同じようにカタルシスを得ることができ,曲調やテンポに似通った部分があるとしても,聴いたり口ずさんだりすることで刺激される感情には,それぞれ相違があります。これは『エチカ』の第二部定理一六からの必然的な帰結。僕の場合,「鳥になって」なら悲しみに強く刺激され,「肩に降る雨」でも悲しみに刺激されますが,同時に希望とか勇気といった類の感情にも刺激されます。これに対して「泣きたい夜に」は愛に刺激されるので,明らかに系統の違いがあると感じています。第三部定理五一は,こうした刺激状態が僕に特有であり,だれにでも該当するわけではないということを示します。ただ僕自身,同じようにカタルシスを得ることに成功していても,実際に得ているそれは,異なったものなのでしょう。ただ,どのように異なっているのかということは,僕自身もよく理解できていませんし,まして説明することはとてもできないのです。
愛に刺激されるという意味では,「泣きたい夜に」よりもさらに強くその感情を喚起させられるものがあります。それが「MEGAMI」です。回数でいえば「泣きたい夜に」には及ばないでしょうが,こちらも数多く聴いています。
この楽曲はさびとなる部分がハイライトで,確かにその部分で愛が喚起されるといえます。ただフレーズとして僕が好きなのは別の部分です。
どのみち短い 眠りなら
夢かと紛う 夢をみようよ
あるいは2番の同じ部分。
どのみち終わらぬ 旅路なら
夢とも知らぬ 夢をみようよ
題名もそうなのですがこの歌には神話的な味付けがなされているように感じます。学生時代のある授業の試験に,神話をひとつ作成せよというものがあったのですが,僕はそのときに中島みゆきの楽曲を参考にしました。これはその中の一曲で,その点でも僕の個人的な思い出に残っています。
第一部定理二一証明でスピノザが用いている実例は,直接無限様態の永遠性aeternitasを証明する際にだけ言及されているのではありません。直接無限様態の無限性を証明するときにも使われています。したがって,直接無限様態が無限infinitumであるといわれるとき,スピノザはその無限性を,属性attributumの無限性と一義的に把握していたと僕は理解しています。第一部定理二二は第一部定理二一と同様の訴訟過程で証明されるのですから,このことは間接無限様態にも適用されます。つまりこの部分は,なぜ僕が無限の一義性を神Deusおよびその属性だけからではなく,無限様態modus infinitusも含めた上で解釈するのかということの根拠ともなっています。
ただし,『エチカ』の読解という点に関していうならば,永遠の一義性と無限の一義性には相違があってもおかしくはないとも僕は考えています。というのも第二部自然学②補助定理七備考のテクストは,明らかに延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態は,それ自体が無限に多くのinfinita個物res singularisによって組織されているひとつの個物であると読解できるような内容になっているからです。つまりこの部分に依拠するのであれば,無限の一義性から無限様態,少なくとも間接無限様態を排除するという読解にも,一理あるといわなければならないでしょう。
これに対して,永遠性に関しては,これと類似するようなテクストは,『エチカ』のどこを探しても存在していないように僕には思えます。ですから永遠aeterunusの一義性から無限様態を排除する読解を許容するような要素は,『エチカ』のうちにはないと思うのです。むしろ第一部定義八説明のテクストというのは,そのような理解を許容しないということを強調するようなテクストであるように僕には感じられます。
したがって,永遠の一義性に関する僕の結論というのは,僕自身の中では確固たるものであることになります。そこでこのことが,無限の一義性の把握のあり方に関して,どのような影響を及ぼしてくるのかということを,ここで詳細に考えておくことにします。
愛に刺激されるという意味では,「泣きたい夜に」よりもさらに強くその感情を喚起させられるものがあります。それが「MEGAMI」です。回数でいえば「泣きたい夜に」には及ばないでしょうが,こちらも数多く聴いています。
この楽曲はさびとなる部分がハイライトで,確かにその部分で愛が喚起されるといえます。ただフレーズとして僕が好きなのは別の部分です。
どのみち短い 眠りなら
夢かと紛う 夢をみようよ
あるいは2番の同じ部分。
どのみち終わらぬ 旅路なら
夢とも知らぬ 夢をみようよ
題名もそうなのですがこの歌には神話的な味付けがなされているように感じます。学生時代のある授業の試験に,神話をひとつ作成せよというものがあったのですが,僕はそのときに中島みゆきの楽曲を参考にしました。これはその中の一曲で,その点でも僕の個人的な思い出に残っています。
第一部定理二一証明でスピノザが用いている実例は,直接無限様態の永遠性aeternitasを証明する際にだけ言及されているのではありません。直接無限様態の無限性を証明するときにも使われています。したがって,直接無限様態が無限infinitumであるといわれるとき,スピノザはその無限性を,属性attributumの無限性と一義的に把握していたと僕は理解しています。第一部定理二二は第一部定理二一と同様の訴訟過程で証明されるのですから,このことは間接無限様態にも適用されます。つまりこの部分は,なぜ僕が無限の一義性を神Deusおよびその属性だけからではなく,無限様態modus infinitusも含めた上で解釈するのかということの根拠ともなっています。
ただし,『エチカ』の読解という点に関していうならば,永遠の一義性と無限の一義性には相違があってもおかしくはないとも僕は考えています。というのも第二部自然学②補助定理七備考のテクストは,明らかに延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態は,それ自体が無限に多くのinfinita個物res singularisによって組織されているひとつの個物であると読解できるような内容になっているからです。つまりこの部分に依拠するのであれば,無限の一義性から無限様態,少なくとも間接無限様態を排除するという読解にも,一理あるといわなければならないでしょう。
これに対して,永遠性に関しては,これと類似するようなテクストは,『エチカ』のどこを探しても存在していないように僕には思えます。ですから永遠aeterunusの一義性から無限様態を排除する読解を許容するような要素は,『エチカ』のうちにはないと思うのです。むしろ第一部定義八説明のテクストというのは,そのような理解を許容しないということを強調するようなテクストであるように僕には感じられます。
したがって,永遠の一義性に関する僕の結論というのは,僕自身の中では確固たるものであることになります。そこでこのことが,無限の一義性の把握のあり方に関して,どのような影響を及ぼしてくるのかということを,ここで詳細に考えておくことにします。