五 瓢箪から駒と、平蔵から礼を言われたいせ
いせは、にじり口の前に膝をつき、仁兵衛が背後から茶室に、
「殿。おいせを連れて参りました」と、声をかけた。
いせが頭を下げてお礼を申し上げる。
茶室の中から長谷川平蔵の声がした。
「おれのほうから、そなたに礼を言わねばならぬ。瓢箪から駒とはいえ、唐丸の五郎兵衛を仕留めることができたのも、もとはと言えばそなたのおかげだ」
いせが、
「長谷川さまのお触れが回った途端、五郎兵衛が、父親の平蔵に会わしてやるから、長谷川さまの似顔絵を描けとの取引をもちかけられて何やらおかしい気がした」
と言うと、平蔵は、
「おれの顔を見て生き延びた盗人が1人もおらぬからよ。盗人の間ではおれの似顔絵が百両でも売れるとのもっぱらの噂だ」と笑う。
仁兵衛が、いせが描いた長谷川平蔵の似顔絵は、20年後の私にそっくりだと存じますと言ったことから、そこで、いま、おれの顔を描いてみよと平蔵から言われ、いせはすぐに描きはじめ、やがて描き終えた絵を仁兵衛に渡した。
茶室の中から平蔵の笑い声がして、
「これは本庄の平蔵の顔でないか」
と言い、はじめて庭で会ったとき、縁先にいたのが本物の平蔵でないと分かったと申すのか、なぜだと問うと、いせは、
「下情に通じておられるとは申せ、まことの長谷川さまならば、見も知らぬ女子の願いを聞き入れて、肌を晒したりはなさらぬでございましょう」と答える。
また、軽い笑い声がして、
「それでは、なぜ本庄の平蔵を本物の平蔵と見破ったのだ。」と問う。
「わたしは、曲りながらも絵師でございます。右乳の上の痣が絵の具で描かれたもので、しかも、外歩きの旅商人に成りすますために、お顔まで薄茶の練り粉をお塗りあそばして、日焼けの色につくられていました」
と答え、平蔵はほとほと感心した。
いせが、お殿さまにお尋ねしたいことがあると言って、平蔵に問うた。
「なぜ、わたしの父親に成りすまそうとお考えになったのですか」
含み笑いが聞こえ、
「18になっていながら、顔を見たこともない父親を捜しに、わざわざ京から江戸に下ってくるなど、あまりにも出来過ぎていて、何か裏があるのではないかと、とりあえず、与力の公家憲一郎に影武者にならして、父親だと言わんばかりのきわどい問答をさせた。万が一、そなたが、公家に向かって我が父でございますなどと申し立てたら、きつく詮議するところであった」
一息入れ、さらに続ける。
「それどころか、いかにもまことらしい痣の話を持ちだして、正直に父親でないことを認めたので、ますます興が湧いてきた。それで、とりあえず、おまえの父親に成りすまし、しばらく傍についてみる気になっのだ。そのうち、ぼろを出すだろうと思ってな。ところがおまえのほうから、そこにいる仁兵衛に、五郎兵衛のことを打ち明けたものだから一時に話しが明らかになったと言う次第さ」
そして、今度は、殿の平蔵が問うた。
「それにしても、おいせ。そなたは、本庄の平蔵を偽物(絵の具で塗っていたので)と見破ったが、なぜおれの拵えだとわかったのだ(役宅の中の誰かが絵の具を塗っていたかも分からない)。顔に長谷川平蔵と書いたつもりはないぞ」
いせは考えを巡らし、おもむろに返答した。
「それは、なんとなく長谷川さまが母の匂いを漂わせておられるからでございます」
背後から、仁兵衛が慌てたような口ぶりで、
「殿を父親に見立てるなど、無礼にもほどがあるるぞ」
とたしなめる。 いせは、仁兵衛のほうに振り向かず、
「痣があったと母が言い残したと言うのは、わたしの作り話でございます。それにのせられた者こそ、下心があるお方と分かりましょう」
(長谷川平蔵も本庄の平蔵に変装してまでもいせを見抜こうとした。いせも騙されないという気持ちをもっていたのでしょう。平蔵も一瞬、ムッとしたかもしれない)
茶室の内も外も一瞬しんとした。
平蔵が、これからどうするつもりだというと、いせは、
「京へ戻ります。わたしの父親は、本庄の父親でございました。(自分のイメージに合った父親に会ったのでしょう) わたしは、一度父親の顔を見ただけで満足いたしました」
と言う。 少し沈黙があって、
「達者で暮らせよ、おいせ」
と重々しい声が響いてくる。それきり、何も聞こえなくなった。
いせは、絵箱を持って立ち上がり、仁兵衛を見て、
「もし、京へ上がれたときは、「本所の仁兵衛」とお名乗りやす」(恋心の芽生え?)
と言ってそばをすり抜けた。
終