スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災被災地支援大宮記念&第二部定理九

2012-01-17 18:42:07 | 競輪
 グランプリ覇者の新年初出走となった大宮記念の決勝。並びは平原-斉藤の東日本,岩本ー渡辺の南関東,村上ー山口-富永の近畿中部,松岡-柏野の西国。
 前受けが岩本,3番手に村上,6番手に平原,8番手に松岡という周回だったようです。松岡から上昇して打鐘前のバックで岩本を叩いて先頭に。このラインに続いたのが平原で,打鐘で引いた村上が巻き返して前に出ると,その外をさらに岩本が叩いて先行。結局,周回中と同じ隊列で一列棒状に。バックから平原の発進に合わせるように村上も発車。山口が外を並走していた平原に極められ,村上の後ろに平原となり捲りきりました。平原は直線の伸びが悪く,むしろ迫ったのは外を捲り追い込んだ松岡でしたが,僅かに凌いで村上の優勝。松岡が2着で続いた柏野も平原を差して3着。
                                        
 優勝した京都の村上義弘選手は11月の四日市記念に続いて記念競輪23勝目。このレースは近況と実績を考えると最も優勝に近いとは思っていましたが,500バンクは難しいところもあります。うまく立ち回って岩本の3番手を確保したのが最大の勝因でしょう。後ろをそれほど待たずにバックから捲っていったのも,いかにもらしいレースであったと思います。
                         
 前々回は『エチカ』における属性attributumをどのように考えるべきかを考察するために第一部定義四をテーマとしました。前回はスピノザの哲学における能動actioと受動passioということを僕がどのように考えているのかを明示するために第三部定義二をテーマに設定しました。属性について考えることと,能動および受動について考えることは,それ自体でみれば別の事柄に関する考察です。しかしこのブログにおいて,これらふたつの間にはある関連性がありました。すなわち,属性について考え,その最終的な結論を導き出す段階において,スピノザの哲学における能動と受動をどのように考えるべきなのかということが,いわば別の問題として派生してきたのであったからです。
 そこで今回も,こうした関連性ないしは継続性を重視することにします。前回の能動と受動に関する考察の最後の部分において,僕は,ある人間が何らかの思惟作用をなすというときに,その思惟作用が能動的な作用であるのか受動的な作用であるのかということは,スピノザにとっては哲学の実践という側面から非常に重要であったと思われることを示唆しました。一方で,人間の精神mens humanaが,というよりもこれは人間に限らずあらゆる精神がといってもいいのですが,思惟作用をなすときに,その作用自体がそれをなす精神のうちで自己完結しているのか否かということは,スピノザにとってはさほど重要ではなかったのではないかと主張しました。それはそもそもスピノザが,精神が事物を認識するcognoscereという作用自体を,どのように考えていたのかということと関係していると僕は考えています。そこで今回はその僕の考えを詳述します。そしてこれについてはいろいろな角度からテーマを設定することが可能だと思うのですが,ここでは後に明らかにしていくであろう意図を含め,第二部定理九を中心に考察することとします。
 「現実に存在する個物の観念は,神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状した[発現した]と見られる(rei singularis idea affectus consideratur)限りにおいて神を(quatenus Deus)原因とし,この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする,このようにして無限に進む」。
 発現したという部分は,岩波文庫版の訳者である畠中尚志による補足です。
コメント
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