第三章 (竹脇の周りの大野武志、児島直子、榊原勝男、のそれぞれの思い)
「看護師」 (竹脇に対する看護師・児島直子の思い)
心停止。脈拍なし。
「ドクター、ドクター。竹脇さん、バイタルありません」
児島直子は、仮眠中の当直医を揺り起こした。
「ドクター、ドクター」との自分の声で直子は目覚めた。
机に伏せていた顔を上げて、モニターを見た。良かった。竹脇さんは生きている。
「あのさあ、愛ちゃん」と、若い看護師の顔を呼び寄せて、直子は声をひそめた。
「夢の中で、竹脇さんがステッちゃったのよ(ステるは死亡するの意)」
竹脇は眠れ続けている。
直子が、竹脇に初めて出会ったのは、20年くらい前だった。
竹脇正一という名前は知らなかった。直子も竹脇さんも、いつも始発駅のプラットホームの同じ場所に並んで同じ地下鉄を待った。前から2両目の一番後ろのドアの前に。
その乗車時刻は、8時30分からのナース・ステーションでの申し送りには、ちょうどよかったのだ。たぶん竹脇さんも、都心の会社の出社時刻に合わせて、その車両に乗る習慣があったのだと思う。
竹脇さんは背が高くてハンサムな人だったので、ラッシュアワーでも、小柄な直子の目印になった。20年以上も同じ地下鉄で通勤していた人。ただそれだけのことだ。
だが、直子には、竹脇さんが自分の人生の一部のように思えてならなかった。むろん、異性として意識した覚えはない。それでも、救急から引き継いだ患者の顔を一目見たとき、瀕死の肉親か恋人に出っくわしたような衝撃を受けた。
なぜこんなに衝撃を受けたのかは、自分自身で説明がつかなかった。それでも長い夜の間に、あれこれと記憶が甦るのである。
始発駅は、座席の奪い合いだが、竹脇さんは紳士だった。無理に座ろうとはせず、たいていは向かいのドアの脇に立って新聞を読み始めた。
そういえば、20年間の間には姿を見かけなくなったものだ。何年か経って、また地下鉄のホームで見つけたときは、思わず、「お帰りなさい」って、挨拶をしそうになったものだ。
だから、毎日お見舞いに来ているガテン系のおじさんに、竹脇さんの生い立ちを聞いた時はショックだった。
――二人とも親がなかったものでね。
同じ施設で育ったのだ、とおじさんは言った。
直子はICUの面会リストを検めて、人間関係をあらまし想像し、胸が一杯になった。竹脇さんは大変な人生を背負っていたのだと思った。毎朝の地下鉄に乗り合わせるだけだった人が、あんなにも気になって仕方がなかったのは、その大変な人生が滲み出ていたからだろうか。
榊原勝男さんは80歳。竹脇さんの隣のベッドで1週間も眠り続けている。
ベッドは、カーテンで仕切られていて、お二人は最も重篤な患者だった。
榊原さんは一人住まいの自宅で脳梗塞を起こした。最悪のパターンだ。たまたま訪れたヘルパーさんが適切な蘇生処置をして、救急センターに担ぎ込まれた。
榊原さんは、前もここに入院していて、退院しても、本人の診療がなくても、この病院に来て、顔見知りを捉まえては話しこみ、レストランでランチを食べて帰っていた。陽気な榊原さんは、奇妙なコミュニティーのムード・メーカーだった。
緊急連絡先はご長男だが、お見舞いに来た記録はない。住所は大阪になっていた。
「榊原さぁん、聞こえるかなー。がんばろうねー」
直子は榊原さんの頭を撫ぜた。どうしても声をかけずにいられなかった。
廊下では、大野さんが永山さんを揺り起こしていた。
「親方ァ、体に毒だぜ。もう帰って寝ろよ」
「顔役」 (竹脇の隣のベッドの老人)
榊原勝男は病院の顔役である。
病院通いの年寄りに知らぬ顔はなく、それもたいていは榊原の顔を見かけければ向うから挨拶してくれるのだから、顔役である。
榊原は、昔、心筋梗塞で何回かここに入院していて、リハビリテーションを担当していたのが直子であった。そのためか、直子の言うことだけは素直に聞いた。あれからどうにか20年も生きながらえたのは、児島さんのおかげだと言う。
(幼なじみの徹は、付き添いを武志に任せて一言いって帰る)
「それじゃ、マーちゃん。俺はいったん帰るからな」
(榊原の夢の意識)――ああ、やっと帰ってくれるか。ご苦労さん。
マーちゃんには聞こえているよ。
「あとは俺がついているから。寄り道するなよ、親方。おかみさんに電話しとくからな」
(榊原の夢の意識)――おまえも帰れって。
まったく、入れ替わり立ち替わり、迷惑な病院もいたんもんだ。
靴音が去ってしまうと、集中治療室には空虚な静けさがやってきた。
(以下、榊原の夢の意識の中)
雪は降り続いている。カーテンを閉めないのは、きっと児島さんの心遣いなのだろうと榊原は思った。たとえ意識がなくても、東京では珍しい雪の夜を感じさせてあげたいと。児島さんの考えそうなことだ。
榊原はまつ毛の間から雪を眺めた。
雪が囁きかけてくる。80年も生きたんだから、ぼちぼち了簡したらどうだ、と。
もうとっくに了簡しているさ。思い残すことなんざありゃしねえよ。死のうにも死ねねえだけだ。
その日がいったいいつだったのか、榊原にはわからない。しかし、記憶は鮮明である。
病院の2階のレストランでランチ・セットを食べながら、なぜか、別れた女房のことを考えていた。
遠い昔に倅を連れて出て行ったきり、一度も会ってはいない。そして、幾月かして弁護士が訪ねてきたから、さして迷わず離婚届に判を押した。未練はなくて、自分でもあきれるほど淡白であった。
倅とは何度か会った。大学まで出て一流企業に就職し、あるとき婚約者と一緒に訪ねてきたが、この頃はとんと音沙汰なくなった。孫は3人いるはずだが、会ったこともない。
食事をおえて病院を出た。ぶらぶらとアパートに帰って、部屋の掃除をした。
ヘルパーさんの訪問日だが、いなけれゃいないでまた来るだろうから、いつもの通りに一番風呂に出かけた。一番風呂の顔触れは決まっている。ほとんどが楽隠居だ。
湯上りに牛乳を一本。いつもと同じにうまかった。それから、ぶらぶらとアパートに帰り、炬燵にあたりながらテレビを見た。
榊原は、まるで死ぬ気はしなかった。80歳を過ぎたが、まだ遠い先の話だと思っていた。だから、炬燵に温まったまま、急に力が抜けて、手足を動かそうにも動かせなくなった時、まさか具合が悪いのだとは思わなかった。ふいに眠気がさすのは珍しいことではなかったからである。
痛みも苦しみもなく、榊原は気を喪った。ヘルパーさんがやってきて、大騒ぎになったのはかすかに覚えている。
第四章に続く