T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1425話 [ 「浅田次郎著・おもかげ」 9/? ] 2/1・木曜(雨・曇)

2018-01-31 13:15:57 | 読書

第三章 (竹脇の周りの大野武志、児島直子、榊原勝男、のそれぞれの思い)

「看護師」 (竹脇に対する看護師・児島直子の思い)

  心停止。脈拍なし。

「ドクター、ドクター。竹脇さん、バイタルありません」

 児島直子は、仮眠中の当直医を揺り起こした。

「ドクター、ドクター」との自分の声で直子は目覚めた。

 机に伏せていた顔を上げて、モニターを見た。良かった。竹脇さんは生きている。

「あのさあ、愛ちゃん」と、若い看護師の顔を呼び寄せて、直子は声をひそめた。

「夢の中で、竹脇さんがステッちゃったのよ(ステるは死亡するの意)」

 竹脇は眠れ続けている。

                             

 直子が、竹脇に初めて出会ったのは、20年くらい前だった。

 竹脇正一という名前は知らなかった。直子も竹脇さんも、いつも始発駅のプラットホームの同じ場所に並んで同じ地下鉄を待った。前から2両目の一番後ろのドアの前に。

 その乗車時刻は、8時30分からのナース・ステーションでの申し送りには、ちょうどよかったのだ。たぶん竹脇さんも、都心の会社の出社時刻に合わせて、その車両に乗る習慣があったのだと思う。

 竹脇さんは背が高くてハンサムな人だったので、ラッシュアワーでも、小柄な直子の目印になった。20年以上も同じ地下鉄で通勤していた人。ただそれだけのことだ。

 だが、直子には、竹脇さんが自分の人生の一部のように思えてならなかった。むろん、異性として意識した覚えはない。それでも、救急から引き継いだ患者の顔を一目見たとき、瀕死の肉親か恋人に出っくわしたような衝撃を受けた。

 なぜこんなに衝撃を受けたのかは、自分自身で説明がつかなかった。それでも長い夜の間に、あれこれと記憶が甦るのである。

 始発駅は、座席の奪い合いだが、竹脇さんは紳士だった。無理に座ろうとはせず、たいていは向かいのドアの脇に立って新聞を読み始めた。

 そういえば、20年間の間には姿を見かけなくなったものだ。何年か経って、また地下鉄のホームで見つけたときは、思わず、「お帰りなさい」って、挨拶をしそうになったものだ。

 だから、毎日お見舞いに来ているガテン系のおじさんに、竹脇さんの生い立ちを聞いた時はショックだった。

 ――二人とも親がなかったものでね。

 同じ施設で育ったのだ、とおじさんは言った。

 直子はICUの面会リストを検めて、人間関係をあらまし想像し、胸が一杯になった。竹脇さんは大変な人生を背負っていたのだと思った。毎朝の地下鉄に乗り合わせるだけだった人が、あんなにも気になって仕方がなかったのは、その大変な人生が滲み出ていたからだろうか。

                                 

 榊原勝男さんは80歳。竹脇さんの隣のベッドで1週間も眠り続けている。

 ベッドは、カーテンで仕切られていて、お二人は最も重篤な患者だった。

 榊原さんは一人住まいの自宅で脳梗塞を起こした。最悪のパターンだ。たまたま訪れたヘルパーさんが適切な蘇生処置をして、救急センターに担ぎ込まれた。

 榊原さんは、前もここに入院していて、退院しても、本人の診療がなくても、この病院に来て、顔見知りを捉まえては話しこみ、レストランでランチを食べて帰っていた。陽気な榊原さんは、奇妙なコミュニティーのムード・メーカーだった。

 緊急連絡先はご長男だが、お見舞いに来た記録はない。住所は大阪になっていた。

「榊原さぁん、聞こえるかなー。がんばろうねー」

 直子は榊原さんの頭を撫ぜた。どうしても声をかけずにいられなかった。

                                 

 廊下では、大野さんが永山さんを揺り起こしていた。

「親方ァ、体に毒だぜ。もう帰って寝ろよ」

                              

「顔役」 (竹脇の隣のベッドの老人)

 榊原勝男は病院の顔役である。

 病院通いの年寄りに知らぬ顔はなく、それもたいていは榊原の顔を見かけければ向うから挨拶してくれるのだから、顔役である。

 榊原は、昔、心筋梗塞で何回かここに入院していて、リハビリテーションを担当していたのが直子であった。そのためか、直子の言うことだけは素直に聞いた。あれからどうにか20年も生きながらえたのは、児島さんのおかげだと言う。

                                

 (幼なじみの徹は、付き添いを武志に任せて一言いって帰る)

「それじゃ、マーちゃん。俺はいったん帰るからな」

(榊原の夢の意識)――ああ、やっと帰ってくれるか。ご苦労さん。

          マーちゃんには聞こえているよ。

「あとは俺がついているから。寄り道するなよ、親方。おかみさんに電話しとくからな」

(榊原の夢の意識)――おまえも帰れって。

          まったく、入れ替わり立ち替わり、迷惑な病院もいたんもんだ。

 靴音が去ってしまうと、集中治療室には空虚な静けさがやってきた。

(以下、榊原の夢の意識の中)

 雪は降り続いている。カーテンを閉めないのは、きっと児島さんの心遣いなのだろうと榊原は思った。たとえ意識がなくても、東京では珍しい雪の夜を感じさせてあげたいと。児島さんの考えそうなことだ。

 榊原はまつ毛の間から雪を眺めた。

 雪が囁きかけてくる。80年も生きたんだから、ぼちぼち了簡したらどうだ、と。

 もうとっくに了簡しているさ。思い残すことなんざありゃしねえよ。死のうにも死ねねえだけだ。

                             

 その日がいったいいつだったのか、榊原にはわからない。しかし、記憶は鮮明である。

 病院の2階のレストランでランチ・セットを食べながら、なぜか、別れた女房のことを考えていた。

 遠い昔に倅を連れて出て行ったきり、一度も会ってはいない。そして、幾月かして弁護士が訪ねてきたから、さして迷わず離婚届に判を押した。未練はなくて、自分でもあきれるほど淡白であった。

 倅とは何度か会った。大学まで出て一流企業に就職し、あるとき婚約者と一緒に訪ねてきたが、この頃はとんと音沙汰なくなった。孫は3人いるはずだが、会ったこともない。

 食事をおえて病院を出た。ぶらぶらとアパートに帰って、部屋の掃除をした。

 ヘルパーさんの訪問日だが、いなけれゃいないでまた来るだろうから、いつもの通りに一番風呂に出かけた。一番風呂の顔触れは決まっている。ほとんどが楽隠居だ。

 湯上りに牛乳を一本。いつもと同じにうまかった。それから、ぶらぶらとアパートに帰り、炬燵にあたりながらテレビを見た。

 榊原は、まるで死ぬ気はしなかった。80歳を過ぎたが、まだ遠い先の話だと思っていた。だから、炬燵に温まったまま、急に力が抜けて、手足を動かそうにも動かせなくなった時、まさか具合が悪いのだとは思わなかった。ふいに眠気がさすのは珍しいことではなかったからである。

 痛みも苦しみもなく、榊原は気を喪った。ヘルパーさんがやってきて、大騒ぎになったのはかすかに覚えている。

                        

      第四章に続く

 

 

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1424話 [ 「浅田次郎著・おもかげ」 8/? ] 1/31・水曜(晴・曇)

2018-01-30 15:32:10 | 読書

「登場人物」

 1416話に掲載

第三章 (竹脇の周りの大野武志、児島直子、榊原勝男、のそれぞれの思い)

「義理」 (家族等に対する娘婿・武志の思い)

 こんな雪の晩だっていうのに、ファミレスはあんがい混んでいる。

 武志のテーブルの上には、食いかけのオムライスと3杯目のコーヒーが載っていて、吸殻がいぶっている。

 俺はスマホの時刻を5分ごとに見ている。病院から出てまだ30分ほどしか経っていない。もう少し、親方と竹脇のおやじの二人きりにしておいてやろう。俺にできることなんて何もねぇし。

 親友って、いいな。俺には一人もいない。

 保護司の紹介で親方と初めて会ったとき、俺の人生はこれしかないと思った。

 親にも見放された少年院帰りで、まだ保護観察付きのガキを、家に住まわせて給料もくれて、一生かたぎで食えるようにしてくれる。最初で最後のチャンスだと思った。

 保護司が帰った後、親方は、「遣っちゃいけねえことがある」、約束できるかと言った。

 悪い仲間とは金輪際縁を切る。ろくでなしの父親を捜すな。一人前の男になるまでおふくろとは会うな。との三つのことを言われて、俺は、「ハイ」と答えた。

 親方は俺を素っ裸にしてくれたんだ。

 あと20分。10時までは、二人きりにしといてやろう。それで病院に戻ったら、なだめすかして親方を家に帰さなくちゃ。

 おやじとは同じ齢だから、親方だってもう何があっても不思議はねえんだ。そのうえ、大酒のみでヘビー・スモーカーで、大の医者嫌い。組合の健康診断だって、俺が無理やり引っ張っていかなきゃならねえのだ。

 親方の体は気遣ってたのに、どうしておやじはノーマークだったんだろう。きっと俺は、頭の中で順序をつけていたんだ。親方が先で、おやじは後だって。

                            

 親方もおやじも、養護施設で育ったらしい。らしい、ってのは、詳しい話は聞きたくねえからだ。俺だって、てめえの生まれ育ちは話したくない。だから聞きたくないのだ。

 親方の両親は交通事故で死んじゃったって、おかみさんから聞いた。しかし、俺は、「へえ」と言ったきりだった。おやじは自分がどこの誰だかも分からないらしいって、茜が言ってた。それも「へえ」だけ。

 けど、どっちの話を聞いたときも俺的には、ショックだった。どうして親方が、こんな俺を引き取ったのか、どうしておやじが、こんな俺に娘をくれたのか、いっぺんに謎が解けたような気がしたから。

 だが、俺がいつか親方になって見習いを雇うとき、少年帰りの保護観察付なんて、いやだもんな。娘をくれてやるなんて、論外。てことは、やっぱ親方やおやじは神様みてえな人で、俺は神様に選ばれた超ラッキーな奴なんだ。だから、俺はもっと頑張らなくちゃと思う。

 親方に拾われてから15年、茜と結婚してから7年、それでもまだ俺には何もできねえ。

                                  

 俺は、親方とかみさんが育て直してくれたんだ。それから、竹脇のおやじとおふくろ。茜。子供たち。みんなして俺を育ててくれた。

 俺の子供の瑠璃と紫苑は、俺の宝物。ガキなんか大嫌いだったのに、てめえの子供は別だ。名前も俺が付けた。

 あと10年経ったら、荻窪の家を建て替える。何から何まで俺がやる。屋根はアカネ色。壁はルリ色。庭には薄紫のシオンの花を一杯に咲かせるのだ。

 おやじが俺を婿養子にしなかったのは、「タケワキ・タケシ」の語呂が悪いからじゃない。もともと借り物の苗字だから愛着がねえんだって、茜が言っていた。

 上等だぜ。だったら俺の建てた家の玄関に、「竹脇」と「大野」っていう愛着のねえ二つの表札を並べてやろうじゃねえか。

                             

 21:50。ぼちぼち行くか。店を立たとたんコートの襟をかき合わせた。

 ウエイトレスのおばちゃんは、俺のおふくろよりずっと若かったな。

 俺のおふくろとは、茜との結婚式のときに会ったが、最近、ときどきメールが来る。着信はいつも真夜中だから、翌日の昼休みに返信する。

 メールは酔っているのがミエミエ。字は間違いだらけだし、何を言ってのか訳が判らねえ。それでも、まさか無視はできねえから、「元気でやっているよ」みたいなメールを返す。

 青梅街道って、なんか暗いんだな。人も車も少なくて、牡丹雪がよく似合う。

 雪を払い落として、俺は病棟に入った。

                                                               

            第三章「看護師」に続く

 

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1423話 [ 「浅田次郎著・おもかげ」 7/? ] 1/30・火曜(晴・曇)

2018-01-29 15:46:01 | 読書

第二章 (「天使」が、意識のない竹脇が渇望の場所を案内する話)

「静かな入江」-3- (静とのランチの中で、竹脇の心の傷と節子への出自告白を思い出す)

 静が少し歩きませんかと言った。

 僕らはさざ波の寄せる渚を歩いて、砂浜が尽きて磯になった。

 見上げれば陽光を遮る崖の上に、テラスが張り出していた。

「ランチにしましょう」と、静は、そう言って崖に付けられた螺旋階段を上った。

 螺旋階段は一巡りごとに僕をひるませた。

 小学1年か2年のときの東京タワー見物が、初めての自覚症状だったことに違いない。

 僕が楽しみにしていた東京タワーの見物に、僕の知らない「母親」という種族が割り込んできたような気がした。

 展望台の窓辺には、母と子が鈴なりになっていた。高い場所に不慣れなせいか、皆申し合わせたように手を繋いでいた。僕はどうしても、その間に割り込んで歓声を上げる気にはなれず、後ろの壁にもたれて時が過ぎるのを待った。

 嫉妬や羨望ではなかった。危ういと感じたとき、手を握ったり肩を抱き寄せてくれる人を、僕は知らなかった。つまり、「母親」という種族の本質と存在意義を、僕は思いかけずに発見してしまった。僕だけにはないという心許なさは、嫉妬や羨望を一足飛びにして、耐え難い恐怖に変わった。

「思い出したようね」と、静かに言われた。

 僕は肯いた。そして、言葉を発した。

「トオルが、手を繋いでくれたんだ」

 そう言った途端、慰めるように重ねられた静の手を、僕は思い切り振り払った。

 僕にはいまだに分からないのだが、ときどきこんな具合に感情が剥(は)ぎ出ることがあった。いわゆる「キレる」というやつだ。

 そのスイッチのありかが判らないから、部下たちはいつも僕の顔色を窺っていた。

 むろん僕自身は、そのスイッチのありかを知っている。被い隠している劣等感に少しでも触れたとき、例えば、出自や学歴や家庭環境やらにまつわる偏見を一言でも感じたとたん、僕は理性を失う。ただし、厄介なことに、それが普遍的な差別用語であるなら気をつけようもあるが、僕自身の個人体験に根差すものの場合は、怒りの理由が相手には全く分からない。

 今がその好例だった。僕の悲しみをくるんでくれたトオルの手の神聖さなど、他人には分ろうはずはなかった。

「ときどき、キレるんだよ。意味もなく」

 静は悲しげな顔をした。僕が振り払った左手を、罪深いもののように右手で包み込んで、「ごめんなさい」と詫びた。

 僕は優しい女だと思った。

 店にお似合いのジャズ・ボーカルが流れている。                                

 昼のビールが効いて、睡気がさしてきた。

                              

 古いレコードを聴いているうちに、また一つ記憶が甦った。

 駅前のアーケード街から裏道に折れた暗い喫茶店。40年も昔の我々の結婚記念日での出来事だ。

 交際を始めてから1年が経ったその頃、籍だけ入れて夫婦になろうという話になった。しかし、区役所に書類を提出する前に、節子の了解を得ておかねばならぬことがあった。僕の不可思議な戸籍である。

 改まった話にしたくなかったので、通りすがりの喫茶店に入った。

 僕は親を知らないし、節子には幼い頃に両親が離婚して、なおかつそれぞれが再婚してしまったという事情があった。だが、たがいに身の上話をした記憶はない。

 しばらく、さし障りのない会話を交わしてから、僕はいかにも思いついたようなふりをして、戸籍謄本をテーブルの上に置いた。すると、節子も、バッグの中から自分の謄本を取り出して並べた。

 節子の戸籍は複雑だか分かり易かった。ずいぶん前に生母が除籍され、すぐに継母が入籍し、3人の弟妹が生まれていた。そのうえ生母まで再婚して子供をもうけていた。

 それに引き換え、僕の戸籍はいたってシンプルだった。

 本籍地は養護施設の所在地である。次の欄には、「棄児発見調書」なるものの提出された日付が記載されている。昭和26年12月15日という誕生日は推定。父母の名は空欄となっている。

 節子は、それを長いこと読んでいたあと、無言で涙を流した。

 ――それでいいか。

 僕は言った。

 ――いいわ。

 節子が答えた。

 カウベルを鳴らして喫茶店を出たとき、新たな世界が開けたような気がした。施設から新聞販売店への転居、そこから大学の寮への引っ越し、社会人になった時にも同じような感慨はあったのだが、節子と喫茶店を出たその時は、ことさらはっきりとそう思った。

 そのあと、区役所から新しい謄本を2通もらって有難い護符のように胸に抱いて歩いた。そして、いつか生れてくる子供の為に、形ばかりの晴れ着を借りて写真に収まったのは、その帰り道だったろうか。

「眠くなった」との僕の言葉に、静が体を寄せてきた。僕は睡気に耐えきれず、サンドレスの肩に頬を預けた。

                              

      第三章に続く

 

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1422話 [ 「浅田次郎著・おもかげ」 6/? ] 1/29・月曜(晴・曇)

2018-01-28 13:10:21 | 読書

 第二章 (「天使」が、意識のない竹脇が渇望する場所へ案内する話)

 「静かな入江」-2- (入江で静と会い、若死にした息子の春哉のことを思い出す)

 体が闇にとけてゆく。さざ波の音が聞こえてきた。

 僕はいつしか夏の日盛りの静かな入江に佇んでいた。ふと、ここに来たことがある、と気付いた。

 僕は遠浅の沖合に向かって、妻と茜の名を呼んだ。いくら呼んでも振り返る節子と茜の顔は見えなく、浜辺の先のほうから「ハーイ」と答え、白いサンドレスを着た見知らぬ女が僕に向かって手を振っていた。

 倒れたときに記憶の一部が欠けて、その部分に、女性の記憶があったのだろう。

「よかったわね。ほんとに、よかった」と、女から祝福してくれた。

 僕はお陰様でと答えた。しかし、誰かわからない。節子のジムの仲間だろうか。

 あなたが誰なのか僕には思い出せないのですがと、名前を尋ねる。

 女は呟くように、「静かね」と答えた。

「ああ、静さんだね。だったら入江静さん。」と言うと、それでいいわと言われた。

                              

「頭がまだはっきりしないのだが、僕はここに来たことがあるのかね」

 静が頷いて、「さっき奥さんと娘さんの名を呼んだでしょう。そう、その時は楽しくなかったから忘れたのね」と言った。

 そうだ、あの当時の僕は、家庭に安息を求めようとはしなかった。いくらかでも体を休めて英気を養う場所にすぎず、この入江の海水浴場にも家族から行きたいとせがまれたからで、僕自身は少しも乗り気ではなかった。

 僕は殆ど海に入らず、日なが一日ぼんやりとしていて、浜茶屋の軒下の床でビールを飲んだり居眠りをしたりしていた。

 昼飯時になっても海から上がってこない節子と茜を呼びに行った。食事の後は、節子を茶屋に残して、茜と二人で砂の城を作った。

 ふと振り返ると、陽光の中にじっと佇む節子の姿が見えた。妻は死んだ息子の写真を胸に抱いていた。

 ―ーやめてくれないか。

 濡れたパーカーの胸に掲げられた写真ケースを、僕は奪い取ろうとした。節子は放さなかった。

 そのときに、どんな問答があったのかは記憶にない。僕は悲しみを労わろうとせずに叱りつけ、節子は遺影を抱えたうずくまったままだった。

 静が切なげに言った。

「思い出してあげて。もう少し」

 僕は、きれいごとを言いなさんな、赤の他人のくせにと、口汚く言い返した。

「でも、忘れるのはかわいそう」

「忘れなければ生きていけないことは、山ほどあるさ」

「しかし、忘れるのは、いいことじゃないわ」

 日頃忘れたふりしていても、節子は永遠に癒えぬ傷を抱いていた。僕にしても、それは同じだが、母親の執念とは比べようもあるまい。

「わかっているさ。だがな、なかったことにしなければ、僕らはもうやっていけなかった。忘れたふりでいいんだ」

 春哉は4歳で死んだ。交通事故は致命傷ではなかった。入院中に肺炎を併発して手の施しようがなくなった。悪夢の様な呆気なさだった。

 僕には身寄りがないし、節子の境遇も似たもので、ささやかな葬儀あった。

 ふいに死なれてみると、竹脇春哉という息子が何となく未来のない、寂しいものに感じられた。

 竹脇という姓は篤志家からの借りものだった。僕は、自分の来歴を何一つ知らなかった。姓名ぐらいはあっただろうが、「竹脇正一」でなかったことだけは確かである。

 だから、大学入学のときや、会社の入社のときはもちろん、婚姻届けを提出するときでさえ、自分の戸籍の説明をしなければならなかった。そうした竹脇の姓などに愛着が持てるはずはなかった。それは僕を社会的に認知させるための、記号に過ぎなかった。

 そんなことから、その記号に過ぎない姓を継がせ、名前を付けることがなかなかできず、出生届を区役所に提出したのは、期限ぎりぎりの14日目でだった。

 春哉の葬儀の後、春哉の死亡原因をめぐって言い争いをすることが多くなり、堀田夫婦が仲裁に入らなければ別れていたと思う。

 堀田は辛い説諭をしてくれた。

 ――なかったことにしろ、忘れたふりでいいんだ。茜ちゃんを片親にするつもりか。

 その一言が効いた。

 忘れるはずはない。忘れたふりをしなければ、僕と節子はもたなかった。

                                  

 僕は陽盛りの砂浜に目を向けた。

 ――やめてくれないか。

 叱責とも懇願ともつかぬ情けない声で、僕がそう言ったのは、あのあたりだったろうか。

 春哉は海を見たことがなかった。それは毎年の懸案だったのだが、たった一日の務めすら僕は果たさなかった。

 だから、忘れたふりをしながらやむに已まれず、節子が春哉を写真を持ってきたのは、母親として無理からぬ話だし、僕だって口にこそ出さずにいたが、ずっと春哉の魂と共にいたのだ。

 記憶はそこで途切れてしまった。

                    

     第二章「静かな入江」-3- に続く

 

 

 

 

 

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1421話 [ 「浅田次郎著・おもかげ」 5/? ] 1/28・日曜(曇)

2018-01-27 12:43:58 | 読書

第二章 (「天使」が、意識のない竹脇が渇望していた場所へ案内する話)

「静かな入り江」-1- (竹脇を再度見舞う親友トオル)

「家族に連絡しましょうか」

「いや、その必要はないだろう」 

 看護師と医者の声が聞こえる。

 何かあったらすぐ起こしてくれと言って医師は出て行った。

 竹脇は、つい今しがた、このベッドを抜け出して、マダム・ネージュとシーフード・ディナーを食べて来たのである。たぶんちょっと無理をしたのでデータに変化が現れたというところだろう。

 しかし、全然死ぬ気はしないので、医師のほうが正しいと思う。

 看護師が立ち去ってしまうと、再び安息がやってきた。

 今までの人生は、ずっと戦場だったので、このような安息は経験したことがない。

 では、僕がめでたく蘇生したとすれば、その後は一体どのようにすれば新たな人生を獲得できるだろうか。これといった趣味はない。さしあったてやりたいこともない。

 そんなことを考えていると、ナース・ステーションで話し声がしたと思う間に、靴音を忍ばせてトオルがやってきた。

「どうだァ、マーちゃん」と言いながら、チューブに繋がれた僕の掌をさすってくれた。トオルのぬくもりは肌にしみいって体中をめぐった。

 トオルが、夫婦の仲に首を突っ込みたくないけど、今日は言いたいのだと、いっそう掌に力がこもった。

「おまえは、セッちゃんに、両親に早く死なれ、遠縁に育てられ大学まで出してもらったと話しているだろう。セッちゃんから尋ねられたが、うやむやに答えるしかなかったんだぞ」

 僕のプライバシーじゃないか。どうでもいいだろう。

「おまえの気持ちはわからんでもねえさ。女房が亭主の正体を知らなくって、赤の他人の俺が知ってるっての、そんなの可笑しいとは思わねえか」

 こいつは、節子に、すべてを告白しているのだろう。トオルの性格からして、僕の秘密主義に我慢がならないのだ。

 トオルは、中学を出て地元の大工の徒弟になり、やがて、親方に人柄と腕を見込まれて婿養子に入った。だから、はなから素性がばれていたし、それに性格からして誰と結婚しても告白しているだろう。僕は余分なことは言わないだけだ。

「マーちゃん。もういっぺん目を覚まして、セッちゃんに打ち明けてくれよ。お前がどれくらい頑張ったか教えてやれよ」

 いやだね。40年も暮らして、今さらどの口が言えるんだ。トオルが何を思い出しているか、僕にはわかった。

 昭和45年3月、僕が朝刊の配達をおえて店を出たら、作業着姿のトオルが、現場が休みなので大学の合格発表について行っていいかと言って付き添ってくれた。

 僕には浪人する余裕はなかった。国立一期の一校だけに狙いを定めていた。

 竹脇の成育環境からすると、新聞販売店に住み込んで全日制の都立高校に通うだけでも精一杯だった。そのうえ大学に進もうというのは、努力というより運と生命力に物を言わせる戦争だった。

 雪の中に僕の受験番号を見つけたとたん、トオルはその場に座り込んだ。

 ――わかったよ。わかったから、もう家に帰って寝ろ。生き返ってその気になったらぼつぼつ話すさ。

 看護師がやってきて、ナース・ステーションでお茶でもどうぞ言われて、トオルは出て行った。

 さあ、これで眠れる。いったいどんな夢を見るだろう。叶うことなら、もう一度マダム・ネージュに会いたいものだが。

                           

          第二章の「静かな入り江」-2-に続く

 

 

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