T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1543話 [ 「下町ロケット・ゴースト」を読み終えて 9/? ] 8/31・金曜(晴・曇)

2018-08-30 16:30:27 | 読書

下町ロケット・ゴースト

「あらすじ」

「第六章 島津回想録」

4.(ギアゴーストが行ったとされる特許侵害への神谷の質問)

 その日、神谷のほうから佃製作所を訪ねて来た。

 佃製作所の3階では、一昨日から、複数台のケーマシナリー製トランスミッションを取り寄せ、ギアゴーストと合同でリバース・エンジニアリングに取り組んでいた。

 神谷は天井のほうを指さして、「いい手がかりが見つかるといいですね」と言った後、ところで、と話題を変えた。

「先日の資料をあれから拝見していて、少々気になることがありまして、いくつか質問をさせてください」

 内戦で連絡すると、すぐに島津が社長室に顔を出した。神谷とは初対面なので名刺を交換し、ひと通りの挨拶をした。

 神谷が広げたのは、先日、佃が渡した設計図と特許公報のコピーである。

「この副変換機ですが、いつ頃に設計されたか覚えていらっしゃいますか」

 島津がパソコンを立ち上げ、読み上げたのは、3年ほど前の日付だ。

「これがどうかされましたか」

「それぞれの事実関係を調べてみて気がついたんですが、ケーマシナリーは、あなたがその副変速機の設計を完成させた直後、正確には一週間後ですが、クレームを"補正"しているんです」

 特許出願の世界で「クレーム」というのは、特許の権利範囲を示すものだ。

 神谷は専門的な話を続けた。

「ケーマシナリーのこの特許は、実はこの少し前に出願されたもので、その出願時の特許だけを見れば、実は御社の副変速機は、その特許範囲を明確に侵害しているとはいえません。特許侵害になるのは、その後、クレームが補正され、権利範囲が変更されたからです」

 特許成立までの間、出願人は自由に自分の特許の権利範囲について変更することができる―――そう神谷は説明した。

「新しい技術を開発したとき、事前調査段階では問題なかったのに、先行している特許申請の予期せぬクレーム補正によって、期せずして特許侵害になってしまう。まさに、御社の場合はそれに該当します。しかし、少々違和感がある」

 島津が目を上げ、無言のままその意味を問うた。

「本当にこれは偶然なのかなと」

 意味ありげに神谷は言った。「こんなタイミングでクレームが補正されるというのは、どうにも不自然なんです。しかも補正内容は、あたかも御社の副変速機を意識したものだ。率直にお伺いします。島津さん。あなたの設計情報、外部に漏れていませんか」

「えっ」島津は後が続かない。「―――いません。いや、いないはずです。社員のことは信用していますし、そもそも設計情報にアクセスできる人物は限られています」

 神谷はノートに何ごとか書き込み、「そこでもうひとつ、あなたが考案した副変速機についてですが、そもそも特許申請されていません。なぜですか」

「実はその—――特許にするほどのものじゃないと思っていました。以前から知られている技術の応用だと解釈していました。私のミスです」 

「島津さん、これは今回の件と直接関係のないことかもしれませんが、もう一つだけ質問させてください。あなたは帝国重工で天才と呼ばれたエンジニアだったんですよね。なぜ、ギアゴーストという小さな会社の共同経営者になったんでしょうか」

 神谷の疑問は、佃にとってもまた聞きたかったことであった。

 

5.(島津裕のプロフィール)

 島津が、帝国重工の数ある製造ラインの中でも、とくに車両用トランスミッション開発を仕事に選んだのには、それなりの背景がある。

 島津の父は、自動車メーカーの工場で働く仕事熱心な技術者だった。その父に感化され、島津が車好きになった。

 そして、島津の家族にとって車はいわば家族の絆、コミュニケーションの要だった。

「車は人を幸せにする。別に新車じゃなくてええ。好きな車に人を乗せて走るのは、それ自体が幸せなことじゃ」

 そんなふうに語る父の哲学は、そのまま島津の哲学になり、大学で機械工学を学ぶ原動力になった。

 教授推薦の帝国重工に入ったのは、同社のトランスミッション部門にまだまだ成長する余地があり、「レベルが低いからこそ君の能力が求められる」という教授の言葉に可能性を感じたからだ。

 帝国重工のトランスミッションは、ほかの大手メーカーと比べると、まず性能面で劣っていた。しかし、それ以前に問題だったのは設計思想だったと思う。

 帝国重工のそれは、古くさく時代遅れでしかも保守的だった。そんな問題意識もあって、島津は、入社直後から新たな発想のトランスミッションをどんどん提案し始めた。

 島津とほかの技術者との違いは、妥協のない「こだわり」だった。性能さえよければどんなトランスミッションでもいいということは決してないのだ。

 トランスミッションが変われば、車の息遣いが変わる。

 一速から二速に入れたときのフィーリング、走行中のペダル走行から伝わる振動。車を運転する楽しさ、喜び、そして感動。島津がトランスミッションに求めたのは、単なる性能を現す数字の羅列だけではなかった。

 そんな島津は、最初、周囲から驚きの目を持って迎えられた。島津の優れた設計に舌を巻き、天才といわれるようになったのもその頃だ。

 新しいアイデアを次々と生み出す一方で先輩技術者の設計を平然と否定し、古いと断言する島津は、次第に周囲からやっかみ半分に疎まれる存在になっていったのだ。

 その話が社内に出てきたのは、入社5年目の秋であった。

 それまで帝国重工が製造してきたトランスミッションはその多くが中型車以上の車に搭載されるものであった。

 そこへ、コンパクトカー市場に狙いを定めた新たなトランスミッションを開発・製品化せよ―――そんな号令が経営の上層部から飛んだのである。

「ついに来た」そう思った。

 というのも入社以来、島津はCVTという、それまでの形式とはまるで違うタイプのトランスミッションの開発に携わってきた。ところが、それは製品化の目途も立たないままくすぶり続けていたのだ。

 理由はいくつかあった。その一つに帝国重工内には、CVTを「下」に見る風潮があった。

 CVTは複雑に組み合わせた歯車の代わりに、ベルトを使って変速するタイプのトランスミッションだ。

 だから、大排気量でパワーのあるエンジンを搭載した車には向かないというのが、それまでの定説であった。エンジンの回転が上がれば上がるほど、ベルトの摩擦が問題になってくるからだ。それを解決するベルトないしそれに代わる構造がないため、「結局、小型車にしか載せられないじゃないか」そんなふうにCVTを過小評価する技術者が少なくなかったのである。

 だが、島津の考え方は違った。

 たしかに、高回転域で起きる様々な問題はあるにせよ、ほかのトランスミッションが七速や八速と多段階化していく流れにあるならば、そもそも無段階変速を前提にしているCVTはその先を行く存在といっていいはずだ。一方で技術的に難しいことも事実である。

 その難攻不落のトランスミッションの製品化に島津は挑んできた。

「これはチャンスだ」

 このとき作成した企画書は、いわば島津裕の集大成といえるものだ。

 新たなトランスミッションを決める会議は、年が明けた1月上旬に開かれた。

 出席者は製造部門を統括する常務取締役をはじめ、さらにトランスミッション製造を手掛ける愛知工場長、そして製造部門の役職者が集まった重要会議である。

 この会議の席に、提案者として島津は呼ばれた。

「君の企画書はなかなか力作だな」

 最初にそんな発言をしたのは、常務取締役の田村雄一だ。「しかし、CVTは突飛過ぎないか。ウチには経験がないだろう」

 石橋を叩いて渡るといわれる男の保守的な発言だ。

「これだと、ウチの財産が生きないだろう」否定的な意見を出してたのは、研究開発ラインにいる副部長でトランスミッション製造部門のお目付け役的な存在の奥澤靖之だ。

 役職者たちの否定的発言に対する島津の力のこもった主張に、しらッとした空気が流れた。手応えは薄い。

 常務の田村、製造部長の柴田そして研究開発ライン副部長の奥澤、すべて最初から島津の提案など実現不可能な夢物語だと決めているフシがあった。予定調和(社会生活等の広い範囲で、観衆・民衆の予期する流れに沿った事態が動き、結果も予想とおりであること)の結論が見え隠れしている。

 ………。

 島津に、総務部への辞令が出たのはその3月のことだ。

 帝国重工は、島津の才能を不要なものとして排除した。旧来の路線を否定する島津の態度に業を煮やし、痛烈な罰を与えたのだ。

 もう、この会社に自分の居場所はない。

 伊丹が声をかけてきたのは、島津がそう確信したころであった。

 

 長い回想を終えた島津の頬は紅潮し、当時感じていたに違いない悔しさを再び思い出したかのように目を潤ませていた。

「あなたの社会人生は思い通りにはならなかったかもしれないが、それは絶対に無駄にはならないと思います」

 神谷は冷静に断じるや、この日最後の質問を繰り出した。「最後に一つ教えてください。あなたが『T2』を開発する前、コンペでケーマシナリーと争ったことはありますか」

「ええ、何度かあります」

「そして、勝った―――?」

いえ。ほとんど勝てませんでした。実績がないという理由で。唯一の例外は、アイチモータースに採用された『T2』です」

 その答を咀嚼するかのように神谷は黙考を続けたが、やがて小さな吐息と共に礼を言った。

 島津らによるリバース・エンジニアリングが、何の果実もないまま終わったのは、その三日後のことであった。

   「第七章」続く

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1542話 [ 「下町ロケット・ゴースト」を読み終えて 8/? ] 8/30・木曜(晴・曇)

2018-08-30 10:53:46 | 読書

下町ロケット・ゴースト

「あらすじ」

「第六章 島津回想録」

1.(伊丹は佃にギアゴーストの譲渡を申し出る)

 伊丹と島津のふたりが、佃製作所を訪ねてきたのは2月最初の水曜日であった。

 佃と山崎、殿村が応対した。

 多忙のところをと詫びて、伊丹はトランスミッションの設計図を広げた。

「これは『T2』という、弊社の主力トランスミッションの設計図です。アイチモータースさんのコンパクトカーに採用されたヒット製品ですが、問題がおきまして―――」

 問題というと、佃が問うと、

「この部分です―――副変速機なんですが」

 島津が設計図の一部を指で差した。「最近になってケーマシナリーから特許侵害であるという指摘を受けました。これがケーマシナリー側の特許です」

 佃らの前に書類を並べてみせる。

「ちょっと身では判断できかねるんですが、侵害になるんですか」

 佃の問いに、伊丹が今までの経緯を簡単に説明する。

「弊社の顧問弁護士の見立てでは、裁判になったら勝つのはほとんど不可能だと。ウチとしては、ライセンス料を支払ってでも、製造は継続しなければなりません。会社の存続がかかっていますから」

 同席の山崎と殿村も会社の存続と聞いて、殿村がライセンス料はと聞くと、「15億円」と言われてびっくりする。

「いかに大きな金額だろうと、これが真っ当な請求である以上、支払わないことには先に進めません」

 伊丹は苦しげに顔をしかめた。「佃さん、ウチへの出資を検討していただけないか。15億。もちろん、私とこの島津が所有するギアゴースト株式もお渡しします」

「失礼ですが、それは15億で御社を売りたい、そうおっしゃっておられるのですよ」

「おっしゃる通りです。その代わり、社員の雇用だけは守っていただきたい。どうか、ご検討いただけませんか」

 伊丹と島津は頭を下げた。

 佃は、「しばらく社内での検討する時間をいただきたい」と言って別れた。

 

2.(佃へのギアゴーストの買収についての神谷弁護士の助言)

 伊丹から相談のあった翌日、佃は、神谷・坂井法律事務所を訪ねた。

 神谷修一は、知財では国内トップレベルの敏腕として知られる、佃製作所の顧問弁護士である。

「ケーマシナリーの顧問が、あの田村・大川事務所の田中とは」

 応接室で概略を告げた佃に、神谷はやれやれとばかり嘆息して見せた。この案件が決して容易なものでないことを想像させる。

 田村・大川法律事務所は、神谷自身もかって所属していたことのある、知財分野では押しも押されぬ大手事務所だ。

 神谷は、眉間に皺を寄せた。「ケーマシナリーの親会社のEZTは、米国で大手の法律事務所と組んで、知財訴訟でかなりの荒稼ぎをしているんです。相手の弱みにつけ込んで、ライバルを潰すぐらいのことはやりかねない」

 神谷は立ち上がると真剣な表情で設計図を覗きこんだ。時折、佃とやり取りしながらのその作業は1時間近くも続いたろうか。

「すでに検討をされたか分りませんが、現時点で試みてみるべく対抗手段がなくはない」

 思いがけない言葉に、佃は驚いた。

「クロスライセンス契約を狙えませんか」

 佃は、「それは、いったい………」と尋ねた。

「もしケーマシナリーの製品の中に、ギアゴーストの特許を侵害しているものがあれば、その特許の使用ライセンスを渡す代わりに、副変換機のライセンスもいただく。要するに、特許使用許可をお互いに交換し合うわけです」

「なるほど」

「まだ検討しておられないのでしたら、やってみる価値はあるでしょう。ところで、佃さんは、このギアゴーストの買収、前向きにお考えですか」

 佃は胸の内を神谷に明かした。

「もし、トランスミッションメーカーを傘下に収めることができれば、主力のエンジン事業とかなりの相乗効果を発揮することができます。本音を言えば巨額のライセンス料を全額払ってでも一緒にやりたい」

「だとすると、企業精査が必要なのはもちろんですが、その前に、ギアゴーストにはまだ対抗手段が残っています。そのためには、まずケーマシナリーのトランスミッションを手に入れ、リバース・エンジニアリングで特許侵害の有無を精査する必要があります」

 リバース・エンジニアリングとは、他社製品をばらし、その構造や技術を検証する作業のことをいう。

「問題はその作業をギアゴーストにやらせるのか、佃製作所がやるのかということです」

「どういうことですか」

 神谷の意図が読み取れず、佃は聞いた。

「佃さんは、ギアゴーストを買収したいという意向をお持ちです。ギアゴーストにこの対抗策を伝え、同社が解決してしまえば買収話そのものが立ち消えになるでしょう。逆に佃さんが密かに特許侵害の事実を掴んだうえで、それを内緒にして買収したらどうなるでしょう。その場合、想定したよりはるかに安くギアゴーストを傘下に収めることができます。ギアゴーストに敢えて助言するのか、ビジネスと割り切って独自で調査するのか―――それは佃さんの判断にお任せします」

 

3.(ギアゴーストと佃製作所が共同で行うリバース・エンジニアリング)

 帰社した佃から殿村は、腕組みして考え込んだ。社長室の応接セットには津野と唐木田、そして山崎もいて、それぞれに思索にふけっている。

「もし、ウチでクロスライセンス契約が取れるくらいの特許侵害を見つければ、それをケーマシリートの交渉の切り札に出来るわけですよね。そうすればタダ同然でギアゴーストを手に入れられるかもしれないと」

 津野は、自分の発言を咀嚼し、「で、社長のお考えは」、と改まって聞いた。

「オレなりに考えてみたんだが、この話、伊丹さんに教えようと思う。たしかに、秘策を得てタダ同然で買収するというのも一つの選択だと思うし、そうする経営者もいるだろう。しかし、ギアゴーストの人たちが後になってそれを知ったとき、どう思うだろう。喜んでウチの仲間になると言ってくれるだろうか。オレだったら、上手いことやりやがってと思うだろう。そして、そういうやり方に対するしこりが残る。たしかにビジネスには戦略は必要だと思うんだが、それはフェアじゃなきゃいけない」

 佃は続ける。「会社だって人と同じでさ。損得以前に、道義的に、正しいかが重要なんじゃないのか。相手のことを思いやる気持ちや、尊敬の念がなくなっちまったら、そもそもビジネスなんて成立しない」

 しばしの沈黙が挟まり、全員が賛成した。

「ケーマシナリーへの回答期限まで時間がないでしょう。だったらリバース・エンジニアリング、ウチも手伝いませんか」と山崎が提案した。

「もちろんだ。しかしまあ」

 佃は苦笑いを浮かべた。「この商売下手はうちの専売特許みたいなもんだな」

 

 佃がギアゴーストの伊丹に連絡を入れたのは、その打ち合わせを終えたすぐ後のことである。

「クロスライセンス、ですか。たしかに、それはやってみる価値がありそうです。すぐに島津と相談してみます」

 希望の光を見い出したせいか、心なしか声に張りがある。「本当にありがとうございます」

「困ったときはお互い様ですよ。リバース・エンジニアリングですが、もしやるんならウチにもお手伝いさせていただきませんか。御社だけでは大変でしょう」

「ぜひお願いします」

 

 そんなやり取りをして電話を終えたものの、ふと、佃は首を傾げた。

「ギアゴーストにも顧問弁護士はいるはずだが、伊丹さんの反応を窺う限り、クロスライセンス契約の話は全く出なかったようなんだ。少しでも望みがあるんなら、ダメもとでもアドバイスをするべきなんじゃないか。いったい、顧問弁護士は何をしていたんだろう」

 殿村も思案顔で頷く。

「その弁護士先生には荷が重すぎるんじゃないでしょうか。余計なことかもしれませんが、弁護士を変えることを提案するのも手かもしれません」

 佃は、「確かにトノの言う通りかもな」と言いながら、神谷の不敗神話を思い出し、果たしてその神谷先生がこの敗戦濃厚な戦いの弁護を買って出るだろうかと思っていた。

 ところが―――佃のもとに当の神谷から連絡があったのは、それから数日後のことであった。

   「第六章ー4」に続く 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1541話 [ 「下町ロケット・ゴースト」を読み終えて 7/? ] 8/28・火曜(晴・曇)

2018-08-28 10:56:38 | 読書

下町ロケット・ゴースト

「あらすじ」

「第五章 ギアゴースト」

5.(ケーマシナリーの代理人・中川弁護士はギアゴーストにライセンス料を要求する)

「わざさわざどうも。どうぞお掛けください」

 弁護士の中川は、伊丹と末長のふたりに椅子を勧め、自分はテーブルを挟んで優雅な物腰で収まった。隣にかけている若手の弁護士は青山賢吾。本件のサブ担当者。

「私どもが出した文書はお読みになりましたか」、と中川が相手のふたりを見た。末長が答えた。

「………、ギアゴーストさんは争う意思はなく、できれば話し合いで決着させたいと考えておられます。そうした条件について、ケーマシナリーさんから具体的な意向があるのでしたら、お伺いしたいですが」

 笑みを浮かべたまま、中川はさらに猫なで声になる。

「『T2』というトランスミッションは依頼人が特許を持つ副変速機の構造なくしては成り立ちませんねぇ。これを元にして、ケーマシナリーさんが得たはずのライセンス料を試算してみますと―――約15億円になります」

 伊丹は、それは高過ぎると中川を凝視する。

 末長は、「そんな金額はギアゴーストさんにははらない、同業者としての報復的な嵩上げが行われているのではないか」、と問うた。

 中川の横の青山が、計算書を伊丹と末長の前に滑らして寄越した。

 交渉の余地を見出そうと、末長が真剣に点検し始めた。

 だが、反論するものを見い出せずに資料をテーブルに戻した。

「この計算根拠は分かりますが、料率10%は高い。減額を検討願いたい」

「それはできない。ケーマシナリーさんでは、同業他社へのライセンス料は一律10%と定めている」

 ………。

 中川には、譲歩の態度は全くなく、「ケーマシナリーは知財交渉で譲歩したことはただの一度もありません。そもそも、特許を侵害したのは御社ですよね。どうぞ、その点をお忘れなく、しっかりご検討ください」と言って、腕時計に目を落した。

 伊丹と末長は、退室を促された。

 

「どうしたらいいんだ、まったく」

「どうするこうするもありません、伊丹さん」

「15億なんていうカネ………。とてもじゃないが調達できない」と呟く伊丹。

 立ち止まった末長は、改まった態度で、これは相手の作戦ですと眉を寄せて、

「中川の、いや、ケーマシナリーの目的は、御社をギアゴーストを潰すことだと思います」と言う。

 呆然と立ち尽くす伊丹に、末長は、「なんとか資金調達はできませんか。カネさえあれば、ここは凌ぐことができる」と改まって聞いた。

 

6.(伊丹はこの会社の存続を図るために出資者を探すと決意する)

 会社に戻った伊丹は、肘掛椅子に体を埋め、瞑目した顔を天井に向けた。

「どうだった、相手の弁護士」と聞く島津に、「駄目だ。話にならない」と言って、交渉の経緯を話す。

「なにか方法はないのかな」

 悔しそうに島津が声を絞り出した。「なにかあるはずだよ」

 しかし、伊丹の応えはなく、鉛を飲んだような空気が二人の間に流れただけだ。

 

 翌朝、いつもより早く島津が出社すると、すでに伊丹の姿があった。

「いろいろ考えたんだけどさ、これを乗り切るためには、出資者を見つけるしかないと思う」

 伊丹は血走った目を向けた。「出資を受け、どこかの傘下に入る。それしかない」

 島津は混乱し、その決断の是非を急速な勢いで咀嚼しようとする。

「それってさあ、私たちの会社じゃなくなるってこと?」

 やがて島津は問うた。「それでいいの、伊丹くん」

 伊丹は応えない。虚ろな眼差しがただ前に向けられ、焦点も合わず投げられている。

「社員を守らなきゃいけない。オレには、守る義務がある」

 不意に伊丹の目に魂が宿ったように、島津には見えた。「出資を受け入れる条件は、雇用の維持だ。ただし、オレとシマちゃんはその例外になるかもしれない。経営責任ってやつだけど、まあしゃあないよな」

 考えに考えた末の結論だろう。口調に迷いはなかった。

 ………。

「ウチのトランスミッションに興味を持ってくれる会社が、どこかにあるはずだ」

 伊丹は悲愴な表情で言った。「この会社を生かすために、オレは何としてもそれを探し出す」

 

7.(敵と味方と思っていた、二人の弁護士の前祝い)

 銀座の有名なイタリアンの奥まった個室。

 招かれた男と弁護士の中川は運ばれてきた白ワインで乾杯した。

 中川は聞く。「その後、いかがでしょうか、ギアゴーストは資金調達のめどは立ちましたか」

「見たところ、かなり難航してますね」

 男が答えると、「それは困りましたねえ」と中川は上っ面だけ驚いて見せた。

「必死に出資先を探してますよ。とはいえ、ベンチャーキャピタル(投資会社)で断られ、M&Aの仲介業者には難しいと言われ、先日はついに取引先の大森バルブにまで出向いて断られ—――」

「まさに八方塞がり、ですか」

 腹からこみ上げる笑いを抑えて、中川は低い笑いを洩らした。

「勝負あった、といったところですかな」

 男が再びワイングラスを揚げる。「前祝いということで」

「どうも」

 中川が応じると、ふたりが洩らす低い笑いが個室に低く響き始めた。

 

8.(ヤマタニの入間が出資者として伊丹に佃を紹介する)

 ヤマタニ浜松工場の応接室である。

 入室して来た入間工場長に、伊丹は深々と頭を下げた。

「弊社の主力トランスミッション『T2』に対して、ケーマシナリーから特許侵害を指摘され、顧問弁護士に相談したんですが、裁判したところで厳しいだろう」と言われたと、詳細を語る。

 入間は、たちまち問題の深刻さを理解して眉を顰めた。

「もはや出資先を探し、その傘下に入れていただくしかないのではないかとの考えに至りました」

 伊丹は背筋を伸ばし、真正面から入間と対峙した。「ヤマタニさんに、弊社への出資を検討していただけないでしょうか。お願いします」

 入間は、難しい顔で腕組みしたままじっと考えている。やがて視線を伊丹に向けると、「結論からいうと、出資は難しい」そう明言し、申し訳ないと小さく頭を下げた。そして、言葉を続けた。

「確かにウチは御社のトランスミッションには興味がある。だが、それだけのライセンス料を支払うこととなれば、ウチの審査システムに載せるまでもなく投資は不可能だ。この話が公になれば、現在検討のテーブルに乗っている御社トランスミッション採用の話そのものが流れる可能性すらある。"スコアリング"にひっかかるだろうからね」

 ヤマタニでは、独自の診断システムによる取引先評価を行っていた。安全性、成長性、収益性といった定量的な財務診断に始まり、経営基盤や取引先筋といった経営環境までが点数化され、そのスコアによって取引の可否にボーダーラインをもうけ、取引規模に制限を設けている。

 ………。

「そういえば、佃製作所を当たってみたかい」

 予想だにしなかったアドバイスに、伊丹は戸惑った。「いいえ」

「佃さんなら出資するかもしれない」

 信じられない思いで、「佃さんが、ですか」と伊丹は聞き返した。

 ふいに蘇(よみがえ)ったのは、最初に佃と会ったときだ。将来的にトランスミッションメーカーになりたいと、たしかに佃がそう言ったのは事実だ。

 しかし、ライセンス料のことを思い、伊丹が怪訝な顔をすると、入間は、「あそこは以前、特許訴訟で巨額な和解金を勝ち取った超優良企業だよ。普通の町工場だと思ったら大間違いだ」と教えた。

      「第六章」に続く

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1540話 [ 「下町ロケット・ゴースト」を読み終えて 6/? ] 8/27・月曜(晴)

2018-08-27 10:28:58 | 読書

 下町ロケット・ゴースト

「あらすじ」

「第五章 ギアゴースト」

1.(ギアゴーストはバルブコンペで佃製作所のものを採用する)

 ギアゴーストの柏田宏樹のもとへ、モーター科研の担当者、竹本英司から佃製作所が試作したバルブの評価結果が届いたのは、年が明けた一月のことだった。

 竹本の評価結果とは別に柏田がいつも楽しみにしている簡単なコメントがついていた。

"………いいバルブですね。無論、性能では先日の大森バルブさんには到底、及びませんが、性能以上にしっかり作り込んである印象を受けました"

「いいバルブねえ」、と評価内容をじっくりあらためた柏田は、ひとりごちった。

 これでバルブコンペの評価が揃ったので、柏田は、大森と佃の評価書を課長の堀田に差し出し、

「佃のバルブは予算内には収まっていますけど、スペック的に劣る。一方の大森のほうは文句なしのハイスペックですが、値段が高い。迷いどころです。どうしましょう」と言う。

「大森バルブだ」

 堀田はあっさり結論を出した。「バルブの重要性を考えると、ハイスペックに越したことはない」

 バルブの評価は、スペックとコストのバランスで決まる。安かろう悪かろうは論外だが、性能に比して安いと思えるかどうかがポイントだ。"お得感"ということでは、大森バルブに分がある―――堀田はそう判断している。

 堀田の所見と評価結果を持って、島津は社長室に消えた。

 何事か話し合って島津が出てくるまで10分もかからなかった。

「バルブ、佃製作所に発注するから」、島津の言葉に堀田は反論を試みた。

 ちょっと意外そうに堀田を見た島津は、「佃製作所のバルブ、あの性能にあえて調整されていると思うなあ。本当はもっとハイスペックなものだって出来たと思うよ」と教える。

「なんでそう思うんです」柏田は興味を抱いた。

「細部にわたっての作りがもの凄く行き届いている。そして、素材も相当厳選指定。重量や燃料への影響、それにコスト。全部計算し尽くした上で、ウチのトランスミッションとのベストマッチを狙ってきた。これ、実は見かけ以上にすごいバルブだよ」

 

「ありがとうございます」

 立ちあがって電話している立花に、技術開発部全員の注目が集まっている。

 アキと握手を交わした瞬間、「採用か」と山崎から声がかかる。

「軽部さん」、立花とアキは軽部に歩み寄り、「ギアゴーストから採用の連絡がありました。ありがとうございました」と言って頭を下げた。

「お前らと一緒に仕事できて、まあなんて言うか―――楽しかったぜ」

 思いがけない一言であった。

 軽部は、驚いた顔のふたりに、「さて行くか」、と呼び声をかけて、腰を上げる。山崎部長に「社長んとこに、ちょっくら行ってきます」と言って先に歩き出した。

 佃政酷暑のトランスミッション戦略はこのとき、ささやかであるが、重要な第一歩を踏み出したのである。

 

2.(コンペに負けた大森バルブがギアゴーストに取引停止の事前通告を出す?)

 大森バルブの調達部長室には先客があった。知財部長の尾高仁史だ。長く知財戦略を纏めるリーダーとして、大森バルブにとってなくてはならない男である。

 ちょうど蒔田と入れ違いに尾高は出て行き、思案顔の辰野がひとり肘掛椅子に収まっている。

 蒔田は、「ギアゴーストは佃製作所を選びました」と報告する。

 辰野は不愉快そうに唇を歪ませたが、予想に反して怒りを爆発せず、「理由を聞いたか」と尋ねた。

「ハイスペック過ぎるということでした。コストも合わず、そこまでのものは必要がない」と言われたと蒔田は答える。

「そんなことは理由にならん」と言って、辰野は自分で答えを示した。

「これは、ギアゴーストとウチの信義則だ。ウチはあそこの主力トランスミッションにバルブを収めてやっているんだ。本来であれば、ウチのような会社が相手にするほどの信用力のないところに、高品質バルブを供給しているのだぞ。結局、彼らはその気遣いに何の敬意も感謝も示すことなく、踏みにじったわけだ」

「再度検討するように申し入れましょうか」

「取引を見直す準備があると、そう伝えておけ。ギアゴーストへの供給は契約期日で打ち切る。その場合の事前通告は一か月前だっただろう、忘れないように文書を出しとけよ」

 予想外の指示に蒔田は驚いて、「それでは、ビジネス上のメリットがありません」と反論する。

「あの会社は早晩、潰れる。ウチに貸倒れが出ないよう、お前は状況を把握しておけ」

 その言葉に、「さっきの尾高が何ん情報をもたらしたのではないか」と思った。根拠はない、ただの直感だ。

 

3.(ギアゴーストにケーマシナリーの代理人から内容証明郵便が届く)

 ギアゴーストの堀田と柏田は、社長室の伊丹と島津の様子に不穏なものを嗅ぎ取っていた。

 先ほど、内容証明郵便を島津に渡したことを、事務員から堀田に伝わっていた。

 伊丹が書類を手に電話をかけはじめた。

 堀田は、「―――先生」という言葉に、顧問弁護士の末長孝明先生だと感じた。

「―――ケーマシ………」

 堀田と柏田は、顔を見合わせた。「ケーマシナリー、ですかね」と柏田。

 ギアゴーストのライバルというには大き過ぎる。トランスミッションメーカーだ。

 米国の業界大手・EZTから敵対的買収を仕掛けられて話題になったのが数年前。その後、親会社の方針を反映してか、ライバル企業を次々と訴える知財戦略で、いまや業界全体が同社の動向に神経を尖らせている。

 ゆがて、伊丹の電話が終わると、島津がキャビネットから設計図を取り出し、専用の図面ケースに入れ始める。

 社長室から出てきた伊丹が、「末長先生のところへ行ってくるから」と言って、島津と急ぎ足で出て行った。

 

4.(伊丹と島津は顧問弁護士の末長を訪ねる)

 末長弁護士の事務所は新橋駅近くの雑居ビルに入っていた。

 伊丹は、「これが電話で話した内容証明です」、と末長の前に差し出した。

 末長は今年60歳になるベテラン弁護士だが、知財も扱うので創業時から、伊丹は顧問弁護士として頼んでいた。

 差出人は、田村・大川法律事務所。㈱ケーマシナリーの代理人として、弁護士、中川京一を筆頭に五人の弁護士が名を連ねている。

 

 内容証明郵便の中味は、

 当職らは、御社が製造する自動車用トランスミッション「T2」を構成する重要部品につき、私どもの依頼人である㈱ケーマシナリーを代理して、本書をさしあげます。

 ………。

 御社が製造している副変速機は、㈱ケーマシナリーが取得している別紙明細の特許を明確に侵害しております。………。

 当職らは、御社がこの事実を速やかに認めるとともに、即座に当該「T2」における副変速機の製造及び搭載の中止を要請するものであります。同時に御社に対して本件侵害について経済的かつ社会常識的な誠意ある対応を速やかに要請するものです。

 ただちに本件について検討され、1週間以内に当職らにご連絡をいただく、………。

 となっていた。

 

 島津は、末長の前に手挟(たばさ)んできた設計図を広げた。アイチモータースのコンパクトカーに採用され、ギアゴーストの主力となったトランスミッションの設計図である。

 島津がその中のプーリー(副変速機)と呼ばれるパーツをボールペンで指さした。

「事前の特許調査では問題なかったんです。それがどうして―――」

 島津は、どうにも納得できないとばかり首を捻っている。

「特許出願は出願後18か月しないと公開されませんからね」

 末長が解説を加えた。「御社の特許調査時、この特許は丁度その効果以前のタイミングだったんですよ」

 島津に変わり、伊丹が質問した。「どうすればいいんでしょうか」

「先方と会って話し合ってみるしかないでしょうが、ケーマシナリー側と特許実施料の支払い交渉をする流れになると思います」

「その特許料を払わないで戦うことは出来ますか」

「この内容を見る限り、私見ですが、勝てる見込みがあるかなあ」

 伊丹は言葉を失くし、末長を見据えた。

 末長は、「勝てないとなると、特許の使用料を安くしてもらうのに、どれだけの交渉の余地があるかという話になってきます。いずれにしろ、面談の日取りについては、私のほうから先方に連絡を入れましょう」

 先方の弁護士事務所に連絡を取った末長から、週明けのアポを知らせてきたのはその日の夕方のことであった。

     「第五章の5」に続く 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1539話 [ 「下町ロケット・ゴースト」を読み終えて 5/? ] 8/24・金曜(晴・曇)

2018-08-23 14:58:08 | 読書

下町ロケット・ゴースト

「あらすじ」

※ 1. 各章の№の横に内容を纏めた短文を付けて、薄青色の蛍光ペンで彩色した。

※2. 各章のキーポイントになる個所を薄緑色の蛍光ペンで彩色した。

※3. 感動を受けた個所の文章をコピーし、薄黄色の蛍光ペンで彩色した。

※4. 作品の中で私が補足した個所を薄青色の蛍光ペンで彩色した。

「第四章 ガウディの教訓」

1.(立花とアキが担当するバルブ本体にダメ出しをする軽部)

「どうですか」と立花が問うたが、検図をしている軽部からしばらく返事がなかった。

 疲労の蓄積した軽部がじっとバルブの設計図を映したモニタを眺めている。

 やがて、率直な感想を口にした。

「要求された構造的な問題はクリアされているが、ソレノイド部の仕様に安定性を重視してだろうけど、これだと流入の吸引力が低くなり過ぎるだろう。シューティングコイルで動作を安定させる方法を工夫したらどうだ」

 アキが慌ててメモを取っている。

「それと、気になるのはこの素材だ」

 軽部は改めて立花とアキのふたりに眼をやった。「このバルブ、うるさいと思うぜ。エンジンの音もあるし、気にならないだろうと言えばそれまでだが、バルブ全体の静粛性は、ひとつのテーマになるんじゃねえか。解決策としては、そうだな」

 しばし考える軽部を驚嘆の眼差しで立花とアキのふたりが見ている。

「構造を工夫して樹脂パーツを入れてみたらどうだ」

 軽部は、近くのテーブルの上にあった大森バルブ製のバルブを手に取って、「このバルブは外面は薄いスチールだが、内部の構造はアルミ合金じゃねえか。見た目の構造より軽いのはそのせいだ」と言う。

「え、そうです。しかし、ウチは少し剛性を高めた方がいいんじゃないかと思いまして」と立花は答える。

「それだと軽量化が犠牲になるし、燃費にも影響が出る。それと、エコじゃねえ」

「静粛性に軽量化、ですか。眼の前にすごい壁が出現した感じです」

 アキから深いため息が洩れてきた。

「オレもです」立花は深刻な表情で設計図を再見している。

 軽部は、若手ふたりを睨め付ける。

「それともうひとつ―――」軽部は言った。「もっとオリジナリティ出せや。このバルブにはお前らしさが何処にもねえ」

 軽部の言葉にふたりとも呆然と立ち尽くすしかなかった。

 遠慮がちに、アキが聞いた。「そのオリジナリティって、どうやってだすんですか」

「そんなこと、オレに聞くな。自分で考えろや」

 肝心なところで軽部は突き放す。

「とにかくやり直しだ」と軽部は怖い顔で睨み付けて、パソコンのモニタを切り替えた。

 軽部も、役割分担して自分が担当したバルブ本体を搭載するバルブボディの設計が完成していないのだ。

 

2.(戦っている男。軽部と殿村)

 会社近くのいつもの居酒屋で、佃と殿村と山崎が片隅のテーブル席を囲んでいる。

 殿村から、トランスミッションチームの進捗はと尋ねられ、佃はまだ先が長そうだなと率直に答えた。

 そして、山崎も、軽部が担当しているバルブボディのことと軽部の性格に触れた。

「軽部が担当しているバルブボディという本体の容れ物みたいなものは回路が複雑だけでなく、ここには先行メーカーの特許が張り巡らされていて、その既存の特許をかいくぐって新しいことをするのは至難の業なんです。それに昔気質の職人タイプで、あいつの心の中は、意固地とプライドの超合金でできていますから、誰にも相談しないのです」と言う。

「彼の気持も分かるが、軽部君一人のプロジェクトではありません」

 殿村は経理部長としての真っ当な意見を口にした。「何を悩んでいるか分からないブラックボックスに、会社の将来が左右されるのはどうかと思います」

 佃は、殿村の言うと通りだと思い、「ヤマ。明日にでも軽部と話し合って、論点を整理してみてくれないか」と言う。

 佃は話題を変え、殿村の家のことを心配して、「体、大丈夫ですか」と言い、「周りの農家の手伝いを求めるることは出来ないのか」と尋ねる。

「周りの農家も高齢者が多くて………。それになんとか稲刈りまで終われば農閑期に入りますから」と殿村は、自分に言い聞かせる口調で答える。

 軽部だけでない。ここにもひとり、戦っている男がいた。

「300年続く農家を止めるのか、トノ」

 佃が改まった問いかけに殿村は刹那、悲壮感が漂わせたが、「はい。オヤジの代で農業は終わりにします」、そうきっぱりと言って唇を一文字に結んだ。

 

3.(大森バルブの強引な営業)

「週明けにウチの試作品を納品させていただきますので、よろしくお願いします」

 ギアゴーストの応接室で、大森バルブの担当者の蒔田は頭を下げる。

「まだコンペはかなり先なんで、それまで結果は待っていただくことになりますけど」と、異例に早い納品に、調達担当の柏田宏樹は戸惑い、傍らの上司、堀田文郎の表情をそれとなく窺う。

 蒔田は、堀田さんが見てくれたら、一発ゴーサインいただけるだけのバルブですからと、受け取ってもらおうとする。堀田も一応コンペですからと断る。

 蒔田は、「競合相手ははじめてトランスミッションのバルブを作る会社なんでしょう。そんな会社がウチと勝負になるわけないでしょう。コンペなんかやめてコスト削減しましょうよ。今決めて頂ければ、価格はもう少しダウンしますから」と強引に受けさせようとする。

 堀田が、「佃製作所は帝国重工のロケットエンジンのバルブシステムを開発し製造しているところですよ」と言うと、蒔田は「帝国重工の」と言って顔色を変えた。

 その場で、スマホを取り出すと、自社に、「ギアゴーストさん向けのバルブ、ちょっとストップしてくれ、頼む」と言って電話を切った。(ハイスペックにするため~第五章の1~)

 

4.(オリジナリティはガウディ計画の中に)

 夕方からどれだけの間、モニター上の図面を睨み付けていただろう。

 時間の感覚も、周囲の干渉も、さらに空腹すらも感じなかった。だが、その思考の森から現実の世界に戻る時の感覚は、ついぞ感じたことのない不思議な調和と充実感に溢れていた。

 アキは壁の時計がとうに午後7時を回っていることに驚いた。かれこれ1時間近くも設計図に没頭していたことになる。

「どうだった?」

 立花に聞かれ、答える前に小さな深呼吸を一つする。そして改めてメカニカルな構造美と胸躍る知的な冒険の世界に思いを馳せてみた。胸中には様々な論理や感情が渦巻いていたのだが、出てきたのは、「素晴らしいと思います」、と厭になるほど平凡な表現でしかなかった。

「静粛性や軽量化がどれぐらいのレベルで達成できているのか、すぐに試作してみましょうよ。私、このバルブ見るのすごく楽しみです」

 立花が浮かべたのは失望の面差しだ。

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、オリジナリティが足りない。---このバルブ、オレたちらしいバルブって言えるのかな」

 それは立花自身に向けた問いであった。

「あのとき軽部さんに言われてから、ずっと考え続けてるんだよね。このバルブは確かいいものになったと思う。だけど、それ以上でも以下でもない―――そんな気がするんだよな」

 そのとき、「なに贅沢いってんだよ」と後ろから声がした。軽部だ。

「とりあえず形になったんなら、それでいいじゃねえか」

 立花が「バルブの設計データ、共有ファイルにあげてありますから」と言うと、「とっくに見たよ。よく出来てんじゃねえか」といかにも軽部らしい返事があった。

 小声で、アキが軽部にそっちはどうなんですかと尋ねた。

「共有ファイルに入ってんだろ。見てねえのかよ」

 アキは立花の顔を見てから、「出来たら出来たと言って下さい。言われていたら知財関係のチェックをするのでしたのに」と言うと 、「オレがチェックを済ませて、念のため神谷事務所にも確認してもらった。問題ない」との返事が返された。

 アキは目を丸くした。

「お前ら、忙しそうにしていたからな。それと立花、いま、自分たちらしさがなんとかと、言っていたが、知りたかったら、お前らの『ガウディ』と向き合ってみな」と言って、軽部はお先にと歩き出した。

 

5.(殿村の同級生から殿村家の田圃を売却しないかの話が出る)

 農業の手助けで実家に帰っていた殿村は、久しぶりに高校の同級生の稲本彰から居酒屋に誘われた。

 稲本から農業法人を作ろうと考えているのだが、殿村が父親の後を継いで農業をしないのなら、殿村家の田圃を売るか貸してもらえないかとの相談だった。

 翌朝、稲村の話を父親に切り出した。父親は朝飯を食べながら、「よく言うよ」と吐き捨てた。殿村はある程度予想していたが、父の嫌悪感はそれ以上だった。

 父はさっさと話題を稲刈りに変えた。

 

6.(商売は適正価格で)

 立花とアキは、バルブボディの設計が一段落した数日後、内線で会議室に呼び出された。電話の相手は調達課の光岡雅信である。

 既に軽部がいて、不機嫌に黙り込んでいた。

 テーブルの上には、バルブ設計データに基づいて調達課が作成したコスト試算表があった。

「何が予算オーバーだよ、光岡」

光岡「希望予算内で収まるような仕様じゃない」

「このバルブ、ウチの戦略製品です」

「大森バルブ相手だから、ハイスペックなバルブで勝負しないと勝てません」

光岡「ギアゴーストの要求するコスト内に収めるためには、この仕様じゃ無理だ。

   設計を変更してくれ」

「設計変更したら、このハイスペックは維持できなくなっていまう」

光岡「ギアゴーストにハイスペックだからとコストアップを要求してみたらどうだい」

「それは無理だ。与えられたスペックとコストは絶対クリアが条件ですから」と、

立花は絶望的な気分になって首を振った。

 

 バルブの設計図が佃の手元に送られてきたのは一昨日のことで、暇を見つけては眺めていた。

 今もパソコン画面の設計図を見ていると、山崎が入ってきた。

「例のあれ、ご覧いただいてますか」と尋ねると、

「よく出来てるとは思うが―――」続く言葉を一旦呑み込み、「想定コストに収まるのか」、と真っ先に気になっていることを口にした。

 山崎は、調達課の試算表を佃の前に置く。

 黙ってそれを眺めた佃は、「この素材に関してウチの仕切値はかなり安い。それでもコスト内に収まらないなら、設計変更するしかないぞ、ヤマ」

 山崎は言いにくそうに佃を見て、「大森バルブは赤字覚悟で安値を提示してくるかもしれません。それを見越してウチの値段を下げるという考えはありませんか」と言う。

 佃は眼を見開いて聞いた。「光岡は何て言ってるんだ」

「赤字になる値付けは絶対反対だそうです」

「だろうな。オレの予想だが、大森バルブは赤字にしてまで値段を下げたりしないと思うぜ。オレの調べでは営業は強引だが、値段を下げてまで取引を取りに行ったという話は聞いたことはない。大森バルブはシェアは国内トップ。技術力にも定評があり、プライドも高い。だからむしろ、取引関係の強みを生かしてハイスペック通りのバルブを適正価格で買ってくれと申し入れるだろうよ」

「でも社長。それじゃあ、コンペをやる意味がありませんよ。向こうに取られるということですか」

 山崎は慌てたが、佃は平然と構えていた。

「取引ってのは、縁だ」

 10年以上の社長業経験で得た真実だ。「コストは絶対だと言いながら高価な高性能バルブを通すなら、ギアゴーストは所詮、その程度の会社だったということだ。ウチが相手にする先じゃない。儲かりもしないものを作って何になる」

 山崎の表情には、チームの努力を何とか結実させたいという思いがにじんでいる。

「儲けを削れば物は安くなるのが当たり前だ。それでいいのか」

 佃は問うた。「商売ってのはさ、自分の仕事にいかに儲けを乗せるかが腕の見せどころなんじゃないのか。安易な安売りは、結局のところ商売を細らせちまうだけなんだよ」

 佃は改めて山崎に言った。

「軽部たちにもう一度考え直すよう言ってくれないか。いいバルブだと思うが、これでは商売にならない。商売の何たるかを考えてもらいたい」

 

7.(ギアゴーストのトランスミッションに寄り添ったバルブの製造)

「商売の何たるか、か」

 その夜、立花は自席で腕組みして考え込む。

「私たちがやろうとしていることは所詮、お金儲けだってことですよね」

 アキは、気に喰わなそうに言い、頬杖をついている。「私は儲けより実績だと思うけどなあ。取りに行くべきですよ、この仕事。儲けだなんだっていってたら、あっという間に大森バルブに持ってかれます」

 立花の視線がアキから、子供たちの写真を張り付けた背後のボードに向けられた。

「ガウデイと向き合え、か」

 先日、軽部に言われた言葉だ。「オレたちは『ガウデイ』で何を学んだんだろう」、そう自問する。

「私は、人の命の大切さかな。私にはそれがモチベーションでした。この子たちと向き合って頑張るんだって」

「この子たちと向き合う、か」立花は呟く。「だったら、いまオレたちが向き合っているのは何だ」

 自問か、アキへの問いか。

「それはバルブでしょう」

 アキの答えに、返事はなかった。しかし、しばらくして、

いや、オレたちが向き合ってるのは、バルブでなくて、お客さん―――ギアゴーストなんじゃないかな。『ガウデイ』計画でオレたちは子供たちに寄り添ってきただろう。いま寄り添わなきゃいけないのは、ギアゴーストであり、そのトランスミッションじゃないかな」

 興奮を帯びた口調で立花は続けた。

「オレたちはさ、ハイスペックのバルブを追求して来たけど、本当にそれがギアゴーストのトランスミッションによって必要だったんだろうか」

 投げかけたのは根本的な問いだ。「実はそれって、ウチのエンジンがトラックターにとってハイスペック過ぎてニーズを掴み損ねてたのと同じ事じゃない?」

 ようやくアキにも話の筋道が見えてきた。

「要はトランスミッションの性能に合せればいいんだよ」

 立花は言った。「ギアゴーストは、農機具のトラックター用トランスミッションとして最適な使用に設定してるんだ。だったら、バルブもそれに寄り添うべきだろう。いまのウチのスペックは―――無駄なんだよ」

 

8.(ケーマシナリーの知財部長と中川弁護士の秘密話)

 大手トランスミッションメーカー、ケーマシナリーの知財部長・神田川敦は、接待相手の田村・大川法律事務所の看板弁護士・中川京一のそれぞれのグラスにビールが注がれるのを待って、手元のグラスを高々と揚げた。

「この度はありがとうございました、中川先生。今年一年世話になりました」

「いいえ、こちらこそ」

 余裕の表情で、それれを受けた中川は、余裕の笑いを浮かべた。「特許承認、おめでとうございます。これで次の段階へ進めますね」(特許承認=特許申請のクレーム補正の認可~第六章の4~)

「先生のおかげです」、と持ち上げる神田川に、中川は、

「もしこの後もうまくいったら、その節は是非とも、弊所と顧問契約を締結していただくようお願いします」と軽く頭を下げた。

 他に誰もいない部屋なのに、神田川は声を潜めた。「弊社にとってライセンス事業戦略は、今後重要な収益の柱になっていくに違いありません。ついては、大至急、ご教示いただいた対象事業に対してアクションを起こしたいと考えております」

 中川は、「ところで、相手への請求金額は私どもで提案させていただいた当初の予定でよろしいですね」

 そろりと問う。

「異議ありません。是非、それでお願いします。ただ―――」

 ふと怪訝の色を神田川は浮かべた。「あの会社の支払い余力は知れています。そんなところからどうやって金を取るのか―――」

「無論、そこまで考えたうえでのことです」

 意外な答えに、神田川の表情に好奇心が浮かんだ。

   「第五章」に続く

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする