下町ロケット・ゴースト
「あらすじ」
「第六章 島津回想録」
4.(ギアゴーストが行ったとされる特許侵害への神谷の質問)
その日、神谷のほうから佃製作所を訪ねて来た。
佃製作所の3階では、一昨日から、複数台のケーマシナリー製トランスミッションを取り寄せ、ギアゴーストと合同でリバース・エンジニアリングに取り組んでいた。
神谷は天井のほうを指さして、「いい手がかりが見つかるといいですね」と言った後、ところで、と話題を変えた。
「先日の資料をあれから拝見していて、少々気になることがありまして、いくつか質問をさせてください」
内戦で連絡すると、すぐに島津が社長室に顔を出した。神谷とは初対面なので名刺を交換し、ひと通りの挨拶をした。
神谷が広げたのは、先日、佃が渡した設計図と特許公報のコピーである。
「この副変換機ですが、いつ頃に設計されたか覚えていらっしゃいますか」
島津がパソコンを立ち上げ、読み上げたのは、3年ほど前の日付だ。
「これがどうかされましたか」
「それぞれの事実関係を調べてみて気がついたんですが、ケーマシナリーは、あなたがその副変速機の設計を完成させた直後、正確には一週間後ですが、クレームを"補正"しているんです」
特許出願の世界で「クレーム」というのは、特許の権利範囲を示すものだ。
神谷は専門的な話を続けた。
「ケーマシナリーのこの特許は、実はこの少し前に出願されたもので、その出願時の特許だけを見れば、実は御社の副変速機は、その特許範囲を明確に侵害しているとはいえません。特許侵害になるのは、その後、クレームが補正され、権利範囲が変更されたからです」
特許成立までの間、出願人は自由に自分の特許の権利範囲について変更することができる―――そう神谷は説明した。
「新しい技術を開発したとき、事前調査段階では問題なかったのに、先行している特許申請の予期せぬクレーム補正によって、期せずして特許侵害になってしまう。まさに、御社の場合はそれに該当します。しかし、少々違和感がある」
島津が目を上げ、無言のままその意味を問うた。
「本当にこれは偶然なのかなと」
意味ありげに神谷は言った。「こんなタイミングでクレームが補正されるというのは、どうにも不自然なんです。しかも補正内容は、あたかも御社の副変速機を意識したものだ。率直にお伺いします。島津さん。あなたの設計情報、外部に漏れていませんか」
「えっ」島津は後が続かない。「―――いません。いや、いないはずです。社員のことは信用していますし、そもそも設計情報にアクセスできる人物は限られています」
神谷はノートに何ごとか書き込み、「そこでもうひとつ、あなたが考案した副変速機についてですが、そもそも特許申請されていません。なぜですか」
「実はその—――特許にするほどのものじゃないと思っていました。以前から知られている技術の応用だと解釈していました。私のミスです」
「島津さん、これは今回の件と直接関係のないことかもしれませんが、もう一つだけ質問させてください。あなたは帝国重工で天才と呼ばれたエンジニアだったんですよね。なぜ、ギアゴーストという小さな会社の共同経営者になったんでしょうか」
神谷の疑問は、佃にとってもまた聞きたかったことであった。
5.(島津裕のプロフィール)
島津が、帝国重工の数ある製造ラインの中でも、とくに車両用トランスミッション開発を仕事に選んだのには、それなりの背景がある。
島津の父は、自動車メーカーの工場で働く仕事熱心な技術者だった。その父に感化され、島津が車好きになった。
そして、島津の家族にとって車はいわば家族の絆、コミュニケーションの要だった。
「車は人を幸せにする。別に新車じゃなくてええ。好きな車に人を乗せて走るのは、それ自体が幸せなことじゃ」
そんなふうに語る父の哲学は、そのまま島津の哲学になり、大学で機械工学を学ぶ原動力になった。
教授推薦の帝国重工に入ったのは、同社のトランスミッション部門にまだまだ成長する余地があり、「レベルが低いからこそ君の能力が求められる」という教授の言葉に可能性を感じたからだ。
帝国重工のトランスミッションは、ほかの大手メーカーと比べると、まず性能面で劣っていた。しかし、それ以前に問題だったのは設計思想だったと思う。
帝国重工のそれは、古くさく時代遅れでしかも保守的だった。そんな問題意識もあって、島津は、入社直後から新たな発想のトランスミッションをどんどん提案し始めた。
島津とほかの技術者との違いは、妥協のない「こだわり」だった。性能さえよければどんなトランスミッションでもいいということは決してないのだ。
トランスミッションが変われば、車の息遣いが変わる。
一速から二速に入れたときのフィーリング、走行中のペダル走行から伝わる振動。車を運転する楽しさ、喜び、そして感動。島津がトランスミッションに求めたのは、単なる性能を現す数字の羅列だけではなかった。
そんな島津は、最初、周囲から驚きの目を持って迎えられた。島津の優れた設計に舌を巻き、天才といわれるようになったのもその頃だ。
新しいアイデアを次々と生み出す一方で先輩技術者の設計を平然と否定し、古いと断言する島津は、次第に周囲からやっかみ半分に疎まれる存在になっていったのだ。
その話が社内に出てきたのは、入社5年目の秋であった。
それまで帝国重工が製造してきたトランスミッションはその多くが中型車以上の車に搭載されるものであった。
そこへ、コンパクトカー市場に狙いを定めた新たなトランスミッションを開発・製品化せよ―――そんな号令が経営の上層部から飛んだのである。
「ついに来た」そう思った。
というのも入社以来、島津はCVTという、それまでの形式とはまるで違うタイプのトランスミッションの開発に携わってきた。ところが、それは製品化の目途も立たないままくすぶり続けていたのだ。
理由はいくつかあった。その一つに帝国重工内には、CVTを「下」に見る風潮があった。
CVTは複雑に組み合わせた歯車の代わりに、ベルトを使って変速するタイプのトランスミッションだ。
だから、大排気量でパワーのあるエンジンを搭載した車には向かないというのが、それまでの定説であった。エンジンの回転が上がれば上がるほど、ベルトの摩擦が問題になってくるからだ。それを解決するベルトないしそれに代わる構造がないため、「結局、小型車にしか載せられないじゃないか」そんなふうにCVTを過小評価する技術者が少なくなかったのである。
だが、島津の考え方は違った。
たしかに、高回転域で起きる様々な問題はあるにせよ、ほかのトランスミッションが七速や八速と多段階化していく流れにあるならば、そもそも無段階変速を前提にしているCVTはその先を行く存在といっていいはずだ。一方で技術的に難しいことも事実である。
その難攻不落のトランスミッションの製品化に島津は挑んできた。
「これはチャンスだ」
このとき作成した企画書は、いわば島津裕の集大成といえるものだ。
新たなトランスミッションを決める会議は、年が明けた1月上旬に開かれた。
出席者は製造部門を統括する常務取締役をはじめ、さらにトランスミッション製造を手掛ける愛知工場長、そして製造部門の役職者が集まった重要会議である。
この会議の席に、提案者として島津は呼ばれた。
「君の企画書はなかなか力作だな」
最初にそんな発言をしたのは、常務取締役の田村雄一だ。「しかし、CVTは突飛過ぎないか。ウチには経験がないだろう」
石橋を叩いて渡るといわれる男の保守的な発言だ。
「これだと、ウチの財産が生きないだろう」否定的な意見を出してたのは、研究開発ラインにいる副部長でトランスミッション製造部門のお目付け役的な存在の奥澤靖之だ。
役職者たちの否定的発言に対する島津の力のこもった主張に、しらッとした空気が流れた。手応えは薄い。
常務の田村、製造部長の柴田そして研究開発ライン副部長の奥澤、すべて最初から島津の提案など実現不可能な夢物語だと決めているフシがあった。予定調和(社会生活等の広い範囲で、観衆・民衆の予期する流れに沿った事態が動き、結果も予想とおりであること)の結論が見え隠れしている。
………。
島津に、総務部への辞令が出たのはその3月のことだ。
帝国重工は、島津の才能を不要なものとして排除した。旧来の路線を否定する島津の態度に業を煮やし、痛烈な罰を与えたのだ。
もう、この会社に自分の居場所はない。
伊丹が声をかけてきたのは、島津がそう確信したころであった。
長い回想を終えた島津の頬は紅潮し、当時感じていたに違いない悔しさを再び思い出したかのように目を潤ませていた。
「あなたの社会人生は思い通りにはならなかったかもしれないが、それは絶対に無駄にはならないと思います」
神谷は冷静に断じるや、この日最後の質問を繰り出した。「最後に一つ教えてください。あなたが『T2』を開発する前、コンペでケーマシナリーと争ったことはありますか」
「ええ、何度かあります」
「そして、勝った―――?」
「いえ。ほとんど勝てませんでした。実績がないという理由で。唯一の例外は、アイチモータースに採用された『T2』です」
その答を咀嚼するかのように神谷は黙考を続けたが、やがて小さな吐息と共に礼を言った。
島津らによるリバース・エンジニアリングが、何の果実もないまま終わったのは、その三日後のことであった。
「第七章」続く