T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1388話 「 新書購入 」 11/30・水曜(曇)

2017-11-30 11:20:00 | 本と雑誌

                              

 NHK大河ドラマ・「直虎」を面白く見ているし、次の「西郷隆盛」を楽しみにしている。

 なぜかというと、脚本がいいからだ。

 歴史には、人それぞれの見方があるので、

それを知れば、なおさら、ドラマも面白くなる。

 とくに、戦国時代から明治維新までの歴史については、

それぞれに明確な裏付けをつけての意見なので、読みごたえがあるし、

ドラマも面白くなる。

 

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1387話 「 母親の命日 」 11/26・日曜(曇)

2017-11-26 12:54:55 | 日記・エッセイ・コラム

                                              

 11月28日は、母親の命日。

 明後日は用事があるので、今日、墓参した。

 お寺の境内のイチョウの葉は完全に散っていた。少し早いように思う。

 墓はお寺の本堂の裏に続いている納骨堂にあるので、

掃除をしなくてもよく、すぐそばまで車で行ける。

 何かにつけて墓参は容易である。

 母は昭和47年(1972)11月28日に病死した。癌だった。

 45年経った今でも、はっきり記憶に残っているが、

葬儀の当日は、南国には珍しく一日雪が降った

 葬儀に参列された方々は多く、

家の中に入れずに大変寒い思いをされたことと、

いまでも大変申し訳なく思っている。

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1386話 [ 自分史「―温故知新―」 12/? ] 11/21・火曜(晴)

2017-11-20 11:25:42 | 日記・エッセイ・コラム

                                        

5. 本社時代1(データ通信本部)

(3)「N相互銀行預金システムの基本設計」

 プロジェクトチームの編成替えがあって、私は、北九州の相互銀行を担当することになった。

 この銀行は、すでに、普通、当座、別段の各預金システム化の仮契約がなされていて、銀行の関係者と一緒にシステム化の基本設計から協働することになっていた。銀行側は、将来、システムのアプリケーション部分の修正は自分たちでも出来るようにしたいのである。

 私たちのチームでは、先回の経験もあり、基本設計を始める前に、当該銀行の業務処理の現状(特例のものを重視)と電算化による改善予定、業務処理変更予想などについて意見を聞いたうえで、設計に入る必要があると考え、システム化について大小合わせて100項目に近い質問事項を提示させていただいた。

 その回答を参考にしたうえで、基本設計に入りました。

 預金の入金、出金とか残高照会とか、それぞれの業務を対象に、手作業はどの部分か、端末機で処理するのはどの部分か、電算機内で処理する範囲はどの部分にするか、そのために端末機に入力するデータは、また、端末機には数字キーの他にどんなキーを持たせるのかといったことを一定の様式に記載する。

 その設計書の様式は、A3判の横上半分を3欄に区分し、左欄に端末機にデータを入力するまでの手作業の処理、中央の欄が入力するデータの数字キーとアイテムキー部分の画面、右欄が出力するデータと手作業の処理を記載する。下半分に、端末機内で処理する事項、電算機内で処理する事項を記載するといったものだったと記憶している。

 チームから8名ほどの私達関係者が、基本設計書の一部を持参して、博多に月曜から金曜までの1週間出張し、朝9時から夕方17時まで、銀行の10名ほどの方に設計書を提示して説明をし、意見を求めるといった形で協議する。

 この銀行は、電算機でのバッチ処理をすでに取り入れていて、、その関係の行員の方も数名含まれていた。

 意見が合わない時などは、両者がその宿題を持ち帰り、私達は、夕食後、少しの休憩の後、深夜まで宿題を検討、設計書を修正し、翌日説明するという手順を踏んでいた。もちろん、次回の出張に持ち越すこともあった。銀行側も同じように夜遅くまで検討し、回答を翌日持ち寄るといった状態でした。

 そして、次からの2週間は本部で設計書の次の部分を作成し、その次の1週間は、博多へ出張して銀行側と協議する。このようなスケジュールで約6か月かけて基本設計書を作り上げた。

 次の詳細設計は、九州電気通信局が主体になって行うことになったので、銀行側も事務所を熊本に置いて共に作業をするし、データ通信本部からは時々熊本に出張するようになった。

 その後、数か月で、私は、チームの編成替えで相互銀行チームから離れ、農協システムなどの検討をした後(記憶が明確でない)、電電公社のいわゆる部内システムの建設部門に移り、そこで数年間、顧客原簿の現行化の為に、端末機にファクシミリ―を使った電算機システムの建設をし、ある現場局で試運転をするようになったが、全国的な拡大はなかったかと記憶している。

 そんなことで、データ通信本部には併せて9年間在籍したが、いろんなことを勉強させてもらった。

 システム化にあたっては、当たり前のことだが、環境が許す限りにおいて、システム利用者のお客と徹底した協議をして、共に建設するという気持が必要で、それによってお客から受け入れられるものができると確信した。

 だが、後年、私が戸建ての住居を購入したときは、十分な時間がなかったことと懐の関係で、建売ものを購入せざるをえなくなり、世の中はままならないこともあるものだと思った。(笑い)

 現在、86歳だが、過去の経験から、興味深く恐れずに、いまも、スマホを使い、パソコンのExcelやWord、ペイント、ブログなどで遊んでおれることを喜んでいる。

                                      

 このあと、9年在籍したデータ通信本部から業務管理局に転勤し、部内業務のシステム化を検討し注文する部門に在籍した。

   後日の「本社時代2(業務管理局)」に続く

 

 

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1385話 [ 自分史「―温故知新―」 11/? ] 11/19・日曜(晴・曇)

2017-11-18 14:40:04 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                              

5.本社時代1(データ通信本部)

(2)「T相互銀行のシステム化」

 データ通信本部は、データ通信システムの受注、設計、建設を業務としているところだから、私は赴任した時、データ通信の技術を重視して、まず、その勉強を命じられるのか思って、知識が不十分だった私は不安だった。

 ところが、私の想像に反して、まず指示されたのは、相互銀行の普通、当座、別段、定期、積立の各種預金、為替、貸付、手形交換等の業務の勉強で、一人一人に大きなボール箱一杯の業務教本を与えられ、新人の行員のように、3か月ほど、毎日、夜遅くまで勉強した。

 昼食後の読書は、眠たくなるがそんなことは言っておれない。銀行業務を電算機システム化するには、当然のことながら、銀行業務について銀行関係者と対等に話ができるだけの業務知識を持つ必要があり、そうでないと、その業務をどのように電算機システム化するかといったシステム設計を銀行側に提示し、納得していただくことはできないので当然のことである。

 もちろん、電算機システム化関係の勉強も必要だが、最初の内は、H社が編集したバンキングシステム・レポート集を読んで勉強した程度であった。

 私達が担当した名古屋の相互銀行には、前年暮れにシステム概案書を提示していて、それに対する回答を待っていた。翌年、私が赴任して3か月ほどした6月下旬、その銀行から話を聞きたいので、自行の保養所「山の家」に2週間ほどの予定で出張願いたいとの連絡を受けた。

 私と直属の上司二人は、システム概案書を元にした想定応答集(H社の指導協力を得たもの)や他行のシステム例集などのアンチョコ(参考書)を持参して出張した。

 山の家を借り切って、銀行側関係者7名ほどの方と寝起きを共にして、昼食の時間を除いた8時から19時まで、毎日協議した。

 私たちは、数年もシステム化について勉強したわけでなく、はっきり言って素人に近いので、協議の場で十分に答えられないところがあり、「条件が色々とあるから一概に申し上げられない、もう少し検討させてください」と、一時預かりにした案件が多々あった。

 その日の協議が終わったら、預かりとなった問題について、持参したアンチョコを元に二人で再検討し、回答がまとまらない時は、H社へ電話して教えを乞うて翌日か翌々日に回答するといったこともあった。

 6月末の梅雨時でもあり、山の家なのに折角の散歩もできず、夕食時の酒も出ず、辛い厳しい2週間だった。

 そのほかに、1週間ほどの同様な厳しい協議を数回経験した。

 後日、受注し、ほっとしたが、今思うと、失礼だが、銀行さんは商売人の中の商売人で、その銀行さんが、何億という投資をするのですから、当然のことで、それは真剣でした。改めてその真剣さに頭が下がりましたし、公社の営業マンであった私は、本来の営業を知りました。

 半年ほどして、プロジェクト・チームの編成替えがあり、この銀行のシステム設計に入る前に、私は別の相互銀行の担当になった。

               「続く」

 

 

 

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1384話 [自分史「―温故知新―」 10/? ] 11/16・木曜(晴・曇)

2017-11-15 13:33:15 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                            

5. 本社時代1(データ通信本部)

(1) 「驚きの本社・東京」

 昭和45年(1970)2月、本社のデータ通信本部へ転勤した。1か月おいた3月、家族も社宅へ転居してきた。

 東京だから、社宅も賑やかな都会の真ん中にあるのだろうと推測していた。ところが、社宅は新しいマンションだが、その周りには松林やサツマイモ畑などがあり、地方の都市の郊外のようなところだった。(千葉県の船橋市と習志野市の隣接したところ)

 住居としては、そのほうがいいのだが、勤務先は港区の芝にあった貸しビルで、そこまで行くのが大変だった。

 まず、家を出てから3分ほどの徒歩、それからバス(~津田沼)、JR総武線(津田沼~西船橋)、地下鉄で東西線(西船橋~日本橋)、銀座線(日本橋~新橋)と乗り継ぎ、最後に徒歩15分と、通勤時間は朝が1時間45分、夜は2時間弱とかかった。

 どの電車も満員で、乗り継ぎのホーム、階段は、皆が我先にと走るというより突進する。エスカレーターの上も走るのだ。もし、走らないと3~5分後の次の電車になり、遅刻してしまうのだ。

 松山での通勤時間は、6年間、ゆっくりとした徒歩で15分だった私にとって、最初の1か月ほどは通勤だけで一日のカロリーを消耗し疲れてしまったようで、新橋駅内の喫茶店でコーヒーを一杯飲んで一休みしてから出社するという状態だった。そのためもあって、当初は一番バスに乗るために、6時半に家を出ていたと思う。

 当時、JRのストが頻繁にあったが、その時は、私鉄に通勤者が集まるので、徒歩の時間も長くなるが、電車内の混み方は筆舌出来ないほどの死に物狂いの通勤だった。

 帰りは、どんな早くても18時近くに退社することになり、電車の本数も少なくなるので、帰宅は20時ごろとなった。

 しかし、そんなに早く帰れるわけはなく、毎日、時間外勤務で、帰宅は22時過ぎになった。世の中の企業が積極的に電算化システムを取り入れようとしていて、電電公社もそれに対応できる組織を作ろうとしている時代であり、この帰宅時間は通常のことだった。

 勤務先のビルの中には、データ通信本部の多数のプロジェクト・チームがいて、そこのビルだけで100人以上の職員がいただろう。私がいたチームを含め、半分ほどのチームが昭和45年2月に新たに結成されたようであった。

 私のチームは15名ほどだったと記憶している。そのほとんどが全国から集められた人たちだ。後日の自己紹介などで分かったことだが、私と1,2名を除いて全員が、大學出か高等部出であり、学歴のない私はえらいところに来たものだと思った。知人はもちろん先輩、後輩とかいった人は一人もいないのだ。

 これらのプロジェクト・チームの全ては、データ通信システムを取り入れたいと思われる全国の企業、団体を対象に注文をいただこうとして営業しており、私達のチームを含む数チームは相互銀行を担当していて、私が配属されていたチームは、名古屋にある相互銀行への営業を指示されていた。

            「続く」

 

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