T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

おかしな晩春?

2011-03-31 11:48:50 | 日記・エッセイ・コラム

Boke001

                                                                                                                              

 庭のボケが咲いていた。まだ蕾も多く、今からといったところのようだ。

 毎年、開花がこんなに遅かったかなー。インターネットで調べてみると3月~4月に開花となっていた。2月末から3月の初めと覚えていたがどうも違っていたようだ。

 少し暖かくなってから咲くものだと覚えていたので、間違ったのかも。暑さ寒さも彼岸までと言うが、明日から4月だというのに、今年は、朝はまだ寒く感じる。

 歳のせいかもしれないが、早く、朝も10℃ぐらいになってもらいたいものだと思う。

 東北関東大震災で罹災した人のためにも。

 明日は年度も変わる節目の日だから、冬物の整理をしたいがまだ早いので、パソコンのデータのバックアップでもしておきたいと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「太平洋の奇跡」を読み終えて!

2011-03-26 13:46:02 | 読書

ドン・ジョーンズ著、中村定訳の

「タッポーチョ(サイパン島の山の名前)・

太平洋の奇跡」(映画「太平洋の奇跡」原作)を読み終えた。

本の「裏表紙」に評論家の渡部昇一氏は、

「武士は私怨で争うのではない。戦わざるを得ない状況で、直接の相手に恨みはないが、全力を尽くして戦う。その戦い方がよければ敵ながら天晴れと称賛する。

あの悲惨なサイパン島玉砕の後も、大場隊は終戦後三ヵ月半、見事に戦い抜いたうえ、堂々と山を下りて来たのだ。敵ながら天晴れと同じ戦場で戦った元アメリカ兵が感銘して執筆した異色実録小説である。」と記述している。

また、訳者・中村定氏は「あとがき」で、

「第二次大戦における日本の敗戦を決定的にしたサイパン島の玉砕陥落の後、同島を占領した米軍の大軍を相手にゲリラ活動を続けた大場隊の奇跡を小説化したものである。

著者は実際にサイパン島で大場隊と戦い、その存在を目のあたりにし、強力な印象を受けている。したがって、本書の土台には厳然たる事実があり、訳稿を大場さんと旬間余の期間にわたりチェックしたものである。」と述べている。

私は、サイパン島の玉砕の後、満洲から転属してきた職業軍人である彼等が、再度、玉砕のような行為に走らず、生き残り4ヶ月も組織を保って、しかも民間人を守りながら戦い抜いた行動が、なぜできたのだろうか、隊長が発揮した高いリーダーシップもあってのことだろうが、そのあたりに特別の興味をもって読み終えた。

その点を中心に、文中から心に響いた文章を以下に抽出した。

玉砕

 南雲忠一海軍中将の名で発せられた訓辞があり、7月7日未明、全軍が最後の突撃を敢行するとの命令が下された。

 数時間後に将官4名が自決し、最後の突撃の指揮は参謀長の大佐がとることになった。

 突撃は午前3時と決定されて各隊が前進した。しかし、夫々の隊が空爆等のために指揮官が戦死したり武器が大破したりして、部隊の統率ができてなかったり、本部の命令が届いていなかったりと、突撃に参加した部隊も戦力が落ちていたりで、ばらばらの攻撃となった。

 最前線の突撃小隊の部隊も数回、前進を止められ、突撃して戦闘したあと、ある分隊長は気が付くと、敵の前線の後方にいたとのことだ。

行軍

 120名を指揮する衛生隊の隊長・大場大尉は、サイパン島に上陸してまだ戦闘に参加してなかったが、ようやく、、所属する北地区警備隊長から敵の前線の近くに6月26日までに集結せよとの命令を受けた。

 終結場所に行軍する途中、空爆で多くの部下を失い、目的地に着いたら警備隊本部が来ておらず、通りかかった他の部隊は、大場隊が出発した地点の近くに移動せよとの命令を受けて後退しているのだとのことだった。

 大場隊も出発地点に引き返した。

敵陣突破

 大場は、最後の攻撃を7月7日未明、敢行するので、歩くことが出来る者は全員マタンサ地区へ集結せよとの命令を受けた。

 負傷者の自決の爆発音が聞こえた。歩けない者は残留との大場の命令によるものだ。

 大場は拳銃の安全装置を外した。彼はもはや迷いはなくなっていた。自ら生命を絶つのが最も名誉ある行動だ、と自分を合理化できて、救われたような感じだった。死ねる。死んでも不名誉でない。彼は拳銃をコメカミに当てようとした。

 しかし、そのとたん、心の奥のほうから、死ぬまで戦うほうがより価値があるのではないか、という声が聞こえてきた。刀をアメリカ兵の血で染めてから死ぬほうが、はるかに意義があり、はるかに名誉ある死に方になるのではないか、とその声は囁いた。

 4日後に予定されている総攻撃で優れた兵士であることの証明ができると考えて、かすかに笑みが浮かんだ。

 大場大尉が、途中、自分の傘下に加わった兵隊を含め80名を率いて終結場所に行くと、そこには、組織を失った兵隊で混乱していた。

 そこで、あらためて、大場は7日未明に決定されている総攻撃の先陣を行く命令を受けた。

 待機中に、若い少尉が将官の自決について、軍人の鑑だと言う。

 しかし、大場は、将官の例に従ったら、兵隊は死ぬために突撃することで、もはや戦争は終わりだ。戦争は最後の勝利を目指して、何回も戦闘し、一人でも多くの敵を倒すことが軍人の義務だ。一兵になるまで戦うことを敵に思い知らせるべきだ。

 一致団結して、ろくに兵器も持たずに、ただ単に敵に突撃していくのは自殺と同じだ。一瞬にして敵の勝利を確かなものにするだけだ。

 戦う以上は、どこまでも全力を尽くして生き残るつもりで一兵でも多くの敵を殺傷する気持で戦う必要がある。玉砕は死ぬために突撃するだけで安易な道をとろうとしている。戦いを有利にするための最善の戦いをするのだ。生き残って何回も戦える攻撃をすべきだと、自分の信念を吐露する。

 若い少尉は死を怖れている詭弁だと刀に手をかける一時もあった。

 先陣命令を受けた大場隊は、午前3時の総攻撃の少し前に敵が警戒態勢に無い状態を突いて攻撃を開始した。

 突撃を繰り返すうちに、気が付いてみると完全に敵陣の背後に出てしまっていることを知った。大場隊13名は体制を整えるため野営地を求めて歩き続けた。

コーヒー山の勝利

 米軍の掃討を受けて、元からの部下は5人で15人の兵隊が加わり大場隊20人は新しい陣地を探して歩いた。

 先頭を行く大場は日本語で誰何された。夜が明けて、民間人が大半の300人ほどの日本人が居るところを見せられた。

 その後、大場隊は、民間人を自分等の後ろの安全な場所に移し、コーヒー山を中心に米軍と数回の戦闘をして、すべて米軍を退却させた。それを見聞きした民間人が糧秣はいくらか隠しているので、ぜひ自分らを保護してくれと懇願された。

 大場は如何にすれば敵の攻撃から保護できるか苦悩した。結論として、民間人も大場隊の一員として、糧秣を収集準備する班、炊事を担当する班、兵隊と共に戦える班の3班に分けて、夫々の班の指揮官の命令に服従することを守ってもらうことにした。

米軍の説得工作

 米軍は収容所の日本人の中から、元伍長と元小学校校長の二人を選んで、投降を大場隊に促しに来た。しかし、スパイだとして、また、どんな対応を受けるかも判らない状況ではと、民間人も説得には応じなかった。

民間人下山

 多くの民間人を抱える大場隊は、食料不足が急速に大問題になっていった。

 日本人収容所の農場や米軍の食料庫からの食糧徴発が、米軍の防御で段々と困難になったので、収容所の状態も判ってきており民間人を下山さす事を決心した。

 大場は皆さんは下山するのは降伏するのではなく、問題は如何に生き残るかということだと諭し、決心させた。ただ、山に残る兵隊のことは絶対に口外しないでくれ、我々の命は皆がどれだけ秘密を守るかにかかっているのだと言って別れた。

 その後で、大場隊は当然のように野営地を変更した。

終章 敗れざるもの

  9月に入り、一週間以上米軍の巡察隊を見ることも無く、ビラが何回も落ちてきた、

 内容は、戦争は終わった、日本の指導者達は降伏文書に調印した、そして天皇の命令に従って武器を捨てることを促したものだった。

 大場は、その真実を知るために、部下と相談して、まず、民間人の収容所に潜入し情報を収集した。そこで戦争の終結が確からしいことを感じたが、念を入れるために、近くにあるパカン島の天羽少将麾下の守備隊の武装解除があることを聞いて、収容所の民間人と連絡を取り、最後は米軍にも連絡を取ってもらい、天羽少将自筆の武装解除命令を貰うことにした。

 12月1日、事故無く、整然とした武装解除の降伏式が行われた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「乱紋・下」を読み終えて!

2011-03-22 20:03:43 | 読書

十字路

 岐阜城主の後釜は三法師だった織田秀信となった。

 おごうは京で小さな屋敷を与えられた。その時、おきいと名付けられた女の子を身もごっていた。

 その頃、お茶々も博多で身もごっていて、おごうの出産より数ヶ月後にお茶々は秀頼を出産した。

 大阪城にお祝いに出かけたおごうは、女の実りを感じさせ、肌にも半透明の艶が感じられ、言葉少なにおっとりと座っているところが、何ともいえず艶めかしい。

 お茶々のほうは華麗な雰囲気が消え生彩が無く、凄艶なその凄みばかりが残ってぎすぎすした感があった。

 秀吉からおごうの元に、しげしげと消息を尋ねる使いが来始めた。

 口実を設けて断っていたが、若君が会いたいと言っておる、姫を連れて来いと絶対命令に等しい案内があり、伏見城に出向いた。

 秀吉はおごうが飲んだ盃を舐めるようにして、その盃で酒を飲み、おきいに、この城に泊まれというが、おきいが帰りたいといい、事なきを得た。

 一ヶ月が過ぎて、おちかを共にして至急伏見城に来いとの使いがあった。

 お茶々も同席の中、秀吉から家康の三男の秀忠に輿入れせよとの命令だった。秀吉の妹の朝日姫が死亡していたので、人質の穴埋めだ。

 1ヵ月先に伏見で祝言を挙げることになっているとも言われた。

 おごうは、ゆっくりと口を開き、行けと仰せられるなら……何処へでもという言葉は口の中で消えていき、例のほのぼのした微笑が残った。

 表面は従順そのもの、むしろ無意志にさえ見えるその微笑は、どういう運命が与えられるのか、来るものは受けてみようというものだ。

 秀忠17歳、おごう23歳の婚儀。おごうは三回目でおきいも居る。お茶々は、その幼い姫を引き取るという。姫を豊臣家の人質として預けて行けというのだ。

 お茶々が、その立場であれば髪を振り乱して子を連れて行くと泣き喚くだろう。血を分けた姉妹は同じ座敷に座っていても、二人の心は全く隔絶してしまっているのだ。

名残り桜

 おごうが始めて懐妊した。おごうはつわりが酷い体質で、名医もあと10日保てばよいがと言っていて、おごうは一粒の米も喉を通らなくなっていた。

 おちかは、おごうの体を心配して、清汁が飲める状態になったときに堕胎薬を入れたが、おごうの容態が悪くなって飲むのを止めた。おちかは隠しておくことができず白状した。

 お姫様の体を案じたからだ、それと、男の子が生まれたら、豊臣家との仲が上手くいかなくなり、もしかしたら当家を出されることも考えられる、また、おきい様が苛められる立場になるのではないかと心配したからだと言う。

 おごうは、わたしの身を気遣ってくれることは嬉しいが、生んでみなければ解からない、母は私を不幸になるかもと思って生んだのではない。私の幼時は決して幸せとはいえなかったが、ともかく、こうして生きています。折角芽生えた命は、育ててやったほうが良いような気がしますと言う。

 秀吉の最後の花見となった醍醐の花見が終わった後、秀忠とおごうはようやく江戸に下がれるようになった。

 そこへ、お初がやってきて、いずれ、お千を貰えないかと言われ、おごうは今決めることはできないと回答を避けた。

 間もなく、太閤は死去し、信長の死去時の家康のこともあって、秀忠は急遽江戸に帰ってきて、一言、秀吉の遺言でお千を秀頼に嫁つがせることになったと告げた。

 おちかは、お初様の申し出は何となさいますと問うと、ややあって、おちかに向いた瞳に、おごうのかってない視線の厳しさを感じた。それはおはつに向って、初めて向けた無言の返事だと感じた。

 それまで他人の言いなりに生きていたかに見えたおごうが、この時に初めてはっきりと自分の意志のようなものを示したのではないだろうか。

 何かを提案するというよりも、それを無視する形で自分の意志を表明することがおごうのやり方だった。

 おごうは、その後、連続して女の子を出産したが、おはつには渡していない。

関が原周辺

 秀忠の側で働いていた若い娘に、秀忠の初めての男の子が誕生した。

 おちかから初めて知らされたおごうは、生まれてしまったものは仕方がありませんねと言うだけだった。(その赤子は間もなく急死した。)

東西往来

 おごうは出産を数ヵ月後に控えていたが、婚儀のために上洛するお千について上洛した。

 お茶々との内々の対面で、お千のことを頼み、おきいの輿入れ(関白九条の息子に)への心遣いにお礼を申しあげた。

 お千を見送って数日しておごうは出産した。お初が早速にお祝いに来て、自分の名前を付けてその嬰児を貰い受けて帰った。おごうは二人の姉に人質を差し出したのと同じことになった。

 おちかは、おきいのお祝いに上洛した帰りに、おごうに男の子(竹千代)が生まれたことを知った。

 おちかは東海道をひた走りに走った。おごうにお祝いの言葉を述べて、ぼろぼろと涙を流した。若君にお会いしたいとお部屋にお伺いしたら、乳母のお福にお休みになったところだから後でと追い返された。おちかは、見せてはならぬ涙が出るのを押さえた。

 その後、おごうは国松を出産した。

 数年たち、お福らしい論理で御台様は国松様ばかり可愛がると言い、両者の周りに微妙な対立が渦を巻き始めたが、おごうはいっこうに動かない。

 後日、家康の処置で、跡継ぎが明白になったときにおごうは、いいことをしていただいたとと微笑を洩らした。

 お千は12歳、子供の生める体になってない。その間隔を縫うようにして秀頼は2子を儲けた。しかし、おちかが気をもんでも、おごうからはかばかしい返事が帰ってこないことを知っている。

 だが、それだけでなく、おちかは、秀忠にも隠し子が生まれたことを、しかも二人目だということを聞き入れた。

 おごうに伝えると、そうと頷くだけで、悪いでしょうと言ったところで何になります、私達だって心の奥まで人に踏み込ませて生きているわけでない、相手の不実をなじってもどうにもならないと、はっきりした物言いでした。

 秀忠を憎むのでもなく、心底愛するのでもない。大野時代の無邪気な微笑はとっくに無くなっていた。

 このような環境の中で生きていくためには、できるだけ感情の振幅を抑えているほうが賢明なのかもしれない。

 水が器に従うように、おごうは、その中で息づいて来た。おごうにあるのは、その水の従順さと強さであろうか。

夏の炎

 秀忠が頑固に大阪を攻めるのは、とりもなおさず、おごうがその後ろにあって頑張っているのだ、姉のためのとりなしはいっこうにしていないことにほかならない。

 何かにつけて、秀忠のすること全てをおごうのせいにして考えるお茶々。

 お初が何回も撤去を勧めても、私達の姿を確かめるために来たのかと、既に昔の姉妹の姿ではなくなっていた。

 お茶々は、家康、秀忠、おごうに怒りを向けて、決してお千は手放さないと思ったことだろう。

 千姫が無事だったことを、おちかがおごうに告げると、そう……それはと言い、そっと肩を落とした。

  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「乱紋・上」を読み終えて!

2011-03-21 18:53:37 | 読書

 永井路子が描いた「お江(ごう)」のこの小説は、北の庄から清洲に連れて来られてから、大阪城落城までのおごうの生涯が書かれている。

 末娘のおごうは、二人の姉達と違って地味でぼんやりしているようで、その彼女に実に波乱に満ちた運命が待っていた。

 すべてを受け入れて生きていく静かな意志の強さをもった女性として段々と成長していく姿が描かれていて、私はこの生き方に共感すると共に、文章も心打たれるところが随所にあった。

 以下、侍女のおちかの目線から見たおごうの心の動きの部分だけを文中から抽出し、上・下に分けて記録する。

うちかけ

 おごうは、美貌の姉達に比べ、何と見劣りのする目鼻立ちであること。浅黒い肌、ねむたげな瞼に覆われて印象のはっきりしない瞳、何よりももどかしいのは、その動作の遅さである。

 お茶々ら三姉妹がいる安土城へ秀吉が来て、姉をさしおいて、おごうに、お市の姉のお犬の息子で五万石の尾張大野城主の佐治与九郎に嫁つぐように言いつけた。

 おごうは開きかけた唇をそのままにして、秀吉の言葉が理解できたのだろうか、理解する速度が遅いのか、秀吉の顔を見つめるだけで一言も無く、秀吉もおごうの反応を計りかねていた。

 自室に帰ってきたおごうに、侍女のおちかが聞くと、嫁入りの話があったと言い、自分が嫁ぐということは、おちかの問に答える形だった。おちかも吃驚した。

 秀吉から打掛が届いたときも、さしたる感動もなく、その内掛けを眺めるだけだった。

 輿入れが近くなって秀吉が来たときも、打掛はどうだと言うと、見事でございますとの一言で、感謝の言葉も無く、とにかく余計なことは言わないおごうであった。

清洲にて

 おごうは、大野への途中、信長の息子の信雄の清洲城に立寄った。

 おごうは信雄と対面しても一言も発せず、にこにこしていた。おちかが機嫌がよいようですねと言うと、信雄が始終鼻をぴくぴくさせているのが可笑しかったと言うのだった。

 人間の中には、一座の中心になって喋りまくり、その場の人々を引きずっていかねば気がすまないタイプと、黙って話を聞いているタイプの二つがあるが、おごうは後者で、この人たちは全くその意見を聞いていないか、別の角度から彼らを観察しているかのどちらかなのだ。

 おごうは、姉達から何時ものけものにされてきたことに慣れて、事が自分自身に関することでも、ついつい、何時もの癖で他人事のようにそれを聞き、つい自分勝手な世界に遊んでしまうのだ。

 佐治は信雄の腹心で、伊勢湾を自分の領土とする強力な水軍を持っているのを秀吉が狙っているのだ。そのため、秀吉はおちかに与九郎とおごうとの夫婦仲を良くすることに心掛けよと言った。

花嫁の船

 長々と続く婚儀に飽きた与九郎はおごうを連れて物見櫓にいた。

 こんな夕焼けは見たことは無い。滅多に見られない光景なので、おごうに見せたかったのだと言う。

 その夜、与九郎はおごうを新鋭船に乗せた。船の中で、おごうに母の形見の小袖を渡し、母上に似ていると繰り返した。秀吉や信雄から貰った小袖より相応しい感じがした。

 その後の船上での酒宴で、おごうは与九郎の言葉に、生まれて始めてお酒を飲みましたと、ほのぼのと笑った。

流星

 与九郎島津征伐から帰ってきてから口数が少なくなってきた。

 何日か経って、おごうは与九郎から誘われて船上で酒を飲んだ。

 あれが北極星だ、寒くないかと、いたわる与九郎に、おごうは、お酒を戴いていますと体が火照るくらいですと。

 今の与九郎の言葉にはとげは無く、おごうに対する不満からでないと思ったから、おちかは胸を撫で下ろした。

海燃え

 小田原攻めが終わり、恩賞の沙汰が行われ、家康は関東に、その後に信雄と発表されたが、信雄は反発し蟄居させられ出家した。

 おちかは、おごうに、佐治家をよろしくとお茶々に頼んでくれと言うが、考えてみようと言うだけだった。

 与九郎は夕焼けが見える物見櫓におごうとおちかを呼んで、織田家に殉じようとは思っては無く、おごうの縁を頼って一身の安堵を計る気はない、関白に見切りをつけていると言う。

 最後の夕映えを見ておけ、おごうにまで不幸を味あわせたくないので、お茶々どのに預けようと思う。そのため城を出てもらうことにしたと言った。

 おごうは、与九郎さまも、お健やかに、それだけ言ってゆっくりと頭を下げた。おごう、そなたも達者でなと、夫婦が別れるにしては、呆気なさ過ぎる瞬間だった。

招かざる客

 おごうは、淀城のお茶々に挨拶した。お久しゅうございます、姉上様には、お変わりもあらせられず、まことにご機嫌うるわしく、心より……と呟くような口上であった。

 関白夫人となったお茶々の瞳には明らかに不満の色が漂っていた。

 若君にも、ご機嫌うるわしく……と挨拶すると、お初はとっくに挨拶に来たとのお茶々の言葉に、おごうは、平然として左様でございますかと言う。今でも、おごうは必要な言葉は言わないのだ。

 おごうは、秀吉から、聚楽第への案内をしてやろうと何回も誘われた。その都度、お茶々が用があると邪魔をしたが、ようやく、では、伺わせていただきましょうと小さな声で答えた。

 お茶々は姉妹しての側室を心配したが、おごうには大野時代の無邪気さは無く、微笑しながらも無表情なのだ。童女めいたおごうは佐治家を去った後は亡くなり、滅多なことでは、他人を心の中に踏み込ませなくなっていた。

 秀吉もおごうの心の中に踏み込めなかったのだろう。秀吉は姉の子の秀勝とおごうを見合いさせた。

 おごうから、おちかに京の秀勝の屋敷に着てくれとの連絡があり、秀勝との婚儀の話を聞いた。実際の婚儀は、鶴松の発病、秀長の死亡で数ヶ月遅れて甲府から国替えになった岐阜でおこなわれた。

高麗だより

 おちかが、朝鮮で秀勝が亡くなったようだと、おごうに告げると、そうですか、暫く一人にして欲しいと言われ、おちかは絶句した。

 日頃、おちかが支えていなければ何一つできないようなおごうが、最も助けを必要とする今、たった一人で立つことを望んでいることだった。

 秀勝の母は、おごうは、情がない涙一つだしよらん、朝鮮行きを止めもしなかったという。

 その言葉におごうは、姑上もとても淋しいのだ、今まで、関白様のお陰で自分も息子も思いがけない幸せに恵まれ、自分が望んだ以上のものをすらすらと手に入れたのだ、それが私の運と違うところですと言う。

 そして、珍しく感情を表して、私の側にいた人、私をいとしんで下さった方は皆往っておしまいになりますと、繰り返して口に出した。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦しかった思い出!

2011-03-18 20:24:48 | 日記・エッセイ・コラム

Hana016

                                                                                                                                 

 東北地方の被災のテレビを毎日見ていて涙を流し心が痛み、どうしても言葉を発せざるをえなくなり投稿しています。

 必ず春が来ますので、頑張ってください。写真のような花が咲く日が必ずやってきます。

 私も終戦の年の3月、佐世保市から親の古里に疎開してきました。母が中学2年を終えたばかりの長男の私を筆頭に子供4人を連れて何十時間もかけ車中泊もして帰郷しました。

 車中泊では厭だが仕方なく通路に寝ました。末の弟はおしめをしていたので、小用で濡れた物を窓と幕の間に入れて乾かす母、周囲の人が匂いがして嫌がる顔を見て私はこれも厭だったが、どうすることもできないのです。

 父は戦地だし、両親の親も全員亡くなっている、頼る人は兄弟だけだが、親と兄弟では対応が違うのが子供ながらに理解できました。食べ物が無く親戚を尋ねたことが何回もありました。私にとって、これが一番厭な事でした。

 ようやく借りた家は、台所は無く傘を差して煮炊きをしたこともありました。

 そのほか、書ききれないほどの苦しかった思い出がありますが、今は人並みの幸せな生活を送っています。

 必ず幸せな春が来ます。何年か先には必ず幸せが待っています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする