スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水戸黄門賞&様態化

2014-06-30 18:58:23 | 競輪
 昨日の取手記念の決勝。並びは芦沢-浦川の茨城,吉田-金子の愛知,脇本-伊藤の近畿に成清,九州の野田と井上は連携せずそれぞれ単騎。
 スタートは金子が取って吉田が前受け。芦沢が3番手,野田,井上と続いて7番手から脇本で周回。残り2周のホームで野田が単騎で上昇。バックで前を斬ると外を上昇した脇本が叩いて打鐘。野田が4番手,追い上げた芦沢が5番手,7番手に井上,8番手に吉田の一列棒状に。残り1周から吉田が動きましたが浦川の横で早くも一杯。バックから芦沢が捲るも野田が対応して道を失いました。これを見て浦川がコーナーからインに。直線では番手有利に差し込んだ伊藤の優勝。逃げた脇本が4分の1車輪差で2着に残り近畿のワンツー。この両者の中を割って迫った浦川が半車身差で3着。
 優勝した京都の伊藤保文選手は2002年の向日町記念以来,およそ11年半ぶりの記念競輪10勝目。取手記念は初優勝。1990年代半ばに頭角を現し,自力型として活躍。2001年頃から3年くらいがおそらく選手として2度目のピークの時期であったと思われ,その後は目立った成績を残せていませんでした。このレースは脇本の先行1車のようなメンバーになったので,無風の番手となればチャンスありとみていましたが,競られることなく,絶好の展開に。それをうまく生かしての久々の美酒になりました。自力でビッグを勝っているような選手は,やはり一定の地力を有しているということの証明であったように思います。

 第一部定理八備考二の区分を,実体自身様態的変状modificatioになった実体substantiaとの区分であると解釈することは成立し得ます。成立し得るどころか,そのように解するのがスピノザのいわんとしたところをより正確に把握していると僕は考えます。そしてこのとき,実体が様態的変状になるという事態について,『エチカ』では特有の言い回しがされます。それは,実体が様態的変状に様態化するといういい方です。ラテン語だとmodificatum est modificationeです。これが様態的変状に様態化すると訳されるのは,自然なことだと思えます。
 畠中は,様態modiと様態的変状は意味が同一であるということを根拠のひとつに据えて,様態的変状に様態化するというのは,様態に変状すると変換が可能であると訳注に付記しています。しかしこの畠中説には疑義を感じない方がおかしいといえます。なぜなら,この説に依拠するなら,スピノザがmodificatum est modificationeと記述したこと,かつそれが様態的変状に様態化すると訳されなければならない理由がまったく欠けてしまうからです。
 ごく一般的に考えましょう。もしもXは実体が様態に変状したものであるというなら,このXは様態でなければなりません。この記述はそれ以外の解釈を許容しないからです。しかしXは実体が様態化したものであるというなら,Xは様態であるかもしれませんが,そうと断言できるわけではありません。なぜなら,様態化したものというのは,様態になったものと解釈することも可能ですが,様態のようなものと解釈することも可能だからです。様態のようなものというのは,様態に近似しているけれども様態ではないものという意味にほかなりません。したがってXは実体が様態化したものであるという言明には,むしろXは様態ではないと解する余地が残っていることになります。
 スピノザは,様態に様態化するといっているのではありません。様態的変状に様態化するといっているのです。したがって様態あるいは実体の変状substantiae affectioと様態的変状にニュアンスの違いがあるなら,ここにも同じだけの相違がある筈です。
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