T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1264話 [ 「励み場」を読み終えて 5/? ] 11/30・水曜(曇)

2016-11-30 09:17:15 | 読書

「あらすじ・注目した文章」

第四章 ―( 飢饉による「痛み」)

(あらすじ)

 寝所に当てられた久松家の座敷に入った信郎は、明日からの調べに備えて頭を整理した。

 久松加平は、たとえ"耕作専一"でも、すべての村人にお救いを施し、沼の干拓事業を通じて日当を支払うだけの蓄えはできると言い切ったわけだ。

 わずか二日と半日の滞在なので、できる、できないを見極めることしかできない。確かな手立てを添えて立証することは無理だ。信郎は、できると見極めれば、それだけで、それを献策することにした。とはいえ、見極めるだけでも決して簡単でない。

 加平は、米作のみで蓄えを得るための柱を、稲の品種と肥料の両方であるとしている。しかし、田植えが終わった今の時期、稲の品種は何か、肥料の奥義を蓄えた土壌は、張った水の下では、どんなものか、確かめることはできそうにない。

 となれば、いま視るべきは、手立てよりもむしろ、実績であろう。すなはち、"耕作専一"の村が、名主の加平の導きによって、飢饉から見事に立ち直っている事実こそを見届けるべであろう。

 そのためには、この目で、村に飢饉の後の爪跡が残っていないか、沼が田に変わっているか、加平が村の外で商いなどに手を染めていないかの3点を確認すればいいだろう。

 信郎は、村を回るのには時間がないので、とにかく、初めの日は、手余り地(喰えなくなった百姓が見捨てた田畑)の有無に絞って、村の周囲の小山の上から村の田を見ることにした。

 最初の小山へ登って、眼下の田を見ると、田植えを終えたばかりの田が連なって、鏡のように空の青を映していた。遠目にも、畔という畔がきれいに刈り取られているのが分かった。また、そこには、手余り地は無かった。

 二つ目、三つ目の小山から見た眺めも同じで、手余り地も全くなかった。

 信郎は、飢饉があった村にしては、なにも飢饉による田畑の変化、落差が見られなく、手余り地が全くないのは不可思議だと思った。

 と思って凝らした目に、農家の母家一軒ほどの土地が稲藁で覆われているのが見えた。

 また、小山から見た目に、村人の姿が全くなかったことを不思議に思った。田畑に居なくても、家の庭先にも働く姿を捉えることがなかった。

 小山から見えた稲藁は、近くに行くと、確かに農家一軒を覆っていて、木が焼け焦げた匂いがしていた。

 背後から、「お戻りなさい」と声がした。

 信郎が振り向くと、野良着姿の百姓が二人いた。

 組頭の治作(名主を補佐する者)、百姓代(小前の代表)の弥五郎と自己紹介をした。

 信郎も名乗って、「名主の久松殿から何処をどう見ても構わないと言われている」と言うと、事前に御陣屋(ここでは名主家のこと)からお達しがあって、「当方がご案内させていただくものと了解しておりました。これは、許可なく肥料に使用する塩硝をつくっているのです。検めることはしないでください」と、弥五郎が説明した。

 信郎は、石澤郡の山花陣屋に来るまで、主家と名子の主従の気風を残す西脇村の名主の堀越家で育った。

 武力の源である塩硝づくりは、領主の専権に属していて、堀越家でも、村人にはその技を洩らさず、堀越家のみでつくっていた。堀越家の中で育った信郎は、当主からの指示を受けて、塩硝づくりを行っていたのだ。

 そんな過去を持つ信郎は、煙硝は雨に打たれるところでは決して採れないことを知っていて、弥五郎が嘘をついていることが分かっていたので、「ここで塩硝をつくっていることは誰にも言いません。戻りましょう」と言って久松家の屋敷に急いだ。

                                   

 信郎は加平に、「百姓代の弥五郎が、塩硝づくりをしていると嘘までついて隠そうとした建物はなんだったのでしょうか」と問う。

 加平は「わたしが、答えないという疑いをもたれませんでしたか」と問い返した。

「わたしは、あなたと向かい合って以来、昔、名子として仕えた堀越家の当主に、あなたを重ねました。あなたは権力よりも知力を求めた方と映り、御公儀よりの顕彰に恋々とする人物とは対極にある方と見ました」と、加平が隠さないことを信じていると信郎は答え、そして続けた。

「本日、三つの小山から田姿を見たときに、あまりにも"耕作専一"ならではの「痛み」がないと見ざるをえなかったのです。もとより、この御代で"耕作専一"を貫く困難さは尋常ではありません。その尋常ではできぬことをやり抜くゆえの痛みが、否応なく顔を出すものなのです。なのに、飢饉など無かったかのように、つるん、としていました」

 加平は黙していた。

「久松家の農業の技でそれを成し遂げたと説くには、あまりにも痛みがなさすぎる。"耕作専一"では得られない、何らかの外からの支えがあったと判じざるをえません。つまりは、なんらかの商いで富を得た何者かが、飢饉の傷を塞いで余りある支えを供した、としか考えられません」

 加平は唇を閉じたままだった。

その何者かは、あなたではない。あなたが商いで利を得ることはできません。あなたはあまりに知が深すぎる。わたしはあなたではない誰かに思いを馳()せました。そのとき、稲藁の野積みに目が留まったのです。弥五郎殿は、塩硝をつくっていると言って私に見せまいとする」

 加平は、まっすぐに信郎を見ている。

となれば、わたしは、稲藁の下の黒焦げた建物と、あなたではない誰かと結びつけざるをえません。そのときに、はたと、あなたが私を呼び寄せたのだ、と気づいたのです」

 信郎もまた加平の目を見て、続けた。

「あなたはいったんは、この村で起きたことを隠そうと決めたのでしょう。しかし、なぜかは分かりませんが、ほどなく、やはり、語らなければならないと思うに至った。あなたは、とにかく江戸から役人を呼び寄せようとした。けれど、それは、村人たちの意とは反していました。表立って動くことは難しい。そこへ、顕彰の話が耳に入り、あえて、横やりを入れて、私を呼ぶ手立てをつくったのです」

 信郎はさらに続けた。

「そう考えると、あなたのような方が上申したのも、すっと腑に落ちました。顕彰の調べで役人が来ると言えば、村人も拒むわけにはゆきません。きっと、あなたは、私が滞在する二日半のどこかで、全てを明かす頃合いを見計らっているのだと疑わなかったのです」

 加平はおもむろに唇を動かした。

「お見事ですな、図星です。ただし、半分ですが」

                              

         次の第五章に続く

 

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1263話 [ 「励み場」を読み終えて 4/? ] 11/28・月曜(曇・晴)

2016-11-26 15:18:49 | 読書

「あらすじ・注目した文章」

第三章 ―(信郎のために堕胎)ー

(あらすじ)

 智恵は、江戸に出てきて、初めての正月を迎え、地主の内儀から、下谷の住人なら、おおかたが両大師と呼ぶ御山の開山堂に初詣に行くことを教わった。

 開山堂には、慈眼大師と慈恵大師の二人の大師を祀っているのである。

 ともあれ、明けた宝暦六年の正月三日、信郎と智恵は二人して、御山へ向かった。

 人でごったかえすも、難儀とも感じることもなくお堂に詣でることができて、阿弥陀様に手を合わせて、早く信郎の思いが叶いますようにと、願掛けをした。

(注目した文章) ―(初詣で心が洗われる智恵)ー

 御山に向かうと、はるか手前の車坂町あたりから、人でごったがえしていた。智恵は思わずしり込みしたが、意を決して群れの一人になってみれば、楽ではないものの、決して嫌でもない。

 人に揉まれるほどに、己の内に抜き難く居ついていた出戻りやら、もらい猫やら、名子やらが、里芋にこびりついていた黒い泥さながらに洗われていくようで、知らずに気持ちが軽くなっていった。

(あらすじ)

 初詣から帰り、智恵は、地主の内儀に礼を述べると、両大師は、毎月3日と18日に縁日が出るのだと教えてくれた。

 それから智恵は、一人でも折に触れて両大師に詣でることにして、せっせと通ううちに、半月より長く間を空けると落ち着かなくなった。

 智恵は、ちょっとでも早く信郎の子を授かりますように、繁く願掛けをしなければならなかったのだ。

 信郎は、笹森の家を再び武家の家筋に戻そうとしている。その家筋を継ぐ子がいなければ、山花陣屋の元締め手代を捨ててまで江戸へ出た信郎の覚悟も頑張りも、すべて水泡に帰してしまう。

 子ができずに去り状を渡されたことのある智恵だけに、日を経るにつれて、信郎が口にした「おふた方の御大師となれば、きっと御利益だって倍に違いない」という台詞がよみがえって、智恵はいよいよ両大師を目指すのだった。

                                 

 そんな智恵が、下谷に住まって2年が過ぎたころより、両大師から遠ざかるようになった。2年という月日は、自分でも気づかぬうちに別の考えをも育てていた。いつものように、阿弥陀仏に掌を合わせて、願いを呟いたとき、ふっと、本当に自分が子を授かってよいのかという思いが過(よぎ)ったのである。

 信郎は、2年で今の普請役から支配勘定になると言っていた。つまり、勘定所雇いではなく、本物の武家になると言っていた。その2年が、智恵が両大師に一心に通うあいだに、気づくと終わろうとしていた。 なのに、普請役のままだ。笹森の家はまだ武家の家筋になっていない。子を継がせる家筋を得ていない。

 信郎に限って、そんなことになるはずはなく、2年で本物の武家になるに決まっていると、智恵は頭から信じていたので、こんなことが本当にあるのだと思って、心ここにあらずいう体(てい)だった。

 ともあれ、信郎の失意を癒さなければと気持ちを切り替えようとしたけれど、それができず、たどり着いた答えは、自分が悪いのだというものだった。

 信郎は、江戸で身上がろうとするならば、私が再婚せず、何としても勘定所で力を持つ者の娘を得なければならなかったのだ。

 そうして、言うに言われぬときを送ってみると、両大師はちゃんと御利益をくれていたのだ。

 もし、子供ができていたら、もっと、じたばたするのは目に見えている。自分の気持ちに、きつく頬かぶりして、信郎と赤子に優しい顔を向け、優しい声をかけながら、信郎の宿願の励み場へ上がるのを邪魔立てしているだろう。だから、両大師は子ができぬよう、見張っていてくれた……。

 

 それまでの智恵は、はしたないと思われても、子を授かるのが先だと、自分から肌を合わせに行きもした。

 でも、気づいてからは控えたし、求められても、体調のせいにして背中を向けるようにした。

 しかし、信郎は持ち前の穏やかさで、躰を案じてもくれて、智恵はこれだから、家を出ていくことができなくなり、ずるずると延ばしてしまう。

 そして、ときには、信郎の優しさに断り切れなくなる。どうせ、子のできぬ躰なのだ。

 肌を合わせないのは、別れるためのお呪いでしかない。お呪いなら、たまには忘れたって、何も変わらないだろうと思いつつ、信郎の背中に指を這わせた。                                  

 でも、変わった、のだ。

 両大師にお礼参りに行かなかったせいかもしれない。

 この三月、経水がない。

 智恵は、月のものが殆ど狂ったことがなかったので、もしかと思った。

 なんで、半年を超えて引き延ばしてしまったのかは分かっている。信郎がお召し出しになるのを、ひそかに待っていたのだ。

 この期に及んでも、出仕の声がかかるのが、ちょっと遅れただけだと思いたがった。このままでいいのだ、一緒にいても構わないのだと思いたがったのだ。

 だが、こんどこそ、この下谷稲荷裏と縁を切らなければならないと、智恵は決意した。

(注目した文章) ―(智恵の決意)ー

 信郎は本当の武家になれなくて、きっと、困っている。

 やはり、縁つながりが大事なのだと、思い知らされている。

 だから、産科医には行かない。

 子を生かす処へ行けば、自分があきらめられなくなるのは分かっている。

 子を生かす処ではない処へ、行かなければならない。

 そして、こんどこそ、この下谷稲荷裏と縁を切らなければならない。

 ただの女なら、できないかもしれない。

 生まずにいられないかもしれない。

 (わたしは、信郎に気持ちのゆとりを持たせてあげたいのだ)

 それが、名子の女の私が、名子の男にしてあげられることだ。

(あらすじ)

 前日に、姉の多喜を柳原通りの定宿へ送った智恵は、翌日、まだ夜も明けぬ暁七つ(午前4時ごろ)、山下の仏店(花街)を行きつ戻りつしている。

 日は、宝暦8年の6月18日、両大師の縁日だ。

 仏店のやり手婆が智恵に、「どういうつもりなんだい! あんた」と声をかける。

 智恵の足が止まる。

 やり手婆から、「古血の塊(五月までの胎児)」を無いものにする刺し薬を教えられて、智恵は依頼する。

(注目した文章) ―(「古血の塊」への刺し薬)ー

「あんたみたいに、いかにも素っ堅気でございって、ご面相している女に、ちょこまかされたら、迷惑なんだよ」

「……」

「それとも、なにかい。ここいらで、ひと働きしたいけど、踏ん切りがつかないとでも言うのかい」

「……」

「もしかして、あんた、子持ち縞(太い縞と細い縞の親子の縞に見立てての言葉)に錠、の暖簾を探してんだろ」

 そう言うと、いきなり智恵の帯の下に掌を当てた。

「錠をかけて、子が出て来られないようにするんだよ。中のものを何とかしてくれるところを探してんだろ」

「……」

「ここのコは、「さしぐすり」を使うんだ。桑の枝だったり、ホオズキや山牛蒡の根で、「古血の塊」を刺すんだよ。二分にしとくよ」

「……」

「あと、ふた月もすりゃあ、立派な子赤子になるんだ。そのときになったら、お腹の子に申し訳ないと思わないかい。二分っぽっちで命の始末をつけようっていうのだ。よかったら、明日の朝、正燈寺の門前に来なよ」

(あらすじ)

 信郎が帰ってくるまでには、まだ三日ある。だが、この機会を逃したら、自分には手立てがないと、智恵は思う。

 智恵は、教えられたとおりに、約束の正燈寺の門前に来た。

 約束の六つ半より半刻近くも早く着いた。仏店の女がまだ来ていないことを確かめて、そのまま歩き出した。

 昨夜、眠るのは無理だった。自分のお腹の中にいるものを、古血の塊と信じ込むのは無理だった。暗い座敷で、自分の犯そうとしている罪を嘗()めつづけて朝を迎え、固まらぬ覚悟を何とか固めて家を出た。

 寺の門前で仏店の女を待たずに、田の合間の野に分け入ってみると、「探しもの」があることを思い出した。

 眠らぬ昨夜、やはり、用意しておかなければと覚悟したものが、そこならば、ありそうだった。

 ほどなく、これならばという探しものを見つけて、近くに落ちていた木の枝を手に取り、目印がわりに地面に突き刺した。ひょっとすると、いや、おそらく、あとになって役に立つはずだと思った。

 刻の経ち具合を忘れていて、慌てて正燈寺に急いだ。

 約束の時間なのに仏店の女は来ていなかった。

 女が約束を反故にしたら、自分でやろうと、昨夜、決めていたので、浅草田圃を目指し、さっき目印をしておいた場所へ向かった。

(注目した文章) ー(子赤子を育てる乳の管)ー

 お腹の中にいるのは、古血の塊じゃない。もう子赤子になっていることを、躰が識()っている。好きな時雨卵を受けつけなくなった躰が識っている。

 すでに子赤子になった子は、お腹の中で管から乳を吸っているという。だから、大きく揺さぶられたりすると、その管が子の唇から外れて、命の糧が断たれ、仏様になる。

 ちいちゃな唇から乳の管を奪わうために、わたしもその管を奪わなければならない。

 浅草田圃を行く智恵は、脇目も振らずに、探し出した窪地(木の枝を目印に突き刺した場処。いわゆる、探しもの)に向かう。

(あらすじ)

 いま、死ぬわけにはゆかない。死んだら、信郎に余計な気持ちの負担をかける。かといって、少なくとも肩を超す深さがなければ、お腹のなかの乳の管は外れまい。あの窪地は、底に砂があり、深さも、うってつけだった。

 窪地の縁に着いたら、そのまま飛び降りようと思いつつ、智恵は歩を進める。

 ほどなく、目印に挿しておいた木の枝が目に入り、歩幅を広げようとしたとき、声がした。

「智恵!」

 声は自分の内から届いたような気がした。理由(わけ)もなにもなく、母だと思った。

 足が止まった。

ちーえ!」 今度は、はっきりと背後から聞こえた。

 智恵がゆっくりと振り返る。近寄ってくる多喜はなぜか笑顔だ。いや、泣き笑いの顔だ。

 智恵の華奢な手首をしっかり掴んだ多喜は、「やだな、女は」と言った。

智恵は、時折、自分をちえと呼ぶ女の胸に顔をうずめた。

                                

          次の第四章に続く

  

 

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1262話 [ 「励み場」を読み終えて 3/? ] 11/26・土曜(曇・晴)

2016-11-25 13:29:40 | 読書

「あらすじ・注目した文章」

第二章 ―(普請役の仕事に励む信郎)ー

(あらすじ)

 智恵の借家へ多喜が来たその日、笹森信郎は、旗本格の勘定の青木昌康の命を受け、4日3晩の予定で、御用旅に出て、目的地の成澤郡の上本条村まで、あと半日の途上にあった。

 信郎の目は、街道でなく河原にあった。普請役(川底をさらい、堤防を堅固にし、河川の氾濫を防ぐ工事などが役目)である信郎自身の点数を稼ぐために、河原の内の流作場(田畑にできそうなのに放置されている場処)を探しているのだ。

(注目した文章) ー(仕事への信奉)ー

 勘定所は、幕府の御役所の中で、数少ない励み場である。つまり、励めば報われる仕事場である。

 また、信郎の普請役のように、武家以外の身分が、武家となる階段も用意されている。

 だから、励む。点数を稼いで、上のお役目に駆け上がろうとする。

 この最も分かり易い点数稼ぎの場が流作場の開発である。(大名領の流作場を見つければ幕府御領地に組み替えられる)成果が全て数字で明らかになる。誰の目にも公平だ。ために、信郎も、御役目で地方へ出張るときは、かならず、その往復に川沿いを歩くことにしている。

 それに、信郎が信奉している格言は"一事が万事"だ。ひとつは駄目だが、残りの全ては完璧ということありえない。ひとつの駄目は必ず、残りの全てにも顕(あら)われる。だから信郎は、どんな御用にも真正面から取り組む。

 それは、行き帰りで点数を補う流作場の開発にも同様で、こつこつと点数を積み上げる。

(あらすじ)

 信郎が江戸に出てきて、もう3年になる。

 なのに、まだ幕府勘定所の普請役のままで、励み場の出発点である支配勘定にすらなっていない。つまり、武家になっていない。

 これでは何のために江戸に出てきたか分らぬし、それに、妻の智恵にだって、いつまでも下谷稲荷裏の借家暮らしを続けさせるわけにはいかない。

 あのまま、在所で再縁を得れば、何の苦労もなかったであろう智恵を、自分の我がままで土地から切り離し、20俵2人扶持の暮らしに引き摺りこんだのは、遅くとも2年で支配勘定になる目算だったからだ。

(注目した文章) ―(信郎の智恵への想い)ー

 義父の理兵衛に、初めから江戸へ出るつもりがあったのなら、智恵を嫁に選ぶべきでなかった、と言われたとき、信郎はその通りだと思った。

 自分の道連れにすべきでないのは、もとより承知していた。だから幾度なく、智恵をあきらめようとしたが、できなかった。

 離縁で戻っていた智恵を何回か遠目に見かけるうちに惹かれていって、智恵と会うたびに、その話す声を、ずっとそばで聞いていたいという気持ちを抑えきれずに、夫婦になってほしいと申し出た。

 なのに、姑息にも、その後になって急に智恵を巻き込む不安に耐えられなくなり、名子であることを明かした。

「自分は名子だから、縁組の申し出をなかったことにしてくれても構わない」と言ったのだ。

 あの時の智恵の目の色は決して忘れない。智恵の不可思議な眼差しに撫でられているかのようで、心地よくさえあった。その智恵に、再縁を後悔させることなんぞできはしない。

(あらすじ)

 幕府勘定所では、勘定奉行のお声がかりの案件で、宝暦飢饉からの復興に尽力した功労者を、一郡につき一人を選出して顕彰することになり、成澤郡については、繰綿(種を取り去っただけの精製してない綿)の仲買を営む伝次郎を「儲けのあらかたを注ぎこんで、お救い小屋を作り、空腹者に食い物を供したということ」で選出したが、その人選に、上本条村の久松加平という大昔からの名主が異議を唱えて自薦してきた。

 幕府は、幕府方針の"耕作専一"(商売より米作りに励む)の政策に沿った名主の加平を「私財を投げ打って、村人に食料を無償で分け与え、百姓の姿が消えた手余り地(耕作を放置した田)が一枚も出なかった」として、加平へ顕彰者することに決定した。

 しかし、現地にも行かず、いきなり替えるというわけにいかないので、特別に、支配勘定を飛び越えて旗本格の勘定の青木昌康から、信郎に、「現地に足を運び、その上で、加平の方が相応しいという結論になる報告書を提出するように、それに、余計なことをするなよ」との命令を出した。

 信郎は、"耕作専一"のほかに何か理由があるのかと尋ねる。

 勘定の青木は、幕府として、年貢の公平を期するため、成澤郡で「石代納(年貢を米でなく、貨幣で納める制度)」を推進したいとして、その手始めに、勘定所では上本条村で展開したい考えているのだと告げた。

 功労者を名主に替えるほうが、石代納の制度を展開するのに都合がよいからだ。

 青木は、そろそろ話を切り上げるかと思ったが、なおも言葉を継いだ。

 おぬしには、いろいろと評判が立っているぞと言って、信郎が悪い評判から聞かせてくださいというと、「お前の話し方が目上と目下と同じなので、目上には礼を失している。いい噂は、話を鵜呑みにしないで、自分の頭で考えるということで、上司の手間が省けて楽ができるという評判だ」と教えてくれた。

 信郎は、加平が話のとおりの人物であれば、人の考えつかぬ仕法を様々に実施に移しているに違いないし、村には学ぶべきものがきっとあり、御益(幕府の利益)のための献策のタネが多くあるはずだと喜び勇んで、上本条村に向かった。

 信郎が久松加平の屋敷にたどり着いときには、もう陽が落ちかけていた。

 加平と共に摂った夕餉は、燗徳利はなく、まさに、自給自足を旨とする"耕作専一"の村のもてなしだった。

 信郎は、膳を前に失礼だがと、久松家の水田の広さを訊ねた。

 今は、人手がなくなり村人に分けまして、22反ですと言われ、信郎は、小前4軒分になるかならないかの名主にしては少ない広さに不審に思い、

「その蓄えで、飢饉の際にお救いを施し、ましてや、沼の開拓事業を起こして、川除普請(公儀普請の河川の浚渫や堤防工事)までの半年間、村人全員に何とか食いつないでいけるだけの日当を支払うのは、いささか無理がありませんか」と尋ねると、加平は、

「開拓の資金は、村の郷倉に蓄えたものも当てました。その郷倉を富ませたものが、蔵屋敷にあるので、お見せします」と案内した。

 蔵屋敷の全面の壁には床から天井まで農業書物が積まれていた。

 信郎が読み込んだ「農業全書」全11巻だけでなく、上本条村の水田に適している稲の品種と、塩硝(火薬の原料)を使っての土壌を変える肥料を追求した「久松家農書」と、それに基づいた農事についての日々の記録で、文禄から160余年、一日も欠かさずに書かれた「久松家の農業日誌」に、天候や土壌、水の状況、作業の細目や、その結果等について細大漏らさず資料として残されておりますと、加平が説明した。

 ここまで聞いたからには、「久松家農書」がどれほどの収量の増大につながるのかを知りたい。それが、村独自の干拓を可能にするほどの蓄えをもたらすものかも、はっきりさせたいと思い、信郎は、「書物に記述されている効き目はどうなのでしょう」と訊ねる。

 加平は、「この先の話になりますと、検地の見直しということにもなりかねません。後は、村のどこを、どのように見られても結構です。あとは、笹森様ご自身でお調べください」と言った。

                                

          次の「第三章」に続く

 

 

 

 

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1261話 [ 「励み場」を読み終えて 2/? ] 11/25・金曜(曇・晴)

2016-11-21 15:48:16 | 書籍概要

「あらすじ・注目した文章」

 ※ ()内の薄青色の蛍光ペン部分は筆者が補足した部分

 ※ 黄色の蛍光ペン部分は心に残った文章の部分

第一章 ー(信郎と智恵の結婚と養父の想い)ー

(あらすじ)

 成宮智恵(ともえ)が笹森信郎と再婚し、1年ほど在所で生活して、二人は3年ばかり前に江戸に出て来て以来、下谷稲荷裏の借家で暮らしていた。

 この四月に三度目の離婚をした姉の多喜は、六月半ば、用があって北の国の在所から江戸に来て、信郎が御用旅で不在にしていたので、智恵の家に泊まる。

 智恵と朝餉を共にしながら、共通の話題の離婚時の「去り状」の中身について話し合っていた。

 「でも、あんたって、こう見てても、二度目って気がしないよね」と、智恵に言いながら、多喜は、勝手に、智恵の夫の信郎のことに話題を替える。

(注目した文章) ―(多喜と智恵の性格)ー

 十行半(三行半×3回)の女になった多喜が、

「三度目の時の去り状には、離縁の理由が"不埒の義これあり"と、はっきり書かれていたのよ。そりゃあ、あたしに好いた男ができたのは間違いないけどさ。その恨みの文句を、わざわざ去り状に書く男が何処にいるかっていうの」と言って、「ねっ、ちえ(智恵)のときはどうだった?」と問う。

さあ、覚えてないけれど、普通だったんじゃないかしら」と、自分が見ていたように答える。

 実は、去り状に目を走らせたのは、父の理兵衛で、智恵が理兵衛に文言を確かめると、子ができなかったのが離婚の理由だが、そのことは書かれずに、「再縁の義はいかようにでも差し支えなく」と書かれていると知らされて、智恵は、うんうんと声を洩らした。

(あらすじ)

 わずか25歳で、石澤郡の山花にある幕府代官所(御陣屋)の元締め手代になったのは、信郎が初めてだった。

 御陣屋とつながりができれば、これくらい心強いものはないので、石澤郡内の婿を取りたい家も、嫁に出したい家も、信郎みたいな将来性のある手代が親族になれば、どんなに頼もしいかと思っていた。

「あんたとの話がまとまったときには、もう町中の噂になったものよ」と多喜が言う。

 智恵自身も、当時、「なんで、わたしなの?」って、考えた。

 当時、智恵は22、信郎は27で、齢周りだけなら、頃合いの二人に見えたっておかしくない。でも、3年振りに出戻ったばかりの智恵にしてみれば、そんな気持ちにはなれず、自分とは違う世界のお人とみなしていた。

 父親の成宮理兵衛は、むしろ、智恵よりもわずかに先に、二度目の離婚で成宮の家に戻っていた多喜との結びつきを望んでいた。

 そして、理兵衛は、女の再婚はさしたる引け目にならないと踏んでいた。

 少なくとも在方では、問題にされず、むしろ、初婚の女よりも世間をよく知っていて、家のことを任せ易いとして歓迎されることすらあるし、齢にしても多喜が一つ上なだけで、そんな例はいくらでもあり、多喜のとびっきりの女っぷりと、自分の財力をもってすれば、補って余りあると理兵衛はみなしていた。

 また、理兵衛からみれば、信郎は百姓の出である以上、もうこれより上はない。唯一、考えられるのは、代官のつてを頼って江戸に出て、勘定所雇入れの普請役になるか、御家人株を買って、普請役の上の支配勘定を目指すことだが、そもそも支配勘定になれるかどうかが分からないし、その上を目指して、旗本格の勘定や勘定組頭になることは、もう千両籤に当たるようなものになる。

 それに、実入りについてだけ言えば、山花陣屋の元締め手代は、旗本格の勘定とならば、決して引けを取らず、5年も続ければ、ひと財産貯まるのが当たり前と見られている。

 理兵衛が、信郎の立場に居れば、山花に留まり、再び百姓になって、豪農を後ろ盾に郡中総代を目指す。そのために、多喜との縁を選ぶだろうと、理兵衛は、多喜との縁組に期待をかけていたのである。 (娘を持つ親の想い)

 そういう理兵衛の想いは、なにしろ妙につながりの強い父娘なので、多喜に語らずとも伝わって、多喜も同じ心積もりでいるように、智恵に映った。

(注目した文章) ―(女としての智恵の信郎に対する想い)ー

 多喜は、出戻っていても、逆にますます怪しく美しくなっている。

 罪のない、虫も殺さぬ風の顔だからこそ、いっそう女の性が匂い立つ。それをまた当人が承知しているものだから、すこぶる上手につかい、艶っぽさがいやが上にも際立って、凄みさえ感じさせてくれる。多喜に狙われて落ちない男なんていない。

 いくら女がどこまでも張り合わざるを得ない生き物とはいえ、ここまで差が開けば、頭の片隅に信郎を思い浮かべるのさえ馬鹿馬鹿しい。

 それでも、ほっそりとした面相といい、躰つきといい、いつも涼しげな様子といい、胡瓜のような匂いを漂わせていて、信郎は智恵の好みであり、顔を合わせれば、気持ちが全く波打たないわけではないのだ。

(あらすじ)

 智恵は、出戻ってひと月ほどしたころ、理兵衛に呼ばれ、お前に再縁の話が来ていると告げられた。

 よもや、信郎との縁談とは思わず、後から相手が信郎と聞かされたときは、驚く前に、自分が聞き間違えたのだと思って、理兵衛に、多喜の再縁話ではないのかと確かめたほどだった。

 しかし、「なんで私なの?」と思い、最後に、多喜の凄(すさ)まじい美しさに信郎が怖気ついたのではないかという考えが浮かんだ。

 成宮の家と繋がるために多喜との縁を望んだのだけれど、いざとなると、凄艶で気おくれがする。贅沢いっぱいで育ちもしたし、どうにも厄介だ。そんなときに、扱いやすそうな自分が出戻ってきた。

 で、多喜でも自分でも、成宮家と縁つながりになるという点では変わることがなかろうという気になったのでないか……。

 そう考えつくと、智恵は、あの人は考え違いをしている。あたしのことを何も分かっちゃいない。

 このまま祝言をあげたら、信郎さんはさぞかし後悔するだろう。だから手遅れになる前に、なんとしても、そのことだけは、問いたださなければならないと思った。

「なんで自分なのか」は、答えを聞くのが怖くて尋ねることができないけれど、この疑いだけは確かめなければならないと思い、祝言の前に、智恵は信郎に話があるというと、信郎も「私もです」と答えた。

 智恵は、「姉の多喜が、妹が欲しいと父にねだり、父が何処からか5歳の私をもらってきて、姉に与えたのです。わたしは「もらい猫」なんです」と話す。

(注目した文章) ―(「もらい猫」と言いたかった?)ー

 そもそも、智恵にとって「もらい猫」は自分のための言葉で、他人に語る言葉ではなかった。

 頭の中で、自分の境遇を考えるとき、ずっと「もらい猫」で通していた。「もらいっ子」よりも「もらい猫」のほうが、どこか他人事めいて、使いやすかったのだ。

(あらすじ)

 信郎は、「あなたが実の子でないことだけは了解しています。そして、私には、助力は必要なく、成宮家と縁つながりになりたくて、あなたを妻に欲しいと申し出たわけではありません」と答えた。

 そして、信郎が、「私も話したいことがある」という話を智恵に告げた。

「もしも、妻になってもらったら、このご実家を遠く離れ、二人で江戸へ行きます。そのことを承知の上で返事をいただきたかった」と。

 智恵は江戸で何をされるのか尋ねた。

 信郎は、「武家になります。と言うより、私は名子ですから、武士にならなければ、ならんのです」と答える。

 智恵は「なんで、わたしなのか」について、察しがついた。そして、きっと信郎は匂うのだ(わたしが名子ということ)、と智恵は思った。

 しかし、智恵は、自分も名子であることを言わなかった。

(注目した文章) ―(名主と名子。名子、使用人、小前、小作とは)ー

 智恵は、成宮の娘になって間もない頃、喜代と理兵衛が話しているのを、座敷から物陰になる廊下で耳にした。

「名子なのですか」と、喜代が理兵衛に言った。

 子供心に、自分が耳にしてはいけない話であることが伝わって、そこから遠ざかろうとするのだが、躰が金縛りにあったように動かない。

「名子は名子だが、ちゃんとした名子なのだ。だから、小前(耕地を所持し年貢を負担する本百姓。この作品では、耕地を借りている百姓を小作人、と分けている)なんぞよりよほどいい」と、理兵衛は答えた。

「わたしは別によいのです。そういう名子でなくとも。あの子なら、よいのです。あの子はあの子ですから」

 むろん、話の全部を分かるわけもない。でも、喜代と理兵衛の言った「あの子」が自分であることは、5歳の智恵の胸にくっきりと刻み込まれた。幼い智恵の耳には、なぜか、喜代の「あの子なら、よい」という言葉だけが残った。

                                 

 名子がなにを指すかは、長ずるにつれて耳に入ってきた。

 9歳のころに知った答えは、「名主をはじめとする大百姓の家の使用人」ということだった。でも、名子を語るときの喜代と理兵衛には、外聞をはばかる風があったので、そんな答えでは理兵衛は納得がいかなかった。

 智恵は、喜代の野辺送りが済んでから、喜代が存命のころ、お付きの下男をしていて、今は小作人の預かり人をしている弥吉に「名子というのは、どういう人たちを言うのでしょう」と訊ねた。

「この石澤郡の村は、殆どが新田村(新しく拓かれた田畑に、人が入植してできた村)だから、この土地には名子はいません。入植した大百姓の家の使用人という意味で、名子という言葉を使ったりすることはあるでしょうが、本当の意味での名子はいないと言っていいでしょう」と答え、そして、続けた。

「ほんとうの名子は、本田村(新田村よりも前にすでにあった古くからの村)にしかいないのです。本田村のほんとうの名子は、使う、使われるの関わりの雇われている使用人ではなく、主家(名主)に仕えているのです。つまり、家来ということです。元々は百姓ではなく、名主も名子も武家で、殿様と家臣の関わりなのです」

 ならば、名子は、なにも恥じる言われはないではないか、と智恵は思った。

 智恵が尋ねる前に弥吉が答えた。

「土着した当初は、名主も名子も、武家の気風を大いに残していたのでしょう。しかし、百数十年が経てば、周りだって、名主をかっての武家の領主としてではなく、あくまで、百姓の長として見るようになり、百姓としての才覚が問われるのです。ところが由緒にこだわる草分け名主は、商いを卑しいものとする武家の矜持をも忠実に守るため、伝来の田畑の農作のみで内証を回していこうとする。決して商いに手を染めようとはしません。つまり、田畑で体を動かすことが、名子の仕事になるのです。しかも、その田畑は主家のもので、自分のものではないのですから、遣っていることだけを見れば、賃仕事で雇われる作男と何ら変わるところがありません。そういう状態が続くにつれて、名子は小前どころか、小作よりも下に見られるようになります」

「小作……よりも」

「小作は、作男として雇われて、地主の田畑を耕作しているのではありません。地主から土地を借りて、己の才覚で作物を作ります。借り賃さえ払っている限り、そこは自分の田畑であり、いつどんな種を蒔いていつ収穫するかも、自分で決めることができます。それに対して、名子は、ただ主家の命に従って農作の手を提供するだけです」

「元はお武家様なのに、……ですか」

「あるいは、作男よりも下かもしれません。作男は、自分の意志で雇い主を替えることができますが、家来である名子には、それさえできないからです。そうして、名子は、いつしか村のなかで最も軽んじられる立場になっていきました」

「家来であることを辞める名子は、いなかったのでしょうか?」

「いたでしょう。名子と主家の間柄がどうだったかによるでしょうが、名子にしてみれば、主家が武家を選んでくれさえすれば、自分も武家のままでいられたわけです。主家は自分が選んだことだし、百姓とはいえ、名主でいるのだからまだいいけれど、名子は知らぬうちに小作よりも貶(おとし)められる立場に追い込まれてしまったのです。憤懣やるかたなかったことは、想像に難くありません。人別(無宿人)を失うのを覚悟で主家をかけ落ちる者だっていたことでしょう。そして、その後に、新田村の小前などになってているかもしれないし、武家になっているかもしれません。しかし、なかには、主家との間柄がとりわけ良い名子もいるはずです。だとすれば、主従の縁を切るに切れぬでしょう。いまでも本田村に留まっている名子はそういう名子なのでしょう」

 思わず、智恵は、4歳よりも前にいた家を思い浮かべようとするが、いつものように紗(しゃ)がかかって像を結ばない。

(あらすじ)

 幾日も考えたけれど、結局、祝言までに、智恵は、自分が名子であるとは言わなかった。

 なぜなら、互いを名子と認め合ってしまえば、多分、もう名子どうしとしてしか生きられなくなると思ったし、相手が何か気に染まぬことを言ったとする。そのとき、きっと、自分が名子だからと思う。そうして、二人は、名子であることに閉じ込められてしまうと思ったからだ。

 その代わりとは言えないが、智恵は、信郎が武家の家筋に戻そうとの覚悟を見て、どうしても、「子ができずに離縁されたこと」は言わねばならないと思った。

(注目すべき文章) ―(武家になるための励み場)ー

 信郎にとっては、山花の陣屋の元締め手代に上り詰め、土地の人間の敬意を一身に集めても、信郎にとって、そこは励み場ではないのだ。

 武士になるための信郎にとって、「己の持てる力の全てを注ぎこむのに足りる場処」ではなかったのだ。

 信郎は、元の武家の名子であったが、江戸に出て、その元を外そうとしている。信郎のことだから、己ひとりが武家を目指すはずもない。笹森の家を武家の家筋に戻そうとしているのだろう。つまりは、どうあっても後を継ぐ男子を得なければならないということだった。

 そう思った智恵は、なかったことにしてくれるようにと口にして、「子ができぬかもしれぬ」と言った。

 信郎は、「分からないじゃありませんか。それは相手あってのことでしょう」と言ってくれた。智恵は、嬉しかった。

(あらすじ)

 信郎と智恵は、山花で1年暮らしてから、信郎が勘定所普請役のお役目を得て、江戸に出た。それから3年近くにになる。

 すんなりと縁談を認めた理兵衛が、江戸行きに反対した。信郎が武家を目指すことにも反対した。

 理兵衛は、自分の思惑と違ったので、初めから、そのつもりであるのなら、なにも智恵を嫁に選ばずともよかったのではないかと、信郎を前にして語気強く反対した。

 それ以来、理兵衛は、江戸に用があり出かけときも声をかけずにいた。だが、多喜には、年に二度、理兵衛の筆や短冊を買うために江戸に行かせ、それを名目に江戸遊びをさせて、羽を伸ばさせていた。そして、それとなく智恵の様子を視させに会いに行かせた。

 智恵たちが江戸に出てきて3年目の六月、多喜は、付き人の弥吉を連れて、父からの指図があったことを内緒にして、下谷稲荷裏の智恵の借家に来た。

 朝餉を終えて、智恵を誘い、智恵の家の近くの呉服屋に行き、太物(綿。呉服が絹)なら下谷でもいいやと言いながら、「智恵も気に入ったものを頼みなさいよ」と言って、店の者に、妹の寸法をとってくださいと注文する。

 そのあと、時雨卵が名物の料理屋の岡村に行き、しばらくして、多喜が、「理兵衛さんから口止めされたけど、困っていることなんてある? オカネじゃないよ」と尋ねた。

 智恵は、ひどく困っていることがあると、頭に浮かべながら、「なんのことかしら。思い当たらないけど」と首をかしげた。

                             

            次章に続く

 

 

 

 

 

 

 

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1260話 [ 「励み場」を読み終えて 1/? ] 11/21・月曜(曇)

2016-11-21 13:46:02 | 読書

                                                                                                                 

「作品概要」

 第 154 回直木賞受賞作品「つまをめとらば」を記述した青山文平が、直木賞受賞後、最初に書き下ろした長編小説。

 (帯より)

 いくら、陣屋の元締め手代に上り詰め、土地の人間の敬意を一身に集めても、信郎にとっては、そこは励み場ではないのだ。

 いまの信郎が、己の持てる力の全てを注ぎこむのに足りる場処、ではない。

 信郎が妙に金に身ぎれいで、身代を大きくするのに関心を示さないのも、信郎の励み場が陣屋にではなく、武家にあるからだろう。(本書より)

 信郎は江戸へ出て勘定所の下役になり、実績を積み上げて、真の武家を目指すのだが……。

 「仕事とは何か」「人生とは何か」「家族とは何か」を深く問う書下ろし時代長編。

「登場人物」

笹森信郎: 主人公。

        出身は名子(中世以降、荘園領主などの主家に代々隷属して

               労力を提供した下層農民)。

        他領から来て、わずか7年の25歳で、

        石澤郡の中心地・山花の御陣屋の元締め手代になる。

        智恵と結婚して、江戸に出て勘定所の普請役になり武家を狙う。

笹森智恵:  準主人公。信郎の嫁。

        豪農・成宮理兵衛の次女?(名子出身の養女)。

        子ができないという理由で離婚され、

        22歳の時、27歳の信郎と再婚する。

成宮多喜:  豪農・成宮理兵衛の長女?。

        三度目の離婚で成宮の実家に戻っている。

成宮理兵衛: 石澤郡の村々に田畑を持っていて、

        3人の支配人と9人の小作人預かり人(管理人)を

        置かねばならぬほどの数の小作人を抱える豪農。

成宮喜代:  成宮理兵衛の妻。早くに死亡。

弥吉:     元は名子。理兵衛に仕える小作人預かり人。

       多喜の付き人。喜代の付き人もしていた。

                             

※ 「名子」についての注記 ←本作品の第一章から

「いまから150年よりも、もっと前の話です。

 江戸に幕府が開かれる前は、全国いたるところに武家の領主がいて、互い に争っていました。

 そういう争いの時代が終わったときに、大名として勝ち残ったもの以外の領主たちは、この先、どうするかの選択を迫られました。

 大名の家臣となって城下町へ移り住み、自分の領地をあきらめるか、それとも、武家の身分よりも領地をとって百姓になるか、です。

 武家の身分ではなく、領地をとって土着した領主に仕えていた家臣が、武家から百姓になり、その領主に仕える。その百姓の人たちが、ちゃんとした名子です。

 公方様の御代になって新しく拓いた田畑の持ち主の使用人が、ただの名子と言われています」

                              

           「あらすじ・注目した文章」へ続く 

     

 

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