「作品の文章抜粋による粗筋」
3章
(孤独の気持が高揚している中で桃子は亡夫・周造との出会いを回想しながら過去の自分と対話する)
8月の終り、桃子さんは病院の待合室の長椅子の端にちんまり腰かけていた。
桃子さん自身は特別具合が悪いというわけではなかった。にもかかわらず病院に来ている。
たまにごくたまにだが、桃子さんは熊だか狐だか山中の暗い洞窟なぞに住んでいるのが何を思ったのか人里に降りてくるそんな気分で、人中にいたいと痛切に思うことがあって、今日はまたそんな日なのである。
このところほとほと参っていた。
人は誰だってその人生をかけた発見があるのではなかろうか。桃子さんの場合は、『人はどんな人生であれ、孤独である』というかけがえのないひとふし、浪花節のようなうなりのひと節である。まぁ大したことがあったわけではない人生ではあるが、そうはいってもこれまで生きてきた中でしみじみと納得することもあったわけで、であるから、孤独などなんということもないと自分に言い聞かせもし、もう十分に飼いならし、自在に操れると自負してもいるのだった。さびしさぁ、なにさ、そんなもの、などと高をくくっていたのである。
ところが、いけない。飼いならし自在に操れるはずの孤独が暴れる。
いったい昨日とどう状況が変化したというのか、と桃子さんは自問する。即座に何にもかわってねのす、と返ってくる。それなのに心というやつはどうなっているのか、風向きがすっかり変わってしまって桃子さんはしおたれる。
いったい何をきっかけにそうなるのか、だいたいコドクというが正体は何なのか、はっきりこれこれの理由でこういう感情が湧き出てきてなどと説明がつかない。説明がついたならもっとうまい対処の仕方があったかもしれないが。
…………
それで今日、手っ取り早く人が大勢いる場所と考えて病院に来ているのである。むろん、桃子さんの年になれば、体の不調の一つや二つはあるわけで、ついでに医者の診察もしてもらおうという算段でここへ来た。
相変わらず訳の分からない高揚感は続いていて、知らない爺さんとだって、肩を抱き寄せて頬を摺り寄せたいぐらいの勢いで病院の待合室の長椅子におさまったのだった。桃子さんは話したいのである。誰彼かまわず、自分の身の内に起こったこと、考えたこと感じたことを。
桃子さんは口元を手で覆ってあくびをこらえた。目じりにいっぱい涙が溜めた。
日高桃子さん。
機械的なアナウンス音が桃子さんの名を呼んだ。やっと順番がまわってきたらしい。
…………
診察を終え、会計を済ませたのは昼過ぎだった。病院を出たとたん、暑い日差しが桃子さんの頭上に容赦なく降り注いだ。木陰沿いにバス停までの道を歩いた。
いつもの喫茶店はそれほど混んでいなく窓際の席に着いた。
頼んだソーダ水を待ちかねたように口に含んだ。ピリピリとした甘さが舌を刺激して喉元を通り過ぎたとき、桃子さんは自分が思いの外疲れているのに気が付いた。暑い日差しにやれたのかもしれない、とろけるような睡魔に襲われて、グラスの底ではじける泡を覗きこんでいるつもりが何も見ていなかった。
周造。 桃子さんはこの日初めて亭主の名を呼んだ。
次第に古い懐かしい思い出が桃子さんの周りを取り囲んで離さない。
…………
ファンファーレに押し出されるようにして上京したとき。桃子さんの回想は必ずそこから出発する。
………、まずここで働いて食べて行かなければならないのだ。仕事を探した。すぐに蕎麦屋の店員募集の張り紙を見つけた。………。
あの頃、痛く突き刺さった言葉がある。
蕎麦屋をやめてすぐに何軒か店を替えていた。大衆割烹の店で朋輩の子のひとこと、桃ちゃんてさ、わたしっていう前に、必ず一息入れるんだよね。山形から出てきたトキちゃんという子だった。その子がいたずらっぽい目つきでそう言った。背中に冷や水をかけられた気がした。
確かにそうだった。子供のころからずっと、わたしという言葉への憧れと反感、いや、むしろおらという言葉に対する蔑みと愛着、それらが入り混じって、わたしというとき一瞬混乱して滞る。分かっていたのだ。でも人に気づかれていたとは知らなかった。……。
トキちゃんの言葉は後々まで響いた。次第に口数が少なくなった。不思議なことに口数が減ると豊かさへの憧れも減じていった。飾り立てるという喜びが失せてきた。どんなに頑張ってみたところで所詮豊かさの辺縁にいるのだ、という思いもあった。
その頃だったろうか。あの夢を見たのは。
八角山の夢。
八角山は桃子さんの郷里のぐるりを取り巻く山の中で一番高い山である。
ばっちゃは朝晩手を合わせていた。信仰の山であった。
その山の夢をトキちゃんと共用の暑苦しい四畳半で見たのだった。
しばらくして、トキちゃんは故郷に帰っていった。そうなるとますます口数が減り、人に不愛想だと面と向かって言われてもただうつむくだけだった。丸っこい八角山がかろうじて心を支えた。
そんなときだった。
昼飯時で店が一番忙しいとき、大きな声でおらは、おらはと話す声を耳にした。
後ろを振り返ると目をみはるような美しい男がいて、連れの男と話している。屈託のない笑顔で大きな声で笑う。笑ったときの白い歯が印象的だった。
それが桃子さんと周造の初めての出会いだった。
どうやらその日から桃子さんは見違えるように元気になった。どの客にもにこやかに笑いかけ、機嫌よく仕事をこなした。
…………
それから二言三言言葉を交わすようになった。あるとき思い切って、八角山て知っていると聞いてみた。
周造の言葉や抑揚が郷里の聞きなれたものと同じだったから、もしかしたらと思っていた。周造の言葉を待つわずかな間の面映ゆさを何十年経った今でも忘れられない。
周造の美しさに気後れがしてそれでも周造を見つめずにはいられなかった。
周造は飛び切りの笑顔で覚えている、八角山でば、おべでる、と言った。
桃子さんは震えた。
…………
付き合い始めデートを重ね、あるとき周造が真顔で、
決めっぺ。ひとことそう言った。
結婚の申し込みだった。何の飾り気もない言葉、それがすとんと胸に落ちた。
それからまもなく所帯を持った。
…………
周造が望んだのは、控えめで後ろからついてくるような女ではなかった。むしろ、元気でわがままな楽しい女だった。桃子さんは全力で応じた。
周造を魅了し続けること、それによって周造の生きる手ごたえになること。
ごく自然に周造のために生きる、が目的化した。
周造はにこやかな笑顔で応じた。懸命に働き、桃子さんは軸足を周造に預けて、届く限りの果実をむさぼればよかった。桃子さんは周造をただ守りたかったのである。守るために守られたのだ。
周造は桃子さんが都会で見つけたふるさとだった。故郷に取って代わるもの。美しさと純粋さで余りあるもの。目の前でうっとりと眺める美しい彫像であった。
桃子さんはまだ弱くて一人で立っているのには拙(つたな)くて、外に偶像を求めたのである。寄りかかって支える。強いから支えるのではない、支えることで自分の輪郭を確かめようとした。甲斐(効果)を自分に見出すにはまだ時間を要したのだ。
…………
あれから15年、あの日を思えば今でも心が泡立ち平静ではいられない。
周造はたった一日寝込むでもなく心筋梗塞であっけなくこの世を去った。桃子さんは周造の突然の死を心のどこかでいまだに受け入れられないのである。
周造、逝ってしまった、おらを残して
周造、どごさ、逝った、おらを残して
うそだべうそだべだがうそだどいってけろあやはあぶあぶぶぶぶぶ
周造、これからだずどきに、なして
神も仏もあるもんでね、神も仏もあるもんでね
かえせじゃぁ、もどせじゃぁ
…………
自分よりも他人を大事にするごと、それが愛だどいう
ひたむきな愛だの、一途な愛だのとほめそやす
自分のエゴに打ち克って人の幸せのために自分を犠牲にする
それがほんとの愛だど、正しい生き方だど信じ込ませる
…………
第四章に続く