「あらすじ」
※ 親子の情愛はほぼ省略し、捕物の筋立てを中心に記述した。
※ 不審に思った事柄は青色で、ネタバレのところを黄色で彩色した。
※ 赤色は留意してもらいたいところ、または私が補足したところ。
※ 灰色は登場人物が初登場したところ。
※ 下線を施したところは、ポイントになると思われる文章。
[赤い空]
1章
〈 赤い空。い敵。消えては、また煌〔とき〕めく白刃 〉
大鴉が黒い羽を拡げ、長谷川平蔵を押し込み、その羽の中から一筋の光芒が雷のごとく平蔵の脳天へ打ち込まれた……。
夢の中の大鴉のような黒い剣客を、火盗改方の長官〔かしら〕・長谷川平蔵は現実に見てから、半年に近い月日が経過している。
その半年前のあの夜以来、平蔵は何度か、同じような夢にうなされてきた。
「ああっ……」、自分が発した絶叫で、平蔵は目覚めた。
平蔵は、雑司ケ谷の料理茶屋・橘屋の離れ屋で、芝の扇屋・平野屋源助を待つ間、昼寝をしていたのだ。
2章
平野屋源助は、元は盗賊の頭で盗〔つと〕めの掟の三か条を守り抜いてきて、いまは、片腕だった茂兵衛を番頭に、扇屋のあるじをしている。 平蔵は何かと、陰ながら、お上の御用に協力させている。
今朝、清水門外の盗賊改方の役宅から、同心・沢田小平次が、私邸にいた平蔵に、源助が申しあげたいことがあるといって茂兵衛を使いに寄越してきたと連絡に来た。
雑司ケ谷の橘屋で会おうと、平蔵は昼前に出向いて来ていたのだ。
昼寝から目覚めた平蔵のもとへ、顔色が変わっていて両眼が涙にぬれている沢田だけが来て、同門の剣友でもある同心の片山慶次郎が、芝の法泉寺塀外の草むらで殺害されていたことを、御用聞の芳造が知らせて来たと報告した。
平蔵は、おのれの顔色の変るのがはっきりと分かった。
3章
平蔵は同心・沢田が乗ってきた馬で、同心・片山が発見された芝の現場に駆けた。
片山が受けた傷は二か所で、一つは胸元を下から切り上げられて、その切っ先が左の顎を切り裂いていて、次に、これも左の首筋が深々と切り割られていた。
(半年前に、わしが、あの恐ろしい男に出会ったのも、この近くであった……)
平蔵は、その切り傷から、半年前、自分を襲った遣い手の剣筋による切り傷に似ていると、そのときの模様が頭をよぎった。
(何者かが、盗賊改方に……)
挑戦してきたのではあるまいか。平蔵は、湧き上がってくる闘志を押さえかねて、思わず身震いをした。
〈 腕利きの同心を殺害した犯人は誰か? 〉
4章
それは、今年の正月も終わろうとするある日のことであった。
平蔵は、羽織・袴の正装で、芝二本榎の六百石の旗本・細井彦右衛門の屋敷に出向いた。 その帰りに、半年後に、同心・片山が殺害された金杉川に架かる橋を渡った。 そこで、その後も、何度も夢に見る剣気の凄まじい遣い手との出合があったのだ。
その曲者は、晴眼に構えた刃を右脇へ側める、このときに、刀が曲者の黒い躰の中へ隠されてしまう。こちらから付け入りかけるや、曲者の躰から白刃が煌〔きら〕めき、すくい上げて牽制する。この反復が何度あったろうか。 平蔵が捨て身になったとき、近くから数人の侍の声がして曲者は消えた。
〈 平蔵を襲った、夢に見るほどの剣気のすさまじい犯人は誰か? 〉
5章
その翌日の明け方、役宅で寝ていた平蔵は、赤い空を背負った黒い剣客に脳天を打ち込まれる夢を始めて見た。
平蔵は、はっと目覚め、平蔵の脳裏へ閃いたものがあって、床の上に上半身を撥ね起こしていた。
20数年前に、本所に道場を構えていた亡師・高杉銀平から聞いていて、永らく忘れていた言葉「雲竜剣」を突然、思い出したのである。
ある時、平蔵が亡き師の酒の相手をつとめていた折に、
「幾たびか真剣の立ち合いをしたことがあるが、その相手の中で、いまなお、忘れられぬ剣客がある。 常陸の牛久沼のほとりで、その剣客と真剣の勝負をしたのじゃ。 ……引き分けに終わったが、相手の刀身が小脇に側〔そば〕められたかと思うと、また……」
と、師が語った。
その剣客の不思議な剣法こそ、昨日、平蔵を襲った曲者の剣そのものではないか……。
二人がどうして真剣の立ち合いに至ったかは、亡師は何も語らなかったが、剣の構え・流れについて話をして、相手の名前を明かしてくれた。
「医者のような名前でな。 堀本伯道と名乗って、不思議な刀法は、誇らしげに雲竜剣と申してな」と。
仮に、35年前のこととしてみると、師が、その剣客は40前後とみたと言われていたので、いま、その剣客は70を越えている筈と言ってよい。
6章
平蔵は、役宅の門を出て行く同心・片山の遺体を見送ったのちに、親友・岸井左馬之助へ用を達してもらいたいための手紙をしたためた。
その後、呼んでいた与力・佐嶋忠介に、片山の死にも関わると思われる半年前の平蔵が襲われたことから語りすすめた。
そして、佐嶋に訊ねるように、
「片山の胸の傷痕を見たであろう。 亡き高杉先生が、わしに見せてくれた胸の傷痕そのものであった。右脇に側めた構えから、すくい切りに切り上げたものだ。 わしが襲われたときは、そうでなく、小脇に側めた刀を上段に振りかぶって斬りつけてきた。しかし、わしは、いまのところ、わしを襲った曲者と、片山を殺害した曲者とは同じ奴だと思っているのじゃ」
と、平蔵は、曲者を推理していた。
〈 三人を殺傷した犯人は同一人か? 〉
―中略―
明日でもいいと思っていた左馬之助が役宅に駆けつけてきた。
酒を酌み交わしながら、平蔵は、半年前のことから全てを語り、
「高杉先生の言葉の全てを思い起こせぬが、常陸の牛久に行って、その堀本伯道という剣客のことを探ってくれ」
と頼んだ。左馬之助は、明日起きぬけに発足すると帰って行った。
7章
翌日、平蔵は、与力・佐嶋と共に、平野屋源助から、八日市の鍵師〔盗賊は蝋型を元に鍵師に頼んで合鍵を作る〕の助治郎が、仕事場まで用意しての鍵作りを頼まれたということで、私の家に一泊して昨日の朝、常陸の藤代に行ったとの話を聞いた。 ただ、鍵作りの依頼主は、盗賊間の掟に背くとのことで訊くことができなかったとのことだ。
源助は、昔、何回か、助治郎から合鍵を作ってもらったことがあったのだ。
平蔵は、源助に、助治郎の人相書を作りたいので力を貸してくれと言う。
そのことについて、源助は、以前、平蔵に助治郎のことを話したことがあり、そのとき、助治郎が一種の無料宿泊所の報謝宿を諸方に設けていることを話したこともあって、助治郎にお縄がかからぬようお願いしたいと言うと、平蔵は、おまえの顔を潰しはせぬと言う。
平蔵の亡師・高杉銀平が、かの雲竜剣を遣う堀本伯道と真剣勝負を行なった牛久沼と藤代とは、(わずか2里ほど隔てた近間……)なのである。
伯道だけのことなら別条はないが、平蔵を襲い、同心・片山を斬殺した謎の剣客の刀法が「雲竜剣」なら、盗賊改方へ挑戦してきた相手と伯道と、それに、助治郎へ合鍵を作らせようとしている盗賊の首領という三人の男の陰が、奇妙に、常陸の国・牛久のあたりへ結びついてくる。
平蔵は、同心・沢田に密偵の大滝の五郎蔵をつけて、助治郎を追うよう命じた。
―中略―
源助が、まだ、平蔵と居間におるときに、佐嶋と同心・酒井祐助がいつもと違って声もかけずに、その居間に入ってきた。
「またしても……金子清五郎が殺害されましてございます」
酒井が呻くように言った。
次節に続く