スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
昨晩の第31回アフター5スター賞 。
ブラックストームは発馬であおって4馬身の不利。ハセノエクスプレスが前に出て内からエンテレケイア,外からカラフルキューブが追っていく形。ローウェルとジゼルが並んで続きマックスを挟んでプリンスリターンとスターシューターが併走。ラヴケリー,スワーヴシャルル,ブンロートの順で続きました。2馬身差でカセノダンサーで4馬身差の最後尾にブラックストーム。前の3頭は内からエンテレケイアが前に出て,ハセノエクスプレス,カラフルキューブの順に落ち着きました。前半の600mは34秒6のハイペース。
3コーナーからも前の3頭は雁行。2馬身差でローウェルが続き,外から追い上げてきたのがマックスとスターシューター。直線に入るとカラフルキューブは一杯。ハセノエクスプレスの外からマックスが追い上げてきて,抜け出したエンテレケイアを追いました。差は一時的に詰まったのですが,そこからまたエンテレケイアが一伸び。鋭く逃げ切ったエンテレケイアが優勝。マックスが1馬身4分の1差で2着。ハセノエクスプレスが4分の3馬身差で3着。
優勝したエンテレケイア は習志野きらっとスプリント から連勝で南関東重賞2勝目。ここにきて本格化したという印象で,スピード能力を生かしての勝利。タイムからは重賞では厳しそうですが,南関東重賞のスプリント戦ではトップに立ったとみてよいと思います。父はアジアエクスプレス 。Entelecheiaは哲学用語で完成された現実性。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手 はスパーキングサマーカップ 以来の南関東重賞36勝目。第21回 以来10年ぶりのアフター5スター賞2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞69勝目。第21回,22回 に続く9年ぶりのアフター5スター賞3勝目。
これはあくまでも物語であって,実際にそうであったといいたいわけではありません。ただ,フッデ Johann Huddeに対する配慮とライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizに対する配慮の間には差があったということは厳然たる事実であって,その理由をどこに見出すかといったときに,僕が物語として提示した仮説を全面的に否定できるわけではないと思います。もちろんだからシュラー Georg Hermann Schullerがスピノザの最期を看取ったのだとしなければならないわけではないですが,この仮説に対してわずかでも有利な条件になることは事実だと思います。とはいえコレルスの伝記 Levens-beschrijving van Benedictus de Spinoza が示しているのはその医師はマイエル Lodewijk Meyerだったということであって,事実としてそうであったかもしれません。一方でこの医師がシュラーであった可能性もないとはいえないのであって,それも否定する必要はないでしょう。ただ,マイエルであるかシュラーであるかのどちらかなのであって,それ以外の人物ではなかったと思います。
スピノザの死後のことで,スペイク が関わったのだけれど,コレルスの伝記では触れられていない重要なことがひとつあります。
スピノザは生前,もしも自分が死ぬようなことがあったら,おそらくスピノザが哲学の研究に使っていたと思われる机については,遺品として整理するのではなく,アムステルダムAmsterdamのリューウェルツ Jan Rieuwertszに送るようにスペイクに依頼していました。どのような形であったのかは分かりませんが,スペイクがこの依頼を忠実に守ったことははっきりしています。というのはこの机の中にスピノザの遺稿が入っていたのであって,編集者でもありまた印刷業と書店業を営んでいたリューウェルツの手にこの机が渡ったから,遺稿集Opera Posthuma の発刊が可能になったからです。したがってこのことは,それこそアムステルダムから来た医師が,スピノザが置いておいた金品をポケットに入れてその日のうちに帰ってしまったなどということと比べればよほど重要なことなのであって,伝記の中に記しておくべき事柄であったと思われます。しかしコレルス Johannes Colerusはこのことを記していません。これはたぶんコレルスがそのことを知らなかったからなのであって,つまりスペイクがそのことをスペイクに秘匿したからだと思われます。
昨晩の第5回ゴールドジュニア 。
ラブミーメアリーが逃げて2番手にプリムスパールス。3番手にフリーダムでこの3頭が集団で先行。クロビーンズとユーロジータビートが並んで続きました。4馬身差でムサシエクスプレス。2馬身差でランベリーとオーシンレーベン。4馬身差でシビックドリーム。2馬身差でアレゴウドウレモン。後方2番手にシューボーイで3馬身差の最後尾にオニアシと,6番手以下はばらばらの追走。前半の600mは36秒4のハイペース。
3コーナーからはラブミーメアリー,プリムスパールス,ユーロジータビートの3頭が雁行になりました。コーナーの途中でプリムスパールスは脱落。逃げたラブミーメアリーはユーロジータビートは振り切って直線で一旦は抜け出しましたが,直線の半ばで一杯。内から5頭目あたりを追い込んできたオーシンレーベンが先頭に立ちましたが,その内から馬群を捌いたランベリーが追いついてきて,2頭の競り合い。内から競り落としたランベリーが優勝。オーシンレーベンが半馬身差で2着。大外を追い込んだシビックドリームがクビ差まで迫って3着。
優勝したランベリー は4月にデビュー。デビュー戦は大敗でしたが立て直した2戦目で勝利。その後は2着,3着で,2歳の重賞で勝つ戦績ではありませんでした。このレースは先行勢が総崩れとなるレースで,展開面の恩恵がありました。前走で1600mのレースを使っていたのですが,厳しい展開となって,その経験が生きたという面もあったと思います。父はモーニン 。祖母の父はアグネスデジタル 。母の6つ下の半妹に2020年のNARグランプリ で2歳最優秀牝馬に選出されたソロユニット 。L'Embellirはフランス語で美しくする。
騎乗した大井の矢野貴之騎手は優駿スプリント 以来の南関東重賞40勝目。第2回 以来となる3年ぶりのゴールドジュニア2勝目。管理している大井の赤嶺本浩調教師は南関東重賞5勝目。ゴールドジュニアは初勝利。
書簡七十 および書簡七十二 が公表されれば,スピノザとライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizとの間で書簡を通しての交流があったということが判明してしまうということは,この両方の書簡を読んだことがある人物でなければ分からない筈です。遺稿集Opera Posthuma の編集者のうち,その内容を事前に知っていたのは,書簡七十をスピノザに送り,書簡七十二をスピノザから受け取ったシュラー Georg Hermann Schuller以外にあり得ないでしょう。ですからこの2通の書簡が遺稿集に掲載されなかったのは,ライプニッツの意向を汲んだシュラーの功績であったのではないかと僕は思うのです。ということは,それ以外の,この事前に交わされていたライプニッツとスピノザの間の書簡が遺稿集に掲載されなかったことも,シュラーの功績だったのではないでしょうか。
一方,シュラーとライプニッツは書簡で交流を続けていたのですが,書簡七十と書簡七十二を通してだけしかスピノザとライプニッツの書簡での交流があったということをシュラーが知らなかったら,ふたりの間での書簡というのは,哲学とか神学に関連するものだけであったと早合点してもおかしくはありません。そうなると,そうした書簡については掲載しないようにすることは可能であったかもしれませんが,書簡四十五 および書簡四十六 に関してはそうした内容を有していないので,そもそもそういう書簡があったということを見落としてしまい,掲載に至ってしまったということはあり得るでしょう。つまりシュラーは事前にライプニッツに関する書簡というのを,ほかの編集者たちが知らないうちに抜き取っておいたのだけれど,自身がそういうような書簡があるとは思うに至らなかった2通の書簡に関しては抜き取り忘れてしまったということです。
もしも実際にこのような物語があったのだとしたら,シュラーが事前に書簡を抜き取る好機というのは,スピノザが死んだときであったと思われます。シュラーはこのことを編集者たちの知らないうちになさなければならなかったと同時に,スピノザも知らないうちになさなければならなかったのですから,もしもスピノザの臨終の場にシュラーがいたら,シュラーにとってそれは最大のチャンスだったでしょう。
昨晩の第2回若武者賞 。
好発はヤギリケハヤとベアバッキューンでしたが,あっさりとベアバッキューンの逃げに。ファイアトーチが2番手に上がり3番手にヤギリケハヤとルナフォルトゥーナ。5番手にゴールドモーニンとミヤギエンペラー。4馬身差でプレミアムハンド。7馬身差の最後尾にレッドサラマンダー。向正面に入ってベアバッキューンのリードが4馬身くらいに。2番手と3番手も2馬身くらいの差がつき,ミヤギエンペラーは3番手の2頭に追いついてきました。2馬身差でゴールドモーニン。2馬身差でプレミアムハンド。レッドサラマンダーは10馬身くらい離されました。ミドルペース。
3コーナーを回ると2番手のファイアトーチが苦しくなり,内からミヤギエンペラー,外からゴールドモーニン。直線の入口でもベアバッキューンのリードは5馬身くらい。直線に入るとさらにリードが広がり,楽に逃げ切って優勝。外から2番手に上がったゴールドモーニンが9馬身差で2着。ミヤギエンペラーと内から追い上げてきたヤギリケハヤが競るところ,大外から伸びたプレミアムハンドが差して半馬身差の3着。ヤギリケハヤが半馬身差の4着でミヤギエンペラーが半馬身差で5着。
優勝したベアバッキューン は7月に900mでデビューし8馬身差の圧勝。8月にこのレースのトライアルの1400メートル戦を7馬身差で勝ってここに出走。このレースも9馬身の差をつけましたので,現状のスピード能力で圧倒したという結果。スピードが持ち味ですから,本質的には距離は短い方がいい馬だと思います。父は2018年に安田記念 ,2020年に根岸ステークスとフェブラリーステークス を勝ったモズアスコット 。母の父はネオユニヴァース 。
騎乗した川崎の町田直希騎手は一昨年のしらさぎ賞 以来の南関東重賞14勝目。若武者賞は初勝利。管理している川崎の鈴木義久調教師は開業から12年11ヶ月で南関東重賞初勝利。
スペイク がマイエル Lodewijk Meyerともシュラー Georg Hermann Schullerとも面識がなかった場合は,スペイクがアムステルダムAmsterdamから来たシュラーを,マイエルと誤認してしまうということがあり得ます。たとえばスピノザがマイエルが来るとスペイクに伝えておいたものの,それはスピノザの勘違いで実際に来ることになっていたのはシュラーであったとか,マイエルが来る予定であったけれど都合が悪くなったので代理としてシュラーが来たというような場合は,スペイクはアムステルダムから来たシュラーのことをマイエルであると思い込むということがあり得るからです。そして現にその可能性を否定する十分な要素はないので,この医師はマイエルでなくシュラーであったかもしれません。このことについては現時点での資料では確定することができないというほかないでしょう。
これは前にも架空の物語としていったことではありますが,この医師がシュラーであったとするときには,ごくわずかな利点が生じると僕は考えています。ここでそのことを改めて説明しておくことも徒労ではないでしょう。
スピノザの死後,編集者たちは協力して遺稿集Opera Posthuma の発刊にこぎつけました。ただその発刊にあたって,配慮しなければならないことがありました。『エチカ』が代表するようなスピノザの著作については,そのまま原稿を掲載すればよいのですが,『スピノザ往復書簡集 Epistolae 』については,相手もあることなので,そのままの掲載が憚られるケースがあったからです。というのは,スピノザと書簡のやり取りをしていた人物の中には,まだ存命中で,社会的に高名な人物が何人か含まれていたからです。そうした人の中には,スピノザと書簡上の,あるいは実際上の交際があったということが世間に知られることがマイナスに働くというケースがありましたから,一定の配慮をすることが編集者たちには要求されたのです。
そうした高名な人物のひとりに,その時点でアムステルダムで市長をしていたフッデ Johann Huddeがいました。岩波文庫版では編集者たちが一方的にフッデに配慮したという説明になっていますが,たぶんフッデは編集者たちとも面識があったので,直接的に希望が伝えられたのではないかと推測します。
昨晩の第53回戸塚記念 。クラジャンクが出走取消となって13頭。
ヨルノテイオーが逃げて4馬身くらいのリードを取りました。サントノーレとローリエフレイバーが2番手。3馬身差でシシュフォスとムットクルフェとペルセヴェランテ。7番手にグラッシーズマンとアジアミッション。9番手にキタノヒーロー。10番手にマコトロクサノホコとオーウェル。12番手がフロインフォッサルで最後尾にカタルシス。ヨルノテイオーのリードは1周目の正面でも変わりませんでしたが,2番手の2頭と4番手の差は縮まりました。ミドルペース。
2周目の向正面でキタノヒーローが外から上昇していったことでレースが動きました。ヨルノテイオーのリードがみるみるうちに縮まっていき,3コーナーからサントノーレが内から前に出て先頭に。マコトロクサノホコが単独の2番手に追い上げ,その後ろにローリエフレイバーとペルセヴェランテとシシュフォスの3頭。直線に入るとシシュフォスが単独の3番手に。先頭に立っていたサントノーレは直線で差を広げていって圧勝。シシュフォスはマコトロクサノホコにも追いつけず,後方から大外を追い込んできたフロインフォッサルが強襲。内の2頭を差し切って6馬身差で2着。マコトロクサノホコがクビ差の3着でシシュフォスがクビ差で4着。
優勝したサントノーレ は前走の京浜盃 から連勝。南関東重賞は鎌倉記念 以来の2勝目。重賞を勝っているくらいですから能力は上位。京浜盃の後に骨折があり,復帰戦という点は心配でしたが,能力発揮に大きく影響するほどではなかったようです。この馬は重賞でも通用することがもう分っていますし,たぶん古馬相手でも通用すると思います。父は2016年に北海道2歳優駿 を勝ったエピカリス でその父はゴールドアリュール 。母の父がサウスヴィグラス で祖母の父がサクラローレル 。Saint Honoreはパリにある通りの名称。
騎乗した大井の笹川翼騎手はルーキーズサマーカップ 以来の南関東重賞20勝目。第49回 以来となる4年ぶりの戸塚記念2勝目。管理している大井の荒山勝徳調教師は第39回 以来となる14年ぶりの戸塚記念2勝目。
書簡六十八 から分かるように,スピノザはハーグDen Haagに住むようになってからも,アムステルダムAmsterdamまで出掛けることがありました。これと同様に,アムステルダムにいたと思われるシュラー Georg Hermann Schullerやマイエル Lodewijk Meyerが,しばしばハーグを訪れていたとすれば,そのときにはスピノザと会うためにスペイク の家にも来たと思われます。この場合は,マイエルやシュラーとスペイクの間に面識があったと考えるべきであって,スペイクがマイエルを他人と間違えることはなかった筈です。よってこの場合は,アムステルダムから来た医師はマイエルであるとスペイクがコレルス Johannes Colerusに伝えているわけですから,確かにこの医師はマイエルであったといわなければならないでしょう。
さらに,この医師がマイエルではなくシュラーであったとする場合には,シュラーがハーグを訪問することもなかったとしなければなりません。マイエルとスペイクとの間に面識がないのであれば,スペイクは別人をマイエルであると思い込むことはあり得ますが,シュラーとスペイクの間に面識があったならば,マイエルをシュラーと間違えるということは生じ得ないからです。その場合はアムステルダムから来た医師のことをスペイクはシュラーであると認識することになりますから,その医師をマイエルであったとスペイクに伝えることはあり得ないからです。
したがって,もしもアムステルダムから来た医師が本当はマイエルではなくシュラーであったということを主張する場合には,スペイクとマイエルの間には面識はなかったし,スペイクとシュラーの間にも面識はなかったということが条件になります。これがあったかなかったかを確定することは僕にはできませんが,なかった可能性を否定することができないということは認めます。たとえば書簡七十 の冒頭で,シュラーはスピノザが元気であるかどうかを尋ねています。もしもシュラーが頻繁にスピノザと会っていれば,そのような質問をする必要はないでしょう。なので,シュラーとスペイクの間に面識がなかった可能性は否定できません。マイエルに関してはまったく分かりませんから,マイエルとスペイクの間に面識がなかった可能性も否定できません。
第56回不来方賞 。
逃げたのはカシマエスパーダで2番手にサトノフェニックスとパッションクライ。4番手のサンライズジパングまでは一団。2馬身差でフジユージーンとタイセイミッション。5馬身差でサクラトップキッドとブラックバトラーとルボートン。3馬身差でバウンスライト。2馬身差でマルーントリックで最後尾にベルベストランナー。スローペースでした。
3コーナーを回ると2番手がサトノフェニックス,パッションクライ,サンライズジパングの3頭で併走。ここからパッションクライが脱落したので直線の入口ではサトノフェニックスとサンライズジパングの2頭が2番手。逃げたカシマエスパーダに対してサトノフェニックスは内,サンライズジパングは外へ。外のサンライズジパングがカシマエスパーダを差して抜け出し快勝。逃げ粘ったカシマエスパーダが3馬身差で2着。サトノフェニックスは突き放されて4馬身差の3着。
優勝したサンライズジパング は若駒ステークス以来の勝利で重賞初勝利。デビュー2戦目をダートで勝った後,JBC2歳優駿で2着。暮れのホープフルステークスで3着に入ったため,今年は芝のクラシック路線を走りました。久々のダート戦でしたが,JBC2歳優駿はフォーエバーヤングから1馬身半差でしたので,力量は上位である可能性が高かった馬。今日の結果をみると,ダートの適性の方がより高いということになると思います。父はキズナ 。
このレースは今年から重賞になりました。騎乗した武豊騎手 と管理している音無秀孝調教師は不来方賞初勝利。
スピノザの伝記ですから,アムステルダムAmsterdamから来た医師がスピノザに対してどのような処置をしたのかということを記述することには意味があります。しかしその後にスピノザの金銭とナイフをポケットに入れてその日のうちにアムステルダムに帰り,スピノザの葬儀に姿を現さなかったなどということは,スピノザの伝記としての情報としては不要といえます。なのでこのようなことがなぜ事細かに書かれているのかということは僕にとって疑問ですが,ただひとつ確かにいえるのは,この詳細をコレルス Johannes Colerusに伝えたスペイク は,よほどこの医師に対して腹に据えかねるものをもっていたということです。とはいえその理由が,医師のスピノザに対する態度だけであったと断定することはできないのであって,伝記 Levens-beschrijving van Benedictus de Spinoza には書かれていないスペイクに対する医師の態度にスペイクは怒りを感じていたので,このようなことをコレルスに伝えたという可能性も考えておく必要があるでしょう。
この医師は伝記の中にはフルネームは伏せられ,LMというイニシャルで示されています。これはスペイクが本名をコレルスに伝えなかったからかもしれませんが,スペイクがこの医師に対して怒りを感じていたのは確実だと僕には思えますので,あえて名前を伏せる必要はなく,もしもスピノザの伝記を書くのであれば,むしろこの医師の行動を事細かにコレルスに書いてほしかったのではないかと思えます。なので本名を伏せてイニシャルで記述したのは,コレルスのこの医師に対する配慮だったのではないかと推測します。いい換えればコレルスは,スペイクに伝えられたことの信憑性に多かれ少なかれ疑問を感じたので,フルネームは記さずにイニシャルで記述したのではないかと思います。コレルスがスペイクの話に対して全体を通してどれだけの裏付けをとっていたのかは分かりませんが,この点は信憑性を欠くところがあるとみていたのは確かであるように思えます。
LMというのはスピノザの友人関係からしてマイエル Lodewijk Meyerのことを指していることは疑い得ません。つまりスペイクは,スピノザの死を看取ったアムステルダムから来た医師は,マイエルであるといっていることになります。
8月29日に実施予定であったものの,台風の影響で今日に順延された第24回サマーチャンピオン 。JRAおよび高知の開催と重なったためラプタスは幸騎手から金山騎手,ホウオウスクラムは出水騎手から田中直人騎手,メイショウテンスイは西村淳也騎手から倉富騎手,サンライズホークはミルコ・デムーロ騎手から山口勲騎手,コパノパサディナは岩田望来騎手から川島拓騎手,テイエムトッキュウは北村友一騎手から石川慎将騎手にそれぞれ変更。飛田騎手は金沢へ遠征するためテイエムフェローは長田騎手に変更。
発馬後の正面ではオールスマートとテイエムトッキュウの先行争い。3馬身差でテイエムフェローとメイショウテンスイ。3馬身差でコパノパサディナとサンライズホーク。アラジンバローズを挟んでラプタスとホウオウスクラム。タイガーインディが後方3番手。3馬身差でアビエルトで最後尾にテイエムフォンテ。先行争いはテイエムトッキュウが制したのですが,オールスマートが外に切り返して並んで行ったので,終始2頭で先行するレースになりました。ハイペース。
向正面に入るとラプタスが内からするすると追い上げていき単独の3番手に。その後ろからアラジンバローズ,テイエムフェロー,メイショウテンスイ,サンライズホークの4頭が追い上げてきました。コーナーでも内を回ったラプタスが逃げたテイエムトッキュウの前に出て先頭で直線へ。追い上げてきたのはアラジンバローズでこの2頭の優勝争いに。競り落としたアラジンバローズが優勝。ラプタスが4分の3馬身差で2着。内を追い込んできたタイガーインディが2馬身差で3着。
優勝したアラジンバローズ は重賞初制覇。JRAで4勝。オープンでも2着があった馬で,昨年の9月に兵庫に転入。JRAでの実績からはここでも通用する余地はあったのですが,ずっと中距離を走っていた馬で,この距離への出走が初めてだったこともあり軽視してしまいました。2着馬とは6キロもの斤量差がありましたから,手放しで評価することはできませんが,距離はこのくらいの方がよいというのは間違いないでしょう。父はハーツクライ 。
騎乗した兵庫の下原理騎手は2018年のサマーチャンピオン 以来となる重賞4勝目。6年ぶりのサマーチャンピオン2勝目。管理している兵庫の新子雅司調教師は昨年のJBCスプリント 以来の重賞8勝目。第18回以来となる6年ぶりのサマーチャンピオン2勝目。
老いた鶏を調理したスープに関してはよく分からない点がふたつあります。
この部分の文章は,医師がそう命じたので,スペイク家で鶏を用意して調理したというようにも読めますし,鶏に関してはアムステルダムAmsterdamから医師が用意してきて,それをスペイク家の家人が調理したというようにも読めるようになっています。もし老いた鶏というのがそう簡単には用意できないものであったとしたら,この日の朝にそう命じられたスペイク家でそれを用意し,スピノザの昼食として提供するのは困難です。ですからそうであれば鶏は医師の方で用意していたという可能性が高いでしょう。一方,老いた鶏を調理したスープというのが,当時のオランダの家庭ではありふれたものであって,老いた鶏が家庭に常備されていることが多かったとするなら,医師がわざわざそれをアムステルダムからもってくる必要はないでしょうから,それを用意したのはスペイク家であったことになるでしょう。仮にスペイク家にはそれがなかったとしても,こういった状況ではそれを用意することは難しいこととは思えないからです。なのでこの点は,当時のオランダにおける老いた鶏を調理したスープというのが,一般的な家庭料理であったのかそうでなかったのかということから判断されなければならないと思います。
もうひとつは医師のこの命令が,医療的な判断であったのか否かという点に関係します。たとえばスピノザは書簡二十八でバウメーステルJohannes Bouwmeesterに対して赤バラの砂糖漬けを所望しています。これはその当時は肺のカタル症状に効果的であるとされていたので,スピノザは医療上の効果を期待してそれを求めたのです。これと同じように,老いた鶏を調理したスープに,何らかの医療上の効果があると信じられていたなら,これは医療上の措置ということになるでしょう。しかし医師は単にそれがスピノザの好物であると知っていたから,スピノザにそれを飲ませてあげたかっただけかもしれません。後に示しますが,この医師はスピノザの友人でもあったからです。なのでこのことも,老いた鶏を調理したスープの位置づけが,オランダにおいてどうだったかを調べないと分からないのです。
昨晩の第2回フリオーソレジェンドカップ 。
隊列が定まるまでには時間を要しましたが,発馬後の正面から逃げの手に出たのはイグザルト。ヘラルドバローズが2番手となって3番手にヒーローコール。その後ろはデュードヴァンとリンゾウチャネルとブリッグオドーンの3頭。さらにスマッシングハーツとギガキングが併走で続き,ナニハサテオキを挟んでアドマイヤルプスとゴールドハイアーも併走。後方2番手がエメリミットで離れた最後尾にキャッスルブレイヴ。最初の800mは50秒3のスローペース。
3コーナーからは2番手がヘラルドバローズと向正面で押し上げていったギガキングの併走に。3馬身差の4番手にギガキングを追ってきたナニハサテオキが上がりました。直線に入ると前3頭の外からギガキングが先頭に。しかし追ってきたナニハサテオキの末脚が優り,ギガキングを差し切って優勝。ギガキングが3馬身差で2着。前の2頭をやり過ごして後から差してくる形になったリンゾウチャネルが1馬身半差の3着。
優勝したナニハサテオキ は南関東受賞初制覇。JRAデビューで1勝。昨年から南関東に転入して以降は6勝,2着4回とパーフェクト連対。ここ2回は南関東重賞で連続の2着でしたから,いつ勝ってもおかしくない馬でした。ギガキングが前を一掃するようなレースになったところをマークして追い上げていくという展開面での恩恵はありましたが,そのギガキングは船橋の中距離では抜群の強さをみせてきた馬ですから,それを差し切って3馬身という差をつけたのは大きく評価できるでしょう。父はジャングルポケット 。
騎乗した船橋の森泰斗騎手 は若潮スプリント 以来の南関東重賞62勝目。フリオーソレジェンドカップは初勝利。管理している浦和の平山真希調教師 は南関東重賞2勝目。フリオーソレジェンドカップは初勝利。
ここまでの注意を踏まえて,コレルスの伝記 Levens-beschrijving van Benedictus de Spinoza の内容を検討していきます。ただし,『スピノザの生涯と精神 Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten 』に加えられている説明も,完全とはいえない側面がありますから,先にその点を説明していきます。
スピノザがフォールブルフ Voorburgを離れてハーグDen Haagに移ったのは,1669年の暮れか1670年早々だったと『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』には書かれています。先述したようにスピノザはすぐにスペイク の家に間借りをしたのではなく,ウェルフェという寡婦の家に間借りしました。事実上は屋根裏部屋だったようです。ウェルフェはウィレムという法律家の妻だったのですが,ウィレムが死んでしまったので収入を得る必要が生じ,スピノザを住まわせることになったというのがナドラーSteven Nadlerが確定的に記述していることです。
ここに後にコレルス Johannes Colerusが住むことになります。『スピノザの生涯と精神』の訳者である渡辺は,その時点でウェルフェは死んでいたとしています。だから僕もコレルスはウェルフェからは話を聞くことができなかったといいました。しかしナドラーは,コレルスはウェルフェからも話を聞いたとしています。つまりナドラーはその時点でウェルフェがまだ生きていたと考えているのです。スピノザの部屋は実験室であると説明されていますが,スピノザはその部屋で食事をしたり眠ったりもしたのであって,そこに一日中こもっていることもあったという主旨のことをコレルスは書いていて,これはコレルスがウェルフェから聞き取ったことだとナドラーはみているわけです。
僕は渡辺のいっていることの方が正しいのではないかと考えています。ひとつは単純に,コレルスがウェルフェの名前を間違えて記述しているからです。スピノザが住んでいた家の寡婦はウェルフェであったということは,渡辺説でもナドラー説でも一致していますが,コレルスはその寡婦の名前をフェーレンと記述しているのです。もしもコレルスがウェルフェ本人から話を聞き取ったのだとすれば,その人の名前を間違えるということはあり得ないように僕には思えるのです。
もうひとつ理由があって,これはコレルスによるスピノザが住んでいた部屋に関する記述に関連します。
昨晩の第36回ブリーダーズゴールドカップ 。
何発か鞭を入れた上でシダーの逃げ。向正面に入るあたりで3馬身ほどのリードになりました。2番手がサーマルソアリングで3番手にオーサムリザルト。4番手にデリカダ。2馬身差でドライゼとウワサノシブコとポルラノーチェ。2馬身差でエナハツホとスギノプリンセスとメイドイットマム。2馬身差でサンオークレア。サウスヴィルは大きく離されました。ミドルペース。
3コーナーではシダー,サーマルソアリング,オーサムリザルトで雁行になり,4番手以下に4馬身くらいの差をつけました。サーマルソアリングはすぐに一杯となって後退。単独の2番手になったオーサムリザルトがコーナーの途中でシダーの前に出て,単独の先頭で直線に。そのまま抜け出して快勝。一旦は差をつけられたデリカダとドライゼが追ってきて,先んじていたデリカダが5馬身差で2着。ドライゼが1馬身差で3着。
優勝したオーサムリザルト はこれがエンプレス杯 以来のレース。デビューからの連勝を7まで伸ばして重賞2勝目。ここは能力からは断然で,負けられないといっていいくらいのメンバー構成。3ヶ月以上の間隔があったことが唯一の不安点でしたが,能力を発揮できるくらいには仕上がっていました。渡米してブリーダーズカップレディスクラシックを目指すようです。
騎乗した武豊騎手 は第11回以来となる25年ぶりのブリーダーズゴールドカップ2勝目。管理している池江泰寿調教師はブリーダーズゴールドカップ初勝利。
この時代の無神論者 ということばは,単に神Deusを信じていない人間,一切の信仰fidesを有していない人間という意味ではありませんでした。むしろ素行不良の野蛮人という意味を帯びていたのです。つまり思想信条上の意味だけをもっていたのではなく,生活のあり方も示すことばでした。たとえばスピノザは書簡四十三 において,スピノザの生活を知ったとしたら,フェルトホイゼン Lambert van Velthuysenはスピノザを無神論を説いているとは容易に信じなかっただろうといっていますが,これはある人間を無神論者であると規定するときに,その人間の生活態度が大いに関係していたからです。あるいはベール Pierre Bayleの『批判的歴史辞典Dictionaire Historique et Critique 』でスピノザに触れられているとき,無神論者であるスピノザが品行方正な人間であったということは奇妙だけれど驚くには値しないのであって,それは福音に心服しながら放埓な生活をしている人びとがいるようなものであるといわれているのは,無神論者であればだれでも放埓な生活を送り,福音に心服していれば,いい換えればキリスト教の信者であればだれでも品行方正であるという社会通念があったからなのであって,ベールはその通念は必ずしも正しいわけではないといっているのです。
スピノザはそれなりに有名人であった筈なので,コレルス Johannes Colerusはスピノザの名前は知っていて,無神論者であるということも知っていたとしたら,コレルスのスピノザに対する印象は,素行不良な野蛮人というものだったかもしれません。とくにコレルスは牧師だったわけですから,そういう印象をより抱きやすかったのではないかと思えます。しかしスペイク から聞いたスピノザの生活態度が,そうした印象とあまりにかけ離れたものであったから,コレルスはそれを書きとどめて人びとに伝えようと思ったのではないかと僕は推測します。つまりコレルスにとって,自分が住んだ場所がたまたま以前にスピノザが住んでいた家だったということは,伝記を書くのに大きな要素を占めていたとは僕は思いません。また,スペイクから聞いたスピノザの逸話が,コレルスがイメージしている通りの無神論者であったとしたら,やはりコレルスは伝記を書くことはなかったのだろうと思います。
第2回ルーキーズサマーカップ 。
ライトスリーが逃げて2番手にリヴェルベロ。3番手にクマノコ。4馬身差でファイアトーチとヤギリケハヤ。2馬身差でオニアシ。2馬身差でユウユウキーンとシェナノパリオ。前半の600mが37秒2のミドルペースでした。
3コーナーではライトスリーとリヴェルベロが抜け出し3番手のクマノコとの差は3馬身くらい。直線に入ると逃げたライトスリーがリヴェルベロとの差を広げていき,楽に逃げ切って優勝。2番手追走のリヴェルベロがそのまま流れ込んで7馬身差の2着。後方から大外を追い込んだシェナノバリオが3馬身差で3着。
優勝したライトスリー はデビューからの3連勝で南関東重賞制覇。ここは連勝で挑んできた馬が3頭いて,それらの争いかと思われましたが,ほかの2頭は崩れました。結果からいうとこの馬のスピードが他を大きく上回っていたということでしょう。現時点での完成度がほかの馬よりもかなり高いように思われますので,今後の活躍はさらなる上積みがどれほど残っているのかという点にかかっていると思います。SPAT4のPOGの僕の指名馬に対する評価という点は心得ておいてください。
騎乗した大井の笹川翼騎手は平和賞 以来の南関東重賞19勝目。その後にJBCスプリント も制しています。ルーキーズサマーカップは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞68勝目。ルーキーズサマーカップは初勝利。
『スピノザの生涯と精神 Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten 』の当該部分には,レベッカが故人の姉と記述され,スピノザが死んだスペイク の家のことが,弟の死んだ家と書かれています。しかしこれは僕の推測では訳語上のことです。原文はたぶんレベッカは故人の英語でいえばsisterと書かれ,家の方はbrotherが死んだ家と記述されているものと思います。ただ,故人の姉妹とか兄弟が死んだ家では,日本語としては座りが悪いです。なので訳者である渡辺義雄が,故人の姉,弟の死んだ家という訳を選んだのでしょう。
渡辺が故人の妹と訳さずに故人の姉と訳し,兄の死んだ家ではなく弟の死んだ家と訳したのは,定説に従ったためと思います。少なくとも渡辺は,吉田のように資料を検討してレベッカがスピノザの姉であるか妹であるかを調査したとは思われませんので,渡辺がこれを訳した時点での研究成果に則って,レベッカをスピノザの姉と訳したのは間違いないと思います。ただ定説でそうなっているので,これが誤訳であるという批判はまったく当たらないでしょう。
しかし吉田は,レベッカはスピノザの姉ではなくて妹だったのではないかという説を展開しています。その説がどう展開されているのかを詳しく紹介します。そうしないと僕の結論を示すこともできないからです。
まず吉田は,レベッカがスピノザの姉であった可能性を全面的に否定しているわけではありません。むしろそういう可能性もあったということは認めています。そう考える利点を吉田は次の点にみています。
ミリアムMiryam de Spinozaは1650年に結婚したのですが,1651年に子どもを産んだ後,おそらく産後の肥立ちが悪かったため死んでしまいます。このためミリアムの結婚相手であった男と,幼子が残されてしまいました。この結婚相手だった男はその後に再婚するのですが,この再婚相手がほかならぬレベッカだったのです。幼子が残された男の再婚は,早い方がよかったとすれば,ミリアムが死んでからレベッカと結婚するまでの期間はそれほどなかったと考えられます。レベッカがスピノザの姉であったとすれば,この1651年という時点では20歳前後です。嫁ぐのには問題ない年齢です。
昨晩の第28回北海道スプリントカップ 。
オスカーブレインの逃げで2番手にエートラックス。3番手はジョーローリットとリコーシャーマンとトラジロウ。6番手にエスカルとヴィヴィアンエイト。8番手以下はストリーム,チカッパ,オソレ,ティントレット,デュアルロンドという順で続き,ピコイチは大きく離されました。前半の600mは35秒1のハイペース。
直線の入口でエートラックスが単独の先頭に。一旦は抜け出しましたが中団に控えていたチカッパが鋭い末脚であっさりとエートラックスを差し切って優勝。エートラックスが2馬身差で2着。後方から大外を追い込んだティントレットが1馬身半差で3着。
優勝したチカッパ は重賞初制覇。3月にオープンを勝った後,兵庫チャンピオンシップに出走して2着。ここはそれ以来の出走。兵庫チャンピオンシップで負けていたエートラックスを逆転したのは,距離短縮が要因かもしれませんし,コーナーが2回のレースに変わったことが要因だったかもしれません。このあたりのことは今後の対戦成績で明らかになっていくでしょう。今年からこの時期の3歳限定戦になったのですが,兵庫チャンピオンシップの上位2頭が着順を入れ替えて上位を占め,優駿スプリントの勝ち馬が3着という結果は,来年以降の指標になるものと思います。父はリアルスティール 。馬名は博多弁ですごくという意味だそうです。
騎乗した武豊騎手 は第10回 ,11回 ,12回 に続き16年ぶりの北海道スプリントカップ4勝目。管理している中竹和也調教師は北海道スプリントカップ初勝利。
中身に入る前にもう少し本の紹介を続けます。
この本ははじめにとおわりに,さらにおわりのおわりにというみっつの部分を除くと,15章で構成されています。この15章は,第1回,第2回という具合に記述されています。すでにいっておいたように,本の元になったのは大学での講義録ですから,第1回が1回目の講義,第2回が2回目の講義にそれぞれ該当していると考えるのがよいでしょう。つまり15回の講義があって,その講義の1回がそれぞれまとめられているということです。
この講義の特徴は,時系列に沿って進捗していくということです。もちろんスピノザが主題のテーマですから,時系列というのもスピノザに沿ったものです。つまり第1回はスピノザが誕生した頃のことが講義の内容になっていて,第15回はスピノザの死後のことも含まれています。
一般的にこのように時系列で進捗していくのは伝記です。たとえば『ある哲学者の人生 Spinoza, A Life 』は基本的に時系列で進んでいきます。しかし『スピノザ 人間の自由の哲学 』は伝記ではありません。むしろ吉田が講義として伝えたいことは,スピノザの人生であるというよりはスピノザの思想であり,とくに吉田が『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』を翻訳していることからも分かるように,スピノザの政治論です。ところが講義は時系列で進んでいくわけですから,その時系列の中でスピノザが残した著作の内容が紹介されていくことになります。つまり講義の内容の中に,スピノザの伝記にあたるような内容と,スピノザの思想の解説とが混在していることになります。吉田自身はこのような方法を定点観測といっています。つまりスピノザという定点から,時代の流れを追い,その定点となっているスピノザという人物の思想を紹介していくという方法を,吉田は定点観測というわけです。しかし一般的にこのような方法は,入門書にはそぐわないといえるでしょう。入門書であれば伝記的な部分とその人物の思想の概説は,別々に紹介されるのが通常であるからです。そして吉田がこのような方法を採用しているということも,この著作が入門書の域を超越していると思わせる要因のひとつを構成しているといえます。
昨晩の第58回黒潮盃 。
好発はスマイルナウでしたが逃げたのはオーウェル。2番手にムットクルフェ。1馬身半差でシシュフォスとケンタッキースカイ。1馬身半差でサーマウントとスマイルナウ。1馬身差でマコトロクサノホコとバハマフレイバー。2馬身差でイモノソーダワリデとミライヘノシンゲキ。3馬身差の最後尾がクリコマ。前半は後方にいたダテノショウグンは向正面で外から追い上げ,3番手まで上昇しました。最初の800mは52秒0の超スローペース。
3コーナーからオーウェル,ムットクルフェ,ダテノショウグンの3頭で併走。3馬身差でシシュフォスが続き2馬身差でケンタッキースカイ。直線の入口でも3頭は並んでいましたが,ほどなくダテノショウグンが単独の先頭に。そのまま抜け出して快勝。シシュフォスが外から追い上げ3馬身半差の2着。オーウェルを競り落としたムットクルフェが1馬身差で3着。
優勝したダテノショウグン はハイセイコー記念 以来の南関東重賞2勝目。デビューからの連勝を7に伸ばしました。5連勝でハイセイコー記念を制した後,蹄に故障を発症したため休養に入り,春のクラシック戦線は出走がかないませんでした。復帰戦は先月のオープンで5馬身差の快勝。ここも斤量面での恩恵はあったものの,これだけの差をつけて勝ちましたので,少なくとも南関東生え抜きの3歳馬の中ではこの馬の能力が傑出しているということでいいと思います。重賞でも通用の余地があるでしょう。父はバンブーエール 。母の父はマンハッタンカフェ 。3代母がノースフライト 。
騎乗した大井の御神本訓史騎手はサンタアニタトロフィー 以来の南関東重賞71勝目。黒潮盃は初勝利。管理している大井の森下淳平調教師は南関東重賞18勝目。黒潮盃は初勝利。
12月6日,水曜日。この日がお寺の奥さんが席主となる御講の日でした。事前に連絡を受けていましたので,僕も出席しました。前にいったかもしれませんが,総講というのは朝参詣の場合を除くと午後10時半に開始されます。これに対して御講は原則的に午前11時の開始で,この日もそうでした。なお,この日はお寺に常駐している住職の奥さんが手術をする当日でした。なので御講の後に,その手術の成功を祈願する読経が30分ほどありました。この関係で僕の帰宅もいつもの御講の日よりも30分ほど遅くなりました。
12月14日,木曜日。個別支援計画書が送付されました。これは中間報告です。そして僕はこの日に1冊の本を読み終えました。吉田量彦の『スピノザ 人間の自由の哲学』です。吉田は光文社版の『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』の訳者なので,それに付せられている解説などの文章は読んでいますが,基本的には訳書なので,分量はそう多くありません。まとまったものを読んだのはこれが初めてです。2022年2月20日に,講談社現代新書から発売になったものです。
この本の終わりの方に吉田は,『スピノザの世界 』,『はじめてのスピノザ 』に続いてスピノザに関する入門書・概説書的な著作が講談社現代新書から3冊並ぶことになったという意味のことをいっています。つまり吉田にとってはこれは入門書という位置づけなのでしょう。ですが僕が読んだ感覚でいえば,この本は入門書という枠は超えているように思えます。もしもスピノザの哲学にまだそこまで詳しくないのであれば,上野の本や國分の本を読んだ後で,この吉田の本を読むことを僕はお勧めします。
著書の元になっているのは吉田が大学で行った講義です。これはひとつではなく,まず2004年に慶應義塾大学の通信教育課程の夏季集中講義です。次に2015年に千葉大学で行った秋学期の講義です。そして最後に2020年の春学期に慶應義塾大学で行った講義です。これらの講義ノートが著書の元になっています。このうち,千葉大学での講義は専門課程の科目だったそうで,専門的な話になってもいいと吉田は思っていました。この関係で入門書の枠を超えているのでしょう。
12日に予定されていたものの台風の影響で今日に順延になった第29回クラスターカップ 。北海道競馬の開催日と重なったためスペシャルエックスは岩橋騎手から高松騎手に変更。
ジレトールは発馬であおって1馬身の不利。逃げたのはドンフランキー。内を開けての逃げになりました。サンエイウイング,枠入りを嫌っていたケイアイドリー,ビクトリールーラーの3頭が並んで2番手で5番手にスペシャルエックス。6番手はアヴェントゥリストとクロジシジョーで8番手にコスタノヴァ。9番手にルチルクォーツとキモンリッキー。11番手がゲンパチプライド。ユニコーンを挟んでジレトールが最後尾。前半の600mは35秒5の超スローペース。
直線の入口でもドンフランキーが先頭。最内を回ったサンエイウイングが2番手で外のケイアイドリーが3番手。その外からクロジシジョーが追い上げてきました。直線に入ると内を回ったサンエイウイングは一杯でケイアイドリーが2番手に。そこにクロジシジョーが差し込み,ケイアイドリーを差して2番手に上がったのですが,逃げたドンフランキーには届かず,逃げ切ったドンフランキーが優勝。クロジシジョーが半馬身差の2着でケイアイドリーが2馬身差で3着。大外から猛然と追い込んだジレトールが1馬身差の4着。
優勝したドンフランキー は東京盃 以来の勝利で重賞3勝目。1200mよりも1400mの方がよい馬ですが,ここは強敵が不在で,力を遺憾なく発揮して,順当な優勝。JBCスプリントを目指すものと思われますが,今年は1400mですからチャンスではないでしょうか。父はダイワメジャー 。
騎乗した池添謙一騎手と管理している斉藤崇史調教師はクラスターカップ初勝利。
11月22日,水曜日。午後5時に,給湯器のリモコンの修理のための工事をしてもらった会社から電話がありました。これはその後の状況の確認でした。工事の後は以前と同様に給湯器のリモコンは問題なく操作することができていましたので,その旨を伝えました。この確認ですべての作業が終了するとのことでした。
11月24日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。この日はそのままО眼科 に向かい,妹の目薬 の処方箋を出してもらいました。
11月25日,土曜日。午後8時55分にピアノの先生 からの電話がありました。いつものように,翌日のレッスンの開始時刻の通知でした。
11月26日,日曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は午後5時半の開始でした。
11月27日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
11月28日,火曜日。午後5時20分にお寺の奥さんから電話がありました。これは奥さんが席主となる御講が行われることになったという連絡でした。
11月30日,水曜日。父のきょうだいの長男からの喪中はがきが届きました。これは長男の姉,長男の姉ということは僕の父の姉でもありますから,僕からみると伯母にあたりますが,その伯母が4月に死んだので,来年,というのは2024年のことですが年賀状は出さないというものでした。
父のきょうだいというのは上5人が女で下の3人が男です。この伯母は四女にあたるのですが,死んだということを僕は知りませんでした。これには理由があって,この伯母はアメリカ人と結婚したためにロサンゼルスに住んでいたのです。このために死んだからといって通夜や葬式に出かけるということはできませんから,別に僕に伝える必要はなかったのです。父は8人きょうだいですが,これで5人の姉はすべて死んだことになります。生きているのはふたりの兄だけになりました。
12月2日,土曜日。総講に出席するためにお寺に行きました。
妹はこの日が土曜レクリエーションでした。この日はクリスマスの作品の制作をしたとのことでした。この作品というのはたぶん通所施設で催されるクリスマス会で使用するものだったと思われます。
愛知から1頭,高知から1頭が遠征してきた昨晩の第21回スパーキングサマーカップ 。
逃げたのはアランバローズ。飛ばしていったので向正面に入るところで4馬身くらいのリードに。2番手以下はスマイルウィ,ランリョウオー,リンゾウチャネル,ブルベアイリーデの順で続き,4馬身差でポリゴンウェイヴ。7番手にフォーヴィスム。3馬身差でボンディマンシュとスピーディキック。2馬身差でトランスナショナル。4馬身差でブラックストームとモダスオペランディ。2馬身差でアドマイヤルプス。2馬身差の最後尾にゴールドホイヤーととても縦に長い隊列に。前半の800mは49秒8のハイペース。
3コーナーでもアランバローズのリードは5馬身くらい。追いかけていたスマイルウィの方が苦しくなり,内を回ったリンゾウチャネルが直線の入り口では単独の2番手に。ただアランバローズとの差は直線に入っても徐々にしか詰まりませんでした。その間に外から伸びてきたのが控えていたフォーヴィスム。鋭い差し脚でリンゾウチャネルを差して2番手に上がると,その勢いのまま逃げ粘るアランバローズも差し切って優勝。逃げたアランバローズが2馬身差で2着。詰め寄ったリンゾウチャネルは半馬身差で3着。
優勝したフォーヴィスム は南関東重賞初制覇。昨年の10月までJRAで走って4勝。転入初戦が重賞で4着。その後は南関東重賞が3着と4着。前々走のオープンが2着で前走のこのレースのトライアルで転入後の初勝利をあげていた馬。アランバローズとの比較からしてスマイルウィとスピーディキックは体調が整わず,能力を十全に発揮したとはいえないと思いますが,最も得意なパターンに持ち込んだアランバローズを差し切ったのは評価できるところ。今後もこの路線では有力候補になるでしょう。父はドゥラメンテ 。Fauvismeは前世紀の初頭にフランスで起こった絵画運動の名称。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手 は習志野きらっとスプリント 以来の南関東重賞35勝目。第20回 からの連覇でスパーキングサマーカップ2勝目。管理している川崎の内田勝義調教師は南関東重賞は24勝目。スパーキングサマーカップは初勝利。
スピノザが人間の論理を示したのが『エチカ』です。それに対して国家Imperiumの論理を示したのが『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』であり『国家論 Tractatus Politicus 』であったといえます。すでに指摘しておいた通り,『神学・政治論』では社会契約論が用いられているのに対し,「国家論」ではそれが姿を消していますから,『神学・政治論』と『国家論』では論理のあり方が変わっているという見方をすることも可能でしょう。一方,『神学・政治論』は政治理論を中心に考察したのに対し,『国家論』は政治の実践を対象に据えているので,その部分の齟齬は問題とするには値しないという考え方もできると思います。僕は今はどちらの見方が正しいかということに優劣はつけませんが,ひとついえるのは,国家の論理を示すには『エチカ』だけでは十分ではないのであって,『神学・政治論』や『国家論』のような,国家を考察の対象として据える考察がスピノザには必要であったということです。確かにスピノザは『神学・政治論』でも『国家論』でも,国家をひとつの身体 corpusに喩え,そのひとつの身体の精神 mensが国家を統治するという説明をします。しかしそれはあくまでも国家そのものの身体でありまた精神なのであって,現実的に存在する人間の身体humanum corpusおよび精神とは異なったものです。だから人間を国家に喩えることはできないし,逆に国家を人間に喩えることもできないのです。
『神学・政治論』も『国家論』も,『エチカ』への言及はみられます。ですから国家の理論の基礎となるのが人間の理論であるという考えをスピノザはもっていたと僕は思っています。それは純粋に国家を構成するのが人間だからだというのが僕の考えで,これは単純にいえば,スピノザの政治論が国家主義的なものよりも個人主義的なものを志向しているからでしょう。国家がなければ個人はあり得ないというのはスピノザの考え方にはそぐわず,個人がなければ国家はあり得ないというのがスピノザの基本的な考え方になっているのだと思います。
『スピノザー読む人の肖像 』に関連する論考はこれで終わりとします。明日からは日記に戻ります。僕がこの本を読み終えたのは昨年の9月27日でしたから,それ以降のことです。
昨晩の第45回サンタアニタトロフィー 。
逃げたのはカラフルキューブで向正面に入るあたりでのリードは2馬身。2番手はオメガレインボーで3番手はエスポワールガイとラストストーリーとプリンスリターンの3頭。3馬身差でリコーシーウルフ。7番手はハデスキーパー。8番手にデュードヴァンとボイラーハウス。10番手にイグザルト。4馬身差でスナークダヴィンチ。2馬身差でブラックパンサー。2馬身差でアポロビビ。最後尾にマースインディと縦長の隊列。前半の800mは48秒6の超ハイペース。
3コーナーではカラフルキューブとオメガレインボーが抜け出し,4馬身差でエスポワールガイとハデスキーパー。さらに外を回ってデュードヴァンの追い上げ。直線に入るとオメガレインボーがカラフルキューブの前に出て先頭。大外から追い上げてきたデュードヴァンがオメガレインボーを差して先頭に立つと,最内からイグザルトが追い込んできて,オメガレインボーを差して2番手。内と外が大きく離れての優勝争いでしたが,イグザルトはデュードヴァンには届かず,優勝はデュードヴァン。イグザルトが1馬身4分の3差で2着。早め先頭のオメガレインボーが1馬身半差で2着。
優勝したデュードヴァン は川崎マイラーズ 以来の勝利で南関東重賞2勝目。ここはエスポワールガイとともに能力上位の存在。鮮やかな勝ち方になりましたが,これは展開によるところが大きかったものと思います。やはり末脚を生かすレースの方が能力も発揮しやすいのでしょう。Dieu du Vinはフランス語で酒の神。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は川崎マイラーズ以来の南関東重賞70勝目。サンタアニタトロフィーは初勝利。管理している大井の坂井英光調教師は南関東重賞6勝目。第44回 からの連覇でサンタアニタトロフィー2勝目。
スピノザの哲学では.第五部定理四二 にみられる徳 virtusと至福beatitudoとの間にあるような構造的な関係が,ほかの場面でもみられます。國分は『スピノザの方法 』でスピノザの方法論を研究していますが.スピノザの哲学における真理veritasを獲得する方法methodusというのは,まさにこのような構造であるといえるでしょう。僕たちは真理を獲得する前には,どのようにすれば真理を獲得するのかということを知ることはできず,真理を獲得してしまえばそれと同時にそれを獲得する方法も同時に知ることができることになっています。したがって,もしも僕たちは真理を獲得すれば真理を獲得する方法を知ることができるという命題を立てたとすれば,この命題は真理そのものとそれを獲得する方法の関係というものを,肯定的な形式で規定しているといえますが,この命題は,それ自体が命題の内容には届かない,あるいは同じことですが,真理を獲得する方法がいかなるものであるのかということを教えない,というか教えることはできないということを自ら示してしまっているという点で,第五部定理四二の命題と同じ構造を有しているといえるでしょう。この定理Propositioもまた,至福の何たるかを僕たちに教えることはできないような命題となっているからです。
國分が同様の例として示しているのはこれとは別の部分で,第二部定理四三備考における以下の一文です。
「実に,光が光自身と闇とを顕わすように,真理は真理自身と虚偽との規範である 」。
これはいわゆる真理の規範に関連する事柄であって,この一文が意味するところは,真理の規範は真理それ自体であるということです。したがって僕たちは,真理の規範というのを前もって知り,その規範に沿って真理と虚偽falsitasとを分類することはできません。真理それ自体が真理の規範であるというのは,真理の規範を獲得するために真理を前もって知っていなければならず,かつ真理を知ってしまいさえすれば,真理の規範を獲得することができるということだからです。これはちょうど,真理を獲得する方法を獲得するためには,前もって真理を知っていなければならないというのと完全に同じ構造にあるということが容易に理解できるでしょう。
愛知から2頭,高知から1頭,佐賀から1頭が遠征してきた昨晩の第14回習志野きらっとスプリント 。
クビほど前に出ていた外のエンテレケイアがそのまま譲らずハナへ。内から追っていたオールスマートが控えて2番手。3番手にカプリフレイバーとハセノエクスプレスで5番手にスワーヴシャルル。2馬身差でイモータルスモーク。7番手にプライルード。この後ろはビリーヴインミー,リュウノユキナ,ティアラフォーカス,マッドシェリーの集団。その後ろがブンロートとロイヤルパールス。最後尾にスマートセラヴィーという隊列。最初の400mは22秒6のハイペース。
3コーナーでエンテレケイアのリードが2馬身ほどに広がり,2番手はまだオールスマート。この後ろからスワーヴシャルルとプライルードが並んで追い上げてきてその後ろがイモータルスモーク。直線に入ると逃げたエンテレケイアがさらに後ろとの差を広げていき,楽に逃げ切って圧勝。内を回って追ってきたスワーヴシャルルが6馬身差で2着。2番手追走の佐賀のオールスマートが1馬身半差で3着。
優勝したエンテレケイア は南関東重賞初勝利。JRAでデビューして1勝。3歳のうちに浦和に転入。転入先が浦和だったこともあり,1400mと1500mを中心に走っていましたが,900mや1000mでの好走もあり,強敵相手に戦えるのはむしろそうした距離と思えました。かなり優秀なタイムなので,圧勝になったのは当然。逃げたのがよかったということでしょうが,これまでで最高のパフォーマンスになりました。父はアジアエクスプレス 。Entelecheiaは完成された現実性を意味する哲学用語。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手 は報知オールスターカップ 以来の南関東重賞34勝目。その後に川崎記念 を勝っています。習志野きらっとスプリントは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞67勝目。第9回 ,10回 に続き4年ぶりの習志野きらっとスプリント3勝目。
理性 ratioによる認識cognitioはそれ自体が有徳的な認識ですから,第四部定理二三 は,現実的に存在する人間は理性によって事物を認識するcognoscere限りでは有徳的であるといっているのと同じです。これは第四部定理二四 からなお一層明らかだといえるでしょう。したがってすべての人間は理性的である限り有徳的であるということになりますから,人間に一般の徳 virtusの何たるかを示そうとするのであれば,これだけで十分だといえます。そしてこの意味において,すべての人間に共通の徳というものが,スピノザの哲学にもあるといえるのです。
ところがスピノザは,その前の第四部定理二二系 では,徳の唯一にして第一の基礎は,現実的に存在する各々の事物のコナトゥス conatusであるといい,理性によって事物を認識すること,いい換えれば現実的に存在する事物の能動 actioであるとはいわないのです。それがなぜかといえば,人間に共通の徳が何であるのかということを示すことを意図しているのではなく,現実的に存在する各々の人間が,自身の徳とは何かということを正しく認識し,そのことを通じて人間に共通の徳とは何かということを正しく知るということが重要であるとスピノザが考えているからだと僕は思うのです。よって,現実的に存在するある人間が,人間に共通の徳を知るということは,自身のコナトゥスを正しく把握してそのコナトゥスに従って行動することによって知られることになる帰結事項なのだと僕は考えます。だから,人間に共通の徳というのは,いわゆる主体の排除によって各々の現実的に存在する人間に知られることになる帰結事項であり,徳そのものの第一の規準は,人間の本性natura humanaにあるのではなく,各々の人間の現実的本性actualis essentiaにあると僕はいうのです。
前もってこのようにいっておいたのは,徳の第一の規準が自分自身にあるというなら,各々の人間が自己のコナトゥスに従うことがそれぞれの徳ということになり,スピノザは現実的に存在する人間が利己的に行動することを徳として推奨しているというように解されるおそれがあるからです。実際にはスピノザはそのようなことを主張しているわけではありません。徳の何たるかを知ることの方を重視しているのです。