T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1141話 [ 文庫本の購入 ] 7/31・金曜(晴)

2015-07-31 12:53:29 | 日記・エッセイ・コラム

                                                  

 また文庫本を購入した。

 時間待ちの時に気楽に読める本がどうしても欲しくなる。

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1140話 [ 父の70回忌に当たっての回想 -2/2- ] 7/30・木曜(晴・曇)

2015-07-29 16:05:51 | 日記・エッセイ・コラム

「家族」

1. 両親の婚姻

  昭和5年(1930)4月、隣村の兼業農家の長女(明治43年3月1日生、私の母)と婚姻。

  同年6月、入籍。 同年同月、佐世保市で新婚生活を開始。

2. 子供の誕生

  翌年3月、長男(私)が佐世保市で出生。その後、次男が昭和11年1月、横須賀市で出生。

  三男が昭和13年2月、山口県徳山市で出生。 四男が昭和17年9月、佐世保市で出生。

3. 父の記憶

  私はもちろん、次男も学校の行事には、父は一度も参加することはできなかった。

  「経歴」を見ても分かるように、戦地か外洋に出ていたのだろう。

  外洋に出ている時も、軍港に帰港して上陸できるのは、

   長くて1週間ほどだったと記憶している。

  七五三や出生祝いの宮参りにも同行した記憶はない。

  私は、横須賀にいる時に、父母と日光へ旅行したことだけの記憶が残っている。

  次男、三男は、幼児か赤ん坊だったので、当然、そのような記憶はないと思う。

  しかし、佐世保市街に「義士焼き」(大判焼き)を食べに連れて行ってもらったことが、

    二三度あったことを覚えている。

「妻(母)への手紙」

1. 昭和17年以降の父からの軍事郵便

  母は、昭和16年以前の父からの軍事郵便は少し保管していたが、

  昭和17年以降のそれは几帳面に保管されていた。

  しかし、軍事郵便なので、軍務の内容、その期間等は記載されてなく、

  父を思い出すような具体的行動は全くなかった。

  昭和17年以降は、艦艇に乗船していたので、郵便の差出元は局付になっている。

  いわゆる私書箱だ。(例、横須賀局気付 第六朝洋丸、釜山局気付 十二分ノ三)

  手紙の内容は、大きく分類すると、家族の状況、知人の状況、給料の送着状況、

  いつも、この三つに限られている。

  しかし、内容から相方が相手を慮っていることが、よく分かる。

  今のように携帯があると、上陸したときだけになるだろうが、

  毎日、1時間ぐらいは通話していたことだろう。

  ただ、当時、携帯があったら、こんなに多くの手紙は残っていないだろう。

2. 昭和19年(1944)1月までの父からの手紙

  第六朝洋丸に艇長として乗船していた、

   昭和16年11月~昭和19年1月(2年3ヶ月)の間の手紙は、

   はがきを含めて41通保管されていた。

  この間の我が家の特報は、四男の弟の出生である。

  そのため、祖母が汽車の便が悪いところを来佐した。(その祖母も2年後に死去した)

  父から10月上旬、速達で四男の名前を知らせてきたが、

   その時には、私が名前を付けて市役所に届けた後だった。

  その後、父から四男の写真を見たとの手紙が着信しているが、

   一度ぐらいは対面したのだろうか?

  もちろんは、弟は父の顔を知らない。

3. 昭和20年(1945)6月までの父からの手紙

  第85号駆潜特務艇に艇長として乗艇していた、

   昭和19年3月~昭和20年6月14日(1年4ヶ月)の間の手紙は、

   封書だけの51通保管されていた。

  1ヶ月3通の割合での多くの着信である。

  一番多い月は、初めの3月で6通着信していた。

  当時、父は、竣工したばかりの艦艇に艤装中の駆潜特務艇を引き取るために、

   日本海気候の寒い舞鶴市内の旅館や下宿屋を3月一杯転々とした、

   いわゆる落ち着かない不自由な生活だったのだろうと思う。

  この期間の我が家の特報は、なんといっても母親の故郷への租界である。

  昭和19年の暮れから時期等を検討していて、翌年の3月に疎開した。

  それと父が特に期待していた長男の私の陸軍幼年学校受検とその結果である。

  不合格だったので、父は落胆し、

   再度の受検か海軍予科兵学校の受検を進めている手紙が残っている。

  疎開は、今と違って、家財の運送も日本通運が細々と営業していたと記憶している。

  汽車は普通列車だけで、空襲警報などでの途中停車もあり、

   香川県までだか、車中泊も2泊したと記憶している。

  疎開は無事できたが、疎開先の住居はもともとなく、

   親戚の家を二三度転居したと思っている。

  私も予定していた中学校に転校はできたが、

   すぐに家族と別れて学徒動員で寮生活を余儀なくされた。

  また、俸給の送金も遅延していたようだ。

  そのようなことから、父の手紙は家族の生活の心配に満ちている。

     " 戦争は家族の未来を崩壊する "

 

  

 

  

 

 

 

 

  

 

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1139話 [ 父の70回忌に当たっての回想 -1/2- ] 7/29・水曜(晴・曇)

2015-07-28 16:17:09 | 日記・エッセイ・コラム

 父の70回忌(1945/7/8、戦死)に当たり、法要はできなかったが、墓参した月命日の後、亡母が残した父の資料や手紙やそれを元にしてインターネットで調べたものと私の少ない記憶から、数日かけて亡父への回想を「経歴」「家族」「手紙」に分けて紡いでみた。

 (写真上段、両親の新婚旅行?写真、下段、父が乗船していた駆潜特務艇)

                                                                                           

                                                                                                  

「父の経歴」

〇 父は、専業農家の五男として、明治35年(1902)1月9日、出生。

〇 大正4年(1915)3月、高等小学校高等科(1ヶ年)卒業、家業に従事。

〇 大正11年(1922)6月、徴兵令で満20歳で、佐世保海兵団へ入団。

〇 大正11年11月~大正13年4月(1年8ヶ月)、 軍艦比叡(戦艦)に乗艦。

〇 大正13年5月~大正13年11月(7ヶ月)、

                 海軍砲術学校普通科練習生として砲術学習。

〇 大正13年12月~大正14年10月(11ヶ月)、 軍艦比叡(戦艦)に乗艦。

〇 大正14年11月~大正15年2月(4ヶ月)、軍艦常盤(装甲巡洋艦)に乗艦。

〇 大正15年3月~大正15年10月(8ヶ月)、軍艦対馬(防護巡洋艦)に乗艦。

〇 大正15年11月~昭和2年9月(11ヶ月)、軍艦比良(河川砲艦)に乗艦。

〇 昭和2年(1927)10月~昭和2年11月(2ヶ月)、上海海軍陸戦隊に勤務。

〇 昭和2年11月、下士官に任官(海軍三等兵曹)。

〇 昭和2年12月~昭和3年4月(5ヶ月)、軍艦比叡に乗艦。

〇 昭和3年5月~昭和4年4月(1ヶ年)、

        海軍砲術学校高等科練習生として砲術学習。

〇 昭和4年5月、海軍二等兵曹に任じられる。

〇 昭和4年5月~昭和5年4月(1ヶ年)、軍艦比叡に乗艦。

〇 昭和5年5月~昭和8年10月(3年6ヶ月)、佐世保海兵団で教員勤務。

     ※ 満州事変……昭和6年9月~昭和7年3月?

     ※ 上海事変……昭和7年1月~3月。

〇 昭和6年11月、海軍一等兵曹に任じられる。

〇 昭和8年11月~昭和9年10月(1ヶ年)、軍艦霧島(戦艦)に乗艦。

〇 昭和9年11月~昭和11年3月(1年5ヶ月)、軍艦金剛(戦艦)に乗艦。

〇 昭和11年4月、現役満期(予備役編入)。

                        →[以上、本人記載履歴書から転記]

〇 昭和12年6月、現役復帰。

        ※日中戦争……昭和12年7月~昭和20年8月  

〇 期間等の年月不詳、

     中華人民共和国の厦門近郊にて海軍陸戦隊隊員として勤務。

〇 期間等の年月不詳、

     中華人民共和国の海南島にて海軍陸戦隊隊員として勤務。

〇 年月不詳(上記期間)、海軍兵曹長(准尉)に任官。

〇 昭和16年11月~昭和19年1月(2年3ヶ月)、

      特設監視艇・第六朝洋丸(横須賀海軍鎮守府所属)に艇長として乗船。

   ※ 太平洋戦争……昭和16年12月~昭和20年8月

   ※ 特設監視艇とは。

      太平洋戦争中、洋上紹介をする監視船が大量に必要になった海軍は、

     外洋航海が可能な漁船等の船舶を「特設監視艇」に指定して徴用。

      北洋から赤道までの日本の東方海上を、

     強力な無線を装備して哨戒していた。

      後期は、敵航空機や潜水艦に対する重武装化したが、

     まともに戦うことができるはずがなく、多くの特設監視艇が、

     敵発見の無電を発しながら撃沈されていった。

〇 昭和19年1月、海軍少尉に任官。

〇 昭和19年3月~昭和20年7月8日(1年5ヶ月)、

     第1号型、第85号駆潜特務艇(朝鮮鎮海警備府所属)に艇長として乗艇。

       (昭和19年3月、舞鶴で竣工)

    ※ 駆潜特務艇とは。

       木造船で建造。全長30m、兵装13mm機銃・機雷、乗員32名。

       戦争末期、敵の磁気機雷により沿岸が封鎖されたので、

      連絡船等の安全を図るため、掃海に活躍。

〇 昭和20年(1945)7月8日、時刻不詳、

       韓国・済州海峡沖(麗水~済州島間)で米国潜水艦の魚雷に撃沈され、

       43歳で戦死。

        (白木の箱には、遺骨はもちろん遺品も何も入っていなかった)

                              -- (次話に続く) --

 

 

 

  

            

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1138話 [ 文庫本「不祥事」の購入 ] 7/28・火曜(晴・曇)

2015-07-28 11:01:20 | 日記・エッセイ・コラム

                                               

 「花咲舞が黙っていない」の連続ドラマ化がなされているが、

 今回は午後10から1時間といったドラマなので、

 これを見ていると睡眠不足になる。

 そんなところから、中身は同一かどうか不明だが、購入してみた。

 池井戸潤の小説は、当たり外れがなく面白く読める、

 そのことが購入した理由としては大きいかも。

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1137話 [ 北陸より遅い梅雨明け ] 7/25・土曜(晴)

2015-07-25 09:27:12 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                              

                                                                                                              

 7月24日、高松地方気象台は四国地方の梅雨明けを発表した。

 今年の梅雨明けは、北陸が21日、関東甲信が19日、20日に中国、近畿、東海と、

14年振りに、四国より北の地方が早かったとのこと。

 四国の梅雨明けの平均は7月18日とのことで、少し遅いぐらいだったようだ。

 もう一つ記録しておきたいことは、梅雨の期間中(6/3~7/23)に、

11年振りに、県内を強い台風11号が直撃して我が家も被害を受けたことだ。

 被害は車庫の波板屋根が飛んでしまった。

   (平成16年8月の台風16号による被害、高潮で乗用車を廃車)

 

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