T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「影法師」を読み終えて!!

2012-07-17 08:16:05 | 読書

「概要」

百田尚樹作の江戸時代の武士の世界の友情物語。

「光があるから影があるのか。影があるから光が生まれるのか。ここに、時代小説でなければ、書けない男達がいる。

 「泣くな」、父の遺骸を前に泣く勘一に「まことの侍の子なら泣くなっ」と怒鳴った同じ幼い少年・彦四郎。

 勘一は作法も知らぬまま、彦四郎と刀を合わせて刎頸の契りを交わした14歳の秋。

 それから年月が過ぎた。頭脳明晰で剣の達人。将来を嘱望されていた彦四郎。何故彼は不遇の死を遂げたのか。国家老・名倉彰蔵(幼名・勘一)は、その死の真相を追う。

 お前に何が起きた。お前は何をした。俺に何ができたのか。

 二人の運命を変えた20年前の上意討ちの事件。確かな腕を持つ彦四郎が何故に「卑怯疵」を負ったのか。

 その男の生きざまをミステリー的に映し出す、「永遠の0」に連なる代表作。」(裏表紙より)

「あらすじ」

 勘一と彦四郎の友情の絆を中心に、序章は現状、二章以下九章は回想、十章は現状を、そして最終章は勘一の妻・みねの彦四郎への思いの回想が記述されているので、中心となるテーマーに沿って纏めてみた。(下線を引いた文章は心に残った部分)

(序章)ー竹馬の友・彦四郎の死

 「磯貝彦四郎は二年前の冬、労咳で亡くなっておられた」と若党の九郎右衛門が筆頭家老・名倉彰蔵に報告した。城下から10里ほど離れた港町の浦尾で、汚い町人長屋に住んでいて、昼間から酒を飲んで博徒の用心棒をしていたとのことだったと、その知らせに補足した。

 「彦四郎は儂の竹馬の友であった」と、彰蔵は初めて彦四郎に会った40数年前の自分にとって生涯忘れることのできない日のことを想い出した。

(一章)ー父の死

 江戸時代の茅島藩では、上士、中士、下士の間に厳然たる身分差があり、下士は上士と城下ですれちがう時は、草履を脱ぎ道の脇によけ跪かなくてはならなかった。

 戸田勘一(彰蔵の幼名)は貧しい下士の家に生まれた。

 7歳の春、父・千兵衛と晴れ着を着た妹・千江と共に鯉釣りに行った帰り、中間を連れた上士に出くわした。

 土下座を渋る千江に泥を撥ねかける上士に、「それでも侍か、恥を知れ」と怒鳴った勘一に上士は斬ってかかる。千兵衛は、その寸前に上士の両腕を切り落としたが、不自由な片足を泥に取られて滑り、中間に槍で突かれて命を落とした。

 父の遺骸と共に担ぎ込まれたのは、中士の磯貝喜右衛門宅であった。父の遺骸を見て俄かに凄まじい後悔が湧き起り涙が込み上げた。

 その時、「泣くなっ、武士の子が泣くものではない」と勘一と同じ年恰好の少年・磯貝彦四郎が叱咤した。

 評定の末、戸田家の20石の家禄は半知になり、捨扶持として支給することになった。

(二章)ー彦四郎との再会

 極貧の中、勘一は8歳から下士や足軽の子弟が行く康塾へ通い、道場へは束脩(入会金)が無かったので行けず、正臨寺の裏庭で木刀の素振りをして打ち込みの鍛錬をした。竹籤細工職人の五郎次について竹籤細工を習得して虫籠などを作る内職をした。

 藩主の発案により藩校の門戸を下士にも広げることが決まり、康塾の明石塾長は勘一を推薦しようとしていた。

 正臨寺の住職・恵海から、その話を聞いた勘一は、学問は人の道の心理を極めるもので出世の道具と考えていないと言うと、恵海はせっかく学んだ学問が世のため人のために生かされず、ただ己の知識のためだけにあるとしたら、つまるところ手慰めと同じでないかと教える。

 また、五郎次は、藩校への推薦の話を聞いて、わしが足が不自由でこの仕事をしているのも天命。人には天命というものがあり、もし、天がお前に藩校にとやらに行けと命じているならお前は行くことになると言う。しかし、勘一の心は動かなかった。

 その夜、母から、かって亡父も藩校に上がり、そこで虐げられて足が不自由になったことを聞き、五郎次の言葉が浮かんできた。そして、敢えて藩校に上がることを決意した。

 藩校での当初は、勘一を虐げる上士の子弟たちだったが、容赦なく向かってくる勘一の姿に恐れをなしてか、暫くすると勘一に構う者は無くなっていた。

 藩校で友を持つことはないだろうと思ってい勘一は、彦四郎に再会した。そして、彦四郎の友人の中士の葛原虎之丞、中村信左、飯田源次郎と交流を深めるようになった。

 彦四郎は藩校一の秀才で明晰さと洞察力は教授らの認めるところで、堀越道場でも剣術の技は抜きんでていた。それほどの男でありながら彦四郎は奢るところは微塵もなく、次男でありながら爽やか快活で表裏のない性格は多くの少年に慕われていた。

 勘一は無口で、どちらかといえば陰気な性質なのに二人は妙にウマがあった。

 しかしながら、彦四郎にも「俺は婿に行けなくても構わない。どの道白勤めなどは性に合わん。それに嫁の家に気兼ねして生きるのは嫌だ。道場でも開いて気儘に生きるさ」という反面もあった。

 虎之丞は次男、信左は嫡男、源次郎は三男で、同じ武士の家に生まれても、嫡男以外は家を継ぐことはできず、出仕もできない。婿養子に行かないと、源次郎の叔父のように、一生部屋住みとなり、「厄介叔父」と言われ妻帯することもかなわないのだ。その点、勘一は幸せに思った。

 そんな話が途切れた時に、気晴らしに泳ぎに行こうということになり、泳げない勘一もついて行ったが、大雨の後で水量が多く彦四郎だけが飛び込んだ。

 少し泳いでいた彦四郎は足を攣って、一時、体の自由を奪われた。勘一らは次の下流の橋まで行って助けようとしたがどうにもならず、勘一だけが無我夢中で飛び込んだ。

 反対に助けた彦四郎は、勘一になぜ飛び込んだのだと問うと、分からないと言いながら川を見て震えていた。

 暫くして、勘一は彦四郎から堀越道場への入門を誘われた。束脩の金は千江の為にとっておいた母の嫁入り着物を売って用意してくれた。

 初日に、道場主から、剣は武士の心を掴むためのものだ。勝ちを得るためにはまず自分の命を投げ出すところから始めなければ勝つことができない。不惜身命(仏のためには身命を捧げて惜しまないこと)、剣の極意はそこにある。その精神に到達するためだと教えられた。

(三章)ー百姓一揆と勘一の願望

 百姓一揆が起こる。勘一は14歳でまだ元服していなかったが、御徒組として城下の西門に駆け付けた。

 町奉行から、少年の勘一に今宵の一揆の出来事を確りと見ておけと言われた。衝突を避けた町奉行の開門命令で、250名の武士や足軽に向かって20倍の5000人の百姓が微塵も臆することなく正々堂々と城代家老に会うため城門をくぐった。両者の衝突が起こり、多くの死者が出て、場合によれば藩が無くなる改易にもなりかねないのだ。

 町奉行は自裁し、百姓の首謀者は家族を含めた21名が磔の死刑にされた。首謀者代表の万作は、5歳の我が子を怖がらせないよう、先に子供の死刑を願い出て、槍で突かれる前の「おとー」の声に周囲の人を泣かせた。

 彦四郎と一緒に見ていた勘一は、万作は侍の心を持った男だったと彦四郎に語って、二人は死ぬときは侍として死にたいと心を一にし、彦四郎から刎頸の契りを交わそうと刀を少し開いて金打(きんちょう)の誓いを行った。

 その帰り道、勘一は先ほどの処刑を見て、ぜひとも大坊潟を干拓しての新田を作るべきだと強く思い、彦四郎に、我が藩が、ぜひ成すべきことだと語った。そして、俺は下士だからそんな大事業に携われないので、その夢を彦四郎に託したいと言うと、彦四郎は、「お前はあの処刑を見て、そんなことを考えていたのか」と内心驚き、以前にも言ったように、「出世を考えて生きるのは嫌だ、俺には俺の生き方がある」と怒気を強めて拒否した。

 一揆があって間もなく、父・千兵衛の死後、戸田家の生活を援助してくれた隣家の丸尾双兵衛が病の果てに亡くなり、借財が積み上がり、娘・保津が売られることとなった。勘一は死を賭して夜陰に乗じて金貸しやその用心棒を斬り、保津らを救った。

(四章)ー上覧試合などで成長する勘一

 16歳になった勘一は元服した。

 勘一の藩校での成績は周囲が期待したほど伸びなかったが、彦四郎は不動の一位なので勘一は称賛した。しかし、彦四郎は、勘一のように一つの思想に深く分け入ることのほうが遥かに得るものが多い。俺には学問をそこまでやる根気がない、その点、勘一のほうが優れた男だと思っていると言った。

 康塾の明石塾長に、このことを話すと、彦四郎には己のやりたいことが、見つからないのか何もないのかもしれないと言う。いかに身分の壁が厚かろうとも、初めから諦めて何もせずに終わるのは人の生き方ではなく、人は茨の道に一歩でも新しい道を開かねばならないと思っていると語った。

 勘一は堀越道場に行くようになっても正臨寺の裏庭での剣術の鍛錬は続けており、恵海和尚から剣で何よりも大事なことは力と疾さだと言われ、木刀の先に石を入れた袋を括りつけての連続の打込みの鍛錬をしていた。

 藩主の前での上覧試合が6年ぶりに行われることになり、勘一も堀越道場から選ばれ、そのことを恵海に報告したら、和尚から自分が昔編み出した一つの技を授けられた。しかし、勘一は、いつか必ず大一番の勝負の時が来る、その時に備え、上覧試合では使わないことにした。

 結果、勘一の剛剣は相手を追い詰め、試合には負けこそしたものの、相手を血に染め、木刀であれば勝ったであろう試合を見せた。このことは藩主の目にも剛剣だと残っていた。

 上覧試合の決勝の勝者は彦四郎となった。上士の側用人の息子・木谷要之助を寄せ付けない圧勝だった。

(五章)ー勘一の出仕

 磯貝家の兄から上覧試合の優勝祝いに彦四郎の友人たちが屋敷に招かれた。そこで、下女として働くみねに出会う。その夜。勘一はみねの顔を思い浮かべると胸が高鳴った。これが懸想するということかと思った。

 上覧試合の半年後に、勘一に出仕の沙汰が届いた。郡奉行付与力下役という役職で、使者は藩主のお声がかりと聞いていると言った。

 同じ頃、彦四郎も町奉行所与力助役という役職で出仕が決まった。彦四郎の場合はあくまで臨時のもので、他家に養子に行けば義父の役職を継承することになる。

 中村信左も出仕した。勘定方の父が致仕し、その代わりのお役で、家督を継ぐので名前も庄左衛門と改めた。

 年が明けて、庄左衛門は書役として大阪に行くことになり、勘一は虫籠の売込みを依頼した。後日、一個四百文で五百個の取引がなったとの通知があった。下士の内職として大いに役立つようになった。

(六章)ー彦四郎の仲介でみねと結婚

    -大坊潟開拓の直訴を彦四郎が中止忠告

 郡奉行所で必死に働く勘一は、仕事がから離れるとみねのことを忘れることができず、彦四郎に打ち明けた。「みねは命を懸ける値打ちのある女だ」と彦四郎は言った。その言葉の裏に、勘一は、彦四郎の心の中にみねへの想いがあることを感じた。(彦四郎は逐電でもしない限り、みねと一緒になることは不能なのだ。)

 彦四郎から当主の兄・又左衛門に掛け合ってもらい、みねを嫁に迎えることができた。

 勘一は、以前から温めていた「大坊潟開拓の覚書」に着手し、師匠の明石と潟を幾つかに区分けし、漸次、淡水化と開拓を行う方法で郡奉行へ提出した。建白書は執政会議まで取り上げられたが、筆頭家老の滝本主税に握りつぶされてしまったのだった。かって、開拓事業に失敗した経験のある主税は自身の失敗を再確認することになる開拓事業には手を出したくないのだ。

 諦めきれない勘一は彦四郎に相談し、身を捨てる覚悟で直訴することを決意するが、彦四郎から「みねをどうするのか。」「お前はこの国にとってなくてはならぬ男になる。一時の短慮で命を失う真似は止めてくれ。」と頭を下げて必死に止められた。

(七章)ー勘一と彦四郎の運命の分岐

 勘一と彦四郎の運命を大きく変える事件は、勘一が23歳の秋に起こった。

 大目付から勘一と彦四郎に上意討ちの命令が下ったと告げられた。討つべき相手は、藩の剣術師範の森田門左衛門とその家士の宮坂隼人である。藩の剣術を公然と誹謗する物言いを繰り返し、藩主にも反論する態度に対するものであった。

 宿を出る前に勘一は鎖帷子を着込んだが、彦四郎は動き辛いと言ってどうしても着ようとしなかった。(十章で解明)

 かって恵海より授けられた必勝の剣で隼人を討った勘一は、門左衛門と対する彦四郎を助けに向かうが、その寸前に彦四郎は背中の皮を斬られ、自分の刀を門左衛門に投げた。その瞬間の隙を逃さず、勘一は門左衛門は討ち取った。

 背中に傷の「卑怯疵」を負った彦四郎は、これまでの評価が高かった分、世間の嘲笑を浴びることとなり、役儀も取り上げられ蟄居を命ぜられた。

 それに反し、勘一の名声は国中に広がり、藩主の意向もあり、中士・名倉の家に夫婦で養子に入ることになった。そして、代官を拝命した。

(八章)ー大坊潟開拓の工事開始に妨害

 藩主に御目通りが叶った勘一は大坊潟の建白書を提出した。感心した藩主は上意により、試干拓を決定し、勘一がその責任者に任命された。

 堰造りが始まったが、何者かの破壊工作が目立つようになり、死者が出たので、勘一自ら先頭に立ち部下の武士と共に夜警をすることになった。

 堀越道場の師範代になっていた虎之丞が助勢を申し込んできたが、大きな争いとなるので気持ちだけもらって断った。その夜。堰壊しが来た。勘一は前後に敵を迎えることとなってしまった。しかし、何者かの加勢があり、前の男を勘一が斬り殺し、振り返ると、後ろの二人の敵は倒れていて加勢者の姿はなく、そのうちの一人はまだ息があり、滝本家老の次男だった。誰の指図だと聞くと父と一言言って息絶えた。前の男は上覧試合の彦四郎の相手であった上士の木谷要之助だった。(加勢者は十章で判明)

 滝本家老一派の仕業に間違いないが、それを弾劾できる材料証拠はなく、むしろ、家老から勘一の責任を問う声が大きく取りあげられた。大目付は勘一を守るためにも御役仮停止と蟄居を勘一に命じた。

(九章)ー勘一の出世と彦四郎の逐電

 大目付から藩主に今回の事件の報告文を送り、その返信として、一か月後、藩主の側用人に抜擢するとの上意が勘一のもとにもたらされた。江戸に上がる勘一に大目付は滝本家老の不正の証拠を託した。

 江戸に立つ前に、勘一は彦四郎を訪ねたが会えず、手紙に近況と赦免を願える立場の側近になったので、希望を捨てるなと言外に匂わせるものを家人に託した。

 勘一と家族一行は北国街道を南に向かい、追分から中山道に入り、沓掛、坂本を経て江戸に向かった。(十章にこの道程記述の意味記載)

 江戸に着いた勘一は驚くべき知らせを二つ聞いた。

 一つは大目付が切腹したことだ。自分を引き立ててくれた滝本家老を告発する所業への決着をつけたのだ。

 もう一つは、勘一が江戸に立った直後の話だが、白昼往来で、日ごろ絶っていた酒を飲んでいた彦四郎が上士の妻女に狼藉を働いて逐電したとのことだった。彦四郎に託した手紙の中身が彦四郎の矜持を傷つけたものかもと、勘一にとって大目付の切腹以上に大きな衝撃だった。(十章で解明)

 四年後、試干拓による新田作りが成功し本格的な開拓が行われることになった。この知らせを江戸で聞いた勘一は、感無量の喜びを得たが、彦四郎に伝えることができないことに一抹の哀しみを味わった。

(十章)ー影法師に徹した彦四郎

 彰蔵が帰国して二月あまりして、島貫玄庵という元武士の老人が先祖伝来の刀を売りたいと訪ねてきた。

 右足はないが座して対面し、話が中断した時に居合で瞬間的に彰蔵の頬を少し斬られた。20年前に滝本主税から命じられたものだが、今の一太刀で滝本殿には許していただくことにすると言って帰った。

 玄庵の居場所を探れと命じ、二日後に、道場主になっている虎之丞を堀越道場に訪ねた。

 彰蔵は、大坊潟での斬り合いの礼を言うと、虎之丞は俺ではないと言い、あの日に彦四郎に会ったが、「彦は下らぬことに首を突っ込むなと言ったので、なんと見下げた奴だと思ったが、加勢したのは彦四郎に間違いないと思う。何故なら、五年前に彦四郎が道場に来て技を一つ伝授して帰った。その技は「見切りの技」であった」と彰蔵に告げた。

 彰蔵は、あの上意討ちの日を想い出した。鎖帷子を着込まずに、見切りの技により、わざと自分の背中を斬らして油断をさせ、わしに全ての手柄を与えたのだと確信した。

 彦四郎は、勘一が死を賭して大坊潟の試干拓を直訴しようとした大願を止めさせたことに自責の念に駆られ、それ以来、勘一を助ける影法師に徹したのだと思った。

 彦四郎が、上士の妻女に狼藉を働いて逐電した件の詳細を知るため、彰蔵は、今は老女となっている妻女に、その時の模様を訪ねたら、耳元で済まぬと謝罪して去ったと言う。彰蔵とみねを無事に江戸に行かせるため、滝本家老の手の者が道中で待ち伏せしていることを予想して、考えられぬ行為で逐電したのだと確信した。

 玄庵の居場所が分かり、彰蔵が、江戸への道中に待ち伏せをしていたかと尋ねた。

 玄庵は確かに碓氷峠で待っていたが、彦四郎が先にやってきて、彦四郎の見事な見切りの神業に左足の脛を斬られ動けなくなった。彦四郎は「名倉勘一は藩になくてはならぬ男だ。滝本はいずれ失脚する。」と言って去ったと話した。

 そして、玄庵は「俺は生涯のほとんどを影のように生き、人を殺してきた。彦四郎も影に生きた人間だが、儂と違って彼は人を生かした。貴公は彦四郎が言った通りの男だったが、俺が貴様を生かしたのは、彦四郎ほどの男が命を懸けて守った男だから殺すことができなかった」と言う。

 そして、上意討ちに失敗したと言うが、儂の足を切ったほどの腕を持った男が、江戸の道場剣法の男などに断じて斬られるはずがないとも言った。

 最後に玄庵は次のようなことを言った。

 「五年前に大坊潟の代官所に出向いたときに、一人の侍が新田の中の丘の上で沈む夕日を受けて光る稲穂の波を何時までも眺めていた」と。

 その後、彰蔵は、視察で大坊潟の新田を眺めながら、父の死で崩れそうになった心を彦四郎は支えてくれ、それ以後の儂を支え続けてくれた。

 彰蔵は、彦四郎の忠告に逆らって殿に直訴し、腹を斬るべきだった。そうすれば彦四郎の一生は変わっていただろう、彦四郎こそが生きなければならない男だったと嘆いて、彦四郎との父の遺骸の前での約束を破り、いつまでも泣いた。

(最終章)ーみねの愛

 みねは30年ぶりに磯貝家先祖代々の墓をお参りした。

 遠い日の彦四郎の面影を負った。「どんなことがあってもお前を護る。」と言ってくれ、彦四郎の兄が自分を妾にしたいと言った時も勘当を承知で異を唱えてくれた。

 「女の幸せは結婚して子をなすことだ。勘一から嫁にと打ち明けられた時、俺も好きだとは言えなかった」と言われた。私はこの一言で生きていけると思った。

 「心からお慕い申し上げておりました」と呟き、彰蔵に心の中で詫びて静かに立ち上がり墓前を去った。

「読後感想」

 時代小説といっても江戸時代。貧しい育ちの勘一が筆頭国家老になる、このような秀吉的なサクセスストリーはリアルティーに欠けるように思えるが、勘一のために自分を全く犠牲にして影となって助ける彦四郎の存在が小説的には非常に大きく感動させてくれ、十章で、それに気づく勘一が映し出される情景を想像して涙が出そうになった。

 自己犠牲に徹底して影となり満ち足りた気持で一生を終われる彦四郎がいるだろうか。護と誓ったみねの存在がそうさせたのであろうか。文章を読み込んでいないのだろうか。少し作り過ぎの感が残ったが、不思議にそれもすぐ消えていくのも事実で、もう一度読みたくなる推薦できる小説だ。

 

 

  

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もー? お盆提灯!!ー690回ー

2012-07-16 12:08:04 | 日記・エッセイ・コラム

                                                        

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 もー、盂蘭盆会? そうそう、関西のこの辺りではお盆の期間一週間ほど墓前に、このような提灯を吊るす慣わしがあるのです。

 お盆は亡くなった人の里帰り。関西では殆ど8/13~8/16の時期と聞いており、お墓参りも 8/15に行く方が多い。

 昨日あたりからスーパーの店頭に提灯が並んでいたので、関西のこの辺りでも7/13から行うお宅もあるのだろう。

 旧暦になじんでいる私たちには、まだ梅雨も明けてないのに少し早いのではないかと思う。

 毎年、この時期から店頭に並んでいるのかもわからないが、気付かないものだなー。

                                               

 とても暑い日だと思ったら、今年初めての猛暑日(最高気温35.2°)だった。

 これでは、梅雨が明けての室内の片付けやタンス内の片付けも大変だ。

 少し、生活態様や生活スケジュールの変更が必要だ。今秋から実施に持っていけるように検討することとしたい。

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梅雨明け?

2012-07-15 12:59:34 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                               

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 久し振りの梅雨の晴れ間。

 梅雨明けかと思わせる晴天。

 ほんとに早く梅雨明けになってもらいたいものだ。

 とは言っても、台風が来るのも嫌だけと。

 となると、早く秋が来ないかなーとなるが、老人になるとそれも嫌だ。

 老人になると、どうして、こんなに我が儘になるのだろう。

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「銀漢の賦」を読み終えてー愛情編ー!!

2012-07-04 17:12:31 | 読書

 この作品には、単に友情の中に生きる三人の男の姿を描いているだけでなく、将監の母親・千鶴、将監の妻のみつと藩主の側室となった姉の志乃、源五の妻・さきと娘のたつ、十蔵の妻子のたみと蕗(最後は源五の愛人となる)の愛情を描いたところに、とても捨てがたいものがあった。

 心に残った部分を本より抜粋してみた。

「1」-余命をかけた政事への準備ー(母の躾・愛)

(現在) 

 家老・将監は巡視の途中、わしの我が儘を聞いてくれと風越峠へ登り、「源五よ、わしは間もなく名家老どころか、逆臣と呼ばれることになるぞ」と呟いた。将監の声には若い頃を思わせる真摯なものがあった。

 40年前、小弥太(将監の幼名)に初めて会った日も、こんな夏の日だった。

ー回想ー

 日下部源五は12歳のころ、貫心流の剣術道場に通っていた。道場といっても建物は無く庭が稽古場であった。

 ある日、源五と同じ年頃の少年が母親に伴われ入門してきた。少年が挨拶する後ろで母親が微笑みを浮かべて頭を下げた。

 源五は柔弱者だなと軽蔑の気分がいや増した。しかし、立ち会ってみて全く反対の事を知った。

 道場帰りに百姓の十蔵とも友達になり、将監の家に寄って十蔵から買った鰻を三人が共に食したが、母親から「小弥太は思い遣り深い先達に恵まれ幸せでございます」と両手をついて頭を下げられ、家柄の全く違う母親からの挨拶に源五と十蔵は戸惑った。

                                      

「3」-藩主との確執ー(藤森吉四郎の千鶴への恋情)

(現在) 

 源五の娘・たつは津田伊織の母親に見込まれて四百石の家に嫁いでいる。

 伊織は、源五が将監とは昔は竹馬の友で今は絶交しているところから、上意討ちの刺客を依頼して源五からお役にたってもよいと言われた。

 帰りに、たつから十蔵の娘で今は源五の女中をしている蕗を体裁が悪いから妾にしたらどうかとの話があった。

 帰宅して井戸の傍らで袖をまくり上げて洗濯していた蕗の白い腕を見て自害した千鶴のことを想い出した。

ー(回想)ー

 藤森吉四郎は、千鶴の実家の藤森家に千鶴の許婚として養子に来る予定だったが、当時の家老・夕斎の口利きで千鶴が岡本弥一郎と結婚したので、吉四郎は弟として養子に入った。

 その為か今は、二人の間にはどこか切ないものが漂っているように見えた。

 松浦家は志乃とみつの姉妹が居ていずれ婿養子を迎えなければならなかった。吉四郎は藤森家と松浦家は遠縁でもあり、将監をどちらかと娶らせて、千鶴を岡本家から取り戻そうと思っていたようである。その千鶴が自害したのである。

 将監は母親の自害した原因が夕斎や腹心の鷲巣角平衛による藩主へのお伽のお膳立てにあることを掴んだ。

 早速にその仇を討つため、助太刀を申し出た源五と徳運寺馬場で待ち受けた。しかし、返り討ちにあいそうになった。そこへ、十蔵の知らせで駆け付けた吉四郎が角兵衛を刺殺した。

 吉四郎は、このことを私闘として藩に届けてくれ、将監は夕斎を倒し藩政を正すのだ。それがお前にとっての父母への仇討ちになる。お前を生かすために死ぬことが姉上のために私ができる、せめてもの事だと言う。

 将監は、この時になって吉四郎の千鶴への思いの深さを知った。

                                            

「6」-源五の命を懸けた承諾ー(一心同体の妻の愛情)

(現在)

 源五は将監が隠居を命ぜられて4日後に将監の屋敷を訪れた。

 この日までに、源五は何度も側用人・多聞から将監を斬ることを督促されていた。

 将監は、馬越峠で自分の気持ちを話したばかりだのにと思い、多聞が上意討ちに選んだ刺客は源五かと閃いて庭に出て抜刀して待った。源五も居合の構えで庭で間合いを取った。

 そこへ将監の妻のみつが来て「おやめください、お二人とも何事ですか。」「日下部殿は、何か大事なお話があって参られたのが何故お分かりになりませぬか。いきなり刀を抜いて待つなど、年をとられて気短になった、と日下部殿に笑われましょうぞ。」と言う。

 将監は、その時になって源五に殺気が無いことに気付いたのだった。

                                                

「7」 -将監らの脱藩行ー(娘への親の愛情)

(現在)

 脱藩の前日、源五は伊織を酒に誘い出し、将監の上意討ちの刺客はできぬようになり、反対に脱藩を手伝うことになったと告げた。そして、居酒屋を出た後、源五がたつのことを頼んだ様子を、翌日、たつに次のように話した。

 伊織の前に土下座して橋に頭を何度もこすり付けて頼む頼むと言い、わしは、後で腹を切って迷惑をかけぬようにするゆえ、どうか娘を離縁せんでくれと、頼む頼むと何度も頭を下げた。その後も逃げるように走って行かれ、立ち止まって振り返りお願い申すと叫んで深々と頭を下げているのが見えた。

 たつは、ふと涙ぐみそうになった。

                                   

「8・9」 -命を懸けた事、成就ー(蕗の恋情)

(現在)

 将監の命を懸けての折衝で、国替えは無くなり、多聞が罷免になり、側用人に伊織が任じられた。源五は伊織のお蔭で、早くからの望みであった潮見閣の留守番に、これも命を懸けてくれた愛する蕗と一緒に過ごしていた。

 将監がこの年、8月に亡くなり、源五の許へ将監の遺品が届けられた。蘇軾の漢詩が画賛された掛軸である。

 漢詩の最後の「有限を将(もっ)て無窮を趁(お)うこと莫(なか)れ」を、将監は「人は一人で生きているのではない、誰かと共に生きているのだ」と解釈して、このことを最後に言いたかったのだろうと思った。

 わしも間もなく其方へ行くと、源五は将監に呼びかけようとした時、茶室に蕗が入ってきた。

 蕗が今夜はなぜか二組の夜具を敷いていた。源五が訪ねると、たつ様が、御家老様が亡くなられたことを聞いて元気を失われたようだから、傍らに寝るように指図されたのです。日下部の家を継ぐ男の子を挙げてほしいという話でしたと答え、二人だけの固めの盃でも交わすつもりなのだろうか、蕗は微笑んでお酒を持って参りますといそいそと出て行った。

 「小弥太よ、そちらへ行くのは10年ほど遅れるぞ、勘弁せい」と源五は月を見て呟いた。

                       以上

 

 

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うどんの日!!

2012-07-02 12:00:50 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                                              

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 今日はうどんの日。しかし、これは全国的ではなく、今日の地方紙によると私在住のK県製麺事業協同組合が消費拡大を狙って、昭和55年に定めたようである。

 私が子供のころは、今日は半夏(ハンゲ)の日なので、うどんと寿司の御馳走が食べられると楽しみにしていた。

 しかし、今のうどんのような上品なものでなく、私の記憶では、「しっぽく」に近く、旬の野菜(代表は"なすび")が入った出汁汁をどっぷりとうどんにかけて食べていたように思う。寿司は混ぜ寿司で、必ず乾いた小魚に近い少し大きめの「ちりめん」(いや、小さいいりこだったかな)が入っていた。

 うどんは食べるだけでなく、親戚の広い台所で、うどん玉を踏んだり、顔や手に白い粉を付けての手伝いが思い出される。

 今は懐かしく思うが、実物は到底食べられないので、カップ麺の写真を掲載した。

 地方紙によると、正式には、夏至から11日目の「半夏生」の日に、農家の人が田植えや麦刈りを手伝ったくれた人たちに収穫したばかりの麦で打ったうどんを振る舞い、労をねぎらったと言う風習に由来するとのことだ。

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