スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&神の意志と人間の意志

2015-02-21 19:55:04 | 将棋
 北國新聞会館で指された第40期棋王戦五番勝負第二局。
 羽生善治名人の先手で相矢倉渡辺明棋王が▲4六銀のときに△4五歩と突く流行の指し方を採用。先手が4筋に飛車を回って攻勢に出ましたが,あまりよくない構想だったのではないかと思われます。
                         
 7八で金銀交換が行われた局面。ここで後手は△4六歩と垂らしました。この手が間に合うという結果になったということは,すでに後手がリードを奪っていたのではないでしょうか。
 ▲5七金寄で受けるのではやはり辛いのではないかという感じがします。後手は△4七銀と打ちました。▲同金△同歩成では▲4六金と出られなくなるので▲1六飛と逃げるのは当然でしょう。打った銀が働かなければひどいですが,△3八銀不成としておき,▲4六金のときに△2七銀不成。飛車が逃げられないので▲3五金△1六銀不成と進みました。
                         
 ここまできてしまうともう先手が如何ともし難くなっているように思えます。▲4四歩から攻めを続行しましたが,すぐに後手の反撃が決まりました。
 渡辺棋王の連勝。第三局は来月8日です。

 僕のスピノザへの接近の理由は,あるいは第一部定理三三備考二から説明できるのかもしれません。そこでいわれている真理というのを,スピノザの哲学とみなせば,僕は神が善意によって物事を決定するという意見と比べたなら,スピノザの哲学に近い意見をもっていたと理解することができるからです。今となっては覚えていないインスピレーションというのも,こうした理由から当時の僕に発生したのかもしれません。なおかつ僕は世界とはこの現実世界が唯一なのだと考えていました。つまり可能世界の存在を認めていなかったことになります。だから第一部定理三三が真理であると考える点でもスピノザとは一致していたのです。
 もうすでにこの部分に,僕がスピノザ主義者になる兆しというのを見出すことができると思います。そして僕がはっきりとスピノザの哲学が真理であって,自由意志の主体としての神という,僕のイメージの方が誤謬であると考えるようになったのは,スピノザ自身のこの点に関するふたつの説明によります。要するに僕はこのときに熟読したスピノザの言説により,スピノザ主義という立場をとることになったのです。そのふたつの説明を,順に明らかにしていきましょう。
 まずひとつは,もしも神の意志が自然あるいは世界や宇宙の原因であると規定するなら,人間の意志もまた神の意志の結果でなければならないというものです。第一部定理一七備考でスピノザが示していることは,そのゆえに神の意志と人間の意志は,たとえていうなら本物の犬と星座の犬のようなものであり,ただ記号だけが一致するのであって,思惟の様態として,あるいは意志の形相として理解されたならば,まったく異なったものだということです。僕は人間に自由意志がないという観点から,自由意志を神に帰したわけですが,そのように神の意志を,一般的に人間の意志として認識されるような思惟作用によって理解することは,無意味であるといっても差し支えないのです。いい換えれば,神の本性に意志が属するという言明は,この仕方では何事も意味しないといえるでしょう。
 これが第一の理由です。しかし第二の理由の方が強力でした。
コメント
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