スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

皇室への言及&逃走

2014-08-29 19:16:46 | 歌・小説
 『漱石日記』の⑧には、皇室関連の言及がいくつかみられます。
                         
 1912年6月10日、漱石は能を観ました。明治天皇をはじめ皇室も列席していました。皇后と皇太子が喫煙したことに関連して、我々は禁煙なので、遠慮するか、そうでないならば自分たちにも自由に喫煙させるべきだという主旨のことが書かれています。また、皇室は神の集合ではなく、親しみやすくして国民の敬愛を得るのが、制度が長持ちする方法であるという主旨の記述もあります。
 7月20日、明治天皇が昏睡状態になったと報じられました。この日は隅田川の花火大会の予定でしたが、中止になりました。当局からの指令であったようです。これについて漱石は、非常識であると非難しています。天皇の病気に直接的に害を与えないようなすべての行為は許容されるべきであると書かれています。
 6月10日の分には、皇室に対して丁寧なことばを用いればよいと思っている人が多いけれども、それは本来の意味で敬愛の情ではない。ぞんざいなことばを用いると不敬罪に問うけれども、これでは本当に不敬な人間を問うことはできないので馬鹿げたことだとあります。
 7月20日の方には、当局を恐れたり、野次馬を恐れて物事を自粛するのは、表面上は皇室に敬意を表しているように見えるけれども、その実は心のうちに不平や恨みを蓄えるような結果になりかねないとあり、だから自粛を強要すべきではないとしています。いわんとするところはどちらも似ているように僕には思えます。
 日記という、公開することを前提としていないものであるから、漱石がこうしたことを書くことができたのか、それとも一般的に、このような言論というものが許される時代背景であったのかは分かりません。ただ、日記という形式で書かれているのですから、漱石の本音に近いものであったのは間違いないでしょう。当局の強要が何の意味ももたないこと、市民が他に追随して自分の考えを貫かないのは危険であると漱石が考えていたということを、これらの内容がよく表しているといえると思います。

 1月5日、日曜日。母と妹は美容院へ。6日の月曜が妹の仕事始めでしたので、これに合わせたものです。
 1月8日、水曜日。僕は川崎に出ました。この日、巡回中の警察官に声を掛けられました。こうした経験は2度目。まだ大学時代、アルバイトで遅くなった帰りに、警官から声を掛けられるということがありました。そのときは同じバイト先の高校生と一緒でした。アルバイトに限らず、学生時代はこれくらいの時間に出歩くことはしょっちゅうでしたから、今から考えるとなぜこのときだけ声を掛けられたのか不思議な気がします。もっとも、出歩いたからといって必ず警官に出会うというわけではありませんから、たまたまであったというほかありません。
 この日に声を掛けられたのは、事情がありました。前日に、川崎で取り調べを受けていた容疑者が逃げ出すという事件があったのです。このことは大きく報じられましたから、ご存知の方も多いでしょう。その容疑者に関する質問を受けたというわけです。僕は前日は関内でしたので、何も知っていることはありません。数分で警官との話は終りました。
 容疑者に逃げ出されるというのは失態で、建物の構造に問題があるともいえるでしょう。ただ、僕が考えるに、実際に建物が脱出可能になっているかどうかということより、容疑者に逃げ出せそうだと表象させることの方が問題だと思います。建物そのものには問題があったとしても、容疑者が逃げ出すことは不可能だと表象するなら、こうした事件は起きません。なのでこうした場合の対策として、実際に逃げ出せないようにするというのはひとつの方法ですが、むしろ逃げ出すことが不可能だと思わせるように仕向ける方が優れていると思います。たとえ実際には逃げ出せなくても、逃げ出そうとするなら捕まえなければならず、手間が掛かります。しかし最初からその可能性を表象させないでおけば、そうした事態が発生することを防ぐことができるからです。個々の観念と個々の意志作用は同一のものであるとするスピノザの哲学からは、こうした方法の優秀性が導き出せるといえます。
 なお、これもご存じの方がほとんどであると思いますが、このときに逃走した容疑者は、翌日となる9日の昼に、横浜市内で身柄を拘束されています。 
コメント
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