小説が好きで若い頃から読んでいます。
大変多く購入していたので、読んだのか、まだ読んでないのか不明になり、
10年前(2007年1月)から、タイトルなどをパソコンに記録することにしました。
(現在、この本で、250冊目(上下でも一冊に数えて)になりました)
その記録の中に、山本周五郎の本は、4冊で割合少ないことに気づきました。
山本周五郎の本を少し探してみようと思う。
それと、もう1冊、現代小説の「みかづき」を購入する予定です。
小説が好きで若い頃から読んでいます。
大変多く購入していたので、読んだのか、まだ読んでないのか不明になり、
10年前(2007年1月)から、タイトルなどをパソコンに記録することにしました。
(現在、この本で、250冊目(上下でも一冊に数えて)になりました)
その記録の中に、山本周五郎の本は、4冊で割合少ないことに気づきました。
山本周五郎の本を少し探してみようと思う。
それと、もう1冊、現代小説の「みかづき」を購入する予定です。
今日は二十四節気の「雨水」。
雪が雨に変わるもの。雪国に降る雨は春を告げるもの。
北海道では立春以降初めて、
雪が交らずに降る雨のことを、「雨一番」という。 (ローカル紙より)
もうすぐ、「ひな祭り」が近く、
気持ちよく散歩ができる本格的な春が来る。
「金鵄のもと」
復員して2ヶ月目のある日、片方の頬を失くしている染井俊次は、物乞いをする傷痍軍人を初めて見て、都電から飛び降りて銀座通りの街路に走った。
染井は、昭和19年3月、ブーゲンビル島タロキナ飛行場の決戦で玉砕した姫路歩兵連隊ただ一人の生き残りである。
銀座通りの歩道にうずくまる白衣の傷痍軍人が、銀座にある進駐軍のPXの間を往来する米兵の情けを受けているのを見て、染井は憤る。しかも片足のないその傷痍軍人は、あろうことか、いるはずのない染井の部隊の履歴を語っていたのである。
染井は、こいつは生き恥を晒している。いまさら戦で死ぬことが誉だなどとは思わないが、生き残った果報を看板にして、かっての敵から施しを受けるこいつは、人間の屑だと怒りがこみ上げていた。
「おい。商売をするのは勝手だが、この看板は下ろせ」
まるで聞こえぬ風である。染井は路上に差し伸べられた指を軽く踏んだ。
その指の横の飯盒の脇に、軍歴を書いた小さな木札が置かれていた。
「耳までないとは言わせんぞ」
染井は屈みこんで、兵隊の耳にきつく囁きかけた。
「南方派遣独立混成第三十八旅団麾下「月七三八六」部隊か。おい、兵隊。お前さん何様だが知らんが、その「月七三八六」の編成地はどこだ。言ってみろ」
兵隊は答えられなかった。答えられぬかわりに、白衣の肩がわずかにしぼんだ。
「……その「月七三八六」部隊の第二大隊はブーゲンビル島で玉砕した。生き残りは俺一人さ。もう一人いたというなら、いったい誰なのか顔が拝みてえものだ」
兵隊も観念して、「木札をすべて書き直すから、今日のところは勘弁してください」と許しを乞うた。
染井も、自分が馬鹿にされた事でもないし、名誉を傷つけられたわけではないので、怒りは萎えた。
そこへ、傷痍軍人を物乞いに使っているその商売を取り仕切っているらしい者が現れた。
染井は、その男に、「俺は染井俊次という者で、ブーゲンビルから復員したのだ。この傷痍軍人の上前を撥ねるのはひど過ぎやしないか」と言った。
仕切り人の久松という男は将校マントのポケットから日本札だけを取り出し、染井の軍衣の胸に押し込んだ。
染井は、生き残った今の思いもよらぬ毎日を生き延びる事が、唯一の正義であり、道徳なのだと考え、「すまぬ。ゆすりたかりの類じゃないんだが」と、受け取った。
久松は、「相見互いってやつだ。ともかく食わねえことにァ生きられねぇ」と言って近くの屋台に誘う。
※ ※ ※
「あの傷痍軍人の軍歴の能書きは誰が書いたのだ」と、染井は気にかかっていたことを口にした。
しばらくためらってから、久松は答えた。
「おれだ。全滅した部隊を騙るのなら、文句をつける奴はいねえ」
染井は、兵隊が玉砕部隊の生き残りを正確に騙れるのかという謎が分からなかった。
「たしかに、第二大隊は全滅した。生き残りは俺一人だ」と言うと、久松は驚くよりも怒りをあらわにして向き直った。
「そんなはずきねえ。野郎、難癖をつける気か」(久松も衛生兵としてブーゲンビル島にいたのだ)
「本人が言うのだから間違いはなかろう。お前こそ、そんなはずがないなどと、何故言える」
「それが本当だとすると、こいつは奇跡だぞ。偶然って事で了簡しろ」と開き直るように久松は言った。
(中略)
「その顔の傷はどうしたんだ」と久松が話題を変えて聞いた。
染井は、とつとつと、片頬をえぐった傷の由緒を語る。
第二大隊の夜間総攻撃は、敵の戦車と機関銃の集中砲火を浴びた。そして、大隊は正確な迫撃砲で殲滅された。
ジャングルに遁れた染井は、方向を失い、ブーゲンビルの深い緑の中をあてどもなく彷徨う遊兵となって、そののち一年半を密林の中で生き延びた。
ジャングルの中で出くわして怖いものは、味方の兵だった。
生きるために必要なものは肉だった。だから友軍の兵に行き会うと、言葉を交わすでもなく名乗るでもなく、たがいに銃を構えて遠ざかった。
染井は、ジャングルの中の話をした時、次の事を思い出していた。
(ジャングルに逃げ込んだ何日か後だった。若い将校に率いられた染井たちの残兵は、 煮炊きする日本兵に出会った。
その兵が何かを食おうとしていたのか、染井は一目で分かった。傍らの茂みから、俯せに倒れた兵隊の足が見えていたからだ。
将校は拳銃を抜いて、「軍命令により、人倫にもとる行為を処断する」として、兵に迫り、「戦死として報告するから所属階級姓名を名乗れ」と言う。兵は「熊本連隊の〇〇二等兵」と答えた。
将校は、「言い置くことはあるか」と訊ね、兵は悲しそうな声で答えた。
「戦友が、貴様の腹におさめて、日本に連れ帰ってくれと言ったのであります。熊本に帰ってくれと……」
言い終わらぬうちに、将校は引き金を引いた)
頬の傷は、銃創ではなく、多くの兵が苦しめられた熱帯性潰瘍であり、終戦の呼びかけに応じて密林から出た後、米軍の野戦病院で頬をえぐり取られたのだ。
(中略)
「おめえ、このさき生きるつもりはあるんか」
「ある」と、染井ははっきり答えた。
「たった一人の生き残りが、命を棒に振っちゃならねえ。大層なことを考えちゃならねえよ。ともかく、このさき生き残ることがたいそうなんだから」という久松が、染井には、戦場に姿を現した神に見えた。
「おめえさんの言う明日の話とやらを、始める前に、俺の素性を明かしとこう」と言って、次のようなことを話し出した。
俺は、ブーゲンビルにあった第六師団の野戦病院で衛生兵として勤務していた。
野戦病院でも、状況は同じで、薬は何一つなく、空腹の上、敵はアメ公じゃなく、マラリヤと熱帯性潰瘍と寄生虫と、てめえの身体だった。
まだ生きている兵隊にも蛆がわいていた。蛆を取ってやるのが唯一の治療さ。
俺は、その蛆虫を食って生き残ったようなもんだ。あれだって蛋白質にちげぇねえんだから。
おしゃべりの軍医がいて、師団司令部から仕入れた情報を話してくれたので、前線の事はすべて知っていた。おめえさんが切り込んだタロキナの飛行場に、どれぐらいの敵がいたか、第二大隊が全滅したことも。
また、タロキナの戦いから何か月も経った頃、輸送船の中で知り合った若い中尉が、師団司令部にたどり着き、「第三大隊の中村二等兵と小松二等兵が敵戦車に肉薄して戦死したので、よろしくお願いします」と、自分の部下でもない兵隊のことを報告した。
そのあと、本当は戦友の肉を食っていたので処刑したのだと教えてくれた。
しかし、その中尉も熱帯性潰瘍で右目を食いつぶされていて、まもなく、俺に、「僕もあなたの腹におさめて国に連れ帰ってください」と言われた。
俺はその晩、息のある中尉を背負い、遠く離れた煮炊きの煙も目につかねえ深い谷の底で、中尉の願いを聞き届けてやった。
それからほどなくして、野戦病院は解散し、俺は、タロキナの海岸に迷い出て、米兵に掴まったのだ。
そこまで話した久松は、
「俺ァ、いま俺がやっていることが、悪い事とはどうしても思わねえんだ。
飢餓地獄から生きて帰った俺たちが、なぜ日本に戻って死なにゃならねえんだ。ましてや俺もお前も、手前ひとりの身体じゃなかろう。ほかの兵隊を腹におさめて帰ってきた俺たちは、もうお国の勝手で飢え死んじゃならねえんだ。何としてでも生き抜かにゃならねえんだよ」と言って、
「いつでもいいや。よく考えて腹が決まったら、日の暮れる頃に、銀座の松屋の角まで来な」と続けた。
※ ※ ※
染井は、白衣を着て、銀座四丁目の時計台の前で藁筵の上に背筋を伸ばして、ハーモニカを口に、ことさら悲しげに軍歌を吹いていた。
進駐軍の水兵が、「メリークリスマス」と言って、目の前の飯盒にドル札を入れ、相棒の水兵は、「スノウ」と空を眺めていた。
染井は、ひとひらの雪を認め、たどたどしいハーモニカの音を震わせて泣いた。雪の降る祖国に、自分は生きて帰って来たのだと思った。
「鉄の沈黙」「不寝番」は省略して終りとする。
[夜の遊園地]
「ナイター観戦お疲れさまでした。時刻はまだまだ宵の口、遊園地は午後10時まで営業しております。東洋一のジェットコースターを始め、大東京の夜景を一望にする観覧車、鏡の迷宮ミラーハウス、背筋も凍るお化け屋敷など、どれも夜間割引料金にてご利用いただけます。あしたは日曜、お子様へのサービスに、……」
大学生のアルバイター・竹内勝男は、厚紙のメガホンを口に当てて客を呼んでいた。
(中略)
「キミ、キミ、ちょっとよろしいかね」と、勝男は、身なりがよい男の子の手をつないだ麻背広を着た紳士から呼び止められた。
そして、「子供にせがまれれば嫌とは言えないが、子供にとっての午後10時は非常の時間だ。……午後10時までの営業は、いささか不見識ではないか」と文句を言われた。
勝男は、「アルバイトなので、なんともお詫びのしようがないのですが」と詫びながらも、せがめば夢を叶えてくれる父の存在が妬(ねた)ましかった。
勝男は、父という人を知らなかった。父が出征した年にはまだ3歳だったのだから、イメージとして記憶にあるのも、おそらく、誰かから聞いた話だろう。
勝男は、母親から、お前の父親は魚菓子の仲買人で、出征するときも河岸に出かけるのと同じ夜明け前に、一人でさっさと家を出てしまって、お前を背負った私の前を走り抜けた都電に乗っていたが、手を振るでもなく、吊革に掴まって背を向けたままだった。
そのような、人に涙を見せたくない男だが、せっかちで短期で、あまりものを考えない人だったと聞いていた。
(中略)
「のう、にいさん。割引だの何だのと余計なことは言わないでくれ。ガキにぐずられたんじゃ、親の立つ瀬がねえんだ」
泥にまみれたニッカー・ズボンをはいた父親が、坊主刈の息子に、腕を掴まりせがまれていた。
勝男は、「あいすみません、アルバイトだもんで」と頭を下げた。
「分かってるって。お前を叱ったふりして、ガキに了簡させるんだ」と言って、遊園地の入り口に向かった。
※ ※ ※
勝男の父は、終戦から一か月も経った頃、戦死公報が届き、その年の1月に比島方面レイテ島で戦死していた。
そして、勝男が小学二年の時、母は遠縁の資産家に望まれて再婚した。勝男は母の実家に残された。
母は嫁いだ後も、正月には、実家に帰ってきたが、父の異なる弟と妹を産んでからは次第に足が遠のいた。
折節の葉書のやり取りと、たまに他聞をはばかってかけてくる電話が、母と勝男との細い絆になった。
だから、勝男から電話をかけたのは、高校と大学に合格したときに、伯父が電話をして母を呼び出してくれて会話し、母からは二度とも「頑張っばね」の一言で終わってしまった。
だが、勝男は決して母の愛情を疑っていなかった。(もし母が、そうした厄介な愛情を放棄することで、幸せを掴めるのなら、迷わずに忘れてほしい)と勝男は、ねがっている。
だが、父に対しては、愛情どころか、それを育むだけの種子すらなかった。そのことは女房子供を残して勝手に死んだという歴然たる事実である。
戦争だから仕方がないと人は言うが、女房子供の知れ切った苦労を考えれば、敵前逃亡だろうが虜囚の辱めを受けようが、生きる方途がなかったはずはない。自分ならばきっとそうすると思う。
見知らぬ父を慕う気持ちは毛ほどもない。それどころか、無責任で無思慮な一人の男を憎悪しているのは確かだった。
※ ※ ※
ふいに、ジェットコースターの乗り場から言い争う声が聞こえた。
係員が、保護者同伴でないと乗れないと言うのに、例の麻の背広を着た父親が、「俺は乗りたくないのだ。同伴は大目に見てやってくれないか」と言っていた。
勝男は、「兄さんと一緒に乗ろう、いいかい」と言って、父親に代わって乗った。
ジェットコースターが緩慢に上昇していき、この乗り物が苦手な勝男は、恐怖に鳥肌が立った。
「お父さんはきっと怖がりなんだね」と言うと、「違うよ。僕のお父さんはゼロ戦のパイロットだったんだ。こんなのへっちゃらさ」と返事した。
少年は、とても大事な事を言ったはずだが、考える間もなく、夜空の頂点を極めたジェットコースターは、真っ逆さまに急降下した。
目をつむってはならない。瞼を持ち上げて見つめなければならない。何万燭光もの照明の向こう側に、自分が夢のように忘れ去ってきた出来事を、決して怖れず、瞠目して。
(中略)
勝男は、お化け屋敷の受付担当の女性から、「出て来ないお客がいるんだけど、見てきてくれないか」と依頼された。
お化け屋敷のある場所に、汚れたランニング・シャツを着た例の坊主刈の息子が、「父ちゃんが、どうかなっちまった。助けておくれよ」と路傍の茂みを指した。
その場は、戦国時代の合戦場という設えで、あたりかまわず累々たる骸が転がっていた。
矢を満身に受けて立ち往生している鎧武者。水の中に顔を突っ込んだまま、電動の手足をもがく足軽。横たわったまま腹を膨らませ、瞬きする馬。とりわけ目を引くのは、ちぎれた人間の足にかぶりつく老婆のロボットである。
造り物の木立ちの根方に、父親がつまずていた。正座をした姿勢で前かがみに身体を倒し、震える掌を合わせているのだった。
考えるまでもなく勝男は理解した。
この人は南溟(南方の大海)の玉砕の島から生還したのだ。
勝男は、男の前に膝を揃えて詫びた。
「とんでもないことをしました。申し訳ありませんでした」
遊園地という嘘の世界は、特攻隊や玉砕の島の生き残りがやっとの思いで被せた記憶の蓋を覆(くつがえ)してしまった、と勝男は思った。
「蛍の光」が流れ始めた頃、親子の二人組がそれぞれの方向に仲良く去って行くのが見えた。
勝男は、(明日、朝一番に出勤して、これ一度きり、母に電話しよう)と思った。
※ ※ ※
「電話をしたのは、お父さんのことを誤解してほしくはないからです。……お父さんは、お母さんが言っていたような人でなく、ずっと、お母さんや僕の事を考え続けて、どうにか生きて帰ろうと懸命に努力したんだけど、どうしようもなくなったんだ。とても根気強く考え深い人だったんだ。
もしもし、聞こえていますね。
だからね、お母さん。お父さんと僕はずっと一緒にいるから、もう考えないで、お母さんはお母さんの幸せだけを、決して手放さないで。……」
私の末の弟は、戦死した父の顔を知らない。
父はどんなところで戦いをしたのだろうと、一人で、戦地として父が過ごした厦門、海南島へと旅行をしている。
心の底辺に、どんな父であったのかを知りたかったのだろう。
この作品の主人公のように、何かのきっかけだ、父のイメージか、父の人生の一齣を知りえただろうか。
私に、現地の様子は話してくれたが、父のイメージついては、何も話してくれなかった。
次の「金鵄のもと」に続く
[無言歌]
海軍予備学生上がりの沢渡中尉と香田中尉が搭乗する特殊潜航艇は、西太平洋上にて索敵行動中、敵機の爆雷攻撃を受けて操舵不能に陥り、深度100mのところの海底に着底し機関停止してしまった。
二人は何事もなかったように会話をする。
「黒木少佐の事故を考えてみろ。瀬戸内海の深度20mでも救助できなかった」
「ああ、黒木少佐ね。潜水学校では、遺書や報告書まで開陳して、潜水艦乗りの鑑だと教えられたが、肝心の救難方法を学んだという記憶がない。君は習ったか」
「さて。授業はあったが、いい加減なものだったな」
「寒いな」
「救命衣を着て脱出するというのはどうだ」
「貴様、思いつきで物を言うなよ。潜水学校でそういう訓練をした覚えはあるが、あまり現実的でないと教官も言っていた」
「ああ、僕も聞いたよ。しかし、天蓋が開くのは深度10mまで。あ、そうか、なんだ、駄目じゃないか」
「僕は眠たい」
「ほれ、毛布」
※ ※ ※
香田正也海軍中尉は、熱海の休養所に宿泊している夢を見た。
野天風呂を出て、母に会いたくて外へ出た。
母は橋の向こう岸にいた。
「いま、休養所に泊まっている、元気ですか」と話した後、「会っておきたい人がいるんだ」と、母に恋人の三浦笙子を見なかったかと訊ねる。
「おやおや、母さんを差し置いてかね。お安くないわね」と言って、浜で待っているようよと教えてくれた。そして、ふと、母の笑顔が翳った。
「マアちゃん。あんた、まさか不幸の種を蒔いたわけじゃあるまいね?」
私は笙子の肌には、誓って指一本触れていない。しかし、私は答えあぐねていた。
岸壁の上で、笙子は、身を躍らせようとしていたので、「危ない。危ないよ」と駆け寄って抱きしめようとしたが、私の身体は動かなかった。
その時、総員起こしの笛が鳴った。そうして夢は終わった。
※ ※ ※
隣の沢渡恭一郎中尉が、香田中尉に、夢に出た彼女について、もう少し話してくれないかと告げた。
香田は、笙子の話をしだした。
「同じ軍需工場に動員されていて知り合ったのだ。
接吻も手を握ったこともない。
親父には、日曜に家に来てもらって友達として紹介した。しかし、親は知っていた事だろう。
笙子も、自分の家に来てくれることを望んだが、あれこれ考えて、もし僕の身に万一の事があったら、彼女の人生を束縛することから、あちらの両親には挨拶に行っていない」と。
沢渡は、「俺も少し眠るよ。きさまの夢にあやかりたい」と言って、毛布を手にした。
「ぐっすり眠るがいい。酸素の約束になる」
※ ※ ※
うつらうつらとデッキチェアの上で海を眺めていた。
安物の香水の匂いを振りまきながら、女が傍らに屈みこんだ。紛れもなく小夏だった。
一夜限りの女に取り立てて話すことなどなかった。そこで、沢渡は、戦友の香田のロマンスを語った。
小夏は目に涙すら浮かべて「優しい人ね」と聞いてくれた。
「恭ちゃんは、あたしのことを話さなかったのかしら」の言葉に、沢渡は顎を振った。
「それじゃ、誰か、他のいい人の事は」
いや、と二度、顎を振った。
沢渡の悲しみを見透かすように小夏が囁いた。
「ねぇ、恭ちゃん。思い出をこしらえに行こうよ」
腕を絡めて歩くほどに、湯煙の立ち上がる別府の街に出た。
海軍の休憩所の老舗旅館の玄関に入った。
池泉をめぐる廊下を行くうちに、歯の根が合わぬほどの寒さが襲ってきた。
小夏に抱きかかえられて湯殿に入り、のめり込むように湯の中に転げ込んだ。
いつの間にか、二人は丸裸になっていた。可哀そう、可愛そう、と嘆きながら、小夏が体中を撫で回してくれた。
ようやく人心地がついた。
いったい今さっきの寒気は何だったのだろう。わけの分からぬまま、沢渡は、小夏の薄い胸に顔を埋めた。
「おまえを、恋人だと思っていいか」
小夏がこくりと肯いた。
湯から上がり、浴衣がけで中庭に池泉を眺めた。
「どうせなら恋人じゃなくて、奥さんがいいわ」
「新婚旅行が別府か。そりゃあいい」
小夏がタバコに火をつけて、沢渡の唇に加えさせてくれた。
生涯最高の一服だと思った。
「おいしそうね。たんとお喫みなさいな。ここには酸素がたっぷりあるわ」
煙を胸いっぱい吸い込んで、ああこれで、もう思い残すことはないと得心したとたん、夢から覚めた。
※ ※ ※
「香田。まだ生きているか」
「あいにくな」
「気晴らしに歌でも唄おうじゃないか」
「チャップリンのスマイルはどうだ。笑って死ねる」
「小夏さんもご一緒に」
「はいはい、笙子ちゃんもな」
「鼻歌で酸素を使い切っちまおう」
「香田。唄いながら聞いてくれ。俺は人を傷つけず、人に傷つけられずに人生を終える事を、心から誇りに思う」(本音だろうか)
「同感だ、沢渡。こんな人生は、そうそうあるもんじゃない」
「スマイル。唄おう。言葉はないほうがいい」
海軍工廠への学徒動員で、私は特殊潜航艇を見たことがある。
あの狭い艇内で、天蓋が開かず、酸素が少しずつ減じていく。夢から覚めて死が目の前に迫ってくる状況を思ったときに、切ないという言葉がぴったりの、むなしすぎる二人の最後に、涙が知らずに出ていた。
青春も知らずに若い人生を終わらそうとする、その本音の気持ちを口に出せない、口に出すことを我慢して、「人を傷つけずに死んでいく」と誤魔化す、そんなことがあっていいものか。
次の「夜の遊園地」に続く