スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

永久欠番&第一部公理六

2008-02-10 18:52:58 | 歌・小説
 1月の終りに,伯父と友人が相次いで旅立ちました。
 伯父の方はもう数えて90。最近は寝たきりに近いような生活を送っていたようで,そのまま自宅で静かに息を引き取りました。老衰ということですが大往生だといえるでしょう。とても安らかな顔をしていました。
 友人は大学の同級生でまだ38の筈。虚血性心不全,いわゆる突然死というやつでした。もう10年以上も連絡を取っていなかったのですが,別の友人からメールで一報を受けたときには,あまりの驚きにことばを失いました。
 身近な人を亡くしたとき,僕はきまって思い出す歌があります。それが中島みゆきの『永久欠番』。

    街は回ってゆく 人1人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと


 こんなときはいやでもこの部分が頭の中を駆け巡ります。しかし考えてみれば,毎日毎日,今日も間違いなく,だれかしらがこの世を去っています。あるいはこの歌は,そうした見ず知らずの人たちのためにあるのかもしれません。

    100億の人々が
    忘れても 見捨てても
    宇宙の掌の中
    人は永久欠番


 たぶんこの歌は,永久欠番になるような生き方をしていますかという問い掛けではありません。むしろどんな生き方をしていても,人間はだれもが永久欠番なのだということでしょう。ここにはある種の絶対的肯定,あるいはこういってよければ絶対的な愛があるように感じます。そしてこの歌のその部分が,僕を魅きつけているのです。

 明日は女流名人戦第二局。おそらく後手となる斎田晴子女流四段のごきげん中飛車になるのではないでしょうか。

 競馬は佐賀記念。ここはマコトスパルビエロ◎に期待します。力はキクノアロー○。地方馬ではチャンストウライ▲で,あとはサイレントディール△とミツアキタービン△。

 競輪は豊橋記念の決勝。並びは高谷-有坂-斉藤の北日本,小林-小橋の上越に西郷,海老根-渡辺-中井の南関東。渡辺選手にチャンスが訪れた感じです。

 第二部定義四には説明が付されていて,ここでスピノザは,なぜ内的特徴 denominations intrinsecasということばを用いたかを述べています。しかしその前に,十全な観念ideam adaequatamは真の観念verae ideaeのすべてのomnes内的特徴を有するといわれているのですから,ここでは先に真の観念の何たるかを明らかにしておきましょう。そのために,すでにお馴染みになっている公理Axiomaではありますが,第一部公理六をもう一度ここでみておきます。
 「真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならぬ」。
 この公理の正当性はここでは問題にしません。実際,ある観念はもし真の観念であるためには,その観念が観念されたものideatumと一致していなければならないでしょう。このことから,対象と一致するような観念が真の観念であるということは明らかであり,ここではこれだけで十分だからです。
 ただ,僕が考えてみたいのは,第二部定義四で十全な観念が定義されているのに対して,ここでは真の観念は定義されずに,公理として示されている点です。これはいい換えれば,十全な観念は定義することが可能なあるものであるが,真の観念は定義することが不可能なあるものであるということを示しているのではないかと思います。これがなぜかを考えることは,今回のテーマの大きなヒントになると思いますので,もう少し,十全な観念と真の観念の差異というのを考えてみることにします。
コメント
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