T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

秋の雲?

2012-08-28 13:04:55 | 日記・エッセイ・コラム

                                                            

Akinokumo5

                                                          

 今は晩夏?初秋?。

 屋島の上の、この雲も夏の雲でもなく秋の雲でもなさそうだ。

 しかし、どちらかといえば秋の雲のようだ。そう思いたい。

 今週、来週、9月上旬は天気予報を見ると最高気温が30°~35°で推移するようだ。

 とにかく、一日でも早く、29°以下の秋になってもらいたいものだ。但し、15号のような台風は御免だが。

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「遠い蛍」を読み終えてー2ー!

2012-08-27 14:07:51 | 読書

「遠い蛍」 (人は気持ちの持ちようで考え方が変わる)

 おふさは宇治茶舗の奈良屋の女中勤めをしているが、人柄がよく得意先から指名を受け外回りもしている。

 奈良屋の顧客の中には本気で嫁の話を持ちかけられることもあるが、いつも立ち消えになる。おふさには、一流の料理屋で板場をしている兄・宗吉がいて、一時ぐれていたからだったと言う人もいる。両親もすでに亡くなっていた。

 おふさを愛しく思う男が現れた。おふさが茶を届けている近江膳所藩の京屋敷に勤める岩佐大炊助という若い武士である。

 大炊助は節度を守り同じ人間として接するので、おふさも好感を持っていた。兄の事も話をし、身分の違いから断るおふさに、大炊助は母親も商家の娘だと言う。兄にも相談したが、兄は、そのうち相手の下心が分かるからと反対していた。

 しかし、ある日から、大炊助の姿が見えなくなった。おふさは、これで終わってもいいと思っていた。

 数日して、外から帰ると店頭の土間に太緒の履物が目についた。番頭から小僧と嵯峨野まで出かけてくれと頼まれた。途中、小僧の彦市に奥の客を訪ねるとようやくに近江膳所藩の武家だと話してくれた。おふさは大炊助との関係でお店の暖簾に疵をつけたので暇を出されるかもと思っていた。

 翌日、番頭から台所の仕事だけをしてくれと言われた。また、兄が来て、近江膳所藩の武家が店に来て俺の事を聞いて帰ったことを知らされた。おふさは絶望感が胸を締め付け、明日にでもお暇を戴こうと思っていた。

 ところが暫くして番頭さんから呼ばれ、近江膳所藩の中間が届け物を持ってきて、留守手役がよろしくと言われたと伝えられた。そして、旦那さんも奈良屋の娘分として嫁がせてもいいと言っておられたと告げられた。

 土産は大きな蛍が入った虫籠だった。藩領の石山から送られた蛍をおふさにも届けてくれたのだ。おふさの胸裏で、大炊助が眺めている遠い蛍の火が瞬いていた。

「鉄のわらじ」・「ろくでなし」

省略。

「雪の鐘」 (別の人生を知り、その道を歩く決意をする公家の女)

 26歳の脇坂造酒助は大垣藩郡奉行支配「御柿屋」詰めである。将軍家に柿を献上するために交配や接ぎ木のための形のいい柿を探しに行く役目である。

 昨年まで荒れるに任せていた加賀屋の別邸が手入れが行き届き改修されて、土塀の中に大きな形のいい柿がなっている大木を見つけた。

 老女に申し出て、木の上に登った時、造酒助は縁側から自分を見上げている公家の若い美女に目を見張り、手が滑り下に落ちた。

 造酒助が座敷で意識朦朧とした状態で美女に介抱され寝かされているときに、武士が上から覗き込んでいた。

 京の公家は大半が生活に困窮していて、彼女は綾小路弥子という名の公家娘で、藩城代の囲い者になっていたのだ。

 他人と殆ど接したことのなかった弥子は、此処に来て初めて貧しい百姓夫婦がいたわり合って田畑を耕す姿を見、また、雨に濡れ北山の札寺に急ぐ母娘も目にした。どの姿からも切れば血の噴く人生が覗けた。

 そして、今は、造酒助の手当てをし食事を共にしながら言葉を交わすのが楽しかった。

 弥子は過った人生を遺棄する決意をしたのだ。

 家に寝駕籠で帰った造酒助は傷も癒え、冬の装いを始めた村のあの屋敷の前に立った。人の気配はまるでなかった。

 裸になった柿の枝に幾つか残った柿の実を眺め、弥子が自分に残していったのだろうと淡い思慕に浸るときに、遠くから日暮れの鐘が聞こえた。弥子が京に戻ったと自分に告げているのではないかと、造酒助の胸をうずかせた。

                                以上

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「遠い蛍」を読み終えてー1ー!

2012-08-26 17:02:25 | 読書

澤田ふじ子作の京都を背景に市井に生きるる人々の哀感をつづる短編9話の時代小説。

「細やかな情感=京の四季折々の風物を背景にした人々の営み、更には厳しい人生への問いかけ=その営みを支えているものの確認、換言すれば、人は他人との関わりの中で生きさせてもらっているということが示された一巻である。」(解説文より)

そのポイントになるだろうあらすじは、

「雨あがる」 (人は他者との関わりでの中で生きている)

 武家奉公する中間と女中の主家内での密通は御法度で手討ちにされ、主人が見逃せば、主人が罪に処せられる。

 又蔵と懐妊していたお孝は、主家の小栗清一郎・八重夫婦の慈悲で内密に逃がしてくれた。特に八重が清一郎へ必死の命乞いをしてくれた。

 二人は大垣から京に夜逃げして14年、努力の甲斐あって今では美濃屋という屋号で足袋・袋物の店を持つようになった。しかも、下請けだが、松山藩御用の話も本決まりになった。

 そんな中、又蔵は街中で八重の姿を見かけた。清一郎一家は致仕され浪々の身となり、長屋住まいをしていて娘は女衒に売られていた。

 返しきれぬ恩義がある又蔵夫婦は迷うことなく急ぎ旧主を訪ねた。

 八重は零落した姿を見られたくなく、女心から恨みますと言う。しかし、清一郎は、よく訪ねてくれた。自分の行動を悔いてはいない、世の中いつまでも同じ家にばかりに陽の目が当たっていては貧しい者は浮かばれぬ。お前たちがどこかで幸せに暮らしていてくれたら諦められると言っていたところだと言う。

 又蔵は、娘さんを女衒から取り返し、旧主のその他の借金も全て整理した。そして、店は残ったが、自分も無一文になったので、松山藩御用を辞退した。

 しかし、午後になって、元請けの松屋が来て、美濃屋さんの実のあるお人に感心した。どんな相談にも乗らせてもらうので、ぜひ松山藩へ品物を納入してほしいと懇願された。

「春の坂」 (人は他者との関わりでの中で生きている)

 但馬出石藩の京都留守居役の太田弥右衛門は、今でも9年前に8歳で死んだ娘・清の月命日に妻と交代で墓参りに行っていた。

 墓地の近くまで行った弥右衛門は、百姓家から遊郭への方向へ行きたくない行かせたくない姉妹と自分の酒代と博打の金を得るために売りに出したい父親の口喧嘩が聞こえてきた。

 いつものことながら今日も、野山で摘んだ四季の花が清の墓に無造作に供えられていた。弥右衛門は清を荼毘にふした時に、墓井戸の傍らで我々を眺めていた身形の貧しい清と同じぐらいの左目の脇に泣き黒子がある女の子を覚えていた。

 帰宅しても気になったので、下男に姉妹の様子を見てくるように命じた。

 弥右衛門の記憶の中の女の子と同一人だったので、急ぎ姉妹の家に行くと、二人の女衒が来ていたので、弥右衛門は二人に当て身をくらわし姉妹を助けた。そして、父親を真人間にしてやると姉妹に誓った。

 事情を聴くと、死んだ母親を偲ぶため墓地に出かけ、清の弔いに出会った。義理の父の酷い仕打ちに、いつも死んでしまいたいと思ってきたが、清のお墓の幻影童女が花を供えるたびに「いつかきっといいことがあります、強く生きられませ」と自分を励ましてくれるとのことだった。

「あとの桜」 (心配させた恩人にやっとの顔向け)

 大酒飲みの癖が治らず、遊女から遣り手ばば、そして、賽銭泥棒へ落ちぶれ果てたおひさの胸に去来するのは、蛍茶屋の女となっていた時、ただ一人、彼女の将来に心を砕いてくれた呉服問屋の番頭の佐兵衛を鼻で笑って袖にしたことへの悔恨。あの人を信頼し、堅気になる方法を真面目に考えたらよかったと。

 最近は不景気のせいか、お稲荷さんへの賽銭を置く人も少なく、夜の社殿の側で身を屈めていると、油屋の熊野屋吉右衛門という人が何か食べて帰れと小粒金二つを握らせてくれた。

 帰り道、ならず者二人が油屋仲間(組合)の悪たちから熊野屋を潰す手伝いを頼まれて大金を貰った話を聞いた。

 おひさは、あさましい今の境遇をさらけ出して熊野屋を訪ねた。吉右衛門が案内する奥座敷で耳にした悪だくみを話しした。遠目のおひさは床の間から誰かに見られているようで落ち着かなかった。吉右衛門が今日は親父の命日なので寿像の掛軸をかけているのだと言う。おひさが近づいて見るとなんと佐兵衛だった。

 吉右衛門があとの桜を御室まで見に行きましょうと誘い、親父もこれでやっと成仏してくれるだろうと言う傍らで、おひさの嗚咽がまだ続いていた。

「夜の蜩」 (音を上げない庶民の面魂)

 氷室村のお加代は領家の侍従舟橋在賢家への二年奉公に行くことになり、終わったら卯之助との夫婦約束ができていた。

 舟橋家の嫡男・康賢は好色化でお加代の肌を触ることもあった。それが嫌で、兄が献上品を持ってきたときに苦情を告げた。

 兄からの卯之助との結婚を理由にしての暇を貰いたいとの願いも許されず、反対に、船橋家に献上に来た卯之助が古銅の文鎮を盗んだと言われ、卯之助は村にもいずらく西陣の機屋に奉公に出た。

 翌年のお加代も家に帰ってきた年、嫡男・康賢が家を継ぐことになり、慣例により康賢が氷献上の宰領のために氷室神社に籠ることになった。

 康賢は名主を通じて横暴にもお加代に夜伽を命じてきた。お加代の兄が捨て身の奇策として氷室神社の傍らの山に火を放ったのだろう。拝殿から白装束の康賢が走り出てきて氷が解けると叫んだ。これで祖先からの役目に疵がつき、御所への昇殿にも汚点が付いた。

 村人は「神罰が下されたのだ」と話していた。お加代は、絵の助にもこの業火が見えているだろうかと思った。

「ひとごろし」

 省略。

以下次項に続く。

 

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「サマーレスキュー ~天空の診療所~」を読み終えて!

2012-08-19 14:53:47 | 読書

概要 

小説家、脚本家、演出家の秦建日子(タテヒコ)が、自分が書いたテレビドラマの脚本をもとに書き下ろしたオリジナルストーリーの小説。

 裏帯に「北アルプス・標高2500mの高地に、夏の間だけ開設される小さな診療所がある。40年前、「これ以上、山で命を落とす人を見たくない」とその開設に奔走した山荘の男と、その思いに応えようと山に入った医師の物語をはじめ、過酷な環境の中で「医療とは?」「命とは?」という問いを突き付けられて悩み、成長してゆく若き医師やナースたちの姿を厳しくも美しい自然を舞台に描く。」と書かれて、帯の表には「救える命は救いたいんだ」と素晴らしい言葉が書かれている。

 一言でいえば、いわゆる人間愛を取り上げた小説である。しかし、残念なことに心を打つ文章が少なく期待したほどでなかった。テレビは素晴らしく、あまりテレビを見ない私を感激させたドラマだったのに。

 テレビは日曜日にまだ続くようなので、俳優の演出・表現でホローさせてもらいたいと思う。

第一章

 山小屋の従業員の小山は、「これ以上、山で命を落とす人を見たくない。」と山荘の診療所開設に奔走し、登山名簿から拾い出した東京の医者7名を訪ねたが、目的を果たすことができなかった。

 小山は山小屋に帰る途中で、全くの素人の登山者を遭難寸前のところで助けて山小屋に連れ帰った。彼は花村という医者で、恩返ししたいが一年待ってくれと言う。

 一年後の夏、落雷で登山者1名が死亡寸前のところを、偶然にも花村医師が山荘の医師として到着し、登山者の一命を取り止めた。小山の苦労が報われたのだ。

 その後、間もなく自分らの手だけで山荘の診療所を開設した。

第二章

 救急処置室の若き医師・倉木は再生不明の心臓マッサージをあまりも長く続けるので、担当教授の大川から効率を考えろと叱責を受けた。倉木は、ほんのわずかでも可能性があるのなら、納得のいくまで治療をなすべきではないだろうかという考えで、大川の教える医師の仕事に倉木は心躍るものを感じられなかった。

 倉木は同期の医師から花村教授が山荘の医師を探していることを聞いた。

 山荘の看護師の平原あかりの案内で、苦労してやっと山荘に登った。

 翌夕、倉木が診療所を閉めようとしていたところへ、風邪気味だとの女性が入ってきたので、倉木は病院にいたころと同様に診察した。

 喉も少し赤くなっていたので、それ以上に深く考えずに風邪薬を与えた。

 翌日、登山客が出発した後、その事が従業員達の朝食時の話題になった。

 平原から、此処は高地だから、患者が登山経験がどうなのか、患者の体が既に高地の環境に慣れているか、そこまで考慮する必要がある。高山病で重症化した例もあると注意された。

 その日の午後、その女性が体調不良で登山できずガイドの注意も無視し、下山中に滑落して怪我をした。

 山荘の従業員全員で捜索し、ようやく発見し、診療所へ連れ帰った。

 診察すると右手示指の屈筋腱が切れていた。電灯の明かりでは暗く、懐中電灯を数個持ってきても手術に必要な明かりにならず、倉木は困った。

 しかし、夕陽の明かりに気付いて、場所を変えて縫合手術を行った。

 平原が書いた当日の診療日誌に「患者は軽度の高山病のため、崖から滑落。右手示指の屈筋腱の縫合手術を実施。手術時間11分で成功。追伸。先生の機転と患者の処置を諦めない強い意志に涙が出た。」と書かれていた。

第三章

 山荘の主人の姪の遥は都会の大病院の緊急医療関係の看護師をしていたが、医師の責任感のなさから山荘の診療所に行くことにした。

 山荘に向かう途中で、山荘の診療所の臨時医師を頼まれて、水も十分に持たずに登山している速水から水を分けてくれと言われた。遥は遠慮しないで医師に向かってもう立派な遭難者だと注意した。

 彼は倉木や花村がいる大学病院の心臓外科の若いエースと言われている男だ。

 速水が診療所に入った翌日、天候が急変して、急患が二人診療所へ運ばれてきた。

 一人は滑落で左下腿骨を開放骨折した42歳の男性、もう一人は35歳の女性の肺水腫で、どちらも診療所で治療はできず、どちらが致命的か見極めがつき難いもので、ヘリは飛べない天候だった。

 一時間ほどして、ヘリが飛べる天候になったが、ヘリは1台だけしかなかった。もう一人を運ぶのは時間的に明日の朝となる状態だった。

 倉木から、どちらの患者を松本の病院に送れるのか速水に電話があったが、速水は返事ができずにいた。遥が患者の容体を倉木に連絡し倉木に判断してもらい、女性を先に送った。速水はしばらく呆然とした状態でいた。

 しかし、速水は医者は一人だと気が付いて、医者の仕事として男性の止血で徹夜した。そして、遥に、患者の手を握り続け、名前を読んでいてくれと指示した

 翌日、午後、速水に倉木から電話があり、よく頑張ったねと言うと、速水は礼を言った後、診療所に最低限の装置や代用血液を置くべきだと自分の考えを述べると、倉木は患者は医療機器に会いに来るわけでなく医者に会いに来るのだと答えた。

  

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67回目の終戦の日!!

2012-08-15 14:27:47 | 日記・エッセイ・コラム

 学徒動員先の鉄工所のバラックの食堂前で、ラジオから流れる天皇の言葉でぼんやりだが敗戦を知った。

 翌日から半月ほど何をしていたか覚えてないが、14歳の生活の行動が次々に変化していったこと(ブログには書けない苦しい生活)をおぼている。

 敗戦の後の、あの数年間の、人生で一番苦しい生活は絶対に忘れることはない。

 これらの事は他人に話すことではないが、その為もあって一番苦労した亡母の事が話題になると涙が出て止まらない。

 戦争は絶対にしてはならないことだ。

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