第八章 雅司は叔父に本心を告げたいと山を急ぐ
雅司は、譲の葬儀の後も、多英子が足しげく坂入家を訪れていたことを母から聞かされていた。だから、叔父が譲の部屋を整理したと教えられたときも、彼女のためになると安堵した。
叔父は、彼女の中で育ちつつある想いに気づき、分別ある大人の態度を取ろうと促すためにも、譲の遺品を整理したに違いなかった。いかにも、あの叔父らしい態度に思えた。
譲と多英子の婚約が決まったと聞き、来たるべき時が来たのだと受け止めようとしたが、嫉妬の風に吹かれて狭い胸の雪崩が崩れ、譲が企画した雪上訓練に同行してほしいと頼まれたのを、つい拒んでいた。それなのに、叔父の息子に大切な人を奪われた形になった甥を気づかい、雅司が同行しなかったことを非難するどころか、捜索に力を尽くししてくれたと深く頭を垂れて礼の言葉さえ口にした。
雪よ、このままちらつく程度で我慢してくれ。順調にいけば午後4時には叔父の姿が視野に入れられる場所まで近づける。譲、あとはお前を信じる。山の機嫌を取ってくれ。
自分は弱い人間だ。多英子にも叔父にも本心を打ち明けられずに来た。でも山の上でなら、素直な自分になれる。山で嘘を口にしたのでは、山頂に立つ資格を失う。今はまだ見えない叔父の姿を追いかけて、新雪を踏みしめ力任せに尾根を登って行った。
第九章 多英子への想いを明かす二人の男
折笠山の頂上が近くなってからは、岩の起伏を目で追い、ルートとを決めるだけで時間が容赦なく過ぎていった。雪が慎作の手足を冷やし、いやでも、またさらに登りのペースが落ちた。
雪がまつ毛の上に降り積もって視界を狭め、ふき下す冷気が口と鼻を覆い、荒れる息をさらに乱した。
休めば体が冷えて動きがますます鈍る。山は己の弱き心を見せつける鏡となって、目の前に聳えていた。
譲は、3年前、何を考え、この尾根を辿っていたのか。式の日取りを決めたばかりで、妻となる女性を残して先に逝かねばならなかった悔しさは、私の想像を越えていたろう。最初に滑落した後輩をきっと恨んだはずだ。でも、息子は彼らを見捨てようとはせずに、最後まで死力を尽くして戦いきった。
その父親が苦しさを理由に戦いを投げ出したのでは、絶対に譲るは許してくれない。胴まですくみそうになる恐怖をなだめて、頂上の極みを目指した。
やがて山頂から駆け下りてきたガスに囲われ、3m先さえ見えなくなった。低い雲の中に入ったのだ。体力よりも先に気力が擦り減り、もうどうにでもなれ、という捨て鉢な気分に襲われかけた。息子の精神力の強さに打ちのめされた。
譲と妻の正恵は、寂しい男を許してくれるだろうか。その答を聞くため、胸に残っていた勇気を奮い起こして、雪の斜面に小さな足跡を印していった。
いつ果てるともしれなかった傾斜が少し弱まってきたと思ったとき、舞い落ちる雪の向こうに突如として視界が開けた。山頂が目の前に広がった。
ついに辿り着けた。見ていてくれたか、譲。おまえに比べたならあまりにも拙いが、父はたった一人でも、淋しさに音をあげずに、ここまで到達できた。もうこれで精一杯だ。おまえが遭難した場所まではとても一人では歩いて行けない。
坂入は横たわったまま、ケルンの代わりに雪を集めて山を作った。小さな雪の慰霊碑でも雲の上から見えるのではないか。父さんは、ここまで来た。あとの答はお前が聞かせてくれ。
かすかな風の奥から足音と息遣いが聞こえてきた。
避難小屋で一緒だった神部が、麓から無線をもらったと坂入に向き合い、今、野々垣雅司さんが、あなたを追ってこちらに向かって近くまで来ているとのことですと伝えた。自分を追ってくるとは、どういうことだ。多英子が留守の家に雅司を呼んで、この山へ向かったことを推測したのか。
多英子の想いが伝わって来た。52歳の先の見えた男に、なぜあの娘は想いを寄せてくれたのか。三回忌の夜、二人だけになったときに、彼女が急に悔しそうに涙をこぼした。あのときに、いけないと最初の危惧を覚えながら、寂しさに負けて優しい紳士(?)を演じてしまった。
助けに来た神部に、変なことを考えずに野々垣さんを待ちましょうと言われ、坂入は、雅司は誤解しているのだと、力を振り絞って立ち上がり、 『私は心を鬼にして息子の遺品をすべて処分しようと決めた。でも、どうしても捨てられなさそうにないものが、ひとつだけ(多英子への想い?)残ってしまった。息子を思い出して辛くなるのが分かっているのに……。だから、私はこの山へ来たんです。あいつに許しを乞うために』と言うが、神部は意味が分からず首を振った。
雅司がもう近づいてくる。こんな身勝手な叔父を案じて、あの子は力を尽くそうとしている。 『あの子が多英子にひそかな想いを寄せているのは、ずいぶん前から気づいていた。そして、今なお彼は相変わらず多英子のことも案じているのだ。』
坂入は、一人で登ってくる人影を見つめた。死んだ息子に許しを求めるより先に、本心を打ち明けなければならない相手がいた。
52歳という年齢と世間の目を理由に、一人の女性を受け止める覚悟を抱けずにいた自分の弱さを、包み隠さず彼に打ち明けなくてはならない。そして、本心とささやかな決意を告げたなら、譲が下りれなかったこの山を誰の力も借りずに、必ず多英子のもとに帰り着いてみせる。そうすれば、譲の返事も聞こえてくるし、息子の出した答に妻も頷いてくれるはずだ。
坂入は、譲が見ているこの山でなら、嘘は言えない、と「雅司。早く来い」と力一杯に手を振った。
雅司は、軽やかに手を振る叔父を見つけ、もしやという思いが浮かぶ。 『叔父には、危険を冒してでも譲に語りたいことがあり、思い出の詰まった家を処分しようと考えていたとすれば……。』
雅司は、首を振って、再び尾根の登りに専念した。 『そんなことはどうだっていい。自分は叔父に会って打ち明けなければならないと(多英子への想い?)がある。だから、ここを一人で登ってきたのだ。』
雅司は、見失った自分を取り戻すためにラスト・スパートをかけて新雪を踏みしめた。
終