T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

葉室麟著「風の軍師」を読み終えて -3/3- ー850回

2013-08-24 16:35:26 | 読書

「謀攻関ヶ原」

(1) 神父が望む次の天下様。

 慶長3年、ヴァリニャーノは三度目の来日をしていた。ヴァリニャーノは岐阜の織田秀信が私たちが待つ望むキリシタンの天下様だと思っていると言う。

 秀信は信長の嫡男・信忠の嫡子で織田家の正嫡で美濃13万石の大名で岐阜中納言と呼ばれ、既に秀吉の伴天連追放令が出ていた文禄3年(1594)に恐れることなくオルガティーのの洗礼を受け、洗礼名ペトロを授かった。

 ヴァリニャーノはジョアンにキリシタン大名の力で天下様を秀信様にすることを頼みたいと力強く言い切った。

(2) 秀信の天下人への誘い。

 ジョアンは豊前中津に如水を訪ねた。ジョアンはヴァリニャーノから命じられたことを話すと、如水は、天下は、まず徳川と大阪方の争いになるだろうと、碁盤の上に黒石二つを置いた。

 秀信様が天下を取るためには、徳川、大阪方のどちらか勝った者を、秀信様とそれがしが挟み撃ちするのが上策だと言う。

 それにしても、太閤に比べて家康は手ぬるい。 すぐに、大阪城に入って秀頼様を前田の手から奪わねばならない。 

 まずは家康を助けて天下を争う戦を惹き起こさねばならぬ。 家康は野戦が得意だから、場所は、関ヶ原辺りが良いと如水は言う。

 12月に入って如水は隼佐とジョアンを伴に京に出た。 

 ジョアンは秀信が大阪の教会を時々訪れると聞いて、如水が連れて行けと言う又兵衛を伴って、大阪伝馬の教会に行き、運よく、細川ガラシャと侍女のいとと秀信に会った。

 如水も援助したいと言う天下人の誘いをすると、秀信は、私はこの国では邪魔者なのです。修道者が住む外国に行ってみたいのだ。キリシタンの天下人となるような力はありませんと言う。

 ガラシャはシメオン様(如水)を信じております。何故なら、シメオン様は人から騙されても、人を信じることを止められませんからですと言う。

 秀信は、私は誰の言葉よりもガラシャ殿の言葉を信じていますと、秀信の眼には明るい光があった。

(3) 各陣営の間諜戦。

 慶長4年3月、利家が亡くなり、三成は、仲が悪い清正らに攻められて家康が調停し、佐和山城に引退した。そして、家康が大阪城に入った時を以って天下人と世間で囁かれた。

 この頃、毛利輝元がある策謀に取り掛かろうとしていた。

 輝元は、吉川広家を前に、家康は会津の上杉を討てば、残るはわしらの中国攻めにと兵を進めるだろう。 けど、戦では家康に勝てぬが、唯々諾々とひざまずくわけにはいかぬので、三成を煽てて家康と戦わせ、三成に伏見城を取らせて、その隙に儂が大阪城に入る。そして、天下を東西で分け持つことを考えている。

 それには、三成を動かすために、毛利が味方に付くと見せて、そなたが毛利の一部の兵を率いて出陣する。その上で、もう一方で家康と密かに和議を結んで戦場では中立を保つのだと命じた。

 広家は、この事を父のように慕っていた如水に連絡した。いわゆる、如水は時間をかけて、毛利の中に内間をつくっていたのだ。

 昨年暮れから、家康に暇を請い中津に戻っていた如水は、この連絡を受けて、ジョアンを岐阜城に送れと隼佐に命じた。

 命令の内容は、秀信に、東西手切れとなっても、いずれにも付かず岐阜城に籠る。兵をあげるのは、家康が、会津攻めより取って返し、大阪に向かった後だと申し上げることだった。

 続けて如水は、それがしは九州を平らげ、その兵を持って上方へ駆け上がり、秀信様を擁してキリシタンの天下人を造ることだ。関が原で最後に勝つのは織田でござると如水は言う。

(4) 関ヶ原の戦に向けての大阪方の情報戦などの前哨戦。

 佐和山城の一室に、三成と重臣の島左近、客人として、大谷吉継と安国寺恵瓊が上杉討伐に向かう家康を討つ戦略を話していた。

 恵瓊が、毛利輝元が大阪城に入る内諾を得ていると言う。 左近が、毛利様が動くことは、事実がどうあろうと、徳川を討つため大名を集める上で我らについて瑞兆だと言う。 また、左近から、九州の如水にも謀があるようで、先頃、キリシタン修道士を使いにして、岐阜の織田秀信様に何やら仕掛けているようです。そのため、我らが、大友宗麟の息子の吉統を如水の足止めに豊後に向かわせた。また、キリシタンの中で尊崇を集めているガラシャを人質にすることを考えていると言う。

 その頃、フランシスコ会の宣教師が家康に拝謁を願い出て、イエズス会のキリシタンの間では、織田秀信を天下人にするように如水らが動いていると伝えた。

 家康は予定通り会津に向けて小山に着いた。 その時期、伏見では、小山に行った武将の妻たちを人質にと動いていた。 うまく逃げた妻女もいたが、細川家では、ガラシャが家臣に殺されたということが、左近により岐阜城にも伝えられた。

 そのため、秀信は如水の献策に従わず、徳川方に付いた諸将と戦うために城を出て野戦の準備していた。

(5) 関ヶ原の戦と時を同じくしての九州での戦い。

 如水の許に大阪から、三成が挙兵したこと、ガラシャが忠興の命で家臣によって刺殺されたことを知って、如水は出陣の準備をした。

 おなじ頃、大阪城では、輝元と三成が大友吉統を海路、豊後に向かわせた。

(6) 秀信の天下人は夢で終わる。

 家康は、福島正則ら先手となって清州城に在陣している大名が、大阪方と一戦交えてから江戸を出ることにしていた。 先手大名たちの軍議で岐阜城を攻めることが決まった。

 清州城にいる黒田長政は、又兵衛に秀信の様子を探らせた。動かないはずの秀信の軍勢が城から出ていた。 途中、ガラシャの侍女のいとと会い、ぜひ、秀信にガラシャの殉教を知らせたいと言うので、危険を押して本陣に近づいたとき、ジョアんにも会い、秀信の前に行き、いとからその旨を伝えたが、左近に騙され、徳川方と戦う情勢を取った今これを解くわけにいかない。今となっては、天下人の夢は夢で終わるしかないと寂しげであった。

 その後、戦いに負けて城に退き、秀信は頭をそって城を去った。そして、その死は知られていない。

(7・8) 輝元の策ならず。

 関ヶ原の戦いが終息し、三成の佐和山城の陥落を見届けたうえで、家康は、長政、正則に命じて大阪城の輝元に投降を勧めさせた。 

 輝元にとっては、秀頼を擁してかねてから考えてきた和睦交渉の始まりのはずだった。しかし、輝元の顔には焦りの表情があった。大友吉統を破って九州を制圧した如水が今にも中国筋に乱入する情勢にあった。ために、輝元にとって一刻も早く本国に戻るしかなかった。

(9) 家康の天下になったある日、如水とジョアンが静かに語り合う。

 関ヶ原から退いた島津義弘は薩摩に帰りついた。 

 家康は如水に島津攻略を命じた。しかし、島津は謝罪外交を行い、家康はそれを受け入れ、如水に停戦を命じた。家康は、如水の九州での勢力拡大を恐れたのだ。

 2年後、慶長7年(1602)8月、ジョアンが京の黒田屋敷に如水を訪ねた。如水は懺悔したいことがあると言う。

 「ヴァリニャーノ様は秀信様を天下人にと望まれていたが、儂は、叶わぬ夢だと思っていました。キリシタンにとってキリシタンの天下人は最も良い事だが、一般の人々にとっては望ましいものではなく、叶わぬ夢と言うよりも叶えてはならぬ夢だと思ったのでござる。要はキリシタンが禁じられずに生きることができる国を造りたかったのです。」

 「それがしは、秀信様を、家康を迷わせる罠といたした。 さらに言えば、輝元は三成を動かして、家康と天下を分け取ることを企んでいた。しかし、キリシタンを嫌っていた毛利に西国を取らせるわけにはいかん。 それ故、九州を切り平らげて中国に馳せ上がる勢いを示し、輝元が大阪城に居座れぬように致したのです。」

 確かに、輝元は一刻も早く国許に戻るため重臣の意見を振り切って大阪城を去った。

 ジョアンは「シメオン様は恐ろしい方です」とため息をついた。

 如水は、しかし、それがしにも悔いはある。それは、ガラシャ殿を死なせたことであると慙愧の表情を浮かべた。

 「三成がガラシャ殿をキリシタンの人質にしようとしたのは、それがしが、秀信を天下人にしようとしていると思わせた策のために、三成がそれを察知して、結果はガラシャ殿を犠牲にしてしまった。」

 ジョアンは如水の声に悲痛な響きを感じた。

 如水は茶をゆっくりと喫した。

 「しょせん、策では人は救えませぬ。それがしの為したことも、死ねばすべて虚しくなります。」

 しかし、ジョセンは頭を振った。「人は自分が生きている時代に責めを負えば十分なのです。人が生きて力を尽くしたことは、永遠に消え去りはしません。」

 さようか、と如水は頷いた。

 如水が没したのは2年後の慶長9年(1604)3月20日である。 伏見の黒田屋敷で亡くなったが、葬儀は博多の教会で行われた。

 

                                 終

 

 

 

 

 

 

 

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葉室麟著「風の軍師」を読み終えて -2/3-

2013-08-23 16:59:23 | 読書

「あらすじ」

 第三章・「秘謀」以下の「背教者」、「伽羅奢」は如水が主人公でなくなったので省略する。

「太閤謀殺」

(序) 如水の決意。

 文禄4年(1595)8月2日、京の三条河原で関白・豊臣秀次の妻妾、子女、眷属の処刑が行われた。 「シメオン様、これはあまりに酷い事です。かような事を止められなかった儂にも罪のあることだ。」と官兵衛(如水)は言う。

 2年前に、聚楽第に赴いた如水は、「三成ら太閤奉行衆は、関白を陥れようと狙っております。御自重なさいませ。」と秀次の放恣を諌めたこともある。 その時、秀次は、どう足掻こうとも捨てられる身だと言う。 如水は「ならば、関白職を辞されることです。」と言うと、「それはできぬ。」と顔をそむけた。

 秀吉は、4年前に、千利休を切腹させている。 如水は、「織田右府も非道だったが、太閤も似てきた。」と呟くように言った。

 朝鮮では、明の使者が来て和平の話を進めているが、秀吉は再び朝鮮の戰を命じるだろう。 だが、前線での兵たちの士気は落ちている。 軍勢を鼓舞するためには秀吉自らが渡海するしかない。 『その時にこそ秀吉を討つ。』 如水は、ジョアンのヴィオラを聴きながら考えていた。

(1) 如水、朝鮮へ。 秀吉謀殺の戦略の一歩。

 3年前、天正20年(1592)4月、16万の秀吉軍が三軍に別れて朝鮮に上陸し、20日余りで都城を陥落させた。 秀吉は勢いに乗って自ら渡海しようとしたが、家康らに諌止され如水を派遣した。 さらに、石田三成、大谷吉継らを戦奉行として送った。

 如水は、塩飽九郎右衛門の指揮による黒田水軍の船で、5月19日、朝鮮を目指した。 如水は、傍らにいる村上隼佐に、降倭になることは分かっているなと言った。

 村上水軍を束ねた村上武吉の三番目の明人の妻が産んだ末っ子の隼佐は18歳だった。 降倭とは、日本兵の中から朝鮮側に投降した者である。 いわゆる、裏切り行為をするのである。

 如水は、隼佐を降倭として朝鮮水軍に潜入させ、秀吉が渡海したおりに朝鮮水軍によって襲わせるつもりだった。

 漢城での軍議の前に、黒田家の侍大将・後藤又兵衛に案内させて漢城の中を見回った。 都を城壁で囲んだ朝鮮式の城は如水には珍しいものだったが、王宮が焼け、庶民の家も多くの火災跡が残っているのが目についた。 又兵衛に、弥九郎(行長)は城を焼き討ちしたのかと問うと、国王が都を捨てて姿を消したことに怒った民が王宮に押し入って財宝を強奪し放火したためだと答える。 民の怒りは恐るべきだと言いながら、日本での戦いでは国王が変わっても新たな国王を迎えいれるが、朝鮮に上陸してから見かける人々の目には怨嗟の色があることを感じていた。 民衆に憎まれれば兵糧の補給がつかなくなるに違いないと確信した。

 そのような戦いの中で、先鋒は交替する申し合わせになっていたのに、行長は常に先頭を突き進んでいた。 王宮の一室で、行長は三成に、都城をわずか20日で落とした、これで、殿下は、キリシタンを認めてくださるだろうかと問うと、三成は、殿下も満足だが、ただ、国王を捕えて降伏させねばなるまい。そこまで果たせてこそ、お手前も罪を逃れることができ申そうと言う。

 戦の結果により、伴天連追放令の解除または朝鮮の地がキリシタンに与えられ布教を認められますぞと、三成が以前に唆していたのだ。

 最後に、三成は、目薬屋殿にはご用心召されと言う。

(2) 秀吉の渡海を目論む。

 翌日、総大将・宇喜多秀家が招集して、進軍するか、明の援軍を迎え撃つかの軍議が行われた。 先鋒の行長は明の近くまでの進軍を主張。 如水は、キリシタンの力で朝鮮を奪っても秀吉の伴天連追放令を解くことはない。 秀吉は昔は大胆な知恵と明るさがあったが、今は暗い欲望を抑えきれない暴君になっていると見ていて、心の中で、秀吉はキリシタンの敵だ。討たねばならぬとの決意を固めていた。 三成が行長の覚悟に賛同を求め、如水にもご異存ござるまいなと言うが、如水は冷たい笑みを浮かべるだけだった。 進軍は決まった。

 軍議の後、如水は隼佐を連れて、小早川隆景の陣屋を訪ねた。

 隆景は兄・吉川元春と共に「毛利の両川」と呼ばれ、中国進出を目指した織田勢と戦い覇を競った名将で、秀吉の中国返しが成功したのは、賢明な隆景が、如水と阿吽の呼吸で毛利陣営を抑えたからである。

 如水が、あのことはこの者に任せせることにしたと言うと、隆景はさりげなく、小早川水軍の船大工に亀甲船を造らせておる、朝鮮水軍のものと寸分違わぬ船が出来ましょうと言う。

 如水は、早速に名護屋に戻り、太閤を急き立てて参りましょうと去った。 如水は病を理由に帰国した。

 如水の構想は、秀吉を討った後、日本を二分し、東は家康と正宗に任せ、西国政権を毛利と同盟して樹立し、キリシタンの布教が自由な国を造ることであった。

 朝鮮では、明軍の援助で膠着状態になっていた。 隼佐は降倭していて朝鮮水軍に信じられていた。 如水は何とかして秀吉を渡海させたかったが、秀吉は古狐のように危険な匂いを感じていた。 そのため両者の対応が上手くいかず、拝謁が許されず、如水は中津に謹慎することにした。 2年後に罪を許された。

(3) カンタレラの毒が入った指輪をジョアンを送り、秀吉の毒殺を示唆する。

 キリシタン大名はみな何とか信仰とともに生き延びようとしているし、イエズス会自体も思い切った打開策を模索していた。

 インドの日本巡察師のヴァリニャーノ神父が密かに動いた。イエズス会三代目総長のボルジァから遺品として送られてきたカンタレラの毒が入った指輪をヴァリニャーノがジョアンに送りつけられた。

(4) 明国との和平交渉の決裂。

 明との和平交渉は、文禄2年5月に、明の講和使が日本に来て秀吉と会見してから2年余りに及んでいて、文禄5年(1596)正月、行長が明の冊封使副使を伴って日本での講和交渉の準備で釜山浦を出港した。

 秀吉は明が降伏してきたと思っているが、明は日本の朝貢を認めた(冊封)だけの使者である。戦いを終わらさなければならないと思っていた行長は、三成と相談して太閤を騙しているのである。 しかし、主戦論者の加藤清正はキリシタンの布教を朝鮮で行っているとか、殿下を欺く交渉だと言いまわっていた。 三成のはかりごとで、清正は急遽召喚されて伏見で蟄居の身となった。

明の正使との謁見で、冊封の金印が捧げられ冊封の国書が読み上げられ、「汝を封じて日本国王と為す」という言葉に激怒して交渉は壊れ、行長の首がはねられる手前までいったが、三成らとの共同交渉でもあり、彼らの取り成しで収まった。

(5) ジョアンはハビアンからカンタレラの毒を取り戻しに行く。

 秀吉は天正19年(1591)9月、朝鮮への出兵準備を進めながらフィリピンへも使者を送った。

 フィリピンはスペインに援軍を要請し、その時間稼ぎにフィリピンからの使者としてフランシスコ会のパウチスタを日本に派遣した。 これを好機として伴天連追放令が出ているにも拘らず日本での布教活動に手を伸ばした。

 文禄5年(1596)8月、フィリピンから出航したサン・フェリペ号が台風で土佐の裏戸に漂着した。積み荷の箱の中に世界地図があり、最初に神父が布教し、その後に、スペイン艦隊が来てスペイン領にした地図だと説明した。その一言が秀吉を激怒させた。明国との交渉が決裂して三日目である。神父ら26名を今日の計上で耳たぶをそぎ、長崎まで引きずっていき磔にすることを命じた。

 処刑が行われた日から7日目、その長崎で、日本準管区長ゴメスがジョアンを教会の外に呼び出し、ヴァリニャーノ巡察師から送られた手紙と指輪を送ってきたが、北政所の侍女を母に持つハビアンが指輪を持ち出したと告げた。

 ジョアンは、自分が取り戻しに行く、もし、ハビアンが太閤をカンタレラで毒殺を計画し、それが発覚したら、日本のキリシタンは皆殺しになると、きっぱり言った。

(6) 太閤毒殺の企て。

 慶長2年(1597)1月、秀吉は再び朝鮮への出陣を号令した。 主将は小早川秀秋、軍監は如水である。

 如水は渡海に先立ち細川幽斎の屋敷での連歌会に出向いた。 如水は庭先の東屋でガラシャと侍女のいと、そして、ジョアンとハビアンと会った。ハビアンがカンタレラを持っていても毒見が厳しく太閤に飲ますことはできないと言い、如水が指輪を預かった。

 この頃、秀吉は、年老いたせいか三成に同じことを繰り返し聞くようになっていたし、北政所の讒言でお拾い(秀頼)はお前の子かとか、よく似ているとか、三成への猜疑心と嫉妬が秀吉の胸中にどくろを巻いていた。

 三成は重臣の島左近に相談すると、北政所の陰に如水がいると言う。 三成は、如水が太閤の謀殺を図っているなら、それでもよいと思いながらも、秀吉の濁った眼が三成の脳裏に浮かび、あの目から逃れるには殺すしかないのではと思いが湧いてぞっとした。

(7) 淀殿による毒殺

 慶長2年6月、如水は秀秋とともに朝鮮に渡った。 日本軍水軍の勝利に来島通総から珍島水域の視察に出てくれと依頼された。如水は、黒田水軍の安宅船に乗り、来島水軍の10数隻の船に守られて水域に出た時に、今まで守られていた来島水軍の船に囲まれ大砲を向けられた。そして、船から石田治部様よりの密命で海の上で始末せよとのことであると叫んで、大砲が撃たれ、如水の船は黒煙に包まれた。その時、亀甲船が太鼓を鳴らして来島水軍に向かってきた。 来島通監は戦死した。

 そんな時期、如水は行長に会った。行長は疲労困憊していて顔を見るのも忍びないほどの思いがした。 このままでは、10数万の将兵が朝鮮で野垂れ死にするぞと言い、如水は、例の指輪を出して、これはゆっくりと死なせることもできるとのことだ、これを治部に送れ。使うか使わぬかは治部次第だと言って去った。

 その後、淀殿が南蛮渡りの薬だと秀吉に薦めた。飲むと身体の調子が良くなるような気がするのだ。三成が淀殿に渡したことは秀吉は知らなかった。

 慶長3年8月、秀吉、伏見城で没す。

 

                                    続く

 

 

 

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葉室麟著「風の軍師」を読み終えて! -3/1-

2013-08-22 16:42:45 | 読書

「概要」

裏表紙より

 秀吉の懐刀として武勲を立てた官兵衛は、戦況膠着する文禄の役で朝鮮行きを申し出る。 しかし、知略家・官兵衛の真意は、キリシタンを弾圧する秀吉を討つことだった。

 関ヶ原の戦いでも伴天連の王国をつくるべく九州で挙兵。

 下剋上の時代、異国の風を受け、夢を追う男の壮絶な生涯。

解説より

 今は豊前、豊後に拠点を持つ、秀吉に仕える軍師、黒田官兵衛。 

 官兵衛は、大名としての地位は長子の長政に譲り、自らは身軽な立場で歴史を裏から動かそうとする戦国末期最高の策謀家になった。

 同じく秀吉に仕えた軍師、竹中半兵衛と示し合わせて、手に負えぬ暴君となった信長を死に至らしめた。 もちろん、直接、手にかけたのではない。 光秀を巧みに誘って謀反へと導いたのである。

 その策謀は成功したが、信長に入れ替わって天下人となった秀吉は、権力を握るや瞬く間に変貌した。

 キリシタン禁制、朝鮮への出兵と予想外の統治を打ち出してゆく。 とりわけ朝鮮出兵は、東アジアの頂点に立とうとする誇大妄想が動機として働いている。 そして、小西行長などキリシタン大名を試すかのように侵略戦争の最前線においた。

 官兵衛も若い頃からキリシタンと親交があったが、九州攻め前に、キリシタンに入信し、シメオンという洗礼名を授かり、如水という号を用いるようになった。

 官兵衛の50歳頃からの事業は、「秀吉はキリシタンの敵だ、討たねばならぬ。」という決意の実現であった。 細川ガラシャなどのキリシタンが最も頼りとする存在になっていた。

 とはいえ、今は、秀吉の軍師として朝鮮の戦いに参加しなければならない立場にある。ここから『風の軍師』が始まるわけだ。

 日本人修道士のジョアンは10代の頃から、動乱の戦国期に要所要所でたびたび官兵衛に出会い、協力して歴史を裏側から動かしている。

 物騒なタイトルの「太閤謀殺」は、朝鮮の戦いで秀吉を討たねばならぬと思う如水も思惑通りにいかず、如水だけでなく、キリシタン大名はみな信仰とともに生き延びようとしているが如何ともしがたく、イエズス会自体が思い切った打開策を模索している。

 日本巡察師のヴァリニャーノ神父がまず密かにボルジア家から送られてきたカンタレラという名高い毒が入った指輪をジョアンに送りつけ、秀吉に使えないかと示唆する。修道士ハビアンなど複雑な経路をたどって淀殿から秀吉へ薬として使用され秀吉は死亡する。

 「謀略関ヶ原」は、関ヶ原の役に臨む如水の策謀。 その策謀は、キリシタンで岐阜殿と呼ばれている織田信忠の嫡子・秀信(三法師)を西側の首領に立てることだった。 また、信奉者の多い細川ガラシャは祈るように秀信が立つことを願った。 結局は、如水を初めとするキリシタン側の策謀は脆くも崩れ去ったかに見える。 しかし、如水はその可能性を本気で信じていたわけではなかった。 心の内では、九州にキリシタンの自由な国を建て、家康の幕府と並立させるのが如水の壮大な構想であった。

                                    続く

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墓参!!

2013-08-16 11:52:27 | 日記・エッセイ・コラム

 

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 旧盆は今日まで、猛暑で墓参が延び延びになっていた。

 しかし、最後の日になったので、少し早めに出発する。

 以前と違って、お墓も外の墓石でないので、除草とか清掃は不要。

 その点、楽になったが、それでも車で、片道25分。

 しかし、できるだけ続けたいと思う。子の務めだ。

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第68回終戦の日!!

2013-08-15 17:14:58 | 日記・エッセイ・コラム

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 今日は終戦記念日。学徒動員の工場で玉音を聞いた。

 なんで負けたのか。頭が真っ白で何も考えられなかった。

 父が戦地から帰ってくるだろうと待っていたが、それも6月14日の手紙を最後になんの便りもなく不安であった。

 その父は7月8日、第85号駆潜特務艇に乗船して朝鮮済州島沖で勤務についていたが潜水艦により撃沈、戦死。

 しかし、その戦死通知は終戦後の12月1日付の封書で連絡があった。

 その頃は、半年前に親の故郷に疎開して親戚の家の一間を借りて生活していて、亡くなった母親が大変苦労したことだけは今もはっきりと覚えている。

 今思い出すと、飲まず食わずに近い生活だった。


                                                                                                                                                       

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