T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1456話 「 夏目漱石著・こころ・粗筋 -8/?- 」 4/1・日曜(晴)

2018-03-30 14:47:16 | 読書

……… こころ ………

「作品の文章を抜粋しての粗筋」

下 先生の遺書

十八~二十五 (私の親友・Kを援助して同宿する)

「………。

 奥さんと御嬢さんと私の関係がこうなっているところへ、もう一人、男が入り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来(きた)しています。自白すると、私は、自分でその男を宅(うち)へ引っ張って来たのです

 ………

「私は、その友達の名を此所にKと呼んで置きます。私はこのKと子供の時から仲良しでした。Kは真宗の坊さんの子でした。次男でした。それで、中学の時に、ある医者の所へ養子に遣られたのです。真宗寺は大抵裕福でした。Kの養子先もかなりな財産家でした。Kは其所から学費を貰って東京へ出て来たのです。

 Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいう難しい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、自分の生まれた家の影響なのか、解りませんが、彼は普通の坊さんよりも遙に坊さんらしい性格を有っていたように見受けられます。元来、Kの養家では彼を医者にする積りで東京へ出したのです。然るに、頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向かって、それでは養父母を欺くと同じ事ではないかと詰(なじ)りました。大胆な彼はそうだと答えました。

 ………

「Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉強するのだと言っていました。

 私は彼の室に聖書を見ました。Kは、これ程人の有難かる書物なら読んでみるのが当たり前だろと言いました。

 二年目の夏に、彼は国から催促を受けて漸く帰りました。帰っても専門のことは何にも言わなかったものと見えます。

 ………

 三度目の夏は、丁度私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時に帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。私は一人で東京を立つことにしました。

 二ヶ月経って9月にKに逢いました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は私の知らないうちに、養家先へ手紙を出して、こちらから自分の偽りを白状してしまったのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。

 ………

「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙すような不埒なものに学資を送る事は出来ないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kは又それと前後して実家から受取った書簡も見せました。これにも前に劣らない程厳しい叱責の言葉がありました。

 ………

 差し当たりどうかしなければならないのは、月々に必要学資ですが、Kは夜学校の教師でもする積りだと答えました。私はKがそれで充分遣っていけるだろうと考えました。然し、私には私の責任がありました。Kが養家の希望に背いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかと言って手を拱いている訳にいきません。私は、その場で物質的の補助をすぐ申し出ました。するとKは一に二もなくそれを撥ね付けました。

 ………

 彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩めず、新しい荷を背負って猛進したのです。私は彼の健康を気遣いました。然し、剛気な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取合いませんでした。

 ………

 彼と養家との関係は、段々こん絡(がら)がって来ました。彼は養家の感情を害するとともに、実家の怒りも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果(ききめ)もありませんでした。私の手紙は一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。今まで行掛り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。

 最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出して貰った学資は、実家で弁償することになったのです。その代わり、実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉で言えば、まあ勘当なのでしょう。

 Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに継母に育てられた結果とも見る事が出来るようです。

 ………

「………。

 kは復籍してから独力で己れを支えていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。

 私は彼に向かって、余計な仕事をするのは止せと言いました。そうして、当分身体を楽にして遊ぶ方が、大きな将来のために得策だと忠告しました。Kはただ学問が自分の目的でなく、意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだと言うのです。自分もそういう点に向かって人生を進む積りだと明言して、最後に私はKと一所に住んで、一所に向上の道を辿っていきたいと発議しました。私は彼の強情を折り曲げるために、彼の前に跪まずくことを敢えてしたのです。そうして漸(やっ)とのことで彼を私の家に連れて来ました。

 ………

「私が下宿している室には控えの間というような四畳が付属していました。私は奥さんにKをそこに住まわせてくれとお願いしたが、始めは不賛成でした。

 私はKの健康に就いて云々し、一人で置くと益々人間が偏屈になるばかりだからと言いました。それに付け足して、Kが養家と折合いの悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。

 私は溺れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。その積りで温かい面倒を見て遣ってくれと、奥さんにも御嬢さんにも頼みました。私は漸々奥さんを説き伏せたのです。私は彼の食費は彼に内緒で私が払う積りでいました。然し、その場では奥さんにその事までは告げませんでした。

 Kは何も知らずに相変わらずむっつりした様子で引き移ってきました。

 暫くして、私はKに向かって新しい住居の心持はどうだと聞いた時に、彼は一言悪くないと言っただけでした。

 ………

 私はなるべく彼に逆らわない方針を取りました。私は氷を日向へ出して溶かす工夫をしたのです。今に融けて暖かい水になれば、自分で自分に気が付く時期が来るに違いないと思ったのです。

 ………

私は蔭に廻って奥さんと御嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。

 使わない鉄が腐るように、彼の心には錆が出ていたとしか、私には思われなかったのです。そして、私は、なるべく、自分が中心になって女二人とKとの連絡をはかる様に力(つと)めました。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず、異性の傍に彼を坐らせる方法を講じたのです。そうして其所から出る空気に彼を曝した上、錆び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。 (既に先生も御嬢さんへの愛を感じていたのに)

 この試みは次第に成功しました。

         二十六章に続く 

 

 

 

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1455話 「 夏目漱石著・こころ・粗筋 -7/?- 」 3/30・金曜(晴)

2018-03-30 12:06:45 | 読書

……… こころ ………

「作品の文章を抜粋しての粗筋」

下 先生の遺書

十~十七 (下宿先の御嬢さんに愛が芽生える私)

「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新しい一戸を構えてみようかという気になったのです。

 ………

 ……駄菓子屋の上さんが、小石川にある素人下宿じゃ不可(いけ)ませんかと聞くのです。私は一寸気が変わりました。静かな素人屋に一人で下宿しているのは、却って家を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。

 家主の未亡人から、何時でも引っ越して来て差支えないという挨拶を即座に与えてくれました。

「私は早速その家へ引き移りました。

 私は移った日に、私が借りた室の床に活けられた花と、その横に立て懸けられた琴を見ました。何方(どっち)も私の気に入りませんでした。

 ………

 お嬢さん(未亡人の娘さん)の顔を見た瞬間に、悉く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に活けてある花が嫌でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。……私は、喜んでこの下手な活花を眺めては、まずそうな琴の音に耳を傾けました。

 ………

私の気分は国を立つ時、既に厭世的になっていました。他(ひと)は頼りにならないものだという観念が、その時、骨の中まで染み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父だの叔母だの、その親戚だのを、あたかも人類の代表者の如く考えました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。それでいて私の神経は、今言った如くに鋭く尖ってしまったのです。

 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因(げんいん)になっているように思われます。

 私は小石川へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛ぎを与える事が出来ませんでした。私は自分で自分が恥ずかしい程、きょときょと周囲を見回していました。

 貴方は定めて変に思うでしょう。その私が其所の御嬢さんをどうして好く余裕を有(も)っているか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外に仕方がないのです。解釈は頭のある貴方に任せるとして、私はただ一言付け足して置きましょう。私は金に対して人類を疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他から見ると変なものでも、また、自分で考えて見て、矛盾したものでも、私の胸の中では平気で両立していたのです。

 私は未亡人の事を常に奥さんと言っていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんと言います。

 ………

「………。

 時たま御嬢さん一人で、用があって私の室へ入った序(ついで)に、其所に座って話し込むような場合も、その内に出来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に侵されてくるのです。そうして若い女とただ差し向かいで座っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、『はい』と返事するだけで、容易に腰を上げない事さえありました。

「………。

 ………

「………。

 ………

「………。

 私は自由の身体でした。……。私は思い切って、奥さんに御嬢さんを貰い受ける話をしてみようかという決心をした事が、それまでに何度となくありました。けれども、その度毎に私は躊躇して、口へはとうとう出さずにしまったのです。

 ………

「………。

 ………

         十八章以降に続く

 

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1454話 「 夏目漱石著・こころ・粗筋 -6/?- 」 3/28・水曜(晴)

2018-03-28 12:32:04 | 読書

……… こころ ………

「作品の文章を抜粋しての下巻の粗筋」

 ※登場人物の人称変更…… 私→上巻、中巻の「先生」。

              あなた→上巻、中巻の「私」。

              お嬢さん→上巻、中巻の「先生の奥さん」。

              K → 大学時代の(先生→私)の親友。

 ※ 下巻は作品構成上の完結性を大きく備えているので、

  その点に留意して粗筋の様式を変更した。

 ※ 薄青色の蛍光ペン部分は、私の補足部分。

 ※ 薄黄色の蛍光部分は、作品のポイントとなる部分、

  あるいは心に止めおきたいと思った部分。

下 先生の遺書

一 (序文ーあなたからの手紙に返信しなかったことの陳謝)

「……私は、この夏あなたから二三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいからよろしく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に入ったものと記憶しています。

 ………

 世の中にたった一人で暮らしていると言った方が適切な位の私には、そういう努力を敢えてする余地が全くないのです。

 ………

 私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。

                       

 (序文ーあなたへの手紙を書きだした理由)

「………。

 ……一旦約束した以上、それを果たさないのは、大変厭な心持です。……義務は別として私の過去を書きたいのです。……私の過去は私だけの所有だが、それを人に与えないで死ぬのは、惜しいとも言われるでしょう。私にも多少そんな心持があります。

 私はただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと言ったから。

 私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が止まった時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。 (死を懸けての訴え)

                           

三・四 (両親から信用されていた叔父)

私が両親を亡くしたのは、まだ私の二十歳にならない時分でした。二人は同じ病気で前後して死んだのです。病気は恐るべき腸チフスでした。

 私は二人の間に出来たたった一人の男の子でした。宅(うち)には相当の財産があったので、寧ろ鷹揚に育てられました。

 父の死後、母は死を前に、ただ叔父に万事を頼んでいました。其所に居合わせた私を指さすようにして、『この子をどうぞ』と言いました。私は、その前から両親の許可を得て、東京へ出る筈になっていましたので、母は、それも序(ついで)に言う積りらしかったのです。それで『東京へ』とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後を引き取って、『よろしい決して心配しないがいい』と答えました。

 ………

「叔父は、母の頼みの通り一切を引き受けて凡ての世話をしてくれました。そうして、私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。

 数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、私は人に羨ましがられる方だったのです。

 ………

 何も知らない私は、叔父を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。父の実の弟ですけれども、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。それでいて二人は妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも遥かに働きのある頼もしい人のように言っていました。父は私の心得になる積りで言ったらしく『御前もよく覚えているが好い』と言ってわざわざ私の顔を見ていました。

 このくらい私の父から信用されたり、褒められたりしていた叔父を私がどうして疑う事が出来るでしょう。私には、ただでさえ誇りになるべき叔父でした。

                       

五 (結婚して早く相談しろと私に勧める叔父)

「私が夏休みを利用して初めて国へ帰った時、両親の死に絶えた私の住居には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代わって住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。

 ………

 私は何の不愉快もなく、その一夏を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。彼等の主意は単簡でした。早く嫁を貰って此所の家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろと言うだけなのです。田舎の事情を知っている私には能く解ります。然し、高等学校に入ったばかりの私には、遥か先の距離に望まれるだけでしたので、叔父の希望に承諾を与えないで、私の家を去りました。

                        

 (我が子との結婚を勧める叔父)

「……一学年終えて帰国した時、私は又突然問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父の言うところは、去年の勧誘を再び繰り返したのです。理由去年と同じでした。ただ、この前勧められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心の当人を捕(つら)まえていたので、私は猶困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘即ち私の従妹にあたる女でした。その女を貰ってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中そんなことを話していたと叔父が言うのです。

 ……始終接触して親しくなり過ぎた男女の間には、恋に必要な刺激の起こる清新な感じが失われてしまうように考えています。香をかぎ得るのは、香を焚きだした瞬間に限る如く、酒を味合うのは、酒を飲み始めた刹那にある如く、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。

 叔父はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしても可(い)いと言いました。当人に望みのない私には何方(どっち)にしたって同じ事ですから、又断りました。叔父は嫌な顔をしました。

 私は又東京へ出ました。

                         

七~九 (叔父に財産を誤魔化された私)

「私が三度目に帰国したのは、それから又一年経った夏の取っ付きでした。帰ってみると叔父の態度が違っています。元のように好い顔をして私を自分の懐に抱こうとしません。妙なのは叔父ばかりでなく叔父の家族も妙でした。

 ………

「私は今まで叔父任せにして置いた家の財産に就いて、詳しい知識を得なければ死んだ父母に対して済まないという気を起こしたのです。

 私はとうとう叔父と談判を開きました。遺憾ながら私は今その談判の顛末を詳しく此処に書くことの出来ない程先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。

 ………

一口でいうと、叔父は私の財産を誤魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年間の間に容易(たやす)く行われたのです。凡てを叔父任せにして平気でいた私は、世間的に言えば本当の馬鹿でした。

 ………

 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切のものを纏めてくれました。それは金額に見積もると、私の予期より遙に少ないものでした。私は思案の結果、叔父を相手取っての公(おおや)け沙汰にしないで受け取りました。

 私は永く故郷を離れる決心を、その時に起こしたのです。私は国を立つ時に、父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。

 ………

 親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません。けれども学生として生活するにはそれで十分以上でした。……この余裕ある私の学生生活が私を思いもよらない境遇に陥し入れたのです。

          十章以下に続く

 

 

 

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1453話 「 栗林公園の花見 」 3/27・火曜(晴)

2018-03-27 11:00:50 | 日記・エッセイ・コラム

                                         

  高松気象台は、栗林公園の桜は"3月24日"に開花したと発表した。

 その後の天候は、暖かい晴の日が続いたので、もう五分咲きかなと、

 数年ぶりに、爽やかな朝の9時ごろ栗林公園の花見に出かけてみた。

 しかし、予想に反して三分咲きだった。

 数十本の樹から、とくに多く開花している枝を見つけて、"ガッシャリ" 。

 花弁がまだ白い若い桜の花が綺麗に撮れた。

 しかし、桜のトンネルの花見は数日先だなとガッカリ。

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1452話 「 夏目漱石著・こころ・粗筋 -5/?- 」 3/24・土曜(晴)

2018-03-24 10:11:36 | 読書

「心に残った文章等を抜粋して纏めた粗筋」

中 両親と私

十二・十三 (先生からの2通の電報)

 兄が帰って来た時、父は寐ながら新聞を読んでいた。その頃の新聞は天皇崩御関係の記事ばかりであった。

 悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹や草を震わせている最中に、突然私は一通の電報を先生から受取った。電報には一寸会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。

「きっと御頼もうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。

 私は、父の病気を打ち遣って、東京へ行く訳には行かなかった。母と相談して行かないと返電を打つ事にした。その後、すぐに細かい事情を認(したた)めて郵便で出した。

 手紙を出して二日目に、また先生からの電報が私宛に届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。

 母は、手紙で何とか言ってきて下さる積りだよと言われたが、私は、先生の平生から推してみると、どうも変に思われた。「先生が口を探してくれる」。これは有り得べからざる事のように私には見えた。

                     

十四・十五 (落ち着かない家族)

 父の病気は最後の一撃を待つ間際まで進んできて、其所で暫く躊躇するように見えた。

 母は、先生の返事の来るのを苦にして、まだ手紙は来ないのかと私を責めた。

 兄と私は、父の死んだ後の事に就いて尋ねあった。

 兄は、「御前、これからどうする。此所へ帰って来て、宅(うち)の事を管理する気はないか」と。私は、「一体、家の財産はどうなってるんだろう」と。

                         

十六~十八 (先生の遺書の手紙が届く)

 父は時々譫言を言う様になった。

 父は、自分の目の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言らしいものを口に出さなかった。兄が、「今のうち何か聞いて置く必要はないかな」と私に言うも、私は、こちらから進んでそんなことを持ち出すのも病人のために好し悪しだと考え、決めかねて、二人で伯父に相談するも首を傾げた。

 ために遺言話はとうとう愚図々々になってしまった。

 そのうち父は段々舌が縺れてきた。そんな中、先生からの分厚い書留の手紙が届いた。

 私は不審に思って、その晩一人になって、急ぎ中を見た。

 私は最初の一頁を読んだ。その頁は次のように綴られていた。

「あなたから過去を問いただされた時、答える事の出来なかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然し、その自由はあなたの状況を待っているうちには又失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。従って、それを利用出来る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸するようになります。そうすると、あの時あれ程固く約束した言葉がまるで嘘になります。私は己(やむ)を得ず、口で言うべきところを、筆で申し上げることにしました」(意味不明。下巻に奥さんが留守になり先生一人になる時があるので、自由とはその事かと思うが?自信がない)

 私は其所まで読んで、何が書かれているのか知る事が出来た。然し、先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。

「自由が来たから話す。然し、その自由は又永久に失われなければならない」

 私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。

 その時、病室の方から私を呼ぶ兄の大きな声が聞こえた。

 病室には医者が来ていて、浣腸を試みるところであった。私は兄に代わって処置の手伝いをして、また元の部屋に戻った。

 私は急ぎ頁を剥繰(はぐ)って行った。けれども、それを読む余裕はなかった。その時、不図結末に近い一句が私の目に這入った。

「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とにかく死んでいるでしょう」

 私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結したように感じた。

 私は父の様子を見に病室に急いだ。母は、「今少し持ち合っているようだよ」と答えた。私は父の目の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持がよくなりましたか」と尋ねた。父は首肯(うなず)いた。父ははっきり「有難う」と言った。父の精神は存外朦朧としていなかった。

 私は夢中で医者の家へ駆けこんだ。医者は生憎(あいにく)留守であった。私は医者の帰りを待たず、すぐ俥(くるま)を停車場へ急がせた。停車場で紙片(かみぎれ)に母と兄あてで手紙を書いて宅へ届けるように車夫に頼んだ。

 そうして思い切った勢で東京行の汽車に飛び乗ってしまった。

                                 

     中巻の終り

     下巻の「先生の遺書」へ続く

 

 

 

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