T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

葉室麟著「春風伝」を読み終えて! -4/5-

2013-04-30 09:19:36 | 読書

(35・36) 長州藩は朝敵となり、尊攘派も壊滅の淵に立たされていた

 文久4年(1864)1月、晋作は定広から呼び出された。

 「8月18日政変」後、長州藩は定広が警衛の兵を従えて上洛して朝廷に訴え出ようという機運が高まっていたが、馬関海峡封鎖でいつ外国軍艦が来襲するかわからないし、京で騒乱を起こして長州が孤立する恐れもあるとの種々の事情で、それが延期になった。しかし、尊攘派浪士を中核とする遊撃軍を率いた来島又兵衛は脱藩してでも上洛しようとしていた。

 晋作は、定広から、激発しそうな又兵衛を鎮静せよとの命を受けたのだ。三田尻に行き定広の意向を伝えたが、意見を曲げないので、京へ行って小五郎や玄瑞の考えを質してみるから、それまで待てと、又兵衛の進発を止めるには自分が暴発するしかないと、晋作は無断(脱藩)で京に出向いた。

 京では、朝廷の意向を受けて、薩摩、越前、土佐などの諸侯と一橋慶喜で参与会議を開き、薩摩の主導で政局を動かそうとしていた。しかし、小五郎の見るところでは、慶喜は薩摩とはうまくいかず、この会議は長く続かないので、今は暫く情勢を見るべきだ、京への出兵などとんでもないことだということで、晋作も京に留まることにした。

 そのような晋作の行動に対して、国許から、脱藩の行為を謗る非難の声が伝わって来た。晋作は手紙で「拙者は真の割拠、真の進発は得意だが、うわべのそれは不得意だ。」と述べて、今の藩内は熱に浮かされたように、過激な論者に煽てられ激情に酔って動こうとしていると、激しい調子で反論した。

 そんな中、土佐の中岡慎太郎が晋作を訪ねてきて、「尊皇攘夷とは、帝の許に、この国の人々が身分の隔てなく一丸となって洋夷を撃退することだと考えている。もし、幕府や大名がそれを妨げるならば討ち果たすだけだ。」と言う。まさに奇兵隊もそれだと晋作が言うと、慎太郎は、「長州の危急存亡の折りに、開闢総督の高杉さんが奇兵隊と共に長州にあってこそ働けるものだ」と進言する。晋作は、「私が京に居ても役に立たぬゆえ、さっさと長州に帰れと言いたいのか」と言って笑った。

 2月に入り、長州藩では進発論が湧きたち、来島又兵衛に遊撃軍を率いて上洛することを決めた。3月、小五郎は玄瑞と晋作に無謀な事と諌めるように帰国することを頼んだ。

 帰国した晋作は、当然のことながら脱藩の罪で野山獄への入牢の処分を受けた。

 7月、長州軍は京に迫り、三条実美ら7卿と藩主父子の免罪を朝廷に嘆願したが認められず、長州軍は京に乱入し、会津、薩摩軍との、いわゆる「禁門の変」が起きて、又兵衛は戦死、玄瑞は自決した。長州藩は「朝敵」とされた。人材百出し、世を覆う感があった長州尊攘派だったが、今や壊滅の淵に立たされていた。

 晋作は、この入牢は、周布が長州軍の上洛を留めることは困難だと判断し、その次の戦略のために晋作を残しておく必要があるとの考えからの対策だと思った。

 5月のある夜、周布が馬で牢獄に乗り入れ、「これしきのことに耐えられぬのなら防長の政事はできぬであろうから、3年の間、学べと叫んで去って行った。」そのため、その咎で罷免され蟄居した。長州の暴発を止めることができる重臣は居なくなった。

 野山獄から座敷牢に入った晋作に、父から知らせがあった。周布がイギリスに留学させていた井上聞多と伊藤俊輔が帰国して、しきりに開国を説いているというのだ。

 晋作は、薩摩、会津に敗北した後に列強国の連合艦隊が襲ってくれば奇兵隊だけで退けることは困難だ、今は、戦いにならぬよう外国と交渉を持つことが必要だ。そのために、周布の深慮遠謀でイギリスに学んだ俊輔らが外国との折衝に使えると、晋作は僅かながら光明を見たような思いがした。

(37・38) 幕府は長州藩追討の朝命を受けて西国の藩に出兵を命じる

 文久4年(1864)7月18日の禁門の変後、同月下旬に幕府は長州藩追討の朝命を受けて西国21藩に出兵を命じた。加えて四か国連合艦隊が横浜を出港し、馬関に向かったとの知らせも入った。長州藩政府は驚愕し、慌てて聞多や俊輔の止戦講和に方針を変えようとしていた。

 聞多たちと同じ考えの晋作は座敷牢に入ったまま、苛立つ思いを抑えきれないで悶々としていた時に八雲が訪れた。才助から太平天国が外人部隊などに敗れて滅亡した、自分はイギリスに行くつもりだとの言付けと、小倉屋からの「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」と考えてくれとの進言を伝えた。晋作は「今は、どうせ夷狄との戦いに負けるだろうから、和睦交渉で馬関の開港を果たせばよい」と言っているのだなと思った。

 その交渉に入る前に8月上旬、連合艦隊が国東半島の北東の姫島沖からやって来て、馬関の海岸線の砲台は叩きのめされ、上陸もされて砲台が占領された。

 そのような中、晋作の罪が許され、和睦交渉が晋作に託された。講和は成立したが、連合側の通訳の記録には、晋作の交渉振りに、賠償金の請求は幕府にすべきだと過大な要求には屈服するよりもむしろ戦いを望んでいたと、強かさを述べていた。また、馬関の開港についても、それとなく触れていて、イギリス側もそれを感じていた。

 その頃、幕府は征長軍派遣を具体化し、長州藩主父子の官位を剥奪して領土の削減、領主の蟄居を要求した。それを受けた長州藩内は、毛利家の存続を図るべきだとの恭順を主張する俗論派が台頭していて、藩は亡んでも義名を残すべきだとする武備恭順派(正義派)の晋作、聞多らと対立し、俗論派が主導権を握っていた。

 聞多もそんなときに数人から斬りつけられ大怪我を負った。周布も俗論派の台頭になす術もなく病を得て自刃した。その他の正義派の重臣はことごとく罷免された。

 晋作も役職を解かれ、自分の身に危険が迫っているのを感じていた。晋作は九州に行くことにし、湯田村に聞多を見舞い、徳地に駐屯する奇兵隊を訪ねて山形恭介から留められるが馬関の小倉屋に泊まる。

 小倉屋からも頼みとする人がいなくなると言われたが、晋作は「固い石にも石の眼があり、その一か所に鑿を打ち込めば容易に石を綺麗に割ることができる。その石の眼が何処にあるか九州に探しに行く」のだと言う。

(39) 晋作は尊攘派の再興を求めて11月上旬、九州に行く

 晋作は福岡藩の尊攘派志士を中心に九州諸藩連合が作られる事を夢見ていたが、諸藩の事情があり困難ということが判り、福岡藩の尊攘派領袖の月形洗蔵から幕府の探索が及ばない安全な潜伏先を紹介してくれた。

 征長軍は15万の大軍で長州藩に迫っており、薩摩の西郷吉之助は「長人を持って長人を制すべきでござる」と唱えていた。3家老を切腹させ、山口政事堂の破却を命じ、藩主は萩城外の寺で恭順の意を表していた。征長軍の要求は三条実美ら五卿の引き渡しを残すのみとなった。

 その知らせを聞いた晋作は長州の面目はどこにあるのかと、悲憤慷慨して、長州に帰ることに意を決した。そして、石の眼は馬関だと気づき、「馬関は師範量が入り組んでおり、俗論派の者たちが手を出し難い場所で、さらに、三田尻に移されておる奇兵隊の誕生の地だから、馬関を奪えば奇兵隊は故郷に帰ろうと動き出す」と言い募った。

 福岡藩主黒田長博は長州藩の征討は日本国を危うくすると、当時、奇兵隊が擁していた五卿を征討軍が求めているように九州に移すように、福岡藩士の洗蔵に命じて奇兵隊諸隊の同意を取り付ける交渉をさせていた。洗蔵が目指す「長州周旋」のための征討軍の相手は西郷である。(洗蔵は「薩長和解」で幕府に当たる以外に道はないと考えていて、薩長同盟の口火を切った志士でもあった。)

 晋作が帰る前に馬関の小倉屋で洗蔵が待っていた。洗蔵は、西郷はイギリスと手を組もうとしているが攘夷は捨てていないとして「薩長和解」を説いた。晋作は禁門の変で盟友の命を奪った不?戴天の仇敵なので、会いたくないが、五卿動座の折衝に成功した仙蔵が求めれば、西郷にとって三途の川にもあたる馬関に来ると言っていることに心を打たれ、両者が変名して会見することになった。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葉室麟著「春風伝」を読み終えて! -3/5-

2013-04-27 08:32:13 | 読書

(25・26) 晋作帰国時の薩長の攘夷論

 7月14日、3月振りに長崎に着いた晋作は、才助の紹介で、売りに出ていた2万両の蒸気船をオランダ商館から即決で購入することにした。藩に伺いを立てない晋作に驚くと、危急存亡のとき、長州藩が蒸気船を持たねばどうしょうもあるまいと言う。藩のほうでも購入しようとしていて、藩側の資金の目途がつかず、オランダ側から契約破棄の申し出となった。

 その頃の長州藩は、晋作が上海に行っている間に、小五郎や玄瑞の活動が勝って、雅樂の「航海遠略策」は放擲し、「破約攘夷」に藩の方針を転換していた。

 また、島津久光の薩摩藩が江戸まで行き公武合体への幕政改革の実を上げていたので、焦った長州藩も負けずに藩主が上洛し、定広は出府して朝廷と幕府の攘夷周旋を行おうとしていた。晋作も定広の手足となることを命じられて江戸に向かっていた。

 道中、防府から飛船に乗るため飛船問屋によると、小倉屋・白石正一郎が待っていて、晋作に長州藩の向うべき方向は如何にあるべきと考えているのかと問うた。晋作は「防長二国に割拠して富国強兵の策を施し、攘夷を行う。幕府を頼むことはない」と言う。小倉屋は商人として「馬関の開港を願いたい。そのためには、どのようなことも致します。」と言う。これは晋作の胸中に秘めている秘策であったので、一時、晋作は小倉屋に向かって殺気が走った。(小倉屋は薩摩藩抱えの商人でもあったので、才助が見抜いていた晋作の考えを聞いていたのだ。)晋作は即答せず、再会を約束した。

 晋作は、江戸への途中、今日で見聞きする尊攘家に、あまりにも志士気取りの「功名勤皇」が多く、自らの攘夷の戦略とかけ離れていることに失望していた。そして、上洛していた藩主に上海行きの帰国報告をした際に、周旋でなく割拠を念頭に、国許に戻るべきだと進言した。しかし、藩主は定広に告げよと相手にしてくれなかった。江戸に入った晋作は定広にも周旋は止めて藩の富国強兵に努めるべきだと進言した。晋作の頭は割拠の方向にあったので討幕の言葉が出て定広にお叱りを受けた。

 その頃、周布も「攘夷而して後、国開くべし」と書にしたためていて、晋作の考えで、まず、攘夷をやれと促していた。

(27・28) 長州の尊攘派の動き(1)

 11月に入り、井上聞多が、外国公使が武州金沢で遊山することを聞きこんできた。この時期、長州藩の周旋で勅使が江戸に入り、幕府に攘夷の決断を迫ることになっており、定広が勅使補佐の勅命を受けていた。

 長州攘夷派は公使襲撃について意見が分かれ、玄瑞が「見送り」に、晋作は「実行」と意見が対立した。玄瑞は、土佐の武市半平太に企てを打ち明け、話が藩主容堂に注進され、容堂から定広に晋作たちを鎮撫するよう求め、幕府にも内報した。定広は自ら馬を駆けて晋作らをこの度は思い止まってくれと諭す。

 朝廷と幕府が一丸となって行う攘夷を玄瑞は目指していたが、晋作の考えは違っていたのだ。

 上海で、名倉予何人が晋作を評して「知りがたきこと陰の如し、動くこと雷霆の如し」(敵軍に動きを知られないように暗闇に隠れたかと思えば、雷のように突如、敵を討つという意味)と言っていたが、晋作は尊攘派の中心にいるように見えながら、一人だけ違う道を走ろうとしていた。まさに雷がどよめく闇を駆け抜けようと動き始めた。

 その後、勅使への配慮が無関係となった時点で、長州尊攘派は、幕府が建設中のイギリス公使館に火をつけて晋作の策謀による攘夷を実施した。

(29) 長州の尊攘派の動き(2)

 翌年(文久3年ー1863)2月、江戸の晋作は、父からの手紙で、雅樂が割腹したことを知る。失脚蟄居していた雅樂は、自分が生きていては藩内の対立が起こるとの考えからだとのことだった。玄随の厳しい批判によるものだと、晋作は長州の大きな損失だと暗澹とした思いだった。

 同月、将軍家茂が攘夷を迫る朝廷に対し、それに答えるため京に向かった。(その後、家茂は遂に5月10日の攘夷決行を奉答した) 長州藩の玄瑞ら尊攘派も将軍上洛に続けと京に上っていて、晋作の上洛を要望する玄随に、晋作は応じようとしなかった。その後、聞多を通じての定広の命で上洛した。

 しかし、一旦、上洛した後、賀茂神社への天皇行幸に随行している将軍に向かって「征夷大将軍」て叫んで、自ら国許に帰り謹慎すると藩邸を抜けて、祇園に三日ほど居続けた。その間に周布が来たので、晋作は「馬関を開港し交易により大砲や軍艦を買えば長州だけで攘夷の戦が出来る」と言うと、周布は、まず、攘夷のために政(マツリゴト)を動かさねばならぬ、今は、政を制するために走り出している、お前の出番は、その後の10年後と言う。

 周布が帰った後、薩摩の才助から小倉屋に届いた知らせで、周美玲がウォード軍と戦い、ウォードを狙い撃ちしたが、自分も撃たれて死亡したとの知らせが届いた。

 翌日、晋作は松陰先生の「草莽崛起」を実施すると言って帰国した。

 その頃、玄瑞らも帰国しており、馬関への出張を命じられ、そこを尊攘派の本拠として「光明寺党」と名乗っていた。

(30~32) 騎兵隊の誕生

 晋作は父が用意した草庵で、妻の雅と結婚して3年になるが、初めて二人だけで過ごしていた。

 文久3年5月に入り、玄瑞ら光明寺党は、将軍が奉答した攘夷期日5月10日を待って藩の庚申丸に乗船した。おりから、夕刻、馬関沖を通過するアメリカ商船やフランス軍艦、オランダ軍艦に薄闇に紛れていきなり砲撃を加え損害を与えて逃亡させた。そのため光明寺党は攘夷戦の初戦を勝利したと誇っていて、西欧諸国の戦力を侮っていた。

 その頃、晋作は、光明寺党の攘夷決行の誘いにも応じず、草庵を出ようとはしなかった。

 光明寺党は京が不穏だと馬関任務を離れた。

 6月に入ると列強諸国の報復が始まった。アメリカ軍艦が長州藩の軍艦3隻を難なく沈没や航行不能にした。フランス軍艦は長州軍艦が無くなっていたので、砲台を破壊し上陸して近村を焼き払い去って行った。長州藩は完敗した。

 そんな中、晋作がいる草庵に、小倉屋が訪ねてきて、商売の拠点である馬関が開港どころか洋夷のものになってしまう。晋作に長州藩の攘夷派の先頭に立って戦ってくれと懇願した。(定広もそれを考えていた) 晋作の心が動かないことにしびれを切らして、小倉屋は、「長州様が動かないのならば、馬関は町人の手で守らねばならない、ご領地はお武家さんのものだが、港の商いは町人のもの、町人は商いに命を賭けているので町人のものは町人が守る覚悟がある。これは皆の総意です」と言う。

 「皆の者は、皆で守るか、良いことを言う」と晋作は海路図を広げ、馬関に砲台を作り、百姓、町民であれば、馬関の向かい側の小倉領内にも砲台を作ることができるだろう、狭い海路の馬関海峡を封鎖するのだと戦略を示した。これこそが松陰が言い残した「草莽崛起」だと思った。

 即座に、山口の政事堂に入り、藩主や定広に、「臣に一策あり」と答え、馬関行きを命じられた。

 馬関を守る藩正規軍の隊長の来島又兵衛に「百姓、町人であっても真に身命を擲つものを兵といたし、新しい軍勢を作り戦うのだ」と言い、賛同を得て、武士を含めた社会の各層からの民兵の諸隊が合体した「奇兵隊」を作り上げた。長州で10数万人の農民が加わった天保の大一揆の脅威を知っている来島又兵衛は、脅かさらる危惧を感じた。

(33) 薩英戦争

 生麦事件の下手人の断罪と賠償を求めていたイギリス艦隊が鹿児島湾に姿を見せて、藩所有の蒸気船3隻を沈没させ、砲台や民家にも砲弾を撃ち込んだが、薩摩藩側も頑強な抵抗をし、イギリス側にも死傷者や軍艦の被害を受けた。そのため、イギリス艦隊も十分な戦果を上げずに引き上げた。

(34) 奇兵隊取締り不行き届きで罷免された晋作は、再度藩政の表舞台に立つ

 藩正規軍と奇兵隊との間には、わだかまりができており、定広が馬関を視察した際に、奇兵隊を先に督励したことから、それが噴出し、正規軍の一人を刺殺した。奇兵隊総督の晋作は待罪書を藩に提出し、謹慎処分を受けた。

 しかし、この時期、薩英戦争で痛手を負った薩摩藩は攘夷を捨ててイギリスと和解をするため、その仲介を会津藩に頼みたいと手を握り、朝廷の攘夷親征を主導していた長州藩を一転させて、反対に朝議で宮廷の堺町門警衛の解任をした。長州勢は三条実美ら7人の尊攘派公家と共に長州に帰らざるを得なかった。

 いわゆる「8月18日政変」で京の勢力を失った長州藩は、失地回復のための強力な指導者として、晋作を重職として藩政の表舞台に出した。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葉室麟著「春風伝」を読み終えて! -2/5-

2013-04-26 11:51:37 | 読書

(10~12) 長州藩軍艦で江戸に出るが、世子様の密命で象山と小楠を訪ねる

 安政7年3月、井伊大老が暗殺される。

 同月、晋作は、長州藩が自藩で初めて建造した洋式軍艦丙辰丸で瀬戸内海から太平洋に出て江戸へ行き、幕府軍艦教授所に入ることを命じられた。

 すでに出府していた定広は、小五郎や玄瑞の過激な行動(水戸藩士と老中の暗殺を企てるとか、外国人殺傷で幕府の開国方針を変更さす「水長条約」の締結)に晋作を巻き込まれないようにするため、江戸に着いた晋作に密命を与えられた。当代きっての知識人の佐久間象山と横井小楠の所存を聞いてくることだった。父の考えも同じ考えであった。

 晋作は、改めて、自分が藩の上層部に入っていけば、小五郎や玄瑞などの松下村塾の者たちとの間に溝ができるかもしれない。難しい立場にあるのだ、と思って愕然とした。父は晋作の困惑の顔を見て、今後、迷うことがあるかも知れぬ。その時は自分が選んだ道が正しいかどうかわからなくとも意を曲げずに断固進めと言われ、晋作は迷妄を払われた心持がした。

 江戸まで船旅を続けてきて、軍艦を動かすことにいささか飽きていて幕府軍艦教授所に入ることに魅力を感じなくなっていた。そして、晋作は常に世の中より一歩先んじたいと思っていて、先んじなくては夷狄から国を守ることなどできないと、自分に言い聞かせていた。

 信州松代藩で象山に会った。晋作の感想は、「西洋兵学を学び、西洋の文物への関心を高めて知識を取り入れようとしているだけの人で、おのれの才能を強烈に自負する心はあっても、国の将来の姿を描き出す方策を持ってない」と見た。

 越前福井藩にて小楠に会った。藩主春嶽は小楠を招いてオランダとの外国交易を実践し90万両の借金を無くした。晋作は小楠から交易の難しさについて教えを受け、「外国との関わりも礼儀によって行えばいいのだ。彼等の無法は礼に外れる。非礼を咎め、しかるべき後、礼を以って交わる。礼儀の儀は人が儀をなすということであろう。つまるところ礼を尽くすは義をなさんが為である。」と交易の心を教わった。

(13・14) 長州藩は朝廷と幕府の間を周旋して国政に口を挟もうとしていた

 文久元年(1861)3月、晋作は定広の小姓役となる。その頃、井伊大老の暗殺により、幕府は弱体化し、幕府の思惑通りにはなかなか運ばない状況にあり、長州藩は朝廷と幕府の間を周旋し国政に口を挟もうとして、長井雅樂が建議した「航海遠略策」(朝廷が率先して開国の方針を取り、幕府に命じるもので、開国して大いに交易をおこなって国力を充実させ、諸外国に堂々と伍していこうというものものだ。)を藩論として朝廷と幕府に遊説しようとしていた。

 一方、松下村塾の門人による尊皇攘夷派は、朝廷を援け幕府が攘夷を行うように働きかけているので、開国の幕府を支持するものだとして反対し、雅樂を亡き者にしようとしていた。晋作も父を介して雅樂から意見を求められ、朝廷にも幕府にも諸外国と対等に交易を推し進める力はなく公式一和のための方策としては空論だと思い、「交易において、洋夷に対しての交渉は鉄砲や刀を用いぬ戦です。しかし、その覚悟が必要です。この論にはそれがない。覚悟がないと、きれい事を並べただけになるのではないでしょうか」と言って反論した。

(15) 萩で小姓役の閑職にあった晋作を江戸に近侍させ、藩政の中心に、そして、上海に

 同年5月、馬関の小倉屋白石正一郎の女番頭・八雲が、萩に晋作を訪ね、ロシヤ軍艦が対馬に居座り測量し略奪をしているとのことを、旦那からの使いとして、長州藩改革派の松下村塾の方々を名指して知らせてきた。(その後、ロシヤによる対馬占領は世界一の海軍を持つイギリスの介入で回避された。)

 その頃、長州藩内は村田清風の系譜を継ぐ改革派と椋梨藤太に連なる保守派に別れていて、改革派の周布政之助は、萩にいる晋作を江戸詰めとして定広に近侍せよとの命を出した。

  雅樂を亡き者にしてもよいと思うほどの過激な改革派を、玄瑞では自分が激しすぎて説得できなく、晋作ならば玄瑞を救えるとして、また、周布自身の跡取りとして改革派のリーダに座ってもらうためである。

 その後、玄瑞は、雅樂の藩論を阻止する提言のため、出府途中の藩主敬親を伏見で待ち受けたが、藩主の到着が遅れ目的を果たさなかった。周布は思いつめた玄瑞の行動を危ぶんで、同行した。結果は、両人とも、無断で西下したことを咎められて国許に返された。

 定広は晋作を藩政の指導者として考えていて、周布からも、西下に際して、晋作を尊皇攘夷派の過激者から狙われるので庇ってほしいとの願いもあり、幕府の遣欧使節に推挙したが許諾を得ることができず、幕府が交易のため幕吏を上海に派遣することになったので、強引に従者としてそれに潜り込ませた。

(16・17) 晋作が見た上海の状況

 文久2年(1862)1月、晋作は上海に赴くため幕府西洋帆船・千歳丸で江戸を発って長崎に向かった。

 晋作は相手を知りもせずに攘夷などできないと思っていたので、2か月間の長崎滞在中、外国人から外国の国情、国勢や国際条約を破棄したら戦争になることなどを学び、長崎に蔵屋敷を設けて外国との交易の必要性を「長崎互市之策」と称する考えに纏めて、小五郎や玄瑞に手紙を送った。

 船中でも、船員が全員イギリス人だったので、上海に着くまで、船のこと世界のことの勉強をして、長崎から1週間の船旅で5月上旬上海に着いた。

 晋作が上海で見聞したいことは、洋夷が遣っていることと、他の藩の藩士も乗っていたので、口には出さなかったが、弱体化した清国政府と攘夷を貫いている太平天国の実態について知りたかったのだ。

 船には薩摩藩士の五代才助や佐賀藩士の中牟田倉之助、浜松藩士の名倉予何人なども乗船していた。

 上海は西欧列強の租界が多く清国屈指の商業貿易都市で、まるで城郭が立ち並んでいるようだと、晋作は目を瞠った。当時、中国は、長江流域の南部は太平天国の勢力圏にあり、南京は天京といい太平天国の都になっていた。しかし、同じ南部の上海は、租界が多く西欧列強が自分の利益のために援助しているので清国の管轄圏になっていた。そのため、当面、太平天国の攻撃は無く、晋作らは上陸し宿館からあちこちと上海を歩いた。

 晋作が最初に驚いたことは、道路を歩いている清国人が邪魔になると西洋人から怒鳴られたり、鞭で打たれたりすることであった。一番驚いたのは、イギリス人が金を出しているが、自国に架かった橋を自国民の清国人が渡るときは、イギリスに金を払っていたことであった。

 知人となった清国人の陳汝欽の話によると、清国の西太后は、「列強勢力に屈服することは望まず。されど、内乱を治め、清朝を守らんがため列強と手を組んでいる」とのことだ。晋作が「内乱を鎮めるためとはいえ、洋夷を引き入れることこそ亡国の道ではないか」と言うと、陳は、「政府には攘夷の意はあるが力が無い」と言った。

 陳の紹介で、太平天国に味方し、助勢している周美玲という女性を知った。その日の夜、アメリカの蒸気船が火を噴き、燃える船の傍らを小舟で逃げる周美玲を見つけた。

(18) 上海の西洋人の考え方を宣教師から知らされる

 長州藩が板行した「英国志」を書いた宣教師・ミュアヘッドを訪ねて色々のことを聞いた。

 キリスト教を信奉している太平天国をどう思うかと聞くと、「あの反乱者たちはキリスト教徒とは言えない」と、この宣教師には、キリスト教の影響を受けた一神教を振興する者への温かさは、微塵も感じられなかった。自分達だけを人だと思い、清国人や日本人を見下ろしているのだろうと思えるほど、上海にいる西洋人は不遜に振る舞っていた。

 晋作は、象山が唱える開国論は西欧列強の傲慢な振る舞いを見ずに説いていると、改めて思った。日本人が海外の文物を取り入れさえすれば西欧諸国と肩を並べられるようになるとの考えは間違いで、彼らはそれを許さないだろうと思った。だとすれば、我が国が富強になるためには小楠が説くように、堂々と我が大義を西欧列強に示していくしかない。それには「やはり開国攘夷だ」と晋作は呟いた。

(19) 「反清復明」を目指す攘夷結社・小刀会の周美玲と再会を約す

 それから二日後に、また、大きな音が響き、巨大な船の中央に火の手が上がり船体が傾いていた。海岸でイギリス兵やフランス兵が清国人の女を追っていた。

 晋作は彼女を助けて、自分らの宿館に連れ帰った。同僚の藩士に「洋夷と戦っている女人だ。見捨てては日本の尊皇攘夷が廃ることになるので一泊匿う」と言った。

 彼女は、太平天国の者でなく、「反清復明」を目指し太平天国に呼応して決起し、一度は上海を占拠した秘密結社の一つの「小刀会」に属している者だと言う。

 翌朝、再会を約束して、周美玲を無事逃がしてやる。

(20~24) 周美玲を上海から逃がし彼女の志を遂げさせるために天京に向かわせる

 その頃、日本では、「寺田屋騒動」(島津久光の命による過激な尊攘派薩摩藩士等が刺殺される。)が起こっていた。才助から聞いて、晋作は、同一藩士同士に斬り合いをさせた久光の非情が許せなかった。

 10日後、晋作は周美玲に会いたいため、陳汝欽を訪ねた。陳汝欽は孔子廟内で太平天国の間者としてイギリス軍に取調べられていたのだが、助けてやったところ、陳汝欽は、周美玲はイギリス軍に狙われているので、この短銃を渡してくれと頼まれた。周美玲の隠れ家に行き、その旨を話すと、この短銃で上海の清国外人部隊のリーダーのアメリカ人・ウォードを討つつもりだと言う。

 後日、周美玲は練兵(軍事演習)の場で実行したが、銃弾は掠めただけで、周美玲は追われるが、その寸前に、晋作は自分の連発短銃を空に向けて発射し、暴発したのだと言って、その隙に周美玲を逃がしてやった。

 2日後、晋作は、周美玲と、上海から脱出する手助けが必要ではないかと会う。周美玲の周りには小刀会の遺児が十数人いた。上海を脱出するのは逃げるのではなく、天京にいる太平天国の幹部に上海を外国の手から奪い返すことを進言するためだ。今、欧米諸国の侵略の憎みを託せるのは太平天国しかないと言う。

 周美玲が歌う「人民はお上を恐れ、お上は洋鬼を恐れる、洋鬼は人民を恐れる」に、晋作は「私は百姓、町人と共に立って洋夷を討とう」と思った。

 晋作は、長崎から他藩の友と協力して、周美玲と遺児たちを、イギリス兵に見つかる危険もあったが、清国人の支援も受けて、船で逃がしてやった。

 周美玲の「われ汝を愛す」の言葉を胸に、7月5日、晋作を乗せた千歳丸は帰国の途に就いた。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葉室麟著「春風伝」を読み終えて! -1/5ー

2013-04-24 16:19:30 | 読書

フォントサイズは「普通」で入力しているから150%に拡大して読んでください。

「概要」

 新潮社サイトより「長州藩士・高杉晋作(本名、春風)。幕府を守るべき彼が、欧米列強に蹂躙される上海の姿に日本の未来を見た時、「レボリューション(革命)」の天命は下った。民衆を率いて四か国連合艦隊と幕府から藩を守り抜き、徳川治世を散らす嵐となった男の奇策に富んだ戦いと、28年の濃密な生涯を壮大なスケールで描く、渾身の本格歴史小説。」

 表帯より「疾風のごとく生きるとは、人より先を歩むこと。時代を変革した男は生き方全てが新しかった。詩と女を愛し、敵をも魅了した英傑の奇策に富んだ嵐の生涯! 満を持して世に送る本格歴史長編。」

 裏帯より「ずっと晋作を描きたかった。この小説は今の私の集大成です。」「攘夷か開国か。国論二分する幕末。晋作は初めての外遊先・上海で、欧米列強と戦う民衆の姿を目の当たりにし、日本で取るべきだ第三の道ーー革命と出会う。奔馬の気性ゆえの度重なる脱藩、蟄居、幽閉。しかし、その都度請われて戦いの最前線に舞い戻り、藩の窮地を救った男は、ついに幕府を相手にレポリューションの引き金を引く! 」

                                                                                                                           

「あらすじ」

 晋作の当時の日本の進むべき方向についての思想と、彼の先見性による行動力に焦点をおいて各章ごとに内容を表すための少し長めの標題を記述し、各章の中の記録しておきたい部分を一部省略して記述することで纏めてみた。

(1) 長州藩世子・定広への晋作のお目見得

 鴨の羽をつける柴矢(稽古矢)を作り終えた晋作に、同じ年の世子・定広が、なかなか器用だ褒美を取らすが何がよいかと問うと、「元服いたした後、江戸へお供仕りとう存じます」と小姓役の父が恐縮することを答える。供を許すと言われた晋作は、武術を好み熱心に稽古をしていたところから、江戸へ行ったら、まず、萩でも有名になっていた江戸三大道場の力の神道無念流・練兵館に入門しようと思った。

(2) 晋作、初めて松陰と面接する

 修行で萩に来た練兵館道場主の調子・斉藤新太郎と桂小五郎が松陰宅で試合した。それを陰で見ていて、小五郎の紹介で、晋作は松陰を知る。松陰23歳、小五郎20歳、晋作14歳。

 藩校明倫館の教授を務めたこともある松陰から「青雲の志を遂げたいのであれば、江戸に出て多くの人に合い、学ぶべきです」と言われ、晋作の胸に熱いものが迸った。

 翌嘉永6年1月、松陰は、再度、江戸へと旅経った。

(3・4) 出府した16歳の晋作は、定広から松陰を連れて来いとの命を受ける

 元服した翌年の嘉永7年(1854)2月、父と共に江戸の桜田門屋敷に到着した。

 父から、その年の正月、ペルリなる墨夷の使者がまた江戸に来たことを知らされ、晋作は「いよいよ夷狄を討つ戦になるのですか」と言う。

 その2・3年前から、萩の城下では、武家の子は「夷狄斬るべし」と奮い立っていた。晋作と仲の良い友の久坂秀三郎(玄瑞)などは、その急先鋒で、「黒船に乗り込んでペリー提督を斬ればよいのだ」と言い募っていて、晋作も同じ意見で、父の話に、命がけで黒船に乗り込む時が来たと興奮した。

 しかし、父から「幕府では函館の開港を決められたようだ」と教えられ、晋作は「攘夷に屈したのですか」と目を剥いて、納得できず、もやもやした気持で日を過ごしていた。

 3月に入ったある日、定広から呼び出され参上すると、定広の手許に、松陰からの提案書「海戦策」が提示されていた。定広は本人の意見を聞きたいが、松陰が、以前、脱藩の罪を犯した者だったので、内密に連れて来いと晋作に命じた。

 晋作が松陰の行方を探すと、先日、ペルリ率いる軍艦に乗り込み墨夷に渡ると言って別れの宴を開いていたと聞く。定広に、その旨を報告すると、止めて参れと指示された。

 横浜村で松陰と会い、晋作も、アメリカの軍艦が晋作の想像を超えた巨大さに、松陰の「海戦策」も絵に描いた餅だと思い、国を守るため未知の世界を知るため、自分も一緒に連れて行ってくれと言う。松陰は「私は一介の浪人(士籍剥奪の処分を受けた)で、この道しか残されていない私だからできることだ。貴方は上士で世子様と話ができる身分だ。国難に際して貴方にしかできぬことがあるはずだ。単に自分の望みだけを口にするのは軽薄だ」と晋作を諭す。

 松陰は、密航企ての罪で江戸伝馬町の牢から萩の野山獄に護送され、晋作も、黒船騒ぎの江戸に晋作がいることを心配した祖父又兵衛の願いが叶って呼び戻された。

(5~7) 松下村塾に通い始めて1年、20歳の晋作、再度江戸へ

 松陰は禁固の身になって、安政3年(1856)、松下村塾を開き、子弟の教育を始めた。翌年から晋作と友人の玄瑞は松下村塾に通い始めた。松陰は晋作たちを弟子というよりも時勢を憂うる同士だと見なしていた。

 晋作が理解していた松陰の攘夷鎖国論は「まず国力を振興した後、我が国から進んで鎖国を解き、海外との交通を開くべきであり、そのために、朝廷を奉じようとするもの」であった。

 ある日(安政5年2月)、晋作20歳、松陰は、弟子たちに、来萩した海防僧として名高い月性の法話を聞くことを薦めた。晋作は、月性の「海防のため士農工商を問わず、新しい兵制を整えるべきです」という言葉に衝撃を受けた。

 玄瑞などが先に江戸に遊学していたので、後れを取った気がして、松陰に周旋を頼み、松陰から祐筆役の周布政之助に請願するなどして、この年8月、再度の江戸行きが叶った。

 半年後、玄瑞が帰国に際し、晋作と飲み交わした際、松陰観について、先生に学ぶべきものは「国を守ろうとする思いに、虚栄の心を持っておられぬところだ。」「虚栄心が大きい人は、誰よりも己が国を憂えていると言いたいがために過激の言を吐き、何事も為しえない。国を守ろうとするのでなく、己の虚栄を守ろうとしているだけだ。」と言う。そして、晋作への先生からの伝言を伝えておくと言い、「青史に名を留めたいという思いは、士たる者にとって当然。晋作は剣に優れ、詩文に長けておる。気概は世を覆うに足りて世に顕われぬわけがない。しかし、それだけに、己の際に溺れるならば、みずからの道を見失う。」と話してくれた。

(8) 松陰は萩の野山獄から江戸へ護送、安政6年、晋作には帰国命令が出る

 松陰は野山獄の中で、幕府や反政府への失望から「草莽崛起」によるしか望みはないと考えるようになっていた。(孟子の書の中の「野に在るを草莽の臣と言う。皆庶民なり。」から、地方の草深い地に住み、身分が低く、貧しい者の中から世を変える者が出てくるという意。)

 松陰は、梅田雲浜の一味とみなされ江戸に送られた。

 晋作が伝馬町の牢にいる松陰のために動き回るのを気遣って、父は晋作の帰国を藩に願い出て許され、親孝行を辞任していた晋作は素直に従い帰国した。(松陰も許されて萩の野山獄に帰されるものと思っていたところがあった。)

 松陰は、晋作が萩への帰国途中の10月27日、刑場で斬首された。

 また、玄瑞も松陰と入れ違いに萩に帰っていて、松陰が後継者と思っていた二人と死を前に会うことはなかった。

(9) 22歳の晋作、安政7年1月、見合い結婚をする

  萩で一番の美人と言われていた井上兵右衛門の娘・雅(16歳)と祝言を上げた。

 両人の父の小忠太と兵右衛門があわただしく婚儀を進めたのは、松陰の刑死によって思いつめた晋作が何をしでかすか解らないと危惧してのことだ。

 婚礼から10日後、親の気持とは別に、晋作は玄瑞と相談し、松陰の百日忌の法要に合わせて、門人17人の名を刻んだ灯篭などを墓前に据えて、師の意思を継ぐ決意を顕わした。

 

 

  

  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の日!

2013-04-21 12:07:58 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                           

Mama1001 

                                                                                                                                                       

 今日もスーパーの一角の写真。

 スーパーでは、すでに母の日。

 まだ一か月ほど先だ。

 少し早いが、スーパーは何でもこんなものだ。

 母の日だけは、母は亡くなっても、

 母に感謝の大切な一日の、

 私なりの「母の日」にしたいと思っている。        

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする