T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1656話 [ 「新章 神様のカルテ」あらすじ 17/? ] 令和元年-5/1・水曜(雨・曇)

2019-04-30 13:34:03 | 読書

 「新章 神様のカルテ」

 「あらすじ」

 「第五話 黄落」 その4/7

<3回目の退院カンファは激論になり、バカ野郎との暴言が出る>

 木曜日の夕方が、3回目の退院カンファレンスであった。

 カンファレンスルームに、私と利休とお嬢の3人のほか、病棟の木月看護師、訪問看護ステーションの訪問看護師、ソーシャルワーカーとケアマネージャーまで集まって、総勢7人の大人数だ。

 私は初めての参加なので、部屋の隅から突撃隊長たる利休の活躍を見守る算段でいた。

「現状での二木さんの退院はやはり難しいというのが私たちの結論です」

 口火を切って来たのは、看護ステーション「希望」の川山という訪問看護師である。

「もちろん患者様ご自身の意思はわかりますが、29歳という年齢で、いつ急変するかも分からないとなると、訪問介護の負担は非常に大きなものになります。現状での退院は延期もしくは中止としていただいたほうがよいと思います」

「それについては先日も話し合ったはずですが、近くの開業医の先生を窓口に確実に対応できるようにします。僕らだって何かあればすぐに対応します」

「往診してくれる開業医についても、何軒か当たりましたが、29歳と聞いて二の足を踏んでいる先生が多いことも事実です。一方で、大学の業務がある先生方もそう気軽に駆けつけられる立場ではないでしょう」

 なかなか弁の立つ人物である。

 その隣に座る若いソーシャルワーカーも、私も川山さんの意見に賛成ですと淡々と外堀を埋めてくる。

「今回の最大の問題は、第一介助者の不安が強すぎるという点にあります。今回の症例では、患者の御主人は患者を連れて帰る自信がないと言っています。一般的には、第一介助者の不安が十分に払拭されない限り、安全な退院はできないとされています」

 ケアマネージャーも「私も訪問看護師やソーシャルワーカーさんの心配はもっともだと……」と言う。ケアマネージャーだけが大学病院外のもので何となく遠慮があるのかもしれない。

 利休はじっと耐えて説明を重ねている。

 二木さんは残された時間が少ないこと。

 今のまだ動けるうちに、御主人や娘の理沙ちゃんと自宅で過ごせる時間を少しでも作ってあげるべきだということ。

 何かあればできる限り3班の医師が対応するということ。

 しかし、相手に響いた感触は微塵もない。

 やがて川山看護師が口を開いた。

先生の熱心さはわかりますが、今回の退院については、当看護ステーションにおける退院ガイドライン上も、推奨しないという結論になっています。医師の熱意で変わるものではありません

「退院ガイドラインですか ? 」

複雑な症例に対応する場合、その退院が推奨すべきかどうか判断するための基準です。そのガイドラインによれば、今回の症例は二つの大きな問題を抱えています。第一に、患者が強く退院を希望している場合でも、その患者が冷静な判断に基づいているかどうかを十分に考慮すべきこと。第二に、第一介助者が十分に安心して行動できる環境が整っているかどうかを検討すべきこと。残念ながら、二木さんは以前にも感情的に入院を拒否した経緯があり、冷静な判断力があるか微妙です。また、御主人が大きな不安を抱えている事態も無視できません。ガイドライン上は、" 準備不十分 " です

 滔々とした弁舌で見事に論理を組み上げる。一見非の打ちどころのない堅固な言葉の城だ。

 行き詰まりかけたカンファレンスを、再び動かしたのは、研修医のお嬢であった。

でも退院できないからといって、いつまでも大学に入院させておくことはできないはずです。なにか治療をしているのなら別にですが、二木さんは抗がん剤も中止しています。治療もしていない人を長く入院させておくこととは、大学病院としても望ましくないと思いますが、その点はどうなのですか ?

 思わぬ援護射撃に私のほうが驚いた。

 しかも告げる内容は、感情に訴えるものではなく、理路を示して正当化するという、利休とは異なる道行だ。

 ソーシャルワーカーが抑揚のない声で応じる。

先生のおっしゃる通り、地域連携室としても入院期間を短くすることには全力を尽くすように言われています。ですから今回、退院ではなく転院という方向を検討中です」

 転院 ? とさすがに利休とお嬢が同時に戸惑いの声をあげた。

 それにかまわず、ソーシャルワーカーは言葉を続けた。

「二木さんのご自宅の近くに梓川病院があります。比較的長く入院できる病院ですから、あちらのベッドを確保して転院にすれば、御主人の不安は少なくなります。場合によっては、そのまま梓川病院で看取ってもらう。そういう方向はいかがでしょうか」

 これは私でさえ予想もしなかった転換だ。

 二木さんを乗せた船はあらぬ方向に舵を切り、予想もしなかった港に寄港しようとしている。いや寄港でなく、これは座礁である。

 先方の言っていることが間違っているとは言わないが、何か基本的な誤りがある。

「待ってください」と利休がたまらず身を乗り出していた。

「本当に自宅退院の道はないのですか ?  二木さんは御主人やお子さんたちと家で過ごしたいと言っているんです」

「検討結果については、今お話したばかりです。二木さんを家に帰すには、準備が不十分という結論です。まずは患者様ご本人に冷静になっていただ来ましょう

 悠然と利休を遮ったのは川山看護師だ。

今帰りたいという思いは慣れない環境の中での不安のせいかもしれません。時間が経てば落ち着くこともあるでしょう。それに、御主人の不安の問題もあります。" がんばって奥さんを連れて帰る " と、自信を持って言える状態であればよいのですが、私たちが面談した限りでは難しいようでした。転院して様子を見ている間に、もし状況が変わるようであれば、改めてあちらの病院で退院を検討してもらえばよいかと思います

「そんな悠長なこと言っていられないから、焦っているんです。二木さんには時間がないんですよ。ここまで来て突然転院だなんて、そんな無茶な話、二木さんはどんな気持ちになると思っているんですか」

「思い通りにいかないことはあります。もし先生方から話しにくいようでしたら、私のほうからお伝えして構いません」

二木さんは帰りたいと言っているんです。それがなぜ転院で看取りだなんて話になるんでですか……。あなたたちはバカなんですか

何とおっしゃいましたか、新発田先生。私たちはガイドラインに即して判断しているのです。患者さんへの感情移入は結構ですが、冷静な判断力があるかどうか分からない患者の意見に振り回され過ぎていること、気づいていらっしゃらないようですね

そういう態度だからバカ野郎だと……」

 パシャッと突然、乾いた音が響き渡るのと、誰かの短い悲鳴が上がるのが同時であった。

 直後には、時が止まったような静寂があった。

 その静寂の中で、頭も顔も水浸しになった利休が、呆然と立ち尽くしていた。

 ほかでもない。私が卓上の紙コップの水を浴びせかけたのだ。

「すまんな、手が滑った」

 私は謙虚に詫びを入れてから、空になったコップにペットボトルの水を新たに注ぐ。

 我が愛すべき後輩の顔にみるみる血が上る。

「何をするんですか。もう結構です」

 再びパシャッと冷たい音が響き渡ったのは、私が注ぎなおしたばかりの2杯目を速やかに追加したためである。

 今度は悲鳴も上がらなかった。

「いいから飲め」

 目の前にペットボトルごと突き出せば、利休がようやく我に返ったように目を見張る。

 ………。

「今日のカンファレンスは終了したほうがよさそうですね」

 川山看護師はそのまま立ち上がりながら、一段と低くなった声を響かせた。

「患者様のためですから引き続き検討は続けていきますが、今回の暴言の件については、それなりの対処をさせていただきますよ」

「待ちたまえ」

 静かに私が呼び止めれば、さすがに足を止めて振り返る。

「暴言の件は撤回する。若気の至りという奴だ」

撤回は当然です。その上で公式に謝罪もしていただく必要があります」

「それも異論はない。いくら相手がバカでも、面と向かって言って良い言葉ではない」

 川山看護師は一瞬怪訝な顔をしてから、すぐに顔を引きつらせた。

こちらが発言を撤回する以上、そちらの暴言も撤回してもらう必要がある」

 川山看護師は、暴言 ? と当惑を見せる。

二木さんは、この状況で懸命に自分の命と向き合っている。感情的にもなれば、絶望的にもなる。それでも懸命に生きているのだ。そんな彼女に向かってもう少し冷静になれなどと、それこそ君の言う暴言というものではないのかね

 川山看護師は頬を引きつらせたまま返事をしなかった。

それに、ソーシャルワーカーが第一介助者が多大な不安を抱えている状態では退院など不可能だと言われたが、それもまた等しく暴言だ。御主人が不安なのは当たり前だ。きっと毎日、不安で不安で気が狂いそうになっているに違いない。その無数の不安を、なくす方法があるなどと本気で思っているのかね

 私は一度言葉を切り、付け加えた。

御主人の不安は、なくなるものではない。我々のなすべきことは、不安がなくなるまで漫然と待つことではなく、不安を抱える御主人に向かって、" それでも大丈夫なのだ " と。そして、どれほど不安でも、" 我々が全力で支えるから心配するな " と告げることだ

 川山看護師たちからの返事はなかったが、ずっと沈黙していたケアマネージャーが恐る恐る発言した。

「でも私……、あんな若い癌の患者さんを自宅で見守るのに、大丈夫なんてとても……」

「同感です。しかし、それが我々の仕事です」

 ここは生と死の現場である。その現場で、自分がなしうることに尽力するのが医療者の務めである。人が死ぬというのに、不安でない人間などいるはずもない。名医であれば自信に満ちて人を看取れるようになると思うのは幻想である。百人の人間が百通りの形で死んでいく。そのすべてに振り回されながら懸命に寄り添っていくのが医療者である。

 御主人は不安に駆られているに違いない。だから退院できないのではない。

 それでも退院にするのである。

 

 後刻、利休は私に「有難うございました。栗原先生、感謝しています」と礼を言った。そのあと、私に訊ねた。

「二木さん、本当に帰れなくなるんでしょうか ? しばらくは地域連携室との連絡がうまくいかなくなるかもしれません。退院の手配をどうしたらいいか見当もつきません」

見当ならついている。お前の言うとおり、大学内で動きにくくなるかもしれない。しかし、あくまで大学という小さな世界の話だ

「どうするんですか ? 」

「うまくいくか分からんが……、とりあえず頼んでみるさ」

 

     「第五話 黄落」その5/7 に続く

 

 

 

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1655話 [ 「新章 神様のカルテ」あらすじ 16/? ] 4/30・火曜(曇・雨)

2019-04-28 15:52:44 | 読書

 「新章 神様のカルテ」

 「あらすじ」

 「第五話 黄落」 その3/7

<二木さんの退院は2回目の退院カンファでも了承されなかった>

 思惑通りには進まない。それが医療というものだ。

 二木さんと話をした夜、外科医や放射線科医との肝胆膵カンファレンスの最中にPHSが鳴り響いたのは、利休からの呼び出しがあったためだ。そのまま席を立って廊下に出てきた私を、利休とお嬢の二人が待ち受けていた。

二木さんの退院の手配が難しいことになっているんです。先週もそうだったんですが、今日の退院カンファレンスもうまく進んでいないんです

 退院カンファは、病状や生活環境の安定しない患者の退院に向けて、関係部署のスタッフが集まる会議である。

 二木さんの場合は、全身状態が不安定な状況での退院であるため、3班の医師のほかに、病棟看護師はもちろん、訪問看護ステーションや、メディカルソーシャルワーカー、ケアマネージャーまで多岐に渡る関係者が集まる形になっている。

 そのカンファレンスが、先週と今週の2回にわたって開催されているのだが、先週は更埴の外勤が遅くなって間に合わず、本日も肝胆膵カンファと重なったために、利休に任せたままになっていたのだ。

「二木さんの病状を説明して、各部署の協力を仰げば、それで話は進むかと思っていたのですが、とくに訪問看護師からの反発が強くて……」

「反発 ? 」

 利休の言葉を思わず反復してしまう。

「食事摂取も不十分な今の状況で本当に退院して大丈夫なのかと」

「大丈夫かどうかの問題ではないだろう。急変を覚悟で退院にするのだ」

そうなんですが、前回の緊急入院時の騒ぎが相当引っかかっているようで、いくら本人の希望だからといって、このまま退院というのは性急すぎるのではないかと

 利休の表情に、常にない疲労がある。

「二木さんの、次のカンファレンスはいつだ ? 」

「来週の頭です」と利休がすぐ答えた。

「遅いな。明日か、明後日の夕方までに再セッチィングしたまえ」

 二木さんには時間がない。そのことを一番よく知っているのは、訪問看護師でもソーシャルワーカーでもなく我が3班である。

 利休はすぐにPHSを片手に連絡をとりはじめる。

 

   「第五話 黄落」その4/7に続く

 

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1654話 [ 「新章 神様の カルテ」あらすじ 15/? ] 4/28・日曜(晴・曇)

2019-04-26 14:17:52 | 読書

 「新章 神様のカルテ」

 「あらすじ」

 「第五話 黄落」 その2/7

<二木さんがステントトラブルで緊急ERCPを>

 「血圧、96の40です」

 ガラガラとストレッチャーの移動する音に重なるように、お嬢の緊張感に満ちた声が響いた。

 ストレッチャーを押す私が、私服の上に白衣を羽織っただけであるのは、突然の予想外の呼び出しで慌てていたからだ。

 今日は早朝から再び東京に赴く細君を、始発のあずさで送り出し、あとはのんびり小春と昼寝でもしようかと考えていた最中の唐突なコールであった。

 さすがに一度ならず二度までも小春を背負って病院に行くことに躊躇していたところ、学士殿が遊び相手をつとめてくれると申し出てくれたおかげで、身一つで駆けつけることができた。

「大丈夫ですか ? 」

 私はストレッチャー上で黙って目を閉じている二木さんを見下ろしながら問うた。

「お休みの日なのに、大変ですね、先生たちも」

 外面だけは余裕の会話を試みているが、心中は慌ただしく波立っている。先日入院して以来、熱も下がり食事も再開し、ようやく全身状態が落ち着き始めた矢先の高熱である。

「またステントが詰まったということですか ? 」

「間違いないでしょう。採血もCTもそういうデータでした。先週金属ステントの中を掃除したばかりですが、やむをえません。今日はプラスチックステントを追加します」

「また内視鏡ですね」

 ふふっと白い顔の二木さんが揺れるストレッチャーの上で笑う。立派なものである。

 往診したときには、今にもはじけ飛んでしまいそうなほどの痛ましい空気を漂わせていた二木さんは、ここ数日、不思議な穏やかさをまとうようになっている。過酷な環境が人を変えていくということであろうか。

「やっぱり先生と言うことなど聞かないで家にいれば良かったです。今頃きっと蕎麦の実の収穫も見ていられたのに」

「憎まれ口はいくらでも聞きますが、今は諦めてください。あなたの主治医は、患者の医師より、理沙ちゃんとの約束を優先するようなろくでなしということです」

 敢えて冷淡に応じれば、二木さんは笑ったまま頷いた。

 内視鏡センタの入り口に利休が見えた。

「ERCPの準備はできています」

 二木さんの経過は想定していた以上に悪い。

 今回の入院時のCTでは、明らかに膵病巣の増大と、肝転移の悪化が認められた。できるだけ早急な治療再開を検討していたが、解熱後も肝機能が改善せず、じりじりと時間が過ぎていく中で、再びステントラブルだ。

 治療は再開できず、退院も出来ず、今日は緊急内視鏡。

「内視鏡は利休が持て」

 え、と利休が目を見張る。

「お前もいつ一人でERCPをやらねばならなくなるか分からない身だ。後ろに誰かがいるうちに、場数を踏んでおいたほうがいい」

 私の意味ありげな言葉に利休が軽く目を見開いた。

「術中の血圧管理はこちらでやる。やりたまえ」

 私の言葉に、利休は頬に緊張をみなぎらせたまま、大きく頷いた。

 

<学士殿に預けてた小春が風邪で熱を出す>

 かろやかなチャイムが二度鳴った後、院内放送が聞こえてきた。

「消化器内科の栗原先生、病院正面にお越しください」

 同じ内容が二度繰り返される。

 二木さんのERCPが無事終わって一息ついた直後であった。

 申し送りを終えた利休が不思議そうな顔で言う。

「PHSを鳴らさずに、わざわざスピーカーの呼び出しなんて、珍しいですね」

 昼間、呼び出されたときに、あわてて駆けつけたために、医局の机の上にPHSを置き忘れてきたのだと気がついた。

「術後の管理は任せられるか ? 」

「大丈夫です。点滴、尿量その他、確認しておきます」

 心当たりのない呼び出しに足早に歩いて病院玄関までやってきた私は、思わぬ待ち人に驚いた。

 小春の手を引いた学士殿であったのだ。

「すみません。どうしても心配になってしまって」

 苦笑まじりに学士殿がそう告げた。

「ドクトルが出かけた後、妙に顔が赤いので熱を測ってみたら38度でした。小春ちゃん自身はとても元気なんですが……」

 学士の言葉通り、小春は赤い顔で鼻水をすすりながらもいつものにこにこ笑顔で「トトちゃん、白い衣服」と私の白衣を指さしている。

 子供というのは熱を出す生き物である。38度だろうと39度だろうと本人が元気であればまず慌てることはない。といっても、にわかに子を預かることになった学士殿の不安は当然のことである。

「半日で預かってもらって助かった」と礼を言って、昼ご飯を誘い、学生食堂に向かった。

 

<二木さんの抗がん剤治療を中止し、退院の措置をとる>

 黄疸の増悪、貧血の進行、腫瘍マーカーの上昇。

 二木さんの状況は、悪化の一途をたどり続けていた。

 先日の緊急ERCPで、解熱は得られたものの、治療再開の目途は立たず、食事の摂取量は減り、ゆっくりと体力は低下しつつあった。

「調子はどうですか ? 」

 私は二木さんの車椅子を押してエレベータに乗りながら、控えめに問いかけた。

 火曜日の午後である。

 午前中の内視鏡が終わり、病室を訪れた私に二木さんが「散歩に行きたい」と告げた。

 私は黙って頷いて車椅子を持ち出してきたのである。

「調子、悪そうに見えますか ? 」

「悪そうには見えません。むしろあまりに落ち着いて見えるのでいささか戸惑っています。あなたを安曇野の自宅から引きずり出し、病院に取り込んでもう2週間を超えました。そろそろ家に帰る帰らぬの大騒ぎを起こして、私を困惑させる頃ではないかと思っていたのですが、何もおっしゃらない」

「患者の言うことを全然聞いてくれない主治医が怖くて、率直な意見が言えなくなってしまったんです」

 車椅子の中で二木さんがすっかり痩せた肩を揺らして笑った。

「最近、あまり理沙ちゃんを見かけませんね」

「夏休みも終わって、小学校。毎日元気に登校しているみたい。足し算、引き算に、カタカナ、漢字。覚えることが山ほどあって、病院に来ても、泣き言ばかりです。私はあの子に教えて上げたいことがあるのです。あやとり、編み物、料理に花札

「花札 ? 」

 場違いな単語に、思わず聞き返す。

「私のおばあちゃんが好きだったんです。蕎麦畑の見えるあの縁側でずっと対戦していました。猪鹿蝶つて」

「それはまた……」

「変ですか ? 」

「変というより……不思議に思っています」

 私は一考し、それからゆっくりと続ける。

「こうしてあなたを見ていると、2週間前の押し問答が嘘のようです。あれ以来、帰りたいとも何とも言わない。何か悟りでも開いたように落ち着いている」

「悟りなんてありません。ただ、先生を信じると、決めたんです」

 意外な言葉が、思わぬ明るさを持って廊下に響いた。

「先生は言いました。一か月しか生きられないなら意味のない命なのか。そんなことはないはずだ、と。目の前の癌のために、すべてを捨て去ろうとしていた私に、先生はとても大切なことを気付かせてくれたんです。私は一人でいるわけじゃない。主人や理沙がいて、そのために一日でも力を尽くして生きなければいけない。そのことを教えてくれた先生を信じようと決めたんです」

 私は静かに頷いた。

 二木さんは生きることを諦めたわけではない。生きることの意味を見つめているのだ。

 がむしゃらにに自宅にしがみつくことを止めたと同時に、治療に向けて猪突する様子もない。厳しく過酷な現実の中で、毎日を真摯に生きようとしている。

 なるほど、ヘミングウェイの言うとおりだ。

 " 勇気とは重圧の中での気高さである "

 今の二木さんは、間違いなく勇気のある人に違いない。

「私、家に帰れますか ? 」

「帰れますよ」

 ごく自然に、私は答えていた。

「通常ならもう少し食事がとれるようになってからの退院を考えますが、今は目をつむります。現在、新発田ドクターが訪問看護師や、ケアマネージャーたちと退院カンファレンスを進めていますが介護ベッドの搬入の日取りも目途が立ったようです。その他の準備が整い次第、退院です」

「抗がん剤治療はしないのですか ? 」

「やれば帰れなくなります」

 短い返答に、しかし二木さんは揺るがなかった。ただ小さく頷いただけである。

 既に覚悟が違うのである。

 私としては、治療を中止するという方針に逡巡がなかったわけではない。だが二木さんの元に足を運び、診察し、対話を重ねていくうちにゆっくりと迷いは消えていく。効果は見えず、体力ばかりを低下させる抗がん剤に、これ以上固執すべきではない。

「家に帰ったら、理沙ちゃんにあやとりや料理を教えて上げて下さい」

 

   「第五話 黄落」その3/7 に続く

 

 

 

 

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1653話 [ 「新章 神話のカルテ」あらすじ 14/? ] 4/26・金曜(晴・曇)

2019-04-26 08:39:05 | 読書

 「新章 神様のカルテ」

 「あらすじ」

 「第五話 黄落」 その1/7

<医局の許可なく院外に往診したことでアルバイト1か月の停止を命じられる>

 医局の中の宇佐美准教授の部屋は、日常的に接する冷ややかな外貌とあいまって、露骨に皆が避けたがる鬼門となっている。

 その医局の鬼門に呼び出されたのは、9月に入ったばかりのある午後であった。

「なぜ呼ばれたか、分っているかね」

 入室一番にそう告げたのは、御家老本人だ。

 ほんの数日前、勝手に研修医を連れて院外に往診に出かけ、そのまま患者を救急車に乗せて連れて帰り、緊急ERCPまでやって入院させた四内の変人医師の存在は、それなりに医局の内外を賑わせている。

「申し訳ありませんでした」

 とにもかくにも深々と私は頭を下げた。

「医局という場所は、ただ大きな組織であるだけでなく、とても大きな責任を背負っている。ささやかな規律の乱れが大きな混乱につながる可能性があるということだ。君が診療に熱心で、いくら患者のためとはいえ、医局の許可も得ずに勝手に院外に往診というのは看過できることでない」

「反省しています」と殊勝な言葉を重ねて、また一礼する。

「君はまだ信州における大学医局というものの重要性を理解していない。ここが大学病院の乱立する東京近郊の大都市であるならいざ知らず、無数の医療過疎地を抱えた信州だ。医局がその強権を持って支えなければ、たちまち医療崩壊をきたす町が無数にある。誰も行きたがらないような過酷な地方病院に医師を派遣することはもちろん、ときには遠方の緊急症例にさえ対応する。君も私とともに白馬に出かけたくらいだから少しはわかるはずだ」

 御家老は言葉を継いだ。

あの総胆管結石の患者は、緊急にERCPを施行しなければ助からなかった。だが白馬にERCPができる内視鏡医はおらず、さりとて1時間以上もかけて救急車で搬送するには危険すぎる患者だ。かかる状況で、患者を救命できたのは、個々の病院の枠を超えて活動できる大学医局であればこそだ。むろん医局という巨大な組織は多くの問題を抱えている。だが問題や矛盾があるからこそ、ルールというものが必要になる。ルールを守られなくなれば、医局は崩壊し、それは即ち医局が支える地域の医療までが崩れることを意味する。過酷な地域医療を支えているのは、医師個人の努力や善意などではない。大学医局という強力な組織なのだよ」

 しばし沈黙したまま立ち尽くす私に、御家老の落ち着き払った声が続いた。

「ゆえに医局のルールから逸脱した行為を野放しにしておくことはできない。他科に対する四内の立場としてもケジメというものが必要だ」といっん言葉を切り、速やかに宣告した。

「栗原先生は、3か月間のアルバイト中止」

 私は思わず目をつむる。

 兵糧攻めである。まことに的確な一手である。

 ただでさえ、薄給から授業料を差し引かれている生活で、アルバイトが止まると文字通り干し上がることになる。

 そう思ったときに、ノックの音が聞こえて柿崎先生が入って来た。

「失礼します、準教授」

 君を読んだ覚えはないと言われながらも、

「僕の部屋は隣なものですから、準教授の話が聞こえてきました。勝手に口を挟むのもなんですが、もう少し軽い処分にしたほうがいいんじゃないですか」

「しかし、柿崎先生。責任の所在を考えれば医局としてのケジメが必要だろう」

 責任というなら、栗原先生は大学院生だから、医局には責任はないし、一緒に往診に出た研修医に咎めがなしというわけにもいかないし、といって研修医に咎めとなると、来年度の研修入局の希望者数にも影響するのではとさらりと指摘した。

 御家老はしばらく沈黙して、冷ややかな声で告げた。

「では、アルバイト1か月の停止だ」

 かたわらで柿崎先生が軽く片目をつぶって見せた。

 私はそっと黙礼する。

 

<利休の転勤が決定。北条先生からパン屋に睨まれないように行動してくれと>

 カラオケルームのステージの上で、利休がマイク片手に「大都会」を熱唱している。

 その向かいでお嬢がタンバリンを叩き、お嬢の隣では泌尿器科へ移っていた番長が一緒に歌っている。一同から少し離れた片隅でインターホンから何やら注文しているのは、双葉佐季子である。

 なかなか混沌とした有様である。

「どうだい、たまにはいいだろ。こういう馬鹿騒ぎも」

 私の隣でレモンハイをあおっていた北条先生だ。

「栗ちゃんは歌ってくれないの ? 」という先生に、「酒をいただきます」と答える。

「いいね、じゃ、もう一度、乾杯だ」と私の日本酒の入ったグラスに当ててみせた。

 その日の夕刻、北条先生が長く実験データを積み上げてきた論文が無事、「Hepatology」という一流の国際ジャーナルにアクセプトされたことが医局内に発表された。

 それで、北条先生本人が " 論文おめでとう飲み会 " を提言して、3班関係者一同が街に繰り出してきた次第だ。

 宇佐美先生から告げられたアルバイト中止のことが話題になった。

「なんにしてもうまく難を逃れたらしいじゃないか。アルバイト1か月中止だけなんだろう」

 北条先生が視線を向けた。

「ありがたいことです。大乱闘のさなかに飛び込んできてくれた、柿崎先生のおかげです。それはつまり、柿崎先生に手を回してくれた先生のおかげです」

 私の淡々とした指摘に、北条先生が赤くなった目を細めた。

柿崎先生に聞きました。院生の責任は医局ではなく学部にあるとか、研修医の印象が悪くなるは避けたほうがいいとか、そういう理屈を考え出したのは北条先生だと

「カッキーも口が軽いよなぁ。俺の名は伏せておいてくれって言っておいたのに」

「こういう事態まで想定して、あのとき、お嬢を連れて行けと言ったのですか ? 」

「どうかなぁ、栗ちゃんの運が良かっただけじゃないの」

 どこまでも飄々たる態度の北条先生の横顔を、黙って見守るしかない。

「まあとにかくさ」

 ソファにもたれかかって北条先生が言う。

「パン屋に睨まれるような行動は得策じゃないぜ。来年度、新発田がいなくなるだけでも淋しいのに、栗ちゃんまで飛ばされたら、俺泣いちゃうよ」

「利休の移動は確定ですか ? 」

「確定だね。あいつはアドリブが利かないのが玉に瑕だがな。まだ若い。どんな病院へ行っても、必ずいい経験になり、いい医者になる。だから数年のうちに必ず俺が呼び戻す」

「呼び戻す ? 」

 当惑する私に向けて、北条先生は、にやりと凄味のある笑みを浮かべた。

                                  

   「第五話 黄落」その2/7  に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1652話 「 買い物雑感 」 4/25・木曜(曇・晴)

2019-04-24 15:58:47 | 日記・エッセイ・コラム

 

                                                                                                              

                                                                                         

 毎日、自分の健康のために、私は近くの大きなスーパーに行っている。

 スーパーでは、幼児を抱っこした若い奥さんを多く見受ける。

 その様子で気付くことは、すべての女性が幼児を前で抱いていることだ。

 昔はみんな背中に背負っていた。今はその姿を全く見ることはない。

 なぜだろうか。

 洗濯機ができたので、前で手を使うことはなくなったが、

 掃除や台所での食前食後の家事などを行うときはどうしているのだろうか ?

                                   

 先日、久しぶりにスーパーで割引になっていた春物のシャツ(写真)を購入した。

 そのときの話だが、同じMLでもメーカーによってサイズが少し違うので、

 MLで迷い、値札と一緒についている品札を見ると、

 「チェスト」と幅を表す二つの数字が並んで印刷されていた。

 衣料品レジの店員に聞いても、体のどの部分のサイズか分からないと言う。

 割引物で点数も少なく、明日、出なおすと品物がなくなると思い、

 試着をさせてもらい、おおよその見当で「大は小を兼ねる」からLを購入した。

 帰宅して、インターネットで調べたら、「チェスト」は「胸幅」のことだった。

 ついでに下着だけになりサイズを測ると、胸幅もへそ周りも1メートル弱だった。

 おかげで、自分の体のサイズを知ることができたので、後日のために記録した。

 自分の知識のなさにも呆れているが、店員の知識のなさにも……。

                                                                                     

 時間つぶしのための文庫本。

 今日は二列二行で店頭に平積みされていた上掲写真の「秋霜」を購入した。

 この頃、思いついたのは、単行本でよく売れたものは、

 数年後に文庫本で再刊するということだ。

 当たり前のことと笑われるが、文庫本の購入の際の目安に取り入れた

                                

 

 

 

 

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