T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

[ 墓参 ]

2014-11-26 15:52:47 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                   

 連休最後の日、この日も小春日和。

 母親の命日には数日早かったが、墓参に出掛けた。

 公孫樹の黄色が少しくすんでいて、どんどん散っていた。

 23日も晴天だったので、買い物に出かけ、3日連続の外出で少し無理をしたようだ。

 汗をかいたのも原因だろうけど、25日の午後は風邪気味で早寝した。

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[ 紅葉の公園 ]

2014-11-26 15:10:38 | 書籍概要

                                                                                      

                                                                                       

                                                                                        

                                                                                  

                                                                                       

 22日からの連休初日、小春日和の中を久し振りに公園を散策し、紅葉の撮影をしました。

 一昨年撮影したルートを歩いてみました。

 しかし、日程が違うと、また、別の景色でした。

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[ 山本一力著「ジョン・マン2 大洋編」を読み終えて!! 6/6 ]

2014-11-25 14:36:19 | 読書

                                                                                                                      

26ー 1843(天保14)年5月6日。ジョン・ハウランド号。

    「ジョン・マン」と敬称で呼ぶ水夫たち

 ジョン・ハウランド号は、母港ニューベッドフォードを目指して快走していた。

 ジョン・マン(マンジロウ)、陸地は見えたか。大工でウォッチマンのカッシーがマストの根元で呼びかけた。まだですと、マスト上部の見張り籠に立つマンジロウは太い声で答えた。

 捕鯨船に救助されて2年近くが過ぎた今は、マンジロウは、英語の読み書きは殆どできないが、会話は不自由を感じない程度にできた。

 5月だというのに、背中に感ずる追い風は、まだ凍えに近い寒さをはらんでいる。遠くに目をやるマンジロウは、長袖シャツの上に、きつくなったどんこを羽織って見張り籠に立っていた。

 1839(天保10)年にニューベッドフォードを出帆して以来、3年半ぶりに帰港するのだ。帰港時の母港発見は、ウォッチマンには一番の栄誉ある任務だ。マンジロウは、その栄えある見張りを船長から命じられた。

                                            

 ホノルル出航後の3か月間、ホイットフィールド船長はマンジロウを船長付ボーイとした。船長の身の回りの世話をさせながらマナーと言葉を学ばせるためである。

 船長が午睡の時間には、航海士のシーガルに預けられ、捕鯨見張り役としての必須事項を特訓させた。マンジロウは、理解力に優れていた。シーガルの特訓が始まって4週間目には、ウォッチマンが伝声管で伝える用語の多くを話せるようになっていた。

 カッシーと一緒に揺れが激しいマスト上部の籠に乗って、実技訓練をしているとき、マンジロウは、ブローを見つけ、「右舷前方、ツーオクロック。距離900ヤード」とカッシーに伝えたが、カッシーは、900ヤードだとと、声を尖らし、望遠鏡を手に取った。荒海のそんな遠くが見えるとは信じられなかったのだ。望遠鏡を目に当てるとマンジロウの言うとおりだった。カッシーは伝声管でブロー発見を伝え、この発見はマンジロウと付け加えた。

 ホノルル出航から3か月が過ぎた1842年3月初旬。マンジロウは15歳でウォッチマンに命じられた。最年少記録になった。その後の航海で、数えきれない回数、クジラを発見した。

 だが、それよりも珊瑚礁の遠浅の海に囲まれていたグアム島アプラの港で、満潮になるまで港に入るのに10時間も待つ必要があった。そんな中、運悪く乗組員に急病人が出て、どうしても島の医者の治療を必要とした。船長はマンジロウの視力と判断力を高く買っていたので、決断し、マンジロウに舳先のバウスプリットから針路を指示するように命じた。

 マンジロウは、見事に船長の負託に応えた。水夫たちは全員、うちのジョン・ハウランド号には、「ジョン・マン」が乗っているからと自慢しマンジロウを褒めた。(「マン」は男を尊敬する時につかう敬意を込めた敬称。)

                                                       

 「陸地発見、左舷イレブン・オクロック。距離1海里半。」 マンジロウは、伝声管に弾んだ声を投げ入れた。

 上陸するニューベッドフォードには、いったい何が待っているのだろうと、マンジロウは胸の内で思いを膨らませていた。その途中で、いまおれは英語で考えていたと、ハッと気が付いた。

                                終

 

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[ 山本一力著「ジョン・マン2 大洋編」を読み終えて!! 5/6 ]

2014-11-25 10:31:51 | 読書

16ー 1841(天保12)年7月25日。ジョン・ハウランド号。

     水夫たちが不味いと食しなかった大型魚シイラを、

     筆の丞たちが日本的に料理して外人水夫に美味いと褒められる

 甲板での手術以来、重助の足の容態は日を重ねるごとに回復を見せていて、肩を貸している五右衛門は、肌身で感じ取っていた。

 筆の丞と寅右衛門が右舷の手摺に寄りかかっていた。筆の丞が真下に目をやったとき、見慣れた魚影が見えた。大型魚のシイラの群れだった。ところが水夫たちはシイラに目もくれず甲板での作業を続けていた。

 筆の丞はわしらでシイラを釣って、みんなに食べてもらおうと、寅右衛門に万次郎を呼んで来いと言った。

 急ぎ足で上がってきた万次郎に、レイさんに頼んで、道糸と釣り針、それに疑似餌を作る鮮やかな布を用意してもらってくれと注文した。

 レイに付いてボースンも甲板に来たが、ボースンは、この魚は不味いと言って下に降りていった。

 筆の丞は、醤油が無いけど、切り身にして塩とニンニクの薄切りを散らしてから焼いたら美味いはずだと考え、寅右衛門と五右衛門を連れて櫓のほうへと移った。

 疑似餌の細工が功を奏したのだろう。2時間のうちに、いずれも1メートルもある大物が7本も釣れた。万次郎に、シイラを夕食のおかずにさせてくれと、レイさんに頼んでくれと言った。

 どうにか料理人のイリヤが試食を受け入れてくれた。試食の結果は良好で、夕食には水夫たちが上手いと褒めてくれた。

 

17ー 1841(天保12)年9月1日。ジョン・ハウランド号。

    一獲千金を夢見て捕鯨船に乗った銛作り職人・ガイズたちは、

    クジラが取れないことを筆の丞らの所為にして罵っていた。

 

18~21ー 1841(天保12)年9月16日。ジョン・ハウランド号。

        万次郎が発見した巨大マッコウクジラを仕留める

 9月9日から16日の今朝まで、8日連続の凪にまとわりつかれた。

 風が無いと母船が動けないので、ホエールボートだけでは、クジラに追いつけず捕鯨が無理なので、風が吹くのを待たなければならなかった。

 しかし、今朝、船長がボースンに、3本のマストの帆を解いて、いつでも帆が張れるようにスタンバイしておけと命じた。ボースンが水夫たちに、そのことを伝えて15分が過ぎた時、風が頬を撫ぜた。早速に船長の指図を受けて、ボースンは帆を張ることを命じた。

 ジョン・ハウランド号は前進を始めた。水夫たちは帽子を放り上げて喜んだ。

                                                

 万次郎が水平線を見詰めていたら、マッコウクジラの潮吹き(ブロー)を見つけた。

 (ここから、約21メートルのマッコウクジラをホエールボート5杯が連携しながら銛と槍で仕留める西洋式捕鯨が描かれていく。

 何本もの銛を身体に浴びながら、尾びれで海面を叩いてボート一隻を横転させたり、麻綱の付いた銛を打ち込まれ、ボートを引っ張ったまま疾走したりと、死力を振り絞るクジラと熟練の捕鯨師が死闘を繰り広げる状況が詳細に記述されている。)

 

22~24ー 1841(天保12)年11月20日。ジョン・ハウランド号。

        万次郎は日本人で初めて朝日に照らされたオアフ島を目にした

 

25ー 1841(天保12)年12月1日。ホノルル港。

    ホノルル港でのマンジロウとデロ(筆の丞)たちとの別離

 冬場のホノルル港の捕鯨船出向は、時間帯の風が船出に適していた午前9時が決まりだった。

 港の突端の巨大な時計塔の鐘が午前8時を告げていた。(筆の丞たちは、捕鯨船の暮らしを続ける中で、時計の見方と時刻の呼称法を学んでいた。)筆の丞が、あとワン・アワーしかなくなった。こっちのことは、わしが引き受けるので心配いらないと、万次郎に強い口調で請け合った。

                                                       

 万次郎のマッコウクジラ発見に加えて、万次郎が揚げパンを食べすぎての下痢騒動。この2つの出来事で筆の丞ら5人と捕鯨船乗組員たちとの溝は埋まった。

 水夫たちは、万次郎を除く4人の名前が呼びにくいので、ニックネームを付けてくれと、ボースンからの頼み事をレイはマンジロウに伝えた。

 筆の丞はデロ、重助はジュシカ、五右衛門はグイモ、寅右衛門はトレモ。万次郎はそのままのマンジロウということになった。

                                                      

 ホノルルの港で下船しようとしたとき、カメハメハ王国の官吏は、5人の入国許可を出し渋った。格別の漂流民を受け入れても王国発展の役に立たないとのことだった。

 マンジロウはホイットフィールド船長に、魚を取るのを見せたらどうだろうと言うと、それは名案だということで、デロ、グイモ、トレモの3人が小舟を漕ぎだして、舟の上から交替で投げ網を打った。羽衣を広げるかのように網が開いた。見物人から拍手が起こり、官吏は、この男達を雇いたいとレイに伝えた。船長は、少なくともマンジロウは手放したくなかったので断った。しかし、結果は船長のたっての頼みで入国を許された。

 デロは、地元民から、ホノルルからシャンハイ経由で琉球に行く船が出ていることを知ったが、船賃が独り80ドルと知ってがっかりした。

 数日して、マンジロウは4人に、昨日、船長に会って俺が捕鯨船に戻ることの許しを貰った。何度か捕鯨船乗りを繰り返して、皆の船賃を必ず稼ぐつもりだと決意を告げた。他の4人はジュシカの足の不自由のこともあり、とくに船大工を目指していたトレモは、性に合わないのか捕鯨船に戻ることは嫌っていたので、デロがみんなの意見をまとめて、マンジロウの決意に従うことにした。

 

 12月1日の朝、大時計の針が8時45分の位置に進んでいた。

 タラップの下で残留する4人がマンジロウを見送っていた。「行ってきます」とのマンジロウの短い言葉に、デロが、「何年かかってもいいから、身体に無理をするなよ」と言い、その言葉にはマンジロウへの感謝の心が込められていた。トレモも、「せっかく5人がみんな助かったのだから、ぜひまた、5人がここで会って、宇佐浦まで一緒に帰ろう」と、珍しく多くを喋った。マンジロウは無言のまま頭を下げた。その後、向きを変えて一気に40段のタラップを駆け上がった。

                              次章に続く

 

 

    

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[ 山本一力著「ジョン・マン2 大洋編」を読み終えて!! 4/6 ]

2014-11-24 15:01:22 | 読書

7~11ー 1841(天保12)年6月28日。ジョン・ハウランド号。

       船長の気遣いから、鳥島に忘れた「どんこ」が万次郎の手に戻る

 船長は、航海士とボースンを交えて、士官食堂でブレクファスト・ブリーフィング(朝食時の簡単な報告・説明・司令)を持つ。これがホイットフィールド船長の流儀である。前日の動向について、ボースンと航海士から子細な報告を受ける。その報告に基づいて、本日の行動予定を定める。席には必要に応じてそれぞれの職人やチーフが呼び入れられることもあった。今朝は通訳のレイが呼び入れられた。

 ホイットフィールドは、レイに5人の様子を聞かせてもらおうと指図した。

 少年の名前はマンジロウです。マンジロウは絵が描けますと、画帳を開いて船長に見せた。昨夜、二人で星空を見ながら話をしましたと、そのやり取りを話し出した。

 マンジロウは、母親から貰った大事などんこ(綿入れ)を鳥島に忘れてきた。そのことを涙ながらに話ししていた。マンジロウに限らず残る4人も大事なものを置き忘れているかもしれません。これから5人を存分に働かせるために、鳥島に心残りの品々を取りに行かせてやって下さいと船長に訴えた。

 船長が、脇に座っていたボースンを見た。レイが口にしたことに賛成ですと自分の考えを明らかにした。次に反対側の副長を見た。ガントレットは強く頷いた。船長は分かったと言って操舵士に目を合わせた。

 船長は、3歳の誕生日に母親からクマのぬいぐるみをプレゼントされ、6年もの間一緒に寝ていたが、家を建て替えた時に廃材と一緒に処分されてしまい、処分された悲しみから3年も立ち直れなかった思い出があった。

                                                         

 副長が船長に、予定の場所に停船しました。2時間後の正午に本船に戻す段取りでよろしいですねと尋ねた。よろしいと頷いた船長は、首尾よくウミガメの卵が手に入れば、クルーたちも喜ぶだろうと言って副長を下がらせた。入れ替わりにコーヒーを運んできた料理人のイリヤが、トリシマにウミガメの卵を取りに行くとラス(イリヤの友達の料理人)が張り切って、先程、ボートに乗船するために出て行きましたと告げた。レイが船長の話を流したのだ。

                                                        

 昨日のボート差し向けには、漂流者を救助するという大義名分があった。しかし、救助した者は船員として新たに戦力になるからで、人道的だからではなかった。増えた水夫は捕鯨数の増加をもたらし、水夫の実入りも増える。だから、副長以下の乗組員は船長に服従するのだ。

 船長は航海中は船上での君主だが、カネにならないことには、譬えボースンにケツをけ飛ばされても俺はやらないというのが大部分だ。自分の命を賭してクジラと闘い、カネを稼いでいる面々である。同情から体を動かす甘さなど持ち合わせていなかった。

 

12・13- 1841(天保12)年7月10日。ジョン・ハウランド号。

       重助の足の切開手術を甲板で実施

 航海の日を重ねるにつれて、重助の怪我が酷さを増した。そのため、三度の食事や厠に行くときは、誰かが重助に肩を貸した。それ以外は船室のベットに横たわっていた。

 銛作り職人の水夫・ガイズら仲間3人がボースンに詰め寄って、リーダーのガイズが、あの男の傷口から膿がしたたり落ちるほど溜まっていて、傍を通り過ぎる時に肉の腐った匂いがする。それに、捕鯨に何の役にも立たないときつい口を吐いた。あの5人をトリシマから拾い上げたのは捕鯨に役立つからだろう。捕鯨を手伝わせるために、足の怪我をすぐに治すのが筋じゃないか。本人が手術を嫌がるなら、我々は、そんな男の食費を負担させられるのは御免だと大声でボースンの対応を求めた。

 ボースンはマンジロウとレイを呼んで、ジュウスケの足の処置をしたい。イリヤは医者の心得があり、薬も痛みを和らげる魔法の葉もイリヤは持っている。もし手術を嫌がるのであれば下船してもらう。これは船長命令だと伝えた。

 万次郎は筆の丞に伝えた。もしも拒んだら重助は海に放り込まれることも告げた。筆の丞も網元の徳右衛門から聞いて壊疽の怖さを知っていて、そのことを重助に伝えた。重助も承知し、万次郎に、ボースンに伝えてくれと頼んだ。

                                                     

14・15ー 天保12年6月2日。土佐国香我美村。(1841年7月19日)

         漂流し鳥島から13年振りに帰ってきた長平の末裔から事情を聴く

 徳右衛門は、高知城下の吉岡屋に言い付けて香我美村の漂流者・長平の仔細を調べてもらった。調べた内容を徳右衛門に知らせて来ていた。徳右衛門は、15日ほどかけた調べ代に5両もの大金を吉岡屋に払って、報せの内容に大いに満足していた。遭難した長平の末裔が、今でも村らで暮らしていることまで調べ上げていた。

 徳右衛門は香我美村を訪ねた。長平の末裔は、長平の孫にあたり野村長二郎と名乗っていた。

 徳右衛門の挨拶を受けて、長二郎は、あれは天明5(1785)年1月のことで、いまから56年前ですと話を始めた。

 長平は、赤岡湊(香南市)から東に室戸の西の田野湊(田野町)に向かって、300石船の大型荷物船を4人で船出した。

 長平らは田野湊で荷を下ろして、腹ごしらえをしているさなかに空模様が大きく変わった。急ぎ、田野湊を出て西に一里も走らないうちに、大西風にぶつかって沖へ運ばれ始めた。船は黒潮に乗って漂流し鳥島へ漂着した。

 1年程で、長平の他の3人は生きる踏ん張りを無くして死亡し長平だけとなり、それから2年程して大阪の回漕船が漂着し、また2年程して薩摩の荷船が漂着し、全員で18名の共同生活が始まった。

 その後、難破船の残骸などを利用して船造りを始め、4年程かかって30石相当の船を造り上げ、八丈島に接岸して、下田の代官所に送致された。乗組員は14人になっていて、長平が在所の香我美村に帰り着いたのは、寛政10(1798)年1月だった。戻ってきたのは13年後で、家では法要が行われていたとのことだった。

 徳右衛門は、黒潮に流された船は鳥島に流されるのだ。うちの5人の中に船大工になりたがっていて習っていた男もいたので、5人は必ず達者で生きて帰ってくると徳右衛門は言い切って長二郎の手を強く握った。

                              次章に続く

                                

 

 

 

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