スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

悲劇の誕生&該当範囲

2013-08-12 18:53:25 | 哲学
 でスピノザが演じたディオニュソス。ギリシア神話には詳しくない僕も,この名前は知っていました。というのもこの名はニーチェの著作に頻繁に現れるからです。
 僕はスピノザほどにはニーチェを読み込んでいませんし,読み返してもいません。ただ,ニーチェの著作のうち,最も詳しくディオニュソスに関して論じているのが『悲劇の誕生』であるということは,おそらく間違いないだろうと思います。
                         
 ニーチェには哲学者としての一面と考古学者,知の考古学者ないしは系譜学者としての一面があります。というかそれらふたつが一体となって,ニーチェ独特の思想となっています。『悲劇の誕生』は考古学者としてのニーチェの一面を色濃く反映させている一冊。主題はギリシア文明の探求で,それを解く鍵が,ディオニュソス的とは何かという問いに答えることのうちにあるというのがニーチェの考え方です。
 ここでニーチェは,ディオニュソス的なものを,アポロ的なものと対峙させます。ごく簡略化していうならば,アポロ的なものを受け継ぐのがソクラテスであり,そしてキリスト教的なものです。対してニーチェは反ソクラテスにしてアンチキリストという立場です。つまりニーチェ自身の立ち位置がまず,ディオニュソスの系譜を受け継いでいるということになります。
 ニーチェがアンチキリストという立場を選択するのは,キリスト教という宗教のうちに,ルサンチマンを見出すからにほかなりません。つまり『悲劇の誕生』は,ディオニュソス的なものの理解がギリシア文明の理解に不可欠であると主張しているわけですが,キリスト教文明に対抗し得るものはディオニュソス的なものであって,だからニーチェの同時代においてもそうした立場が選択されなければならないという,ニーチェ自身の考え方がそこにも反映されているのだと僕は理解しています。
 これほどニーチェはディオニュソスを愛したのです。演劇上の役であったとはいえ,それをスピノザが演じていたということを,ニーチェは想像だにしなかったでしょうし,もし知ったならば,複雑な感情に支配されたことでしょう。

 次に,第三部要請一は人間の身体についての言及です。しかし第二部定理一三により,Aという人間の身体を観念対象ideatumとした観念はAの精神です。いい換えればAの身体とAの精神は平行論,ふたつの平行論のうち,思惟属性と思惟以外の属性の間の平行論における同一個体です。したがって第二部定理七により,Aの身体とAの精神の秩序は一致します。なのでたとえばAの身体の活動能力が増大するならば,Aの精神の活動能力も増大すると理解しなければなりません。これは第三部定理一一で示されていることでもあります。よって,第三部要請一というのは,人間の身体にのみ言及してはいるのですが,人間の精神にも妥当するような要請です。つまり第二部公理五からして,この要請は一般に人間,ここでの考察でいえば現実的に存在する人間だけを射程においても構いませんが,身体と精神が合一した存在としての人間一般に,この要請は該当します。
 また,このことを帰結させる論拠となっている第二部定理七というのは,別に人間の身体とその人間の精神の間でだけ成立するわけではありません。いうまでもなくこの定理は,自然のうちに実在する,あるいは実在し得るあらゆる事物にとって妥当する普遍的な原理です。よって第三部要請一は,人間の身体と精神にだけ適用することが可能な内容を有しているというわけではなく,個物res singularis一般,この場合もここでは現実的に存在する個物res singularisのみを眼中において構いませんが,そうした個物res singularis一般に適用することが可能な内容をもっていることになります。むしろ第二部定理七の原理は,実際には個物res singularis一般よりもさらに多岐にわたっていると理解しなければなりません。
 実際にはこのことは,スピノザの哲学において精神とは何を意味するのかということからより明白です。また,本来的にはそちらから帰結させるべき事柄であると僕は考えています。ただ,ここでまた精神とは何かという問題を持ち出すのは煩わしいですから,別の方面から説明したまでです。
 これらの事柄のすべてが,これから考察していく内容の前提条件をなすというように考えておいてください。
コメント
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