スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

全日本復帰&着色

2014-09-17 19:11:57 | NOAH
 新日本のブロディは,最後は喧嘩別れのような形になりました。こうなっては新日本プロレスはもう超獣を呼ぶことはできません。また仮に呼ばれることがあったとしても,ブロディのエゴイズムはリング上のものだけでなかったですから,自身のプライドとして新日本に復帰することはできなかったでしょう。全日本を裏切って新日本に移籍したわけですから,この時点でブロディが上がれるリングは日本には存在しなくなりました。
                         
 ブロディがアメリカで主戦場としていたのはテキサス。プロモーターはかつて鉄の爪といわれて馬場ともライバルだったフリッツ・フォン・エリック。エリックとブロディは同じユダヤ系ということで,良好な関係だったようです。ブロディはベビーフェースでしたが,同じテキサスでヒールとして活躍していたのがカブキ。ブロディはこの後,1987年10月に全日本に復帰しますが,それに一役買ったことをカブキは明かしています。
 ブロディは,日本に行きたい,全日本に戻りたいので,何とかできないかとカブキに相談。カブキはフリッツにその旨を伝え,フリッツから馬場に電話を入れてもらったそうです。馬場としても,カブキからの依頼であれば簡単に断れたかもしれませんが,フリッツはかつては認め合ったライバルで,その時点で強力なプロモーターでもあったので,無碍には断れなかったのでしょう。このときカブキがフリッツに依頼したことが,ブロディの全日本復帰を可能にした大きな要因であったように僕は思います。
 カブキによれば,全日本復帰が実現してからのブロディの話し方や対応に明らかに変化があったそうです。カブキもいっていますが,全日本復帰はブロディにとって,よほど嬉しい出来事であったのでしょう。
 ブロディが信頼していた数少ないプロモーターとして,カブキはフリッツと,フリッツと仲がよかったボブ・ガイゲル,それから馬場の名前をあげています。プロモーターとしての馬場の,とくにブロディの扱いの優秀性が,新日本で失敗したブロディ本人にもよく分かったということなのでしょう。

 歯科検診の予約を入れておいたのは4月25日,金曜日。10時半でした。この日もクリーニングだけ。着色もあるのでそれも落としますが,だんだんと薄くなってきているようだと言われました。
 4月26日,土曜日。妹の土曜出勤。しかしこの日は休ませました。体調などの理由によるものではありません。この日はある学園の文化祭の見学というのが予定されていました。これは妹には負担が大きいと判断したためです。
 円形脱毛症が小さくなってきていると気付いたのがこの頃。ただし,この時点では小さくなってきたというだけで,現在のように跡形もなくなったというわけではありません。
 4月29日,火曜日。祝日にガイドヘルパーの利用。この日もカラオケに連れて行ってもらいました。
 5月1日,木曜日。作業所からショートステイに関する連絡があり,この月は利用しないということになりました。2泊で利用できるだけの空きがなかったからです。
 5月11日,日曜日。母と妹が美容院に。この日も午後1時の予約。帰ったのは午後4時を回ってからでした。
 5月17日,土曜日。ピアノのレッスン。午後4時半から。
 5月19日,月曜日。妹が作業所を休みました。朝になって気分の悪さを訴えたためです。ただ,食事はいつもと変わらずに摂れていましたので,この時点で多くを心配する必要はないと思われました。実際に翌日からはまた通っています。ただ,この日は母の歯科検診の予約が入っていました。これが午後11時から。僕も長者町に行くことになっていましたが,出掛けてしまうと妹をひとりで家に残すことになります。それで予定を調整しまして,午前中は家にいることにしました。母の予約を変更することも可能でしたが,僕の予定はどうとでもなるものだったからです。母は,奥の歯に関して,よく磨けているとおほめの言葉をもらったようです。また3ヶ月後にきちんと予約を入れて帰ってきました。
 5月21日,水曜日。この日は妹が指定歯科へ。15時から。いつものクリーニングだけでなく,知覚過敏を抑制する薬品を塗布したとのことでした。
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