スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理四三&可能世界

2015-01-29 19:25:17 | 哲学
 『スピノザとわたしたち』の書評で言及したように,こと政治的実践という側面に限定する限り,僕はネグリの解釈には懐疑的です。ただ,ネグリのいっていることが,スピノザの哲学において論理的には正しいとは認めます。論理的に正しいということは非常に重要なことですから,これについて僕の考えを表明しておきましょう。
                         
 ネグリの論調を裏付ける『エチカ』の定理は第三部定理四三です。
 「憎しみは憎み返しによって増大され,また反対に愛によって除去されることができる」。
 他人が自分を憎んでいると表象すると,その人間は自分を憎んでいる人間を憎むようになります。ですから憎しみは憎しみの連鎖を発生させます。要するに憎しみはそれが相手に表象される限り,憎しみだけを再生産することになります。
 これと逆に,他人が自分を愛していると表象すると,その人間は自分を愛している人間を愛するようになります。このとき,元々はその人間がその相手を憎んでいるとしたら,その人間には心情の動揺が発生しますが,もしも愛が憎しみの大きさを上回るならば,憎しみは除去され,愛が残ることになります。ゆえに自分への憎しみを除去するのは,相手への憎しみではなく愛であるということになるのです。
 ただし,僕はこの定理の主旨は以下のような点にあると解します。
 第三部諸感情の定義六第三部諸感情の定義七から,愛は喜びで憎しみは悲しみです。よって第三部定理五九により,愛は能動的であり得ますが,憎しみは必然的に受動的です。ここでいわれているのは,この意味において,他人の受動を除去する要因が自身の能動のうちにあるということではないでしょうか。このこともまた一般的な意味において論理的に正しいのですが,第四部定理四が示すように,だれでも簡単になし得ることではありません。自分を憎んでいる人間を愛するということが困難であるということは,だれしも経験的に理解できるでしょう。
 論理的に正しいからといって,だれもがそれを実践できるわけではありません。それでも論理的な正しさを,過小評価してもいけないと思います。

 ライプニッツが神に意志の自由を認めることと,無限に多くのモナドが存在すると主張することを,僕は同一の意味に解します。意志の自由があるということと,無限に多くの事柄を意志することができるということは同一の意味であり,無限に多くの事柄を意志することができるのならば,無限に多くの世界を創造できるということを帰結させなければなりません。モナドというのは,この場合の世界に該当すると僕は理解しています。つまりあるモナドとは,神の意志によって創造される世界のひとつであり,無限に多くのモナドが実在するというのは,神が無限に多くの世界を創造し得るという意味だと理解するのです。非常に大雑把なのですが,この点は大筋では誤っていないものと僕は思います。
 ここで第一部定理三三が否定されているのは明白でしょう。スピノザは,神が創造し得るのはたったひとつの,他面からいえば「唯一」の世界だと主張しているのです。それはもちろん,僕たちが現にあるこの現実世界のことです。これに対してライプニッツが主張するのは,存在する,あるいは存在し得る世界は現実世界だけではないということです。むしろ現実世界のほかにも,無限に多くの世界があるのです。そこでこれを可能世界とここでは名付けましょう。ライプニッツにとって現実世界とは,無限に多くの可能世界の中から,神が自由な意志によって現実化するように選択した世界であるということになります。
 厳密にいうと,この場合には単に神が自由な意志によって選択したというだけでは十分ではありません。というのは,これだけではなぜ神がそれだけが現実化するように選択したのかということの根拠がまったく充足され得ないからです。そしてライプニッツがそれを説明する仕方というのが,僕がスピノザ主義に傾いていったことと大いに関係します。なのでこの点に関しても詳しく説明しますが,もう少しだけ後回しにします。まだ別に述べておきたいことがあるからです。
 僕の解釈では,ライプニッツは可能世界に関して,ある制限を加えているのです。そしてなぜライプニッツがそのようにしたのか,僕には少しばかり謎なのです。
コメント
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