシレフスキー以下の部下に指示していた。しかし、現地では準備が整わず8月8日の宣戦布告に間に合わず混乱していた。

 そのなかで、日本の降伏を傍受し報告した通信兵をそれは誤報だとニキーチン少佐はカトレフで射殺した。

 僕らは降伏した敵に戦闘を仕掛けるという悪魔の行いをする破目になった。アメリカの軍使が平和的に武装解除するより先に一昼夜を航行して日本に戦闘を仕掛けるのだ。

 我々の兵力は、戦車がなく、兵員数も三分の一の8000人という完全に戦力的には劣るが、ただひとつ優勢と思われる点は、我々が既に勝者であり、彼らが既に敗者であるという全く不可解な事実だけだ。しかし、降参などするはずのない圧倒的に優勢な敵と戦って我々は皆死ぬのだ。これが大祖国戦争の決着さ。

〇 8月14日、カムチャッカ沖で漁船が拿捕されたことを知り、今の時期にと胸騒ぎして吉江参謀は偵察機でカムチャッカ半島の西側の沖合いまで偵察に出た。そこに物資を満載した小型船艇や上陸用舟艇や輸送船を見た、舟艇は大小のアメリカ艦艇であるが、それはソ連に供与されたものだと確信した。そこでソ連が来ると確実に思った。

〇 8月15日の正午の重大放送は知っていたが、占守島の旅団司令部にもラジオ受信機がなかった。大屋准尉は明日の準備のために戦車の無線機に手を加えてアリューシャンからの放送を聞くことができた。片岡二等兵に通訳してもらうと、ポツダム宣言を日本が受諾、無条件降伏、戦争は終わったとのことだった。しかし、前日なので、それを司令部に通知できるものではない。

 急造の無線機では放送内容は明確でなく、旅団司令部以下の兵隊は8月15日の正午の時点では聖戦貫徹と思い込んでいた。夜になって大屋准尉のとこに、戦車中隊長が来て参謀から何か聞いているだろうということで降伏したことを知り、北海道の同盟通信の電を傍受したことから確認し、司令部全体が無条件降伏を知る。こうして、8月16日、不戦平和の元日が開けた。

〇 8月17日、幌筵島の師団司令部に各部隊長と日魯漁業関係者が集められた。しかし、第五方面軍司令部との連絡は電波状況が悪く、切れ切れに届く命令は要領を得ず、樺太は8月9日から戦闘が続いていたので、方面軍司令部も混乱しているに違いないと思われた。

 傍受した戦闘中止の電文も「一切の戦闘行動を停止」とか「止むを得ざる自衛行動のための戦闘はこれを妨げず」というが、北千島にはいずれも関連性がない。

 そうしたなか、一瞬の緊張が走る報告がもたらされた。占守島の最北端陣地から「対岸から砲撃を受ける」との連絡が入った。

 吉江参謀には指揮権はないが、撃ち返してはならない、北千島における戦闘は正義であったと歴史が認めるほどの客観的事実が提示されるまで決して撃ち返してはなりませんと発言し、あたりは水を打ったように冷静になった。

 吉江参謀からの問に、大屋准尉もソ連が挑発していることは確かだと言い、吉江参謀も一層確信した。その後もわが軍を挑発する行為は空からも何回か続いた。 

 

 

 

 

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「終わらざる夏」を読み終えてー1ー

2010-08-28 17:42:40 | 読書

「千島列島最北端の孤島で、終戦記念日に始まったソ連から仕掛けられた戦闘を題材にした浅田次郎の小説。」

                                                

 無条件降伏を受諾した日本に向って、領土が欲しいばかりに無理矢理におこした理不尽な戦争に対する怒りと、戦闘状態における人間の恐ろしさ、戦争による悲しみ哀れをあらためて感じさせられた作品だった。

 ただ、残念に思うのは、その孤島の戦闘で負けたソ連軍が勝った日本の降伏に対応しているのだが、降伏する日本軍の状況と日本兵のやりきれない気持を作品の中に入れて欲しかった。

 この作品では、占守島を中心にした戦記と、登場する兵士とその家族の状況を描いているが、ブログ上の文章が長くなるので、戦記に絞って心を打たれたところをあらすじ風に記述した。

                                                 

終わらざる夏・上

序章(動員令と赤紙)

〇 昭和20年4月、本土決戦準備のための第2次動員令を出したばかりなのに、5月末にも第3次動員令が下令された。陸軍では昭和16年の対米英開戦時の動員計画上での勢力は53個師団であったのが、第3次動員後の数字は112個師団となった。

〇 大本営の動員班は作戦に必要な員数を動員し編成するが、兵隊の数は、兵器や馬匹と同様に数量でしかなかった。

〇 動員班の小松参謀に、転任する先輩参謀から、天皇は和平をご希望で一億玉砕は考えておられないとのことなので、今回の動員令の中には密かに天皇の和平に応えるために、捕虜尋問を名目に外征部隊には師団あたり一名の英語通訳の特業種を入れておけと示唆される。

 例えば千島列島の最先端の占守島と隣の幌筵島には満洲から転用した戦車40輌をもつ聯隊と13000の精鋭がいるが、このようなところには、ぜひ考慮しておけと言われる。

〇 大本営からの動員表に基づき、師団司令部を経由し、各県に設置されている聯隊区司令部にて、役場の兵事係から送付されている在郷軍人名簿をもとに、45歳までの人の中から実際の赤紙が作成される。

 そのため、聯隊区司令部の担当者のところには赤紙を出すのを見逃してくれといってくる老いた親もいた。聯隊区司令部で氏名を入れた赤紙は警察署を通じて市町村の兵事係にいき、そこから送達される。

〇 盛岡の聯隊区司令部には今回の大動員3000人の中に頭を悩ます特業種が3人いた。自動車の運転免許を持った者、医者免許を持った者そして英米語通訳ができる者である。全国に地元出身の人間を探して、主人公の片岡直哉達が指名された。

                                               

第一章(同日に弘前の聯隊に入営する異色補充兵3人)

〇 東京外国語学校卒で東京の出版社の翻訳出版編集長をしていて、ヘレン・ミラーのセクサスをぜひとも翻訳したいと願っている45歳の片岡直哉。丙種合格で実質の軍隊教育を受けたことがない兵役免除者。妻と子供一人の家庭を持ち、子供は信州に学童疎開している。

 田舎から電報で赤紙が来た知らせを受けて、妻は千人針を新宿の駅頭で道行く人に頼んでいた。五銭(死線を越える)や十銭(苦戦を超えて)で止めてくれる人、寅年の人(虎は日に千里を行き千里を帰る)の中には自分の年だけ赤玉を作ってくれた人もいた。(人間は誰でも戦死をしたくないのが本心なのだ。)

 疎開している子供に父親の応召を知らせる。(この手紙で子供が母親を思い脱走する。)

〇 岩手医専を出て既に医者の免許を持っているが、優秀だったので医専の学長が軍医にしたくなくて東京帝大の学生に送り出された菊池忠彦。色白の坊主頭で背が低く、掛けている厚い眼鏡を外すと中学生に見えるような男だった。

 今は同郷の篤志家の家に厄介になっているが、片岡直哉も昔、そこで書生をしていたので出征の挨拶に行ったときに、その篤志家は「米国は昔からわが国の友好国であり続けたが、ソ連は日露戦役以来の天敵だと思っている。日本を亡ぼすことに躊躇はしない」と話す。

〇 酒飲みのタクシー運転手で、飲酒運転で百貨店に突っ込んで警察の取調室で供述調書を書かされていた富永熊男。甲種合格で三度の応召をし金鵄勲章を貰っているが、機関銃で右手の指の三本がない傷痍軍人。

 私生児で母一人が後に残るので、出征の日、駅頭で見送りに来た母の目の前で、俺は命もいらないが市営住宅にいる一人ぼっちの母に賽銭を投げるつもりで恵んでもらいたい、富永軍曹の一生の願いだと頼む。

 母親は菊池忠彦が岩手医専病院にいたときの患者だった。

〇 焼け野原の東京の空には、タイトルに「一に養生、二に薬」?と書かれた、戦争を止めれば米国大統領は養生を保証し薬を与えるという異訳の伝単が敵機からばら撒かれていた。

                                                       

第二章(最北端の孤島の軍備と3人の補充兵の動向)

〇 アッツ島が玉砕した当時、大本営は第五方面軍(北部軍)司令部に参謀を増派し、米軍は米国本土から最短距離の千島伝いに北海道へと進攻するのではないかと危惧して千島列島の防備が強化された。

 米軍が東京と京阪地区の重工業地帯を空襲するためには、千島列島の中の平坦で重爆機の飛行場が出来る島の占守島、幌筵島、択捉島の3島のいずれかに飛行場を作るだろうとの配慮のもと、占守島の戦車聯隊等は満洲から朝鮮半島を南下し、釜山から日本を縦断して、小樽から占守島へと軍隊が配備された。

 しかし、米軍は太平洋の島嶼伝いに進攻し、マリアナ諸島に爆撃基地を設けた。そして、既に沖縄は陥落し、米軍の本土上陸は時間の問題となった。

 そのため、第五方面軍は完全に北海道本土だけの防衛に作戦を変更した。占守島の戦車聯隊と1個旅団の最精鋭は船が無いので転用できず、完全に無用の長物になってしまっていた。戦列外の遊兵である。

〇 大本営から第五方面軍参謀に転任してきた吉江少佐は新司偵で空から占守島を視察して完全な防備に感心し、師団司令部がある隣島の幌筵島ではなく占守島に降りた。世界大戦を二度経験している列段長の大屋准尉と少年戦車兵学校出身の中村兵長に迎えられ、大屋准尉から霧がひどく夏でも一時期しか戦闘にならないとの話を聞く。

〇 弘前聯隊に入営するとばかり思っていた三人は、青森に着いたときに弘前師管区の将校から根室に行き北部軍の指揮下に入れと命令される。

〇根室で後から到着する他の補充兵を待っていて、五日ほどして漁船に引かれた大発艇19艇が松輪島に、1艇は三人だけを乗せて占守島に向った。しかし、時化のため大部分が色丹島に寄港した。

(大屋准尉の彼となりと妻子のこと、片岡二等兵が妻に宛てた近況を知らせた手紙、3人を乗せた大発艇を操縦する南方から連戦してきた岸船舶上等兵、背が低いために戦車隊から列段に配属された中村兵長の彼となりを省略する。)

                                                 

第三章

(片岡二等兵の子供・譲の学童疎開の状況と、母親を案ずる譲と空襲で母親を亡くした女生徒の脱走、千島列島の領土面の歴史の記述を省略する。)

                                                  

第四章(占守島)

〇 占守島のことを尋ねようと、菊池軍医は色丹島の診療所に出向いた。大学を定年退官した老医師と男の千島アイヌ人の看護婦代理がいた。

〇 ロシヤ名をヤーコフと呼ぶ看護婦代理は日本名、ロシヤ名、アイヌ名の三つの名前を持っていて、占守島で生まれ10歳のときに日本アイヌ人から全員色丹に移住しろと命じられた。しかし、トドやアザラシの肉ばかり食べていたものが白米に食事が変わったので脚気になって、元の島での狩猟やロシヤ人との商売も許された。

〇 占守島のことは忘れたが、「カムイ、ウン、クレー(神、われらを造りたもう)」を唱え続ける限り、人間は決して争わない。怒ることもなく、疑うこともない。わしらは皆、日本アイヌもアメリカアイヌも、互いに争う意味などまるでない、大いなる自然の中のちっぽけな人間が、自然に感謝するこの言葉を忘れたら生きていけないと言う。

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有難うございます!!

2010-08-20 13:58:19 | 日記・エッセイ・コラム

 戦死した当時の父の務めがみえるかも 

                                                    

Book2001

                                               

 駆潜特務艇に乗っていて戦死した父のことをブログに投稿したら、早速に友達が直木賞を受賞した作品に駆潜特務艇や機雷を題材にした海軍軍人の生涯を書いた光岡明の「機雷」がある事を知らせてくれて、その本を持っているので差上げるからよかったら読んでくださいと言われた。

 その本が写真の本だ。1981年受賞作品で、既に絶版になっているそうです。

 まずは、友達にお礼を申しあげます。有難うございます。

 駆潜特務艇などについてインターネットで概要は調べたが、この本を読んだら実態が一層よく判るとだろうと思っています。

 親がどんな務めをしていたか知りたいと思うのも年のせいかもね。

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曽祖父の永代経札!

2010-08-14 16:23:43 | 日記・エッセイ・コラム

 午前と午後の墓参のはしご 

                                                    

Eidaikou006

                                                  

 午前は弟と甥の墓参と仏前に、午後は父母の墓参にお寺に行く。

 本堂の中をゆっくりと眺めていたら、なんと、明治23年に死亡した曽祖父の永代経の札を発見した。夢かと思った。もちろん祖父の永代経の札も見つけた。

 お寺とのご縁は父母の時からと思っていたいたら、すくなくとも徳川時代からとは驚きだ。こうなるとお寺にもし過去帳が存在していたらぜひ見せてもらいたいもんだ。

 それよりも、お彼岸には、ぜひとも祖先の墓参に行くべきと、親に言われているようだ。

 

 

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