ドストエフスキーの時代のロシアのキリスト教の状況について,必要最小限の事柄だけは説明できましたので,今度はドストエフスキーの小説が,どれほどキリスト教と関わりを有しているかを検討します。まず最初に,『罪と罰』のラスコーリニコフの場合を考えてみます。
僕が思うこの小説のハイライトと思えるシーンは,すでに説明したように,かつて相模鉄道の車内で読んだ,大地への接吻に至る部分です。大地への接吻というのは,確かに宗教色があるといえるでしょうが,ドストエフスキーの小説の場合,ロシアの大地との和解というモチーフもふんだんに盛り込まれていますから,この部分を単にキリスト教的な意味合いだけで理解するのは,もしかしたら正しくはないかもしれません。ただ,たとえば夏目漱石がこの部分を読んだとして,そこにキリスト教色を嗅ぎとったとしても,それは不自然とはいえないことは確かだと思います。
ラスコーリニコフが自分の罪をソーニャに告白する理由のひとつは,自分が殺したリザヴェータが,ソーニャの友人であったということです。しかしそれ以外にもうひとつ,ソーニャは敬虔なキリスト教信者であったということも外せないように思います。実際にラスコーリニコフの告白の以前,これは唐突な感じも否めないのですが,ラスコーリニコフは自ら望み,ソーニャに新約聖書のラザロの復活といわれる部分,ヨハネによる福音書の11章の1~44までを朗読してもらっています。そしてその直後に,自分が犯人であるということは伏せたものの,自分はリザヴェータを殺したのがだれであるかを知っていると言っているのです。
このとき,ラスコーリニコフは自分と娼婦であるソーニャとを結び付けて考え,だから告白の相手としてソーニャを選択するという主旨のことを言っていますが,さらに自分とソーニャとを,復活するラザロと重ね合わせるような気持ちがあったのだろうと思います。そしてそうであるなら,これは分かりやすくドストエフスキーとキリスト教とを関連付けて理解できる部分ではないかと思います。
実際にはこれだけではまだ僕が証明したいと考えていること,すなわち観念が実在するならそれは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということの証明のすべてが終了しているわけではありません。さらにこのことを一般化していく手続きが必要です。
まず,人間Aはどの人間の場合にも該当します。よって少なくとも人間の精神のうちにXの観念があるなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかです。
次に,Xというのはどんな個物,といってもこれは人間を対象としていますから,この個物は第二部公理五により物体であるか思惟の有限様態であるかのどちらかには限定されますが,少なくともそうした個物全般には妥当します。よって人間の精神のうちにある観念があれば,それは十全な観念としてあるか,そうでなければ混乱した観念としてあるかのどちらかです。
そして,スピノザの哲学における精神の考え方からして,このことは人間だけではなく,どんな個物を視野に広げても該当します。というのは,第二部定理一一系というのは,人間の精神が神の無限知性の一部であるということのみを言明していますが,実際にはどんな個物の精神であったとしても,それが神の無限知性の一部でなければならないということは,この系と同じような仕方で証明することができるからです。よって,どんな個物の精神の現実的有を構成している観念も,それが単独で観察されるなら,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということになります。
最後に,第二部定理七系が示していることは,神の無限知性のうちにある観念があるなら,その観念の対象ideatumがその無限知性の外に形相的有として実在するということです。そして観念とその対象ideatumが合一しているとみられるとき,その観念がその対象ideatumの精神といわれるのですから,精神とみなされないような観念というのはありません。よってすべての観念は,十全な観念であるか混乱した観念のどちらかであるということが,最も一般的な意味として出てきます。
僕が思うこの小説のハイライトと思えるシーンは,すでに説明したように,かつて相模鉄道の車内で読んだ,大地への接吻に至る部分です。大地への接吻というのは,確かに宗教色があるといえるでしょうが,ドストエフスキーの小説の場合,ロシアの大地との和解というモチーフもふんだんに盛り込まれていますから,この部分を単にキリスト教的な意味合いだけで理解するのは,もしかしたら正しくはないかもしれません。ただ,たとえば夏目漱石がこの部分を読んだとして,そこにキリスト教色を嗅ぎとったとしても,それは不自然とはいえないことは確かだと思います。
ラスコーリニコフが自分の罪をソーニャに告白する理由のひとつは,自分が殺したリザヴェータが,ソーニャの友人であったということです。しかしそれ以外にもうひとつ,ソーニャは敬虔なキリスト教信者であったということも外せないように思います。実際にラスコーリニコフの告白の以前,これは唐突な感じも否めないのですが,ラスコーリニコフは自ら望み,ソーニャに新約聖書のラザロの復活といわれる部分,ヨハネによる福音書の11章の1~44までを朗読してもらっています。そしてその直後に,自分が犯人であるということは伏せたものの,自分はリザヴェータを殺したのがだれであるかを知っていると言っているのです。
このとき,ラスコーリニコフは自分と娼婦であるソーニャとを結び付けて考え,だから告白の相手としてソーニャを選択するという主旨のことを言っていますが,さらに自分とソーニャとを,復活するラザロと重ね合わせるような気持ちがあったのだろうと思います。そしてそうであるなら,これは分かりやすくドストエフスキーとキリスト教とを関連付けて理解できる部分ではないかと思います。
実際にはこれだけではまだ僕が証明したいと考えていること,すなわち観念が実在するならそれは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということの証明のすべてが終了しているわけではありません。さらにこのことを一般化していく手続きが必要です。
まず,人間Aはどの人間の場合にも該当します。よって少なくとも人間の精神のうちにXの観念があるなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかです。
次に,Xというのはどんな個物,といってもこれは人間を対象としていますから,この個物は第二部公理五により物体であるか思惟の有限様態であるかのどちらかには限定されますが,少なくともそうした個物全般には妥当します。よって人間の精神のうちにある観念があれば,それは十全な観念としてあるか,そうでなければ混乱した観念としてあるかのどちらかです。
そして,スピノザの哲学における精神の考え方からして,このことは人間だけではなく,どんな個物を視野に広げても該当します。というのは,第二部定理一一系というのは,人間の精神が神の無限知性の一部であるということのみを言明していますが,実際にはどんな個物の精神であったとしても,それが神の無限知性の一部でなければならないということは,この系と同じような仕方で証明することができるからです。よって,どんな個物の精神の現実的有を構成している観念も,それが単独で観察されるなら,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということになります。
最後に,第二部定理七系が示していることは,神の無限知性のうちにある観念があるなら,その観念の対象ideatumがその無限知性の外に形相的有として実在するということです。そして観念とその対象ideatumが合一しているとみられるとき,その観念がその対象ideatumの精神といわれるのですから,精神とみなされないような観念というのはありません。よってすべての観念は,十全な観念であるか混乱した観念のどちらかであるということが,最も一般的な意味として出てきます。