スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&強い意味

2014-01-13 19:40:09 | 将棋
 今期も掛川城二の丸茶室で開幕した第63期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は渡辺明王将が26勝で羽生善治三冠も26勝。
 掛川市長による振駒で渡辺王将の先手。相矢倉で1日目から激しく戦い,87手まで進展。羽生三冠が後手を持った前例があり,封じ手から新局面に。もっともその後も当時の感想戦で示された手順に進んだようです。
                         
 先手が飛車を打ち込んだ局面。後手は△3三角と当て,▲7ニ飛成と銀を取る手を強要。さらに受けるなら△5二銀でしょうが,△4五歩と王手。▲5五歩の手筋にも△同角と取り,さらに▲6六金の合駒にも△同飛▲同銀△同角といき,▲7七金△8五桂。先手は▲6六金と取りました。
                          
 ここまで来ると先手玉が詰むか詰まないかですが,詰みはなし。先手の勝ちに終っています。第1図は後手もやれそうに思えるのですが,もう一手は受けておかないと,後手が勝ちにすることはできなかったということなのでしょう。
 渡辺王将が先勝。第二局は23日と24日です。

 もしもAとBの関係を固定化することができるような意志作用が知性のうちに存在するならば,第一部公理三もまた,公理であるかは別としても,観念として同じ知性のうちに存在することができます。というよりも,そのような意志作用が存在する場合には,この観念は必ず存在することになります。そのような意志作用がこの観念なしにあるということは不可能だからです。
 このことにより,強い意味が明らかになります。つまり強い意味とは,このような意志作用によって肯定されるような意味のことなのです。そして第一部公理三の文言のうちにこの強い意味がどこに含まれているのかといえば,原因が与えられればそこから必然的に結果が生じるといわれるときの,必然的という部分にあるというべきでしょう。つまり強い意味というのをこの文言に則していい表わすとすれば,一定の原因からは一定の結果が生じ,その一定の結果以外の何らかの結果が生じるということはないということです。
 ただし,これは一般的な表現なのでもう少しの注意が必要です。スピノザの哲学において,個々の意志作用の総体が意志と,また個々の観念の総体が知性と定義づけられなければならないのは,スピノザの哲学における特殊性と一般性の理解に関係しています。そしてこれと同じことが,第一部公理三にも該当します。すなわちここで原因と一般的にいわれているものは,自然のうちに存在する個々の原因の総体のことです。また,結果といわれているのは,それら個々の原因から発生する各々の結果の総体のことです。したがって,それら個々の原因と結果との間の因果関係のすべてに,この必然的な関係が妥当すると理解しなければなりません。ただひとつ,AとBの間でのみ,必然性が確定されても,それではこの公理の要件を満たしたことにはならないのです。
 もっといえば,ただこれだけでも,僕は強い意味の要件を充足しているとは考えません。ただしこの点はここでは触れません。強い意味が公理的性格を有するということについて,僕は懐疑的であり,その説明の中で,強い意味が満たすべき十分条件が明らかにされていくことになるからです。
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