スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

91歳対決&力と実在性

2007-07-18 21:12:24 | NOAH
 バイソン・スミス選手を相手に防衛した三沢光晴選手の4度目の防衛戦は,挑戦者に田上明選手を迎え,16日の日本武道館大会で予定通りに行われました。
 三沢選手と田上選手はほとんどのシーンでチームを結成するよりは戦うことの方が多かったわけですが,三沢選手が全日本の社長を辞任し退社した当時,田上選手は選手会長として選手をまとめる立場にあり,三沢選手のNOAH旗揚げとともにほとんどの選手をこちらに移籍させたわけで,そういう意味での信頼関係はずっとあったと考えていいでしょう。すでに三沢選手が45歳,田上選手も46歳ということで,常識的に考えればこういう大舞台での対決というのはこれが最後になるであろうことが予想されますので,僕としても感慨深い試合でした。
 入場時,田上選手の表情からは緊張の色を感じ取ったのですが,試合になればそれも別。両者がどういう思いで戦ったのかは僕などには想像できませんが,共にトペを出し合うなど,攻撃するにしろ相手の技を受けるにしろ,何となく試合そのものを楽しんでいるという印象を強く受けました。
 最後はブレーンバスターのように担ぎ上げてのエメラルドフロウジョンを決めて三沢選手の防衛。武道館のメーンのGHC戦では,勝利選手がリング上でインタビューを受けるのが恒例ですが,この日の三沢選手はかつてみたことがないほどにえらくハイテンションの上に上機嫌。これもかなり印象的でした。次の防衛戦には高山選手を推す声がファンの間から上がりましたが,これはまだ未定です。

 確かに,棋士による読み筋の表象と,小倉優子によるこりん星の表象が,それが力であるといわれる場合に,同一性を有していなければならないということは,どことなく不自然な感じを受けなくもありませんし,そういう印象という点に関しては,僕自身もそのように感じないわけではありません。しかし,あるものに力があるということは,部分的にはそのものについてのある完全性を含意し,『エチカ』においては事物の完全性というのがその事物の実在性と同一の意味であるという第二部定義六に鑑みれば,これは確かにそうでなければならないと僕は考えるのです。
 僕は事物の実在性というものをスピノザの哲学において考えるとき,それは力という観点からみた限りで,その事物の本性そのものにほかならないと思っています。したがってあるものにある力があるということは,第一義的には,そのあるものにある実在性があるということを意味しなければなりません。よって,Aの力とBの力に何らかの差異を認めるとするなら,Aの実在性とBの実在性の間に何らかの差異を見出さなければならないということになります。
 ところが,棋士の読み筋も,小倉優子のこりん星も,実在性という観点から考えるならばそこには一切の差異を見出すことができません。だから,棋士による読み筋の表象というのが,棋士にとってある力であるといわれるのであれば,それとまったく同じ意味において,小倉優子のこりん星の表象も,小倉優子にとっての力であるといわれなければならないと思うのです。
コメント
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