スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

十宝賞&無の観念

2007-07-09 21:50:58 | 競輪
 弥彦記念2日目優秀の十宝賞(動画)。
 前受けは岡部選手。単騎の後閑選手が上昇し,残り2周のホームで岡部選手を抑えて一旦前に。バックで岐阜勢がさらにこれを抑えました。新田選手は前に出ずに,4番手を外で内の岡部選手と争って打鐘。そのまま山田選手の先行となりました。外外を踏んで追い上げてきた新田選手に合わせるように3コーナーから後閑選手が発進。この捲り追い込みが決まって後閑選手が1着,終始行き場のなかった岡部選手が,山田選手の番手から出た山口選手と後閑選手の中を割って2着。山口選手は3着でした。
 今日は位置を決めずにうまく3番手に入った後閑選手のレースのうまさが目立ったと思います。それに対して新田選手はやや消極的だった気がします。岡部選手は動くに動けない位置となってしまい,よく2着まで届きました。

 明日から王位戦七番勝負の第一局が始まります。これまでの対戦成績は羽生善治王位が15勝,挑戦者の深浦康市八段が13勝となっています。

 僕がそのことばによってこりん星を表象するとき,神との関連でこれを考えれば,僕の精神の本性を構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りで,神のうちにこりん星の観念があるということになります。しかしこの仕方で神のうちにあるこりん星の観念の対象というのは,ある星ではなくて,この仮定の限りでは,こりん星ということばそのものであるということになります。このことは,第二部定理一七および第二部定理一六系二から明らかであるといえるでしょう。小倉優子の精神のうちにどのようにしてこりん星の観念が生じたのかについては,僕は具体的には知りませんので,このような仕方で詳しくそれを説明することはできませんが,これと同じ方法を用いることによって,神のうちにこりん星の観念があるということについては,矛盾なくそれを説明することができると思います。
 したがって,こりん星というのが形相的に実在するような星ではないのだとしても,それに関する何らかの説明があって,それがこりん星であると名付けられさえすれば,人間はその説明に刺激されることによってこりん星を表象することなり,その観念は十全な観念として神のうちにあることになります。そしてその十全な観念とは,こりん星と名付けられる説明の観念であり,この説明自体は実在的なものと考えることができますから,こりん星の十全な観念,すなわち一見は無と思えるようなものを対象とするような十全な観念が神のうちにあるとしても,何ら矛盾ではないと僕は考えます。
コメント
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