10日の第51回船橋記念の回顧です。
ここは先行争いが注目だったのですが、難なくグローリーウィナーが先手を奪って逃げました。これをナイススマイルワンとプライドキムが並んで追い掛け、その後ろにアヤパンという態勢。前半の600メートルは34秒0でした。そんなに速いとはいえませんが、ベルモントギルダーとカセギガシラは共に中団でおっつけ気味の追走。
直線に入ってもグローリーウィナーの逃げ脚は止まらなかったのですが、馬場の中ほどからプライドキムが楽な感じで上昇、あっさりと捕えて優勝しました。
この馬はここがJRAからの転入初戦。JRA時代には2004年の全日本2歳優駿GⅠを勝っていて、実はそれ以降は勝利から見放されていたのですが、さすがにここでは力が違っていたようです。レコードタイムでの楽勝で、こうした距離の適性も高かったと思われます。
管理する船橋の川島正行調教師は、厩舎開業以来、これが通産700勝目となりました。
2着のグローリーウィナーは、スカイライナースプリントからは4キロも斤量が増えていましたが、先手を取れたことが2着に残れた最大の要因。勝ち馬とは能力の差としかいいようがなく、騎乗した酒井忍騎手も内容には満足されているようです。
3着はアヤパンで、逃げがベストでしょうが、差してこられたのは収穫。
ベルモントギルダー(4着)とカセギガシラ(7着)は、この日の内容からすると、能力の上限を見せつつあるように思いました。
続いて第一部定理一五に進みます。
「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない(Quicquid est, in Deo est, et nihil sine Deo esse, neque concipi potest.)」。
第一部の中では、第一部定理一一と並んで僕が最も重要と考えている定理Propositioです。
ところで、これはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの「神は死んだGott ist tot」ということばについて触れたときにもいいましたし、ここでのテーマの本筋からは外れてしまうのですが、僕の立場を明確にするために説明しておけば、第一部定義六からみても明らかなように、スピノザがいう神Deusというのは、僕たちが「神」ということばから一般的にイメージするものとはやや隔たりがあります。スピノザの神は絶対に無限absolute infinitumな実体substantiaと置き換えることも可能だと思います。しかし、そのことに固執するあまり、スピノザは神の存在existentiaを否定したと考えるのは、僕はスピノザの哲学を理解する上で危険な要素を含んでいるのではないかと思っています。確かにスピノザは「神」を否定しているのは間違いないと思います。しかし一方で、スピノザが神が存在すると主張したことも事実なのです。スピノザは、神というのを人間にとって、いわば信仰fidesの対象としては否定したかもしれませんが、認識cognitioの対象としては認めていたと思います。したがってスピノザの哲学に倣っていうならば、僕は神が存在すると信じてはいませんが、神が存在するということを知っているのです。
ここは先行争いが注目だったのですが、難なくグローリーウィナーが先手を奪って逃げました。これをナイススマイルワンとプライドキムが並んで追い掛け、その後ろにアヤパンという態勢。前半の600メートルは34秒0でした。そんなに速いとはいえませんが、ベルモントギルダーとカセギガシラは共に中団でおっつけ気味の追走。
直線に入ってもグローリーウィナーの逃げ脚は止まらなかったのですが、馬場の中ほどからプライドキムが楽な感じで上昇、あっさりと捕えて優勝しました。
この馬はここがJRAからの転入初戦。JRA時代には2004年の全日本2歳優駿GⅠを勝っていて、実はそれ以降は勝利から見放されていたのですが、さすがにここでは力が違っていたようです。レコードタイムでの楽勝で、こうした距離の適性も高かったと思われます。
管理する船橋の川島正行調教師は、厩舎開業以来、これが通産700勝目となりました。
2着のグローリーウィナーは、スカイライナースプリントからは4キロも斤量が増えていましたが、先手を取れたことが2着に残れた最大の要因。勝ち馬とは能力の差としかいいようがなく、騎乗した酒井忍騎手も内容には満足されているようです。
3着はアヤパンで、逃げがベストでしょうが、差してこられたのは収穫。
ベルモントギルダー(4着)とカセギガシラ(7着)は、この日の内容からすると、能力の上限を見せつつあるように思いました。
続いて第一部定理一五に進みます。
「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない(Quicquid est, in Deo est, et nihil sine Deo esse, neque concipi potest.)」。
第一部の中では、第一部定理一一と並んで僕が最も重要と考えている定理Propositioです。
ところで、これはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheの「神は死んだGott ist tot」ということばについて触れたときにもいいましたし、ここでのテーマの本筋からは外れてしまうのですが、僕の立場を明確にするために説明しておけば、第一部定義六からみても明らかなように、スピノザがいう神Deusというのは、僕たちが「神」ということばから一般的にイメージするものとはやや隔たりがあります。スピノザの神は絶対に無限absolute infinitumな実体substantiaと置き換えることも可能だと思います。しかし、そのことに固執するあまり、スピノザは神の存在existentiaを否定したと考えるのは、僕はスピノザの哲学を理解する上で危険な要素を含んでいるのではないかと思っています。確かにスピノザは「神」を否定しているのは間違いないと思います。しかし一方で、スピノザが神が存在すると主張したことも事実なのです。スピノザは、神というのを人間にとって、いわば信仰fidesの対象としては否定したかもしれませんが、認識cognitioの対象としては認めていたと思います。したがってスピノザの哲学に倣っていうならば、僕は神が存在すると信じてはいませんが、神が存在するということを知っているのです。