「新章 神様のカルテ」
「あらすじ」
「第五話 黄落」 その4/7
<3回目の退院カンファは激論になり、バカ野郎との暴言が出る>
木曜日の夕方が、3回目の退院カンファレンスであった。
カンファレンスルームに、私と利休とお嬢の3人のほか、病棟の木月看護師、訪問看護ステーションの訪問看護師、ソーシャルワーカーとケアマネージャーまで集まって、総勢7人の大人数だ。
私は初めての参加なので、部屋の隅から突撃隊長たる利休の活躍を見守る算段でいた。
「現状での二木さんの退院はやはり難しいというのが私たちの結論です」
口火を切って来たのは、看護ステーション「希望」の川山という訪問看護師である。
「もちろん患者様ご自身の意思はわかりますが、29歳という年齢で、いつ急変するかも分からないとなると、訪問介護の負担は非常に大きなものになります。現状での退院は延期もしくは中止としていただいたほうがよいと思います」
「それについては先日も話し合ったはずですが、近くの開業医の先生を窓口に確実に対応できるようにします。僕らだって何かあればすぐに対応します」
「往診してくれる開業医についても、何軒か当たりましたが、29歳と聞いて二の足を踏んでいる先生が多いことも事実です。一方で、大学の業務がある先生方もそう気軽に駆けつけられる立場ではないでしょう」
なかなか弁の立つ人物である。
その隣に座る若いソーシャルワーカーも、私も川山さんの意見に賛成ですと淡々と外堀を埋めてくる。
「今回の最大の問題は、第一介助者の不安が強すぎるという点にあります。今回の症例では、患者の御主人は患者を連れて帰る自信がないと言っています。一般的には、第一介助者の不安が十分に払拭されない限り、安全な退院はできないとされています」
ケアマネージャーも「私も訪問看護師やソーシャルワーカーさんの心配はもっともだと……」と言う。ケアマネージャーだけが大学病院外のもので何となく遠慮があるのかもしれない。
利休はじっと耐えて説明を重ねている。
二木さんは残された時間が少ないこと。
今のまだ動けるうちに、御主人や娘の理沙ちゃんと自宅で過ごせる時間を少しでも作ってあげるべきだということ。
何かあればできる限り3班の医師が対応するということ。
しかし、相手に響いた感触は微塵もない。
やがて川山看護師が口を開いた。
「先生の熱心さはわかりますが、今回の退院については、当看護ステーションにおける退院ガイドライン上も、推奨しないという結論になっています。医師の熱意で変わるものではありません」
「退院ガイドラインですか ? 」
「複雑な症例に対応する場合、その退院が推奨すべきかどうか判断するための基準です。そのガイドラインによれば、今回の症例は二つの大きな問題を抱えています。第一に、患者が強く退院を希望している場合でも、その患者が冷静な判断に基づいているかどうかを十分に考慮すべきこと。第二に、第一介助者が十分に安心して行動できる環境が整っているかどうかを検討すべきこと。残念ながら、二木さんは以前にも感情的に入院を拒否した経緯があり、冷静な判断力があるか微妙です。また、御主人が大きな不安を抱えている事態も無視できません。ガイドライン上は、" 準備不十分 " です」
滔々とした弁舌で見事に論理を組み上げる。一見非の打ちどころのない堅固な言葉の城だ。
行き詰まりかけたカンファレンスを、再び動かしたのは、研修医のお嬢であった。
「でも退院できないからといって、いつまでも大学に入院させておくことはできないはずです。なにか治療をしているのなら別にですが、二木さんは抗がん剤も中止しています。治療もしていない人を長く入院させておくこととは、大学病院としても望ましくないと思いますが、その点はどうなのですか ? 」
思わぬ援護射撃に私のほうが驚いた。
しかも告げる内容は、感情に訴えるものではなく、理路を示して正当化するという、利休とは異なる道行だ。
ソーシャルワーカーが抑揚のない声で応じる。
「先生のおっしゃる通り、地域連携室としても入院期間を短くすることには全力を尽くすように言われています。ですから今回、退院ではなく転院という方向を検討中です」
転院 ? とさすがに利休とお嬢が同時に戸惑いの声をあげた。
それにかまわず、ソーシャルワーカーは言葉を続けた。
「二木さんのご自宅の近くに梓川病院があります。比較的長く入院できる病院ですから、あちらのベッドを確保して転院にすれば、御主人の不安は少なくなります。場合によっては、そのまま梓川病院で看取ってもらう。そういう方向はいかがでしょうか」
これは私でさえ予想もしなかった転換だ。
二木さんを乗せた船はあらぬ方向に舵を切り、予想もしなかった港に寄港しようとしている。いや寄港でなく、これは座礁である。
先方の言っていることが間違っているとは言わないが、何か基本的な誤りがある。
「待ってください」と利休がたまらず身を乗り出していた。
「本当に自宅退院の道はないのですか ? 二木さんは御主人やお子さんたちと家で過ごしたいと言っているんです」
「検討結果については、今お話したばかりです。二木さんを家に帰すには、準備が不十分という結論です。まずは患者様ご本人に冷静になっていただ来ましょう」
悠然と利休を遮ったのは川山看護師だ。
「今帰りたいという思いは慣れない環境の中での不安のせいかもしれません。時間が経てば落ち着くこともあるでしょう。それに、御主人の不安の問題もあります。" がんばって奥さんを連れて帰る " と、自信を持って言える状態であればよいのですが、私たちが面談した限りでは難しいようでした。転院して様子を見ている間に、もし状況が変わるようであれば、改めてあちらの病院で退院を検討してもらえばよいかと思います」
「そんな悠長なこと言っていられないから、焦っているんです。二木さんには時間がないんですよ。ここまで来て突然転院だなんて、そんな無茶な話、二木さんはどんな気持ちになると思っているんですか」
「思い通りにいかないことはあります。もし先生方から話しにくいようでしたら、私のほうからお伝えして構いません」
「二木さんは帰りたいと言っているんです。それがなぜ転院で看取りだなんて話になるんでですか……。あなたたちはバカなんですか」
「何とおっしゃいましたか、新発田先生。私たちはガイドラインに即して判断しているのです。患者さんへの感情移入は結構ですが、冷静な判断力があるかどうか分からない患者の意見に振り回され過ぎていること、気づいていらっしゃらないようですね」
「そういう態度だからバカ野郎だと……」
パシャッと突然、乾いた音が響き渡るのと、誰かの短い悲鳴が上がるのが同時であった。
直後には、時が止まったような静寂があった。
その静寂の中で、頭も顔も水浸しになった利休が、呆然と立ち尽くしていた。
ほかでもない。私が卓上の紙コップの水を浴びせかけたのだ。
「すまんな、手が滑った」
私は謙虚に詫びを入れてから、空になったコップにペットボトルの水を新たに注ぐ。
我が愛すべき後輩の顔にみるみる血が上る。
「何をするんですか。もう結構です」
再びパシャッと冷たい音が響き渡ったのは、私が注ぎなおしたばかりの2杯目を速やかに追加したためである。
今度は悲鳴も上がらなかった。
「いいから飲め」
目の前にペットボトルごと突き出せば、利休がようやく我に返ったように目を見張る。
………。
「今日のカンファレンスは終了したほうがよさそうですね」
川山看護師はそのまま立ち上がりながら、一段と低くなった声を響かせた。
「患者様のためですから引き続き検討は続けていきますが、今回の暴言の件については、それなりの対処をさせていただきますよ」
「待ちたまえ」
静かに私が呼び止めれば、さすがに足を止めて振り返る。
「暴言の件は撤回する。若気の至りという奴だ」
「撤回は当然です。その上で公式に謝罪もしていただく必要があります」
「それも異論はない。いくら相手がバカでも、面と向かって言って良い言葉ではない」
川山看護師は一瞬怪訝な顔をしてから、すぐに顔を引きつらせた。
「こちらが発言を撤回する以上、そちらの暴言も撤回してもらう必要がある」
川山看護師は、暴言 ? と当惑を見せる。
「二木さんは、この状況で懸命に自分の命と向き合っている。感情的にもなれば、絶望的にもなる。それでも懸命に生きているのだ。そんな彼女に向かってもう少し冷静になれなどと、それこそ君の言う暴言というものではないのかね」
川山看護師は頬を引きつらせたまま返事をしなかった。
「それに、ソーシャルワーカーが第一介助者が多大な不安を抱えている状態では退院など不可能だと言われたが、それもまた等しく暴言だ。御主人が不安なのは当たり前だ。きっと毎日、不安で不安で気が狂いそうになっているに違いない。その無数の不安を、なくす方法があるなどと本気で思っているのかね」
私は一度言葉を切り、付け加えた。
「御主人の不安は、なくなるものではない。我々のなすべきことは、不安がなくなるまで漫然と待つことではなく、不安を抱える御主人に向かって、" それでも大丈夫なのだ " と。そして、どれほど不安でも、" 我々が全力で支えるから心配するな " と告げることだ」
川山看護師たちからの返事はなかったが、ずっと沈黙していたケアマネージャーが恐る恐る発言した。
「でも私……、あんな若い癌の患者さんを自宅で見守るのに、大丈夫なんてとても……」
「同感です。しかし、それが我々の仕事です」
ここは生と死の現場である。その現場で、自分がなしうることに尽力するのが医療者の務めである。人が死ぬというのに、不安でない人間などいるはずもない。名医であれば自信に満ちて人を看取れるようになると思うのは幻想である。百人の人間が百通りの形で死んでいく。そのすべてに振り回されながら懸命に寄り添っていくのが医療者である。
御主人は不安に駆られているに違いない。だから退院できないのではない。
それでも退院にするのである。
後刻、利休は私に「有難うございました。栗原先生、感謝しています」と礼を言った。そのあと、私に訊ねた。
「二木さん、本当に帰れなくなるんでしょうか ? しばらくは地域連携室との連絡がうまくいかなくなるかもしれません。退院の手配をどうしたらいいか見当もつきません」
「見当ならついている。お前の言うとおり、大学内で動きにくくなるかもしれない。しかし、あくまで大学という小さな世界の話だ」
「どうするんですか ? 」
「うまくいくか分からんが……、とりあえず頼んでみるさ」
「第五話 黄落」その5/7 に続く