スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

卒業祝いの中止&虚偽

2015-02-02 19:14:30 | 歌・小説
 日記に書かれた皇室への言及に関連するような内容が,『こころ』の中にプロットとして出現しています。
                         
 上の最後の方で,大学を卒業した私は,先生の家を訪問します。これが私と先生の最後の邂逅になります。私はその三日後に,郷里に帰ります。この時点では私の父親はだいぶ元気になっていました。それで,私の大学の卒業祝いを,客を招いて催そうという話が持ち上がります。
 これは私にとって苦痛なことでした。帰郷前に先生を訪ねたおり,先生は口ではおめでとうと言ったけれども,腹の底ではけなしているように私には思えました。それとの対比でそれほどでもないことを嬉しがる父を,先生と比べて見下すような感情が私にはあったからです。また,私は子どもの頃から田舎の客が嫌いでした。それが自分のために招かれるとなると,自分の苦痛が増大すると思えたからです。しかし田舎の人間は,卒業祝いに招かれないと陰口を言いかねないということも私は了解していたので,渋々ながらそうした会を開くことに同意したのです。そしてその日取りまで決定します。ところがその当日が来る前に,明治天皇の病気の発表が宮内省からありました。父親はこれを受けて,卒業祝いを中止にします。要するに自粛です。日記の7月20日のものにある,野次馬を恐れての自粛というのにこれは該当するものと思われます。
 宮内省の発表があったのが7月20日。明治天皇が症状をみせたのは,14日で,18日には重態になっていたようです。漱石はこの日の晩に号外を入手し,その日のうちに日記を書いていたことになります。
 『こころ』では,7月の5日か6日に郷里に帰り,客を呼ぼうとしたのはその一週間後,そして実際の日取りはさらに一週間以上後という設定になっています。これでみれば発表が20日ですから,もうほとんど直後に決まっていたのだろうと思われます。
 私は,このお陰で好まない社交上の苦痛から解放されたのだと書いています。日記では自粛を否定的に言及していますが,小説では違ったテクストとなっているのは面白いところです。

 虚偽を真理に反するものと定義するなら,ライプニッツの真理の規定に反する規定は虚偽であることになります。僕もこの意味においては,ライプニッツの哲学にも虚偽が定義できることを認めます。しかし僕はそのようには説明しませんでした。これには理由があります。
 平面上の三角形の内角の和が二直角であるという命題を,ライプニッツは主語が述語を十全に含んでいる命題であると解します。ことばと観念の関係が,ライプニッツとスピノザでは異なるのですから,僕はライプニッツがそのように主張することに対しては異議を申し立てません。他面からいうと,こういう場合にライプニッツは主語が述語を正確に含むと判断するのだというように理解します。そしてこうした内容は,どのモナドの内部でも実際に形として表現されるわけです。
 すると,この規定に反するようなすべての規定は虚偽であると理解することは可能です。たとえば三角形の内角の和は四直角であるという命題文とか,四角形の内角の和は二直角であるというような命題文は,真偽不明なのではなくて虚偽であるということになるでしょう。しかしこのように規定される虚偽は,スピノザの哲学でいわれるような虚偽とはまるで異なっていると僕は考えるのです。だから僕はライプニッツの哲学には,虚偽が存在しないというように説明しました。
 これを考えるためにまず注意しておいてほしいのは,僕はスピノザの哲学においては,虚偽と誤謬を異なるものとして理解していることです。このうち誤謬というのは,虚偽に関連する認識の不足,いい換えれば虚偽を真理と思い込むことですから,それがライプニッツによって規定されるような虚偽と異なるということはそれ自体で明らかだといってよく,これ以上の説明は不要でしょう。そしてこのライプニッツの哲学の虚偽は,スピノザの哲学での虚偽とも異なるというように僕は考えています。
 この相違を最もよく明らかにしてくれるのは,第四部定理一であると僕は思います。しかしそれは定理の内容とはあまり関係ありません。ここでスピノザが,誤った観念に積極的なものを認めていることを重視したいのです。
コメント
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