スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理三七備考二&命題の区別

2015-02-09 19:29:10 | 哲学
 『「無神論者」は宗教を肯定できるか』の書評の最後のところで,スピノザは普遍的正義を認めないといいました。これに関連する僕の概観を,何回かに分けて説明していきます。ただし,正義について考えていくといっても,僕はスピノザの哲学に特化して関心をもっていますから,その説明内容も,哲学との関連が中心になっていきます。
                         
 スピノザは普遍的な善悪というものの存在を認めません。それどころか,善や悪は実在的有ですらなく,理性の有として把握されています。こうした事情を鑑みれば,スピノザが普遍的な正義というものを認めないのはごく自然であると理解できるでしょう。善とみなされないならそれは正義という記号に値しない筈ですが,善が普遍的でないのですから,正義が普遍的であり得るわけはないからです。
 このとき,善悪を判定する哲学的規準は,自己保存の力です。すなわち第三部定理六第三部定理七です。これと同様に正義を判定する規準,正義の対義語的な意味としての不正を判定する規準もあります。僕の理解では,スピノザはこれを人間が産まれながらにして有していると認められるような自然権と関連付けて説明します。ただし,ここが厄介なところなのですが,スピノザが自然権とみなすような権利というのは,僕たちが普通に権利としてみなしているものとは様相が異なっていると僕には思えます。このために正義という概念も,僕たちがそれを正義とみなす事柄とは異なることになると僕は考えています。
 これを理解するためには,第四部定理三七備考二を丹念に追う必要があります。
 「人はみな最高の自然権によって存在し,したがってまた各人は自己の本性の必然性から生ずることを最高の自然権によってなすのである」。
 これがこの備考のほぼ冒頭部分です。ほぼというのは前置きがあるからであって,実質的にこの備考のスピノザの主張はここから開始されていると理解して間違いありません。
 これから分かるように,スピノザは人間が存在すること,そして本性によってなし得ることのすべてを,自然権として認めているのです。

 ここでまた,個々の可能世界の全体が真偽不明の世界であるというとき,だれにとって真偽不明であるのかということが,本当なら問題になります。というのも,現実世界は可能世界のひとつなのですから,神はそれを真偽不明なものとして現実化するのか,それとも神には真偽が分かっていて,しかし現実世界の中で生きることになる人間にとっては真偽不明であるものとして現実化するのかという差異は,重要な差異だからです。
 しかし,僕はここでもこれに関する結論は出しません。根本的な理由は,ライプニッツによる規定では,無限に多くの可能世界の中からひとつの現実世界が選択される場合に,真偽という要素は重視されないからです。同時に,ここでは真偽不明ということを,あくまでも単に文章命題の表現内容だけで理解しておく必要性があると思われるからです。
 単純にいうと,僕の解釈では,そもそも真理と非真理に対して,真偽不明であるということを,ライプニッツは文章命題によって決定するということになっているのです。スピノザの哲学では,ある事物と別の事物の区別の方法は,知性が一手に担います。つまり認識なしに区別はあり得ません。これを拡張すれば,文章命題の場合にも同じでなければならない筈です。たとえばある文章命題は主語が述語を十全に含み,別の文章はそうではないというように区別するのは,知性による認識作用でなければならないのです。ところが,ライプニッツが真理も非真理も真偽不明も,文章命題の表現内容によって決定されると主張していると解した場合には,文章命題の区別にだけ関して認識論的方法を採用することができません。認識とは別の,正しくは無関係な事柄によって規定されている事柄に対して,個別の部分に否定されている方法を採用して理解するということになってしまうからです。ですからこの問題も最終的には考えなければならないのだろうと思うのですが,それはこの部分の結論を出した後にするべきだと思います。というか,結論が出ることになれば,真偽不明というのがだれにとってそうであるのかということが,漠然とでも浮かび上がってくるのではないかと僕は考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする