[第二章 ホープとドリーム]
(1)
ホープ自動車販売部カスタマー戦略課長の沢田悠太は、最近契約したコンサルタント会社が提案した大幅な組織改編を会社が受け入れ、それまで担当していた販売戦略から顧客対策を任されるようになった。彼は、バランス・スコアカード(業績評価システム)の取り入れに伴う改編だが、決済に回ってくる書類は、従来、お客様相談室のオペレーターが受けていたようなクレーム報告ばかりで、余計な提案をしてくれたものだと思っていた。
沢田の未決済箱に、赤松運送からの「タイヤ脱落の原因は整備不良とは考えられないのに、短絡的な表面調査のみで断じるのはメーカーとして無責任な対応としか言いようがない」とする再調査依頼書に、担当の北村信彦の「港北警察署に整備不良が原因だと正式回答しており、処理済案件との立場で申し出に応ずる必要はないものと思われる」との回答案がついた文書が入っていた。
沢田は、「無責任な対応」という言葉に怒りを駆り立てられ、こいつはクレーマーに近い、そもそも、自社の整備不良で起こした事故なのに、メーカー側に責任をなすりつけるとは責任転嫁も甚だしいと思い、「当事者には販社を通じて説明を徹底させること」とのコメントを添え、怒りと共に決済箱に叩き込んだ。
(2)
再調査はできないとの返答を持ってきた益田に、赤松は、ホープ自動車が警察に出した調査結果を見せてくれと言う。益田は、捜査資料だから無理だと答える。赤松は、だったら再調査してくれと益田と押し問答の結果、自分がホープ自動車と交渉すると、益田から「販売部カスタマー戦略課・沢田」という担当責任者名を聞き出した。
赤松はすぐ沢田に電話したが、待たされたあげく、席を外しているとのことだったので、電話をもらうことで電話を切った。その間、益田が傍らに立っていて、ほっとした表情だった。
赤松は、自動車会社と販売会社との上下関係がどうなのか、ことホープ自動車に関していうと、親方日の丸というか、販売会社社員の気の遣いようは、売らせてもらいますという異常さを感じた。
外回りから午後の5時近くに戻った赤松は、沢田に電話したが、電話口に出た男からは、沢田は本日は戻りませんとの返事だったので、明日はどうかと聞くと、いると思いますと言われ、いるかいないのかぐらいは分かるでしょうと赤松は怒りが込み上げてきて、明日朝一番で電話をくださいと言って電話を切った。
沢田は居留守を使っていて、直ぐ益田に電話して、「私どもが直接お話しすることではない。販社できちんと対応してください、いいですね」と、乱暴に受話器を置いた。
(3)
電話を切ったばかりの赤松のところに宮代が来て、取引先の太平洋産業の社長から、うちが起こしたような事故が群馬でもあったらしいことを聞きましたと、新聞記事のコピーを差し出した。
半年前の5月6日、高崎市の路上で大型トラックが道路脇のコンクリート壁に激突し、運転手が両足切断の大怪我を負った。事故の原因はスピードの出し過ぎと掲載されていた。
宮代が、記事には書かれていないが、運転手の話だと、タイヤが外れたと言っているそうで、警察では、タイヤの外れが事故の前後を明確にせず、ホープ自動車の千調査により、整備不良としているとのことですと言う。
(4)
翌朝、益田から赤松に電話があり、製造元から連絡があって、再調査は何度やっても同じということで納得いただきたいと、沢田の返事を伝えてきた。赤松は、ウチに電話してこいと言ったはずだ。大企業だからといって客を馬鹿にするなと、沢田って人に伝えてくれと言って、高崎に向かった。
タイヤ脱落事故を起こした児玉運送の社長から、事故現場を案内してもらって、事故後の状況も話してもらった。
怪我した運転手が原告の裁判で、事故原因は、「ハブの摩耗に気づかず交換しなかった整備不良」だとするホープ自動車による調査結果資料が提出された。相手が運転手だったので、控訴しなかったが、調査結果には納得しておらず、車輛の構造的な欠陥かなと思っていると児玉社長は言った。
そして、児玉社長は続けて、整備不良で家宅捜査を受けて1週間も経っているのに逮捕されないのは、押収した証拠品を分析しても整備不良の証拠が揃わないからでしょうと赤松を励ました。
(5)
児玉を訪ねた日の夜、史絵が赤松に、変だなと思えることがあるわと話しかけた。「実際の整備状況を見もしないで、客の整備不良が事故の原因だなんて断定するのはおかしいと思うわ」と。赤松は言われてみれば確かにそうだと思った。
(6)
翌日、赤松は益田に連絡して、販売部の沢田とのアポを取ってもらった。約束の時間は、その翌日の午後2時になった。
応接室で、赤松と無理について来た益田が待っていると、沢田は急用ができたと部下の北村係長が入ってきた。
赤松:「納得できないので、再調査していただきたい」
北村:「納得されるかどうかは、そちらの問題で、当方としては、きちんと調査したので同じ調査を繰り返す理由がない」
赤松:「調査結果を見せてもらいたい」
北村:「調査結果は依頼された警察に提出してある。弊社には関係ない」
赤松:「整備不良だなんて、ウチの整備状況を見もしないで、なんでそんな結論が出るのですか」
北村:「御社まで足を運ばなくても、事故車両の破損個所を見れば整備されているかいないかぐらいのことは一目瞭然です。整備不良でないことを主張するために、我が社の調査結果が間違っていることを言いたい気持ちは分かるが、それは違うのではないですか」
赤松:「お宅にはCSという言葉はないのか」
北村:「ありますよ。本当のお客様の満足をいただくために頑張っています。私どもにもお客様を選ぶ権利はあります。違いますか」
赤松は、どうなってんだ、この自動車会社は、タイヤが外れる前に、こいつらの心からもっと大切な部品が外れちまったんじゃないかと思った。
(7)
居留守をつかっていた沢田は、どう説明しても納得しない莫迦だよと言いながら席に戻った北村に、これでとやかく言われる筋合いはない、もう再調査されても無視だなと言う。
その沢田の判断の中に思いがけない波風が立ったのは、その晩のことだった。
残業していた沢田のとこに、品質保証部の室井課長が来て、赤松運送からクレームが来てないかと言う。沢田は室井の意図が分からず、来たとだけ返事した。室井が、さらに、どんなことを言ってきたと聞くので、沢田は、再調査の依頼だが何か気になることでもと答えた。
ホープ自動車の品証保証部の仕事は、製造部門のお目付役的なもので、事故調査も品保証部がやったのに、調査報告済みのその案件について品質保証部が気にすること自体に、沢田は違和感を感じたのだ。
室井からの返事が無いので、沢田は、もう一度、調査に問題か、気になること事でもあったのか聞くと、まさかと言ってフロアを出て行った。
引っ掛るものを感じて、沢田は、車両製造部にいる友人の小牧課長に電話した。沢田は、室井との経緯を話しして、もしかすると品証部の連中をとっちめられるかもしれないので、お前の知合いの品証部にいる村井に探りを入れてみてくれないかと告げた。小牧は同意して電話を切った。
ホープ自動車には官僚的な社風があり、社員の関心事は内へと向いていて、沢田も、事故の真相ではなく、品質保証部のミスを探り出して、奴らの鼻っ柱を折ることができればと思っていたのだ。
(8)
ちょうど同じ頃、赤松運送では社内会議が開かれていて、赤松から、今のままでは再調査に応ずる可能性が無いと報告され、今後の対応について協議なされていた。
警察の動きが見えないこと、資金繰りが苦しいことについて討議がなされた後、谷山整備課長から、「事故原因はホープ自動車じゃなくても調べれば判るのではないですか、ただ、肝心の車両部分の部品が手元に無いのですが」と言われ、赤松は半ば唖然として、そうだよと顔を上げ、事故調査の鑑定なら他でもやってくれるはずだ、早速、ホープ自動車に部品の返還を申し入れてみようと結論を出した。
(9)
小牧が、沢田から電話があった翌日、一杯やろうと沢田を誘った。
小牧は、村野が担当外と言うので、昔、販売担当をしていた頃の俺の部下だった研究所の加藤だ、代わりに来てもらったと言って、30代初めの男を紹介した。
酒が大分入った頃、小牧が加藤に、品質保証部の幹部と研究所の所長が集まる秘密会議があると聞いたが、目的はなんだと尋ねた。加藤が、センシティブなものでと隠そうとするので、小牧が何故だと突っ込むと、「タイヤのTをとったT会議といい、基本的には製造と品質保証で取り仕切ってる内輪の会議で、きっかけは、群馬の運送会社で起きた人身事故に我が社のトラックの不具合が絡んでいたのです。平たく言えば、タイヤ関係事故についての定例的な対策会議です」と答えた。そして、続けて「S評価は品質保証部が行なうもので、その評価の基準は主観的なものに過ぎません」と言う。
ホープ自動車では、不具合情報はすべて品質保証部に集約され、そこで危険性などの検査の上、S1からS2,S3に評価分類することになっている。
エンジン、ブレーキ、駆動系などの不具合によって事故が起きる可能性があると評価されるものは全てS1で、すぐさまリコール会議にかけられる。S2は、部品の不具合、S3は、さらに危険性が低いと判断される軽微な不具合で、これらはリコール会議にかけられることはない。
沢田が、「つまり、本当にS1に分類される危険なものであっても、品質保証部の匙加減次第では、S2にもS3にもなるってことか」と聞くと、加藤は、「そういうことです。まともにいけばリコール対象のものもある」と答えた。
沢田は、本来リコールすべきものをだな、評価変えして社内で対応するってのは要するにリコール隠しだと言ってから、やり残した仕事を思い出したと言って外へ出た。
会社に帰った沢田は、品質保証部へ行き、室井に、「お前ら、赤松の件、勝手にS1からS3に格下げして、事故原因を整備不良にしたのではないか。それはリコール隠し以外の何ものでもないだろう」と言い放った。口論はリコールの是非について及んだが、最後は、室井が、「お前らは黙って車を売っていればいいんだよ。高度な経営判断を伴う話に頭を突っ込むな!」と言って席を立った。
(10)
翌朝、沢田は、販売部の野坂部長代理に呼ばれて、昨夜、品証部の室井と口論して仕事の邪魔をしたそうだが、大人になって組織の動き方を覚えろよと言われた。
沢田は、午後遅く、また呼ばれて、野坂から、昨夜の件は忘れろと命じられたので、席に戻りながら、整備不良だと笑わせるじゃないか、整備が足りないのは、ホープ自動車という組織そのものだと呟いた。
(次章に続く)