T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

文庫本購入!!

2013-07-25 11:54:36 | 日記・エッセイ・コラム

 

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 この小説は、最初は1984年単行本で発刊され、1987年、文春文庫で発刊されている。 そして、今回、字を大きくして新装版として発刊されたもの。

 解説者によると、本書は藤沢氏らしい、精緻なつくりの時代小説である。市井ものの長編としては代表作になるだろうとある。

 こんな新装版の場合、印税は遺族に入るのか、文春社に入るのだろうか。それはどうでもよい事で、私にとっては面白ければいいのだ。

 村上春樹著の「色彩を持たない多崎つくると、……」は私にとってこんなつまらない本は無かった。

 

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お盆灯篭!

2013-07-23 14:07:03 | 日記・エッセイ・コラム

 

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 讃岐の風習だが、新盆のお墓に灯篭を掲げる。写真のものは特別高価かなもの。

 今年に入って、兄のように慕っていた従兄と、母方の最後の叔父が亡くなった。

 母方の従兄弟では、私が一番の高齢になり、時々だが、何か話し相手が無くって寂しく思うことがある。

 

 今日は大暑、朝早くから庭でクマゼミが喧しく鳴いていた。何匹いるのだろうか。たぶん吃驚するほどの数だろう。

 私にも家族が元気に生活しているのだから、あちこちに「暑中見舞い」を出すのを忘れていた。

 

 

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妹尾河童著「少年H」を読み終えて! -3/3-

2013-07-20 08:00:57 | 読書

下巻

◎教練射撃部

 8月といえば普通なら夏休みの時期だが、Hは毎日のように学校農耕地に農作業に出かけていた。 二年ほど前までは夏休みは遊びで忙しかったのが、防空訓練や鍛錬で遊びの時間は奪われ、急に世の中が変わってきたのがよく分かった。 少年兵の志願年齢が一年引き下げられた。 国民学校高等科を卒業した直後に満14歳からの入隊を可能にするためと新聞に書いてあった。 Hも来年になるとその年齢になるわけだ。 兵隊に志願するのも大変だが、今でも十分シンドイワと友達が言った。 確かに毎日のように土を掘ったり堆肥をモッコで担いで運ぶ作業はつらかった。

 『私も中学一年の夏休みだったと記憶しているが、400mぐらいの山の上に砲台を築くために、モッコに小石や砂やセメントを入れ、前後を二人で担いで山上に運んだことを思い出す。 途中で、少しわざとではないが、山を上るので、揺れて時にはこぼして到着したら半分になっていたこともあった。』

◎焼け跡

 地面には点々と焼夷弾がめり込んだ跡があった。 こんなに落ちたのかと思った。

 Hが家のほうへトボトボと歩いていると、前方の焼け跡の上を白い蝶がヒラヒラと舞っているのが見えた。 白い蝶は、途切れることなく地面から飛び立ち、舞いながら上昇していた。

 それは、Hの家があった場所からで、床下の防空壕に埋めて砂袋を被せていた岩波文庫の端の部分が風に吹かれて舞っていたのである。 その白いヒラヒラは、本の命の化身のように見えた。

◎機銃掃射

 戦闘機の爆音が聞こえた。 山の頂上すれすれに飛んでいる姿が逆光に見えた。 敵機が山側から現れるはずがないので最新鋭の鍾馗かと思った。 そう思ったとたん、戦闘機は急降下してきた。 空気を切り裂くような爆音が迫ってきた。 Hは仰天してその場にひっくり返って伏せた。 超低空で頭上を通り過ぎたのは、敵機のグラマンF6F艦載機(新聞で写真入りの敵の艦載機の見分け方を見たことがあり、記憶していた。)だった。

 また、爆音が聞こえて来た。 グラマンが引き返してきたのだ。 Hは、とっさに敵機の進路に対して直角に走って、幸い、近くにコンクリート製の防火用水槽を見つけて、その裏側に回って身を隠した。 5m近くに機銃掃射を浴びせてきて、また引き返してきた。 敵機は、野原を走る兎を追うゲームのような感じで、撃っていたのかもしれない。

 『私も艦載機の機銃掃射を受けたことがある。 空襲を受けて野っ原になっている市街地で逃げ場がない場所で、山の上のかなたから急に現れて、操縦士の顔が見えるほど低空で、兵隊でない子供ということが判っていても、撃ってくる。 その時は死を覚悟した。』

◎ポツダム宣言

 8月15日の朝、Hは学校に行く途中で、Tから、今日の正午、天皇陛下御自ら、戦局は苦しいが、皆も死を覚悟し最後まで戦ってくれ、という御言葉を賜るはずやと言った。

 学校での話題は当然ラジオ放送の内容の予想だった。 激励のお言葉を賜るという意見が圧倒的多数を占めていた。

 朝礼台の上のスピーカーから、正午の時報が聞こえた。 君が代の演奏、アナウンサーの司会の後、朕、深く世界の大勢と帝国の現状にかんがみと、発せられる声、日ごろ聞いたことのない、あまりも甲高く抑揚のない日本語にHは驚いた。 耳を澄ましても、何が語られているのか、言葉も意味もよく聞き取れなかった。 

 戦争は終わった。 戦争に負けた。という意味を感じ取った者は何も言わずに、Hと同じように唇を噛んでいた。

 『学徒動員で行っていた工場で玉音(当時はこのように言っていた。)を聞いたが、内容が判らず、後から先生から終戦で学徒動員は今日で終了したので、別途連絡があるまで家で待機しておいてくれと言われ、一か月か二三か月、家で家事を手伝っていたことを思い出す。 後日、市街地にあった中学校は焼けていたので、郊外の小学校の講堂を仕切って、机も椅子もなく黒板だけの板の間で、新聞を折り畳んだだけの教科書で勉強したことを思い出す。 勤労奉仕や学徒動員で長く勉強から離れていたので、一年ほどの間は勉強にならなかったように思う。』

 

   

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妹尾河童著「少年H」を読み終えて! -2/3-

2013-07-19 10:59:02 | 読書

◎アラヒトガミ

 Hが通っていた小学校の正門を入ったところに奉安殿があった。 奉安殿と言うのは、天皇と皇后両陛下の御真影と教育勅語が納められているコンクリート造りの階段がある金庫のような建物であった。

 祝日の式典があると、奉安殿から講堂に御真影と教育勅語の巻物を黒の角盆に乗せて校長と教頭の先生が眼の高さに捧げて移動させ、三分ほどかかる教育勅語を校長が読む間最敬礼をしていた。

 Hは、講堂の高い位置に掲げられカーテンが開けられている御真影がどんなものか、人が頭を下げている間にちらっと見たら、家にある写真と同じだった。 何故最敬礼をするのか、判らずに頭を下げている時間が長いのが嫌だった。 後で父親に言ったら不敬罪になるぞと言われた。

 『奉安殿の前を通るときは、最敬礼をしていたが、当たり前のように思っていたし、低学年のときは「アラヒトガミ=現人神」を人の姿をした神さまと居られ何となく信じていた。』

◎軍事機密

 軍事機密保護法の実施規定が昭和14年12月に改訂され、20m以上の高所からの俯瞰撮影やスケッチが禁止され、さらに、走る列車から海側の風景を眺めるのも駄目だと言うことで、汽車の乗客は自主的に海側の窓の鎧戸を下ろさねば軍機保護法に引っ掛かってしまうのだ。

 Hは、毎日のように海を見ながら遊んでいたので、あまりにも身近に法に引っ掛ることが転がっているようになった。

 『私も山陽本線を汽車で走った時に、瀬戸内海が長く見えるときは鎧戸を下ろしていた記憶がある。 しかし、軍港の街の高台に住んでいたので、遊び場の広場から軍艦を見ることが出来たが、禁止されていなかったのは、今にしてみれば不思議である。』

◎紀元二千六百年

 昭和15年に国威高揚のための紀元二千六百年記念奉祝式典が全国で催された。

 学校では、西洋の歴史は1940年だが、神武天皇が日本の国を作ってから2600年になるので、歴史でも日本は西洋より古いのだと先生に教えられた。

 その奉祝歌も出来て、その替え歌が流行ったために、煙草の凄い値上げを子供もよく知っていた。

 「金鵄輝く日本の 栄えある光 身に受けて 今こそ祝え この朝(あした) 紀元は2600年 ああ一億の胸はなる」  替え歌のほうは「金鵄上がって15銭 栄えある光(18銭→)30銭 いよいよ上がる鵬翼は25銭になりました ああ一億の民は泣く」

 『情報媒体の少ない、口伝えだけの時代だったが、不思議に、この歌は今でも覚えている。 替え歌がその時代に素晴らしくマッチしていたのだろうと思う。』

◎12月8日

 12月8日、午前七時にラジオから緊迫した声が流れた。

 「臨時ニュースを申し上げます。 大本営陸海軍軍部午前六時発表、帝国陸海軍は本日未明、西太平洋方面において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」

 とうとう始まったと思ったとたん、手が震えて味噌汁がこぼれた。

 『私の家にはラジオが無く、小学校の朝礼の時に、全校児童が運動場に集まり校長先生から、この事を知らされた。新聞も購読していなかったと思う。ただ覚えていることは、寒い朝で校長先生の話が長く手が冷たかったことだ。しかし、何かしっかりしなければとも思った。』

◎隣組

 隣組の班長は大変多忙だった。 防火訓練、回覧板の作成とかだったが、小学校でも六年生は警戒警報や空襲警報のサイレンの区別やその時の行動を一年生に繰り返し教えた。

 市の通達で表通りに共用の防空壕を掘れとの命令が出た。 それだけでなく、各戸に家の床下に防空壕を各自で掘れとの通達もあった。 Hは床下の防空壕は効果があるのか聞いてみたいと思った。

 『私もどちらの防空壕を掘る手伝いをした経験がある。 しかし、床下の防空壕が効果があるかどうか考えずに、素直に指示通りに1mぐらいの深さに大変苦労して掘ったことをはっきりと覚えている。 その後、親の故郷に疎開したので、その防空壕がどのように使われたか不明であるが、もし居たら、品物を入れることに使ったぐらいで逃げただろうことに間違いないと確信している。 防空壕と言えば、もう一つ、素晴らしい防空壕を知っている。 それは学徒動員で行っていた海軍工廠の工場で、その全てが壕の中に造られていたことを覚えている。 私は、そこで簡単な軍事製品の部品を旋盤で作っていた。』

◎神戸二中入学考査

 中学校の入学考査は、二年前から口頭試問と体育考査と内申書だけになっていた。 そして、口頭試問の中に理科と数学、国語の問題を取り入れてあるものだった。 Hは苦手だった数学の問題が自信を持って答えられたので受かったと思った。

 『小学校が推薦した者が、ほとんど入学できていた時代だった。 しかし、私は理科の問題で、今、発明したいとすれば何をしたいかと問われたことを覚えているが、緊張していて、小学生のようなことの、海水から容易に真水を作りたいと答えたことを思い出す。』

◎田森教官

 中学校の中で最も恐れられていた軍事教練担当の田森教官は予備役中尉だったのに、中国での実戦の経験があるということで、配属将校よりも威張っていた。 

 渾名は「エロ天」と呼ばれていた。 その理由は、未婚の若い女に興味がある助平で「エロ」、それに謹厳面して、しょっちゅう<天皇陛下>を持ち出して生徒に訓示するので、矛盾する両方を結んで付けられたとのことだ。

 ある朝、Hが正門で田森教官にあったので直立不動の姿勢で敬礼をした。 その時、小脇に抱えていたスケッチブックを地面に落としてしまった。 開かれたページには裸婦が描かれていた。 これはなんだの教官の罵声に「マネの絵の模写です」と答えたが、教官はマネと言う画家を知らなかったので、「マネの模写とは共感を馬鹿にするのか」と怒鳴られ、その後、教官室でこぴっどく絞られた。 

 『私は中学一年のときは身長低く140cm程であったと記憶している。 そのため教練は苦手だった。 ゲートルの長さは身長に関係なかったので、なかなかうまく巻けなかった。 それよりも、教練に使う三八式歩兵銃は、明治38年にできた銃で127cmと長く4kgと重く、私の腕の長さに比較してあまりにも大きすぎて、寝撃ち射撃を何回もやると、銃の先が下がって土につきそうになり酷く注意された。 また、銃剣道では木銃で胸を突かれて倒れると防具がとても大きくて、なかなか立ち上がれずに、愚図、のろまと叱られたことを覚えている。』

 

                                       続く

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妹尾河童著「少年H」を読み終えて! -1/3-

2013-07-18 14:35:35 | 読書

「概要」

上巻裏表紙より

「神戸の海辺の町にHと呼ばれた少年がいた。 父親は洋服仕立て職人。 母親は熱心なクリスチャン。 二つ年下の妹の四人家族。 H(昭和5年6月生)が小学五年生のとき、戦争が始まった。 父親がスパイ容疑で逮捕され、Hが大好きな映写技師のお兄ちゃんも、召集を逃れて自殺する。 戦争の影が不気味に忍び寄ってくる。 Hは何を見て何を感じたか? 戦争を子供の視点で描いた感動の超ベストセラー。」

下巻裏表紙より

「中学生になったHは、軍事教官から「反抗的だ!」とマークされ、殺されそうになる。 戦争は日々激しさを増し、空襲警報が連日のように鳴り響き、米軍機の猛爆で街は炎上する。 その中を逃げ惑うHと母親。 昭和20年8月、やっと戦争が終わるが、暮らしの過酷さはその後も続いた。 "あの時代"、人々はどんな風に生きていたのか? <少年H>は鮮やかに"戦争の時代"を伝えてくれる。」

<少年H>は映画化され、モスクワ国際映画賞特別賞を21年振りに受賞した。 Hの父親を演じた主演の水谷豊さんの「私の一行」より

「戦争に負けたのが悔しくて、涙が流れたのではなかった。 この戦争は、いったいなんだったんや! と思うと、たまらなかったのだ。」 「理不尽な戦争に対する少年Hのこの言葉は、僕の心にやりきれなく突き刺さった。 そして、そんなHを見守る父親の姿は、同じ子供を持つ親として強く僕の心を揺さぶった。 悲惨な戦争を健気に生き抜いた一家の姿は、僕に大きな感動を与えてくれ、ぜひとも、Hの父親を演じたいと思った。」

瀬戸内寂聴さんの解説の一部より

「少年Hは、日、一日と戦争色の濃くなってゆく中で、小学生から中学生になる。 Hは頭が良くて、腕白で、元気いっぱいである。」 「読んでいて思わず吹き出す楽しみもユーモアもちりばめられている。 悲痛な話もいっぱいなのに、何だかおかしい場面の連絡であり、あの暗い戦争中なのに、Hをはじめ少年たちは、みんな生き生きとして明るい。 Hの家も、次々困難に見舞われるのに、父も母もじめじめしていない。戦争中の庶民はこうであった。」

 

「あらすじ」

 私が経験し、記憶に残っている終戦までの項目から抜粋した。 終戦後のものは著者と生活態様が違っていたので省略した。

 抜粋した項目に、次の三点を追記した。

 〇当時よく使われ、私も使っていた言葉⇒赤字

 〇心に残った文章⇒下線

 〇その項目に関わる私の記憶⇒『……』

 

上巻

◎赤盤(LPレコードの名曲盤で中心部分のラベルが赤いもの)の兄ちゃん

 近所のうどん屋で働いていた町で一番好きだった兄ちゃんが、「アカ(共産主義者)」だったとかで「特高」の警察に連れて行かれた。

 兄ちゃんの部屋にはレコードや本が多くあって、「藤原義江(男のクラシック歌手)」の赤盤のレコードが好きで、よく聞かせてもらった。

 うどん屋のおばさんは、知り合いの息子で、元気よう配達してくれるんで評判が良かったから、ずっと住み込んで働いてもろうていたと言っていたが、連行された後では、おばさんは不機嫌な顔をして「あの兄ちゃんの事は聞かんといて、うちはえらい迷惑したんや」と言っていた。

◎タンバリン

 キリスト教の街頭宣伝の一隊で母親の敏子がタンバリンを叩きながら賛美歌を歌って、Hが通う小学校の付近を歩く。Hも日曜に教会に通っていたので、「アーメンの子」とからかわれることに慣れっこにはなっていたが、タンバリンが鳴り響いた日の次の朝は、かなりしつこかった。 うんざりしたHは、今までに何度となく母親に、タンバリンを叩いて歌いながら街を歩くのだけは止めてくれと頼んだが無駄だった。

 両親は福山市の奥の農家の出で、敏子の母はお寺の娘であった。 父の盛夫は本家の子で神戸で紳士服の職人をしていて、親の話で夫婦になった。

 神戸で夫婦生活を始めて、まず敏子が洗礼を受け、次に盛夫、そして、Hと妹と、一家全員が信者になった。 敏子はHを汚れなき天使のような子に育てようと決心したらしく、あなたは神に捧げられた子だから、悪いことをしてはいけません。 いつもイイ子でなくてはと毎日のように言われるのにHはうんざりしていて、15歳の元服までは良い子を装い我慢すると誓っていた。 タンバリンの音も、その中の一つだった。

◎オトコ姉ちゃん

 お化粧すれば近所の女の人の誰よりも綺麗な青年なので、Hはオトコ姉ちゃんと渾名をつけた。 彼は、近所の映画館の映写技師をしていてHを可愛がってくれていた。

 ある時、悪ガキが、風呂屋でオトコ姉ちゃんの男のものを見てやれとガキの一人が手拭を引っ張って見えたものは、普通の大きさだった。 でも彼は叱らなかった。 その彼に赤紙の召集令状が来て出征した。 しかし、所定の期日までに入隊していなく、憲兵が来て調べたが誰もその姿を見た人はいなかった。

 それから二か月ほどして、Hは友達三人と近くの山に薪拾いに行った帰りに大便がしたくなり、我慢できずに少しちびったので、友達と別れ、急いで、ガソリンスタンドの廃屋の便所に入った。 すると、そこでオトコ姉ちゃんが首を吊っていた。 とうとう大便をしくじった。

 近所の人が集まって葬式を出したが、親戚の人も勤め先の人も友達も、誰一人来ていなかった。 Hは涙が止まらなかった。 (非国民と言われる体面を重んじたのか。)

◎ナイフとフォーク

 Hは小学二年生のときから、ナイフとフォークを使って丸テーブルの周りに正座して御飯を食べていた。

 アメリカ人の宣教師の家庭に招待されて、ナイフとフォークの扱いに戸惑ったので、母親が子供に困らせないようにするためだった。

 みそ汁もスープ皿に入れてスプーンで音をたてずに飲むことも教えていたが、それはあんまりだと父親が異議を唱えて、日本風に食するようになった。

 フランス人もナイフとフォークを使うということを聞いて、Hも自分から使う気になった。

 母親は、それだけでなく、将来、神戸以外で暮らすようになった時に、Hが困らないように、ラジオを聞いて標準語を使わせたかったが、外では友達にからかわれるから家の中だけにしてもらった。

◎愛

 Hは、父親のお得意さんの平和楼の陳さんに、大きくなったらコックになりたいと言ったことがあったが、レストランのボーイのほうが良いと思いだしたので、陳さんに断わりに行った。

 陳さんは、ボクが大人になるまで私が神戸におれるかな、神戸はオジサンのほんとの故郷だがなと言った。 Hにはその意味がすぐ分かった。 支那と戦争しているので、「お前は敵だ。 チャンコロじゃ、支那に帰れ。」と言う人がいたからだ。

 Hが一年生のときに、「お前のとこはアーメンの信者だから敵も愛するそうやな、お前もチャンコロが好きなんやろ、そうやろ。」と言われたことがあったが、「愛してへん」と言って、母親に、「神は全ての人を愛せよ」と言う言葉を聖書にあるからといって、誰彼なしに愛と言わんといてと言った。(母親への反抗心)

                                       続く

 

 

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